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第一章 異界からの訪問者

 綺羅星がまたたく冷えた夜空に、黄金の月が煌々と輝く。それらが照らす寂れた荒野に、怪しげな人影が五つ、六つ。闇夜にひと際映える深紅のオーラを放つ人影が、対峙する恰好で、ただひとつ。紅の人影が月を仰ぎ、渇いた声で呟いた。

「キュアという大義名分で人を殺める私を見るのがそんなに楽しいか、月よ」

 呟いた主から立ち込める紅が、龍をかたどり主を囲む。それは更に、強く、高く、光を増しながら空に向かって放たれた。

「……っ!」

 対する賊達は、パスはおろか思いをノイズにさえ出来ないまま、散り散りに四方へ逃げ惑う。逃げる勇気があった自身を喜ぶ前に、彼らの発した《ノイズ》が紅の龍に襲い掛かった。

《ノイズ》対《ノイズ》の戦いが、刹那の時間月を隠した。月の放つ黄金(こがね)の色を、紅龍の横顔が半ば隠す。くるりと月を囲んだかと思うとまるい(おもて)を横切った。荒野が赤み掛かった黒に塗り替えられる。

(――っ!)

(……っ!!)

 龍が賊の発した《ノイズ》ごと彼ら自身をも呑んでいく。紅のオーラが賊どもを、彼ら自身の血で紅に塗り替えていく。声なき声を発した者が、一瞬にして肉塊という名の物へと変わっていった。もし月に語るパスがあるならば、そんな詩的な表現をしたのではなかろうか。鉄臭い匂いが溢れる中、紅龍のオーラを放った主、ハイレンはそんな場違いなことを考えていた。

 再び静寂が訪れた。紅龍がその形を溶かし、ハイレンの身体へ溶け込んでいく。月は凄惨な光景に恐れをなしたのだろうか。いつの間にか湧いた雲間に、まるい顔を隠してしまった。

「自ら脚を運んで正解だったようだな」

 ハイレンは息絶えた賊達を見下ろし無表情で呟いた。彼らの耳ごとそれにつけられているシェルを切り取ってかき集め、シェリルの含有率を手早く調べた。

「ふむ……、五パーセントにも満たない。やはり目的は、村のシェリルリーフと言ったところか」

 ハイレンにとっては飾りでしかないそれ――シェリルリーフ。シェリルという樹木やリーフから取れる成分が、勝手に漏れ出すノイズを吸い上げることで隠してしまうらしい。幾らパスで取り繕おうと、シェリルなしでは無意味だと教えられたのがいつのことだったか、例外であるハイレンはもう忘れた。『紅の一族』にはシェリルの効果が発揮されない。ハイレンの目には、人の命よりも大事とばかりにそれを欲する人々の気持ちがまったく理解出来なかった。飢えた狼さながらの勢いでこの村、パルディエスを襲うほかの部族。それを恐れて高い城壁で村を取り囲むパルディエスの村民達。一時期はシェリルの栽培を研究したこともあったが、村人の猛反対にあい中断を余儀なくされた。

「重いな、キュアという冠は」

 作業を終えて立ち上がる。屍をそのまま捨て置くしかない自分に対し、密かに独り眉をひそめる。ハイレンを憂い顔にさせたのは、自国に戦禍をもたらそうとした彼らに対する怒りではなく、救済を意味するその肩書きにそぐわぬ自分の行いに対する嫌悪だった。

 紅玉の瞳、赤い髪を持つ『紅の一族』が村を守らねば、『紅の一族』という血そのものが村の脅威になる、とパルディエスでは語り継がれている。紅玉の瞳、赤い髪――代々キュアとして存在することを村人に許されて来たこの一族の、隠しようがないその特徴。神の意思とばかりに、代々独りしか成人までその特徴を保てない、と長老がかつて言っていた。そこに当人の意思はない。ハイレンもまたその(ことわり)の例に漏れなかった。

 同じ世界に生きながら、ハイレンには人々の気持ちが解らない。キュア候補時代の修行中に魅せられたことがきっかけで学者を本業としてからは、人々の思いを理解したくて村人の好む大衆物から歴史や古文書までありとあらゆる様々な文献を読んだりもした。知れば知るほど、解らなくなる。自分の異質さに嫌気が増すばかりだった。ハイレンには、世間一般の者が抱くらしい、(まつりごと)の主権や支配の権利に対する欲望というものがまったくない。むしろそれらは煩わしいものでしかないとさえ思っている。望むものと言えばそんな下らないものよりも。

(ノイズではなく、思いを共有したいものだ)

 吐き出した溜息が、うな垂れたハイレンの紅い長髪をそっと揺らした。




(――!!)

 イメージさえなかった無の荒野に、突然乱れたノイズが轟いた。

「何……?!」

 冷静沈着、見識深いと周囲から評されるハイレンでも、そのノイズのまっすぐな感情と強さに戦慄した。

(こんな種類のパスは知らない)

 ざわりと身が熱くなる。気づけば視界が仄かに赤みを帯びた明るさになり、暗がりでも荒れた岩の大地が鮮明に見えるまでのオーラが、ハイレンの身から漏れていた。未知のパス、即ち未知の存在に対する反射的な恐怖がオーラを《ノイズ》化させ掛けていた。

「落ち着け……敵とは限らん」

 敢えてパスを使って慄く自分へ言い聞かせる。キュアたるもの、恐れてはならない。自身が戦禍の元凶になってはならない。父、先代のキュアに向けられていた人々のノイズを思い出す。

 ――村を襲う奴らさえいなけりゃ、こんな一族、危なっかしくてしょうがねえ。

 ――戦で怯んで負けて来てでもくれれば、集会で慣わしを覆す議題を出せるのに。

 パルディエスが比較的安寧なのは、キュアの力が桁外れに強大な為だ。弱味を見せて存在価値を否定されれば、個々が権力を欲して争いが起こるに違いない。

 ――ハイレン、忘れるな。お前がなにごとにも恐れぬことで、村の平穏が維持されるということを。

「はい、長老」

 今は亡き恩師へ応えるパスを告げると、次第にハイレン自身の心にも静寂が訪れた。熱した肌に夜の冷気が却って丁度に心地よい。清流を思わせる師のオーラを思い起こすと、ハイレンの紅蓮も徐々に身の内へと鎮まっていった。

 甲高いノイズに敵意がないことにも気がついた。

「調べてみるか」

 誰にとも呟くと、ハイレンはラバに獲物を載せてノイズの発する方向へと歩を進めた。


 村人が交代で行なっている周辺警備を代わってもらったのは、わずかながらも不穏なオーラを感じたからだ。今夜の賊が発していた《ノイズ》の強さから考えると、予測よりも自分が赴くほどの強敵ではなかった。意向をごり押ししたのはただの勘だ。しばしばこんな形で勘の働くことがよくある。だが今夜は珍しく勘が外れたと思っていた。

(なるほど、こちらに対して自分が赴けということか)

 近づくにつれて段々と甲高さが強くなるノイズの元凶を目にしたハイレンは、ふたつの意味で安堵の溜息をついた。ひとつは勘が外れていなかったこと。もうひとつは、目の前に現れたノイズの元凶が明らかに敵ではなかったこと。

 切羽詰ったオーラを感じさせるノイズを発していたのは、子供だった。年の頃は、その背格好から十三、四といったところだろうか。とにかくこれまでハイレンが見たこともない、奇妙な姿と恰好をした子供だった。夜の闇に溶けそうなほど、黒くて背中まである長い髪。不吉の印である黒に身を染める子供が、この年齢まで生きているのを見たことがない。滅多に生まれない黒い子を恐れた大人が、事故や病気ということにして殺してしまうのが殆どである。子供が貴重であるパルディエスでさえそうなのだ。厳しい環境にある他国では、余計に長生き出来ないだろう。

 オーラを少しだけ零して身にまとう。仄かな灯りがより鮮明に子供の後ろ姿をハイレンに見せた。

(少女、か)

 ラバを引く手綱を尖った岩の先に括って、気取られぬよう慎重に彼女に近づく。彼女の視覚から外れる位置に回り込み、そっと彼女の様子を窺った。

 意味をなさない小さな深緑のリボンを首にほどこし、見たこともない上下別々になっている珍妙な服をまとっている。それもリボンと同じ深い緑でどこかシェリルリーフをイメージさせた。はしたないことに、服の前身ごろは開きのつくりになっている。それを丸い不思議な物体でつなぎとめているらしい。どう見ても着衣に面倒な縫製としか思えない上に、防御の役割も果たしていないと見受けられた。むき出しの脚も丈の短い衣類で膝より下は覆われておらず、気休め程度の防着にしかなっていない。最も異質なことだったのは、彼女の纏う衣類から一パーセントもシェリルの成分を見て取れないことだった。

「(パパ!)」

 彼女の叫んだパスの意味が判ったことに軽い驚きを覚える。使うことはないパスだが、古文書の中にあった、どこかのパスと記憶しているものだった。確か、父親という意味だったと思う。

(パパ! パパ、――?!)

 ノイズとパスが一致している。漂うというよりこの場を覆いつくす恐怖や思慕、不安などを連想させる重苦しいオーラから察するに、読解不可能な部分はきっとそれらの思いを表すノイズと思われる。

 ノイズとパスとオーラの一致。この世界ではあり得ない現象。ハイレンの洗礼を受ける前の赤ん坊に匹敵するほど、純度の高い全ての合致。ハイレンはその現象に、嫌悪と異なる奇妙な感覚に囚われた。

「(怖く、ない)」

 思い出したひとつの可能性に賭けて、異界のパスで話し掛けてみた。別世界のようで子供の頃にどっぷりと嵌った、異界のパスという古文書に綴られていたパスを口にした。

「(――?! ――語が判る――? ――パパ――? ここは――?!)」

 甲高い悲鳴のパスと、痛みを錯覚するほどの激しいノイズ。通常であれば、それはオーラを武器として――例えばハイレンであれば紅龍という光の擬体のように――《ノイズ》という形に具現化させ、こちらを襲って来ることが殆どなのに。彼女にはその能力がないらしく、ハイレンにかすり傷ひとつつけて来ない。訊くまでもなく、明らかに異界からの迷子と伝えていた。

「(異界、迷子? おいで)」

 そう声を掛けて近づいた途端、漆黒の髪を涙で肌に張りつけていた彼女があとずさった。抜かした腰を浮かして逃げようとするが、腕にも力が入らないらしく、支え切れずに身を崩す。ゴツンと鈍い音が微かに響き、ハイレンにしか判らないであろう微量な血の匂いが立ちのぼった。

 ち、という舌打ちが静寂の訪れを遅らせる。煩わしさからの舌打ちではなく、少女に無用な傷をつけさせたことに対する、自分に向けてのものだった。

 彼女の判る長いパスまで扱うほどの文書は、世界にもハイレンの記憶にも残っていない。パスが違うのであれば、これしか方法を思いつけない。直接彼女に触れて、こちらのイメージを伝える方が早い気がした。

「通用するかはわからないが、少しだけ我慢をしてくれ」

 ハイレンは自分のパスでそれだけ言うと、ガチガチと歯を鳴らし始めた彼女を半ば無理矢理自分の懐へ押し込んだ。

「(――! ……――?)」

 彼女が何と言ったのかは解らなかったが、警戒を解いたことだけは、抜けていく抵抗の力から感じ取れた。ハイレンからも彼女を拘束する力が緩んでいく。だが決して少女の脱力にあわせたのではなく、送られて来た彼女のイメージに感嘆したあまり抜けてしまっただけに過ぎなかった。

(これは……イメージを受け取って、初めて理解出来ることもあるのだな)

 感じたことを思わずノイズ化してしまうほど、少女の生きている世界が古文書に記されていた異界をより鮮明に思い出させた。

 ジドウシャと呼ばれる奇妙な形の乗り物。ビルと呼ばれる四角や多角形の建物群。ハイレンには奇天烈で無防備なものにしか見えない彼女のこの服装も、異界では普通の恰好らしい。これがブレザーと呼ばれる防寒着であり、スカートと呼ばれる服であることも彼女のイメージでようやく理解出来た。

 パパとは、やはり父親を示していたようだ。この少女は父親と二人暮しで、その男が愛しげに見つめ「ミドリ」と何度も発することから、少女の名前もどうにか判った。

 ホンと呼ばれるたくさんの書物で溢れる少女の家。そこに記された記号の一部は、自分が幼い頃に読んだことのある書物にも記されていた形状だった。ミドリのそのイメージは、彼女のパスを認識する上で大いに役立ちそうだった。

 彼女にも自分のイメージを受け取ることが出来たようだ。再びこめられた彼女の腕が、ハイレンを押し退けるのではなくしがみつく。それがハイレンに対する警戒心を解いたことをうかがわせた。ただ、見慣れぬ殺伐としたこの世界をいきなり見せたが為に、彼女は怯えからハイレンにしがみついたのだ。

(死――っ。――怖イ――。――?! 嘘……)

 彼女の住んでいた世界は随分平和な世界らしい。そう推察したハイレンは、わずかばかりの己の判断ミスに心の中で舌打ちをした。

 少女の世界のパスを使い、あらん限りの努力で優しいパスを口にしてみる。

「(名前、ミドリ)」

 彼女を指差し、今度は自分の言葉で告げる。

「君の名は、ミドリ」

 自分を指差し、両方の言葉で名を告げる。

「(ワタシ、名、ハイレン)。私の名はハイレンだ。解るか?」

 空いた左手はミドリの手を握ったまま、パスとノイズ、イメージの全てを織り交ぜて敵ではないことを説明した。

「(私、パス、解ル、君モ、話ス、私ノ、パス、伝エル)。私のパスが解るなら、君も私のパスで伝えてごらん」

 語る情景を思い浮かべると、甲高かったノイズが少しだけトーンを下げ、初めて彼女の地の声がハイレンの耳に届けられた。

「私、ミドリ、そう。お兄さん、ハイレン。パパ、どこ? ここ、どこ?(私――ミドリ。オ兄サン――、ハイレン。パパ――ドコ? ココ――ドコ――?)」

 少しずつ、助詞を意味するパスが解って来た。ゆっくりと、助詞も交えて短いパスで語りながら、助詞と同じ音を示すものをイメージしつつ会話を続けた。

「この世界と(コノ、世界、ト)ミドリの世界は(ミドリ、ノ、セ、カ、イ、ハ)、別の世界――」

 この世界とミドリが住まう世界は別であるという予測を彼女に語った。同じ手法で彼女もまた、石や岩、草木など主に自然の物を例えに出しながら、こちらの世界のパスを必死で使い答えてくれた。その修得の早さに驚く最初だったが、次のひと言でその理由に得心した。

「ドイツ語、エイ語、ほか、いろいろ、知っている、コトバ。それの、崩れた感じ、と、似てる、の」

「コトバ?」

「う~ん……。こっち、パス、言う、みたい。私のママ、ドイツ人、の、ドウワサッカ。パパは、日本人、で、ホンヤクカ、解る? ブンショウ、を、書く、お仕事。パパ、ママ、私、好き。同じ仕事、したい、思って、コトバ、の、勉強、してた」

 気づけばミドリの頬を濡らしていた涙がすっかり消え失せ、代わって夜空の星に負けないほどのきらめきを宿した瞳がハイレンの顔を映していた。

「(ゴメン。ソチラ、ノ、パス、今ハ控エル。ここデハ不要)。済まぬがそちらのパスは、今は控える。ここでは取り急ぎ不要だから」

 時間がない。朝陽が昇るまでには村へ帰らなくてはならない。最低限ミドリに留意してもらわねばならないことを伝えることが最優先だった。

「うん……怖い。ここ、ハイレンしか、人、いない。ノイズ、オーラ、わかんない。怖い」

 不安げな表情に、不可解な感情がこみ上げる。パスにも出来ないその感情に両腕が勝手に動かされていた。

「私の言うとおりにすれば、しばらくは大丈夫だ」

 震える肩を、包むように抱きしめる。灯り代わりにと零していた紅のオーラが、ほどよい温もりで彼女とハイレン自身を包み、彼女の強張った身体を少しずつ緩ませていった。




 ふたりの人影と荷物の影を背負ったラバが、月と朝陽の両方に見守られ、気だるそうにとぼとぼと歩く。泣き疲れたミドリは、ラバに揺られてもぴくりと眉をひそめることなくただひたすらに眠り続けていた。右手の親指には、ハイレンの右薬指に嵌めていたシェル(シェリルの成分を織り交ぜたアイテムは総じてシェルと呼ばれている)リングが嵌められている。

(パパ……ムカエニ、来テ……)

 彼女に対しては、やはりシェリルの効果を期待出来そうにない。ハイレンは、異界のパスで父にそう懇願する彼女の目尻から零れた涙をそっと拭った。

「厄介なものを拾ったな」

 ハイレンは先ほどまでの彼女とのやり取りを苦々しい面持ちで思い出して呟いた。


 イメージやノイズを交えつつも、パスで会話を続けても滞りなく意思の疎通が図れる頃合いを見て具体的な本題に入った。

『君の世界でいうところの“思念”というのが、こちらでいうところのノイズらしい。君のノイズが具現化しないことを、この世界の誰もが知らない。だから君が今の状態のままだと、すぐさま相手の《ノイズ》で殺されてしまう』

『ノイズ、思念で、殺す?』

『いや、《ノイズ》は、イに強い音を置く。思念のノイズはノの音が上がる。ノイズがオーラを誘発し、オーラの強さによってはノイズやイメージが具現化されるのだ。それを我々は《ノイズ》化、と呼んでいる。最も多いのは、恐怖から来る武器化された《ノイズ》だ。もし村人達が君に対して恐怖を抱けば……解るな? 心を無にすることは、可能か?』

 説明しながら、自分で至難の課題を押しつけていることに気づく。落ち着き掛けたミドリのノイズがまたざわつき始めた。

『出来ない……』

 ミドリは難しい顔をして俯いてしまった。気分はまるで、いい大人が小さな子供を大人の理屈でいじめている感覚だ。

『……無理を言ったな』

 謝罪を口にしながら、試しにと自分のシェルリングを薬指から抜き取り、一番太い彼女の親指にはめてみた。

『シェルリングをあげよう。この世界の者は皆、これでノイズの露出を防いでいる』

 彼女の頬が薄紅色に染まるのを、ハイレンの紅い瞳が黒い視界の中でも感知した。ミドリはシェルリングを嵌めた右手を自分の目に見える距離になるまで近づけ、珍しそうに眺めた。

『くれる、の?』

 おもむろにリングから視線を外し、こちらを見上げて問い掛ける少女の、初めて見せた笑顔に心臓が跳ねた。

(緑色ノリングダっ。フワフワ。コンナ珍シイ物、モラッチャッテイイノカナ。スっゴイ――シイ……ハイレン、――シイ)

 ――シイ、という聞いたこともないパスにこめられた想いが、何故かハイレンの腹の底をくすぐった。こんな子供を捨て置くことは出来ない。だが、村に混乱を招き、面倒を起こすのが自分にとって煩わしい事態になる、と思って差し出したに過ぎないシェルリングなのに。

『ありがとう、ハイレン。(ウレシイ)』

 最後に告げられた彼女の世界だけのパス。シェリルの効果がなかったとは何となく伝えられず、パスにされたことでようやく意味を問うことが出来た。

『ウレシイ、とはどういう意味のパスだ』

 問えば彼女の笑顔が露と化す。それが少しだけ惜しまれた。彼女はきょとんとした不思議そうな顔で

『心が、あったかくなる気持ち。跳ねたくなっちゃう、気持ち』

 と教えてくれた。ハイレンには、今ひとつよく解らなかった。だがいつものような暗澹とした感覚とは違う。ぼんやりとだが、今自分が感じている「くすぐったい」ものと似ている気がする。

『なるほど』

 どういたしましてと答える時に、実は自分の都合でリングをあげたのだと言えずに後ろめたい気分になった。


 ノイズのこと、シェリルのこと、シェルアイテムの必要性、これから向かうパルディエスという村のこと。異界から迎えが来るまでの間、ミドリに心得ていて欲しいこと。村のしきたりや考え方など、彼女の世界との差を問いながら、理解するまで昏々と説き続けた。ミドリは事態の重さをようやく理解すると、再び滝の涙を溢れさせた。彼女が泣き疲れて眠るまで、ハイレンは彼女のパスをただ聴き受け止めた。拾った少女の心がノイズもイメージも消えて真っ白になるまで、何度も「私が守るから案ずるな」と説きなだめた。

「自信がないと……ミドリに覚られてしまったのかな」

 シェリルがまったく効かない、というのは誤算だった。ミドリの撒き散らすノイズが異界のパスであることが幸いでもあり災いでもあり。ミドリに洗礼の儀――ハイレンの血を舐めさせる、という程度のことだが、それを試みても、彼女のノイズは相変わらず駄々漏れのままだった。

 ノコギリの刃を思わせる地平線が、柔らかな線を描き始める――パルディエス。シェリルの大樹と、その成分を多分に織り込んで作られる住居、『シェルター』が描き出す流線型群。影のところどころで松明の明かりが仄かに揺れる。警備の者達が自分の帰りを待ちわび、寝ずの警護で夜を明かしたのだろう。

「当面休息を摂れそうにないな」

 またひとつ、溜息を漏らす。東の空は蒼に染まり、すっかり朝の色に変わっていた。




 ハイレンが戻らなかった所為だろう。村の周囲をぐるりとめぐらす防壁の橋げたが降りたままになっていた。数名の男たちがそのたもとで、ハイレンの帰りを今や遅しと待っていた。

「キュア! お帰りが遅いので心配しておりました」

(まったく、俺の夜警の時に限って、なんでそう勝手なことをしてくれやがる)

「キュア、その子供は?」

(こっちが眠れもせずに退屈な門番をしている間に、この赤毛は何か美味しい想いでもしてたのかよ)

 パスとノイズの落差には慣れているはずなのに、その矛盾がハイレンの目を彼らから逸らさせた。想いをノイズにするより早く、彼らの方がハイレンの異変に萎縮のノイズを発していた。

(やべえ、何か怒らせたか?)

(ガキのことを訊いたのがまずかったか?!)

 ラバから少女を抱き下ろすわずかの間に、彼女の身体で顔を隠してそっと息を整える。

「心配を掛けて済まなかった。この子について、全村民に知らせたいことがある。皆にキュアドームへ集まるよう通達を頼む。伝達の際、必ず次の点も忘れないように。この子はまだノイズのコントロールが出来ない異界からの客人だ。ノイズが《ノイズ》化しないと確認済みなので、例えノイズを受け取っても恐れる必要はないと、必ず忘れずに伝えておくように」

 はあ、と曖昧な返事をする男たちの横を通り過ぎると、側近のボラウが駈けて来るところだった。

「キュア! ご無事で何よりでした」

 褐色の肌から、かすかに土色のオーラが滲んでいる。垂れた目許が潤んでいるのは主人の無事にほっとしたというよりも、自己保身の安堵に満ちていた。

(よかった。これでタクトさまから制裁を受けずに済む)

 それでもボラウは、嘘だけは言わない正直者だ。ほかの村人よりは信頼に足る。ハイレンは小心なこの側近を決して疎んじている訳ではなかった。

「ボラウ、心配を掛けたな。タクトに何かされたのか」

 苦笑混じりに右手を掲げる。シェルリングのないそれを見て、ボラウの顔が蒼ざめた。

「い、いえ! そんなことは……」

「タクトは族長不在時の代理というだけでなく、私の兄者のようなものだからな。過剰に反応したのであれば、済まなかった。《ノイズ》を当てられたのか」

「い、いえ! 自分が勝手に……。あの、失礼なことを、その、申し訳」

「それなら、よかった」

 諍いがなかったのなら、それでいい。今はこれ以上の面倒ごとを処理するだけの気力も体力も残っていなかった。

「それより新たなシェルアイテムを頼む。あるものでいい。それと、この娘の衣類一式も至急調達して欲しい」

 ボラウの言葉を遮り、こちらの用件のみをぶつけてしまう。狭量な自分に自嘲しつつ、彼に自分の意向を手短に告げた。ボラウはハイレンの問いには答えず、逆に慌てふためいた声で問い返して来た。

「キュア。その子もキュアのシェルターに?」

 困惑気味にそう問う彼の言わんとしたことは解るが、気遣う余裕が残っていなかった。

「申し訳ないが、『宿しの儀』は当面なしだ」

「しかし」

「ボラウ。とにかく集会の時に全て話す。頼んだ物はタクトに持って来させてくれ」

 ハイレンはそれだけ告げると、以降の質問を拒むように自分のシェルターへ戻る歩を早めた。

 彼らの姿が見えないほど離れても、まだ漏れ伝わって来る彼らのノイズ。

(先代のキュアは、もっと戦に積極的で猛々しかったんだけどな)

(古文書の研究ばかりのあいつに、なんで紅の血が宿ったんだか)

「……好きで紅の一族でいる訳じゃない」

 これまで砂嵐のように降って来たノイズの山が、ハイレンの紅い瞳をどす黒くよどませた。


 シェルターに足を踏み入れる。まずは抱えたミドリを寝かそうと思い、寝室へ続く幔幕(まんまく)を上げた瞬間、不意に香水の香りが鼻を衝いた。

(……そうか、昨日はベアスが確か、十五の誕生日だった……)

 寝床に横たわらせ掛けたミドリの身体をもう一度抱き上げる。ふと急に気持ち悪くなったのだ。

(……成人していない子供をこの褥に寝かせるのは気分的に……)

 思ったことをそのままノイズにしている自分に気づき、慌てて途中でやめた。

 シェルターの中だと流石に気が緩む。心のままに想いをノイズやパスにしても、シェリルリーフを幾重にも織り込んで作られた内壁がそれらを外へ流すのを防いでくれる。シェルターの中に入りさえすれば、ハイレンもほかの者と変わりのない、二十八歳を迎えて間もないただの青年だった。

 この娘がいる限り、当面『宿しの儀』という義務からはきっと解放されるだろう。半分は同情と好奇心からミドリを保護したが、もう半分はただのわがままだ。


 この村では、『紅の一族』の血を維持する為にその血を持って生まれた族長『キュア』に娘を捧げる儀式がある。十五歳の誕生の夜になると、娘達は成人の儀としてキュアのシェルターへ足を運ぶ。ある娘は涙を浮かべながら、またある娘は「紅髪紅玉の瞳を持つ子の母になる」という野心から過剰に自分を飾り立て、現在のキュア、ハイレンのもとへと訪れる。その根底にたゆたうノイズは、族長の桁外れな紅龍という《ノイズ》に対する恐怖心。シェルを外してそんな彼女達を抱くたびに、彼女達は傷つき、自分もまた傷つけられる。ハイレンはその儀式をくだらないと思っていた。自分がキュアの座に就いてから十年以上が経つのに、まだひとりも紅玉の子は生まれていない。

 そんな穢れとも思える寝所に、ミドリを寝かせるのはどうにもためらわれた。赤子に負けないほどの清らかなノイズやパス、何より彼女の心そのものまでが、この世界の毒に侵されるのではないか。そんな根拠のない懸念をどうしても消すことが出来なかった。

「らしくないな、私としたことが」

 滑稽な心配ごとに自分で嗤う。苦笑しながら小さな訪問者を起毛の敷物の上に横たえた。納戸から予備の寝具を一式取り出し、陽射しの入る居室にそれらを広げた。陽が真上に来るまでまだ幾分か時間がある。肌寒さで風邪をひかせるのはいただけない。集会が終わるまでは眠ったままでいて欲しい。ミドリにあの賑やかなノイズを撒き散らされるのは、集会中だと守り切れないだろうから。ぐっすり眠れる環境が必要と考え、彼女の為の寝床を整え終えると起こさぬようそっと抱き上げた。

(よ……っ、と)

 俯いた先にあった少女の寝顔が一瞬にして歪んでいった。

(しまった。髪……)

「へっぐしっ! うぅ……ん」

 長い紅髪が彼女の鼻をかすめ、クシャミを誘ってしまった。あのけたたましいノイズの嵐を一瞬覚悟したのだが。

「……起きない、か」

(よく寝られるものだな、いきなり独りぼっちにされてしまったのに)

 くすりと笑って初めて気づいた。ミドリと語らった数時間。その時間、ハイレンもまた、パスとノイズと心が寸分違わず合致した。その心地よさからなかなか戻れず、それが村へ戻ってからの自分を陰鬱にさせていたということを。

「不思議な子だ」

 ミドリ。あちらの言葉で深緑を意味する音だと言っていた。

『カンジで、深い緑って書いてミドリなの。パパの名前が深い雪って書いてミユキっていうのね。そんでママが』

 話が長過ぎて、そのあとを聞き流してしまったが。

 緑深い夏に生まれたそうだ。季節が変化する世界らしい。だから平和なのだろうか。彼女の住む世界は、パルディエスのような適度に乾いた夏しかない潤った国を、冬だけが国土を覆う貧しい集落の人々が襲うということなどのない世界なのだろうか。

 艶やかな黒い髪。薄桃色の健康的な肌の色。充分な潤いを含んだ張りのあるきめ細かな若い肌。よいものを食すのが当たり前の世界に住んでいると推測させる、健康的なミドリの身体。だらしなく口を開けて眠る緊張感のなさも、ハイレンの目には平和な世界の象徴に見えた。

「それにあやかりたいとでもいうのだろうか、私は」

 自分でもノイズに出来ない心を持て余し、考えることをやめにした。ミドリの隣に身を横たえて、彼女の平和そうな寝顔を眺め続ける。

「不思議な子だ」

 もう一度、繰り返す。彼女の存在の心地よさは、シェリルの大樹から受けるそれとよく似ていた。その心地よさの所為だろうか。いつの間にかハイレンもそのまま眠りに堕ちていた。

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