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第三章 紅の内に荒れる嵐

 穏やかに日々が過ぎていく。パルディエスは比較的平穏な村だが、これほどの平穏は過去の歴史でないに等しい。

 ミドリが集会の場でキュアの真名を口にしたのに、その後もハイレンを呪詛する者は現れなかった。この世界では在り得ない現象だと、ハイレンよりも古い時を知る年長の村人達が口々に言う。だがその稀な現象に対して不快も不安もなさそうな、柔らかな表情でそう語るのだ。

『迂闊なパスなどを口にしたら、またメサイアが深緑の雨を降らせるから敵いませんよ』

(またあんな顔をして怒られた日にゃあ、一日気がざわざわして仕事にならねえ)

 ノイズとパスの矛盾が減り、逆にパスと浮かべる表情の落差が目立つ。そんな村人の変化がそこかしこで見られた。だがそれはハイレンから見ると、村にとって具合が悪いと感じさせる種類のものではなかった。


 いつの間にかミドリは、パルディエスで言うところの真名に当たる「ミドリ」ではなく、救世主を意味する「メサイア」と呼ばれるのが当たり前になっていた。最初にそう呼び始めたのは、紅の館の子供達だ。

『キュア、異界のお客人って、本当はメサイアなんだよ。ほら』

 そう言って見せられたのは、子供向けの物語が書かれた絵入りの巻物だった。メサイアが修行の為に、敢えて翼を天界に置き、シェリルの枝へ降り立つ挿絵。恐らく資源が不足して顔料がなかっただけなのだろうが、メサイアと記されている翼のもげた天使は、濡れ羽色を思わせる艶やかな黒髪で描かれていた。その巻物を持ち帰り、ミドリに見せた話の流れで、紅の館がハイレンのシェルターの次に書物のたくさんある場所だと知らせてしまい、彼女がそこで働きたいと言い出してしまった時には流石のハイレンも閉口した。

『居候なんて、いや』

 ミドリはそう言ったのだが、皆が客人なのだからと恐縮した。その時彼らの発したパスとノイズがあまりにも穏やかな波動で、ハイレンは当時夢でも見ているのかと自身の能力に疑問を抱いたほどだ。自分には見えなかったシェリルのオーラ。彼女の発するオーラがどれほど大きかったのかを村人達の反応から想像した。自分だけ見えないことに妙な不快感を覚えたあの日から随分久しくなっている。

 結局ミドリは、ハイレンが定期視察で村内を巡っている間に館長のエインと話をつけて、子供達の世話係という仕事に就いてしまった。


「ハイレーンっ」

 今日も館を巡れば、ミドリが声高く真名を呼ぶ。結果としては、村民がミドリのそれを模して、互いを真名で呼ぶ風潮に変わっていた。万が一という不安を取り除く為に、ハイレン自らが呪詛についての法を提言し、住人に受け容れられると、それは徐々に皆の心へ浸透していった。危険を背負ってでも、真名で呼び合う。不安を上回る奇妙でどこかほっとするそのノイズのことを、ミドリは

『信頼、っていうのよ』

 と皆に諭して回った。

『この人になら、本当のことを話しても大丈夫。そんな風に心が近く感じるイメージのことを、信頼、信じてる、って言うの』

 彼女の世界で言う『コトバ』というものが、パルディエスにも定着していく。同時にディエルトのパスが彼女の中にも瞬く間に蓄積されていった。パスを多用出来ない子供達とのやり取りの速さが、ミドリのパスを覚える速さと一致していたのかも知れない。

 彼女を拾った頃には、彼女からしか見られなかった『心からの笑み』というものが、この館にも溢れるようになっていた。

「今日は見回りが早いのね、お疲れさま」

 外したかんぬきの重さに、今日も息を上げている。

「カインに任せればよいものを」

 労働というものに対して嫌悪のないミドリのノイズは、ハイレンを始めとする村人にとって、数え切れないほど抱えた「メサイアの謎」のひとつだった。

 重労働は男の仕事、その為に配置している守り人だ。ハイレンが閉じた門にかんぬきを差し直しながら口にしたそのパスを、ミドリは態度とパスで辞退した。

「カインさんも忙しいのっ。私にはタワーなんて出来ないんだもの。これくらい手伝いの内にもならないわ」

「たわー?」

 広間へ続く廊下を歩きながら、このところ館内で流行の遊びを聞いた。

「タワーって、私が名前をつけたの。塔、っていう意味よ。ほら、カインさんって大きくてがっしりしてて、塔みたいでしょう? みんなで登っちゃえー、って」

 そう説明する途中でその光景を思い出したのか、ミドリはひとりで笑っている。

「館長の了承を得ているのか」

 カインと言えば、子供三人分くらいの背丈はあろう。紅の証が表面化するかも知れない子供達に、そんな危険を冒させる館長でははないはずだ。

「ぶはっ、ハイレン、大袈裟だってば。全然危ない遊びじゃないの。それに、エイン館長も知ってるわよ」

 話している間に広間へ辿り着く。ハイレンは目にした光景でミドリの笑った理由を理解した。

 仏頂面で子供達に恐れられていたカインが、両肩にひとりずつ、腕を直角に曲げた先にふたりずつ、子供をぶら下げて回っている。ほかの子供達がそれを妨害するような恰好で彼の腰にまとわりつき、彼の回転を止めようと踏ん張っていた。

「カイーンっ! 長いっ! 次は私!」

「エマはさっき登っただろう。次は僕だっ」

「ま……待て……、目が、俺はもう、目が回ってだな……ぐぉ」

 戦に於いてタクトのよき右腕となっている猛者が、子供を相手にうろたえ、必死な形相で弁解をしている。勝利の証とも言える戦で受けた傷跡が、熱を帯びた所為で薄桃色に浮き上がっていた。子供達はそんなカインの様子に構うことなく、とうとう束ねられている彼の毛髪を掴んで、無理矢理彼を屈ませた。

「こ、こんな子供相手に膝を折るとは……不覚っ」

「おぉっ、じゃあ俺、もしキュアになれなくってもタクトの弟子にはなれるかなっ」

「……くっ」

 カインの下手な芝居の道化振りがあまりにも彼らしくなく、その可笑しさを堪え切れず笑う声が漏れて出た。慌てて口許を押さえると同時に垂れる髪で顔を隠したのだが、どうしても肩が震えてしまう。つい零してしまった紅のオーラは、戦闘時の尖った焔ではなく、丸みを帯びて小さく跳ねては身の内へ溶け込んでいく、柔らかなノイズを放っていた。

 既に隣にミドリはなく、逃げるカインと追う子供達の落ち着く場を予測しては、重そうな厚手の幔幕を引きずっていき、子供達が怪我をしないよう一緒に笑いながらそれを敷いたりまとめたりと急がしそうに動いていた。ハイレンは広間の端に腰を下ろして壁にもたれ、懐かしさとは少しだけ異なるその光景をしばらくの間眺めていた。


「久方振りじゃの、ハイレン」

 懐かしい声が真名を呼んだ。ハイレンを昔から真名で呼ぶのは、タクトを除けばこの人だけだ。

「館長」

 声に誘われ見上げると、そこには子供の頃に見たのと変わらない笑みがあった。深い皺も、きっとハイレンがこの館で育った頃より増えているのだろうが、ここまで来ると見栄えにそう変わりはない。紅の館の館長、エインはミドリが来る以前から、こんな笑みを湛えている老女だった。

「客人にあれこれ引っ掻き回されてはいませんか」

 くるくると動き回るミドリを見つめながら、くすりと笑うエインにそう問い、ハイレンもまた苦笑する。

「よい意味で引っ掻き回してくれる子じゃよ。――そなたのご母堂とよく似ておられる」

 エインは細い目を一層細め、ハイレンにあわせて少しだけ身を屈めた。紅黒く濁った瞳をまっすぐ覗き込むと、逃がさぬと言いたげな語調で問うて来た。

「まだ、先代をお恨みかえ?」

 執拗と言えばそうとも言える、エインの追究に眉をひそめる。それは問いというよりも、ハイレンの器を計るノイズを臭わせた。

「……父としては、そんなものだと割り切っているつもりですが」

 どうも分が悪いと顔を背ける。育ての親には平静な面持ちを保ち切れず、つい眉間に皺が寄る。

「まだ、『母を守れなかった先代を、キュアとしては尊敬出来ぬ』かえ?」

 かつてハイレンが吐いたパスを用いて問い質すエインの声は、ハイレンを諌め咎めようとするノイズを多分に含んでいた。縦に頷く若さはもうない。だが、エインのパスやノイズに肯定の意を示せるほどまで、諦観もまたしていなかった。

「それもまた、先代に課せられた運命(さだめ)。彼もそなたのご母堂も、己が運命を受け容れただけのことに過ぎぬ」

 ハイレンが無言という形の答えを返すと、彼女はハイレンのパスを気長に待つつもりなのか、「よっこいしょ」と声を発して隣へ座した。

「先の戦については、私もおおむね長老より伺っています。館長ともあろうお人が略奪を許した先代に肩入れするなど、私の理解に苦しむところですが」

 溜息混じりのパスに含んだ思いは、エインに対する反論の意だけではなかった。

 先代のキュア、当然ながらそれはハイレンの実父に当たる。呪わしいとしか思えないその血を自分に押しつけた者とも言える。紅の子だったハイレンは、ほかの子同様この館で育ちはしたが、本当は先の戦が勃発した十五の年まで密かに母を盗み見ていた。何故かは解らないが、気になって仕方がなかったのだ。しめつけられるような感覚に襲われると、紅の血が騒ぎ出す。見兼ねたタクトが館の外へ、こっそりとハイレンを連れ出してくれた。二人でキュアのシェルターへ赴いて母と語らうのが、三人の楽しみであり、秘めごとでもあった。

 その母がある日突然姿を消した。和平の代わりに求められたのが、人質としての母だった。その国はほどなく和平の締結を反古にして攻め込んで来た。先代は応戦の道を選び、パルディエスを守るどころかそのまま敵国を侵略した。結果として、シェリルの森に位置するその土地はパルディエスの一部となった。領土は手に入ったが、もう母はそこにはおらず、先代はその戦で命を落とした。ハイレンは先代の将軍から受けたその報告を、無表情で聞いていた。自分よりも年長である者達が突然自分をキュアと呼んで膝を折る様を、空々しいと思いながら眺めていた。

 その時自分の中に満ちていた思いが、今もほんのわずかに混じっていた。エインには、ミドリの恩恵がないのだろうか。彼女の微笑には変化が見られず、ノイズにもミドリの訪れ前との変化を見い出せない。

「……パスを誤るでない。先代が人として妻を選ぶよりも、キュアとして和平を選んだ、というのが真実じゃ。パルディエスは略奪を受けてはおらぬ。史学を生業とする者が、私的な理由で歴史を歪め伝えてはならぬぞえ」

 先代は、あくまでもキュアとして正しい選択をしたのだと、今日もエインは教え諭す。柔和な笑顔の中に、幾ばくかの憂う想いが宿っていた。

「館の最奥の書物蔵は、いつ開示していただけるのでしょう」

 老人の過去話はしまいとばかりにハイレンは本題を口にした。

「そうさのう。戦禍降り注ぎ、それをそなたが納めることが出来れば、あるいは見せられるやも知れぬのう。……そなた次第じゃ」

 今日も本懐を遂げられないまま、またエインに逃げられた。


 エインと話し込んでいる間に、広間は静まり返っていた。カインの姿は見当たらず、ぐしゃぐしゃにされた幔幕のそこかしこに、自由な恰好で眠りこけている子供達の姿だけが視界に入った。ほどなくミドリが薄手の毛布を大量に抱えて広間へ戻って来た。

「手伝おう」

 ゆるりと腰を上げ、ミドリに近づく。彼女の背丈を越すほど積み上げられた毛布を半分と少し手に取ると、ようやく彼女の顔が見えた。

「ありがとう。エイン館長とのお話、終わった?」

 そう問うミドリの笑顔が珍しく翳りを見せていた。

「済まなかったな。聞こえていたか」

「うん……先代が奥さんを敵に渡した、ってあたりから。先代のキュアって、ハイレンのお父さんってことだよね」

(――。――パパ――)

 ミドリのノイズが異界のパスで伝わって来る。殆ど解読出来なかったが、「パパ」というノイズを受け取った瞬間、自分の感覚と彼女の「父」に対する感覚の違いを思い出した。憂う面差しは、「子」という視点から自分を哀れとでも思ったのだろうか。

「ミドリにとって、父とは尊敬の対象だったな。だが父などというものは、次の世を担う者を生み出す為の種、という程度の存在に過ぎない。育てるのは女だからな。パルディエスだけでなくこのディエルトのどこでもそんなものだ」

 初めて異界を見た時の父娘を思い出す。ミドリの父が、愛しげにミドリの名を呼んだのを思い出した。

「お前がそんな顔をすることはない。異界に戻れば、お前にとって当たり前な全てがお前を迎え癒してくれる」

 子供達に毛布を被せてやりながら、背を向ける彼女に異界のことを口にした。いつも以上に彼女の憂う顔に耐えられなかったのは、血生臭い戦の話などをしてしまった所為だろう。笑って欲しくて、異界の話で彼女の笑みを誘うつもりでそう言った。

「……そうだね。ありがとう」

(――ッテナイ。違ウノニ)

 その瞬間の、彼女のノイズ。何が違うのか、やはり異界のパスで解らなかった。ノイズが漏れていることは未だミドリに隠したままでいる。それゆえに問い質すことも出来なかった。

「ねえ、ハイレン。この子達も、ハイレンの子、ってことだよね」

 突然改めて問われ、また、同時に零れたノイズの波立ちようが今までにない荒れ方だったことに驚いてしまい、ハイレンは即答できなかった。

(――カナ……。――コト、ダヨネ)

 また、ノイズが異界の言葉で浮かんでいる。振り向いた彼女の微笑は心からのそれではないままだ。

「ハイレンなら、どうする? やっぱりこの子達に、ハイレンと同じ思いをさせるのかな」

「同じ思い、とは?」

「この中から、紅の子が目覚める訳でしょう。もしその子のお母さんを差し出せなんて言われたら……ハイレンなら、どうする?」

 まっすぐ見つめて来る瞳は、いつの間にか少女のあどけなさが随分と抜けて、大人びた色合いに変わっていた。

「……状況次第、だと思うが。可能な限り守ろうとは、思う」

「そう……そうだよね。そういう状況になってみなくちゃ、解らないよね」

 答えながら、それがミドリの求める答えと違うのが解った。だが、肝心の答えが解らない。ふと思いついた可能性をパスにした。

「館長にディエルトや先の戦のことで、何か教えられたのか」

 ただの勘だ。だが、先ほどの何かを匂わせようと意図した様子のエインといい、いつもとどこか違うミドリといい、何か関連があると感じられた。だが。

「うん。それは毎日、いっぱい。実はハイレンが子供の頃は結構やんちゃで脱走ばかりしてた、ってことも」

 そう言って笑った。その笑顔は作りものではなく、エインと離れてからハイレンが最も望んでいたそれに変わっていた。話を逸らされたような気がしないでもないが、今日はそれでよしとしよう。このところ慢性的な不眠に陥っていた所為か、酷い疲れを感じていた。

「何かとすぐに飛び出すミドリに笑われるのは心外だな。……しかし、いつの間にか随分難しいパス回しを使うようになったな」

「だって、ここへ来てからもう一廻(ひとね)(一廻はおよそ一年)だよ。こっちでいうところの成人になるもの。いつまでも子供みたいにたどたどしいパスで、皆に甘えていたらダメでしょう」

「もう……そんなになるのか」

 追い立てられる生活で、そんなに時が過ぎているという意識がなかった。




 キュアの住まうシェルターは、一般に比べて遥かに広い。シェリルリーフの含有率が高い為、壁を抜いて増設するのが容易い。代々キュアに受け継がれていくシェルターは、ハイレンの代でミドリの居室を増築したことにより十二室にまで膨れ上がっていた。

「部屋ごとに封印を施すのが面倒だったが、いい加減中央通路を作るべきか……」

 それとも新たに書物蔵を設け、現在の書庫を潰してしまおうか。しかし書庫は古文書の傷みを抑える為に、高価である鉱物を用いた造りになっている。ミドリの存在が外へ漏れる危険を考え、外部との交易を避けている現在、材料の入手が困難だろう。

 ハイレンは結局結論を出せないまま、取り敢えず今日の日誌を書こうと最奥にある執務室へ足を向けた。第一書庫の封印を解く為印を結ぶ。一語、二語唱え、途中で止めた。不快を表す数本の縦皺がハイレンの眉間を占拠した。瞼がハイレンの紅玉を隠すと、右人差し指の指先から紅い小龍が躍り出た。それは匂いを嗅ぐ仕草で幔幕の仕掛けを隙間なく探して回る。不意に布地のひと縫いから、小さな黄土の虎が躍り出た。小龍が小さな咆哮を上げて、小虎の胴を絡め取る。抗う小虎は小龍の喉笛を噛み切り、ふたつは同時に霧消した。ふわりと風もないのに幔幕が揺れる。ハイレンはらしくもない荒っぽい動作でそれをめくり上げて奥へと進んだ。ひと続きに連なる書庫を次々とおり抜け、最奥の執務室の前で足を止めた。部屋を仕切る幔幕が勝手に巻き上がり、その正面に見える席でパルディエスの副族長が不遜な笑みを零して待っている姿を瞳が捉えた。

「タクト、信用しているからこそ、お前に破れる程度の封印を施しているのに」

「まあまあ。非礼の詫びは、今済んだところだ。交易に関する報告書を書いておいてやったぞ」

 不法侵入に悪びれもせず、タクトはぴんと書面を指で弾いて机の上へ放り出した。ハイレンは席に座しているタクトに背を向ける恰好で机の対面に寄り掛かると、それを手に取り読み始めた。次第に剣呑な表情がハイレンに浮き上がる。『その時』が来るであろうと予測はしていたものの、打開策をまだ見い出せていないのが現状だ。来たる日の早さが、ハイレンの誤算だった。


 シェリルリーフがこの村の主な収入源だ。寒さ厳しいノルデン地方などには特に高価な値で売れる。この一廻は村へ立ち入る許可証を発行しない代わりに、こちらの商人がノルデン地方へ赴く形で交易していた。だが、その暫定措置の期間があまりにも長過ぎた。行商を狙う野賊が倍にまで増えていた。キュアの(かさ)を盾に兵役程度しか自衛力のないパルディエスの行商人は、実践で《ノイズ》を自在に操る野賊に命とシェルアイテムを奪われていた。

 ハイレンには初耳の報告も混じっていた。封鎖に意義を唱える村民を、タクトは密かに処理していたらしい。キュアの呪詛除けの為に罪人を処罰したと告げられたなら、家人はキュアへの畏怖から黙して受け容れるほかなかったに違いない。

 交易の再開とミドリの保護が最優先事項だった為に、ハイレンはこの一廻の殆どを古文書の調査に費やしていた。それに集中専念する余り、村人のノイズを聞く時間が大幅に減っていた。週に一度の視察を自らに課していたが、どこか上の空だったのは否めない。攻撃的なノイズの対象が自分に集中していた。少なくても村人同士が争って《ノイズ》を撒き散らす心配はないと安心してしまった。そのノイズが何を孕んでいるのか、深く考えることを怠っていた。

『適齢の男子からメサイアに対する邪念が多く見受けられる。キュア呪詛を企てる十三名を発見、法に則り処理』

『匿名の意見書。キュアによるメサイアの保護は、力の集中によるキュアの独占政治に繋がると懸念』

「……」

 パサ、と紙のばらける音が机上に舞う。今のハイレンには、報告書を読了するだけの気力も集中力もなくなっていた。タクトが報告書を束ねて組紐で留め、ハイレンの背をそれで突いた。

「最後まで読めよ。次の集会の議題に関する要望も列記してある」

 エインとのやり取りで不安定になり、今ひとつ客観視出来ない自分がいる。それ以上読み続けると、却って主観が混じり判断を誤ると思われた。

「あとで読む。それより、何故報告が遅れた?」

 漏れたパスに溜息が多く混じった。受け取った書類を見もせず未処理の箱へ放り込む。

「学者さまは、メサイアの帰還に関する文献を探すことにお忙しかったようなんでね」

 タクトの嫌味な物言いは、明らかにハイレンの取った(まつりごと)の姿勢を批判していた。

「メサイア降臨の伝承を全文解読するのが最優先事項だ。致し方あるまい。帰り方が解らないのでは、交易再開時期も他国への対応も目処が立てられない」

 言い訳がましいことを述べていると我ながら思い、タクトに反論しながら苦い笑いが勝手に浮かぶ。ハイレンのノイズが察せられてしまったのか、タクトはそれ以上政に対するハイレンの姿勢を糾弾することはなかった。

「で、メサイアの帰還に関する収穫は?」

「いや、まだ……未知の記号が多い古文書は、まだ完読出来ていない。紅の館にある書物蔵の書物については、今日も開示を断られた」

「あの婆さん、食いつけと言いたげにちらつかせる癖に、食いつくととぼけるところがあるからな」

「口を慎め。彼女は私達を育てて来た、いわば親に代わる人だろう」

 ハイレンはタクトの無作法を諌めながら、心の中で同意していた。その理由を彼に述べた。

「内容にこれだけ食い違いが出るほど古文書や伝承の文献があるのに、メサイア伝説が降臨に関する記述のみ、というのが、私はどうにも腑に落ちない」

 語りながら、タクトの方へ向き直る。阿吽の呼吸で彼が席を立つと、ハイレンは自席につくなり肘を立てて顔を伏せた。

「我々が求めている部分については、館の書物蔵に納められている何かに記されているのではないか、と踏んでいるのだが。タクトはメサイア伝説について、どう考えている」

 何か、伝承には裏があるように思えてならなかった。例え兄弟子であるタクトの前でも、不安げな表情を見せたくはない。キュアとしての気負いが、辛うじて声の震えを抑えていた。

「戦禍が訪れる時に現れるというよりも、むしろ――」

 続くパスが喉元で詰まる。続く予測を、ハイレンはパスにすることが出来なかった。

「むしろ、『メサイア』という存在自体が――戦禍の源。うがった見方で俺らの現状を見れば、そうと受け取れなくも、ないな」

 タクトから芳しくない推測の合致をパスにされた。

「――メサイアの処分をお前に命じろ、と言いたいのか」

 これまで何度も『ことなかれ主義過ぎる』と自分のやり方を批判して来た彼なら言い兼ねない打開策ではあった。戦禍とは住人の内部分裂を差したと語り、彼女はそれの回避を見届け異界へ帰ったと説明すれば、村人が多少の疑問を抱いたとしても、交易再開という不満解消の前に難なく打ち消されてしまうだろう。

「そう怖い顔をするな。ミドリを処理する必要もなく、交易も再開出来、尚且つ村の下衆どもが諦めのつく最善策を考えた」

 ――ミドリを、俺にくれ。

「……は?」

 突飛で想定外なタクトの要請が、ハイレンに頓狂な声と呆けた顔を上げさせた。

「ミドリを俺の妻にする。お前と違い、俺は紅い子が生まれなくても妻を娶ることが出来る。そうすれば族長に権力が集中しているという愚論を一蹴することが出来るだろうし、俺が相手では馬鹿どもも、そう迂闊にミドリに手を出せまい。客人でなくなれば、交易もすぐに再開出来る」

 右手で拳を作り、左手で机上を叩いて身を乗り出す彼の表情は、ハイレンに懐かしさをもたらした。遠い昔にはよく見せていた、パスとノイズがぴたりと合わさる、心からの感情を表す少年時代そのもののそれは、初めてハイレンを心地よくない意味合いで黙らせた。

「それに、ミドリの教育というお前の負担も減らしてやれる。ミドリのノイズは未だに異界のパスが大半だ。皆がそれを気味悪がってる。当然だ、何を考えているのか解らないのに、ノイズだけが駄々漏れなのだから。お前がミドリにパスを教える際、異界のパスで意思の疎通を図っているからだろう。考えても見ろ。異界へ帰る必要がどこにある。異界のパスをミドリの中に留めておくことは、却って思慕で彼女を苦しめる。忘れさせてしまえばいいさ。そうすれば、お前は政とメサイア伝説の解明に集中出来る。学者根性が疼いて異界のパスへの関心を捨てられないから、こんなにもたついているんだろう」

 珍しく饒舌にまくしたてるタクトから零れ落ちる、薄桃のオーラ。しばしばミドリからも零れ出すそれは、彼女からのそれと同じ温度を感じるのに。

「……随分と饒舌だな、タクト」

 タクトから零れ出したオーラは、温かいにも関わらずハイレンの心を凍えさせた。発したパスに、その冷気が伝播した。

「私には規模が解らぬが、彼女のシェリルの《ノイズ》はどうするつもりだ」

「シェリルの森付近にシェルターを設ける。そうすればミドリの《ノイズ》もシェリルに紛れて外部に知られることはない」

「防げぬノイズはどうする気だ」

「気づいてないのか? この一廻で随分漏れる範囲が狭くなって来ているぞ。集落から離れたシェリルの森で暮らしていれば、ここまでノイズが届くこともない」

 お前はミドリに近過ぎるから見えていないのだと指摘されれば、返すパスは何も出ない。考える素振りで、机についた肘へ額をつく。密かに下唇を噛みしめる。ハイレンは、タクトの意見を覆そうと足掻く自分を、その時初めて自覚した。

「……ミドリの意思はどうなる。異界では十五歳と言えば婚姻に適さない子供とされている。ミドリ自身は自分を子供だと認識している」

 異界からの客人であることが、ミドリを守る最後の砦だと思ったのに。

「お前がミドリの感覚に惑わされてどうする。個人の意思など、平和な異界だからこそつうじる理想論に過ぎない。ここは異界ではない、ディエルトだ。いい加減キュアとしての自覚を持て」

 タクトから零れ落ちていた薄桃のオーラが消えた。変わって沸々と湧きあがって彼を覆っていくオーラがハイレンの紅をざわつかせる。怒りに燃える、黄土の《ノイズ》。大虎をかたどろうともがきのたうつ様が、タクトの中に蠢く幾つもの感情の葛藤を表していた。

「俺から奪ったその地位を軽んじるな。キュアの責務を怠れば、お前が戦禍の元凶になる、と肝に銘じておけ」

(ふざけるな、ガキが。俺にばかり穢い役回りを押しつけやがって――ミドリの前ではそこまで善人面をしてしたいか)

 パスの影に隠されたノイズが紅龍を鎮めていく。言い返すパスが見つからない。平和な中でも、ミドリから見れば、どうしても異界のそれには劣るパルディエス。《ノイズ》の暴走で地が血で汚れる度に、彼女は泣き狂い異界の言葉でハイレンに殺生の惨酷さを訴えて来た。その度にシェリルの雨が降り、それが村人の活気を奪っていた。影でタクトが内乱を防ぐ為に、その手を血で穢していることに甘えていた。

「……次の集会までに、ミドリには私から打診をしておく」

 ずきりと胸が痛む。タクトの弁が執政者として正しいと思っても尚、「命じる」ではなく「打診」と柔らかに彼の提案を拒否してしまう。

「お前の介入は一切不要だ。異界の住人が紅を宿すとも思わんから、宿しの儀も必要ないぞ」

 頭上から降る拒絶の声に、抗うパスが浮かばなかった。


 ばさ、と乱暴に幔幕の上がる音が耳障りに響く。ハイレンは瞳を閉じて額を手の甲に張りつけたまま、タクトのノイズがシェルター内から消えるのを待った。

「……っ……」

 少年のように膝を抱え、大きな身体を丸め込む。

 殺るか殺られるかというこのディエルトが、ハイレンを閉じ込める大きな鳥かごに見えた。自分の好奇心からミドリを拾ってしまった所為で、彼女までそこへ閉じ込めてしまった。今更それを悔やんでも遅かった。

「済まない……」

 静けさを取り戻した執務室に、微かな嗚咽が響いていた。

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