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ヒマリは、気づいてしまった。
燈君が、いけないことをしているということに。
それは、目を逸らしたくなるほど知的で、そして少しずるいことだった。
彼は今、「色彩について」を読んでいる。ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインの難解な本だ。
よりによって、そんな哲学書なんて。まったく、けしからん。
ヒマリは、じっとその様子を見つめていた。
彼がどんな本を好むのか、ずっと気になっていたのだ。
そして今、それを知ってしまった。
そもそも、燈さんは男の人だ。
けれど、声は高く、歌もうまい。
ヒマリは、そんな彼に恋をしてしまった。
自分でも少し恥ずかしくなる。でも、これは秘密。絶対に秘密。
私は今日も凝視していた。
ページをめくる音が止まり、燈君が本を閉じる。
その瞬間を逃さず、声をかけようとした――けれど、彼はまるで気配を察したように立ち上がり、どこかへ行ってしまった。
どこへ行くのだろう。
ヒマリはその背中を見送る。
小さな体では、彼の視界に入ることもできなかったのかもしれない。
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
そんなヒマリは、オレンジが好きだ。
太陽の色、果物の色――そのどちらでもなく、赤と黄色の間にある“中間”の色。
はっきりしすぎず、どちらにも寄らないその曖昧さが好きだった。
ヒマリは、オレンジみたいな人になりたいと、ずっと思っている。
燈君は帰国子女で、英語しか話せない。
だから、国語だけは満点のお転婆ヒマリが、日本語を教えてあげている。
「おはよう」を教えるのにも、ひと苦労した。
何度教えても、彼は違う発音で返してきた。
翻訳アプリで確かめると、それは「What do you mean?」――“どういう意味?”という言葉だった。
その瞬間、ヒマリの心に小さな悲しみが広がった。
何度伝えようとしても、想いは届かない。
それでも、笑って「ごめんね」と呟いた。
彼の言葉は、ヒマリの耳にはうまく届かない。
けれど、それでもいい。
言葉なんて、きっと後からついてくるものだから。
英語の力があれば、もっと彼に近づけるのだろうか。
語学力という名の魔法を、神様が与えてくれるなら。
昨日、そんな願いをこっそり心に浮かべた。
初日は昨日。
つまり、今日は二日目。
ヒマリは、まだ小さな決意を胸に、今日もオレンジ色の朝を歩き始める。




