第9話 終焉
あの日、あの場所で婚約者とぶつかり合ったのは、まだ朝の光が残る時間のことだった。思い返すだけでも胸が痛む衝突だったが、それで終わりというわけにはいかない。むしろ、そこからわたしの身体はさらに悲鳴を上げるようになった。すぐに無理を押して部屋を飛び出したせいか、夜になるころには熱が上がり、息苦しさが激しく襲ってきたのだ。
自室の寝台で横になるものの、胸の奥が焼けるような痛みと微熱が収まらず、薄暗い天井をただ見つめるしかない。窓越しに月が雲に隠れたり顔を出したりを繰り返すたび、わたしの視線も揺れ続ける。吐き気がこみ上げるのをこらえながら、わずかに開いた窓から夜風を取り込むと、肌寒いはずなのに、汗ばむほどの熱が身体を包む。
痛む頭で次々と考えがよぎる。婚約者の鋭い問いや、冷たい言葉を返してしまった自分の態度。決して本心を打ち明けるわけにはいかないという気持ちとは裏腹に、どこか罪悪感や後悔が胸を締めつける。けれど、これ以上はどうすることもできない。守るべきものと決めたからには、そのために生き続けるしか道は残されていないのだ。
夜半を過ぎたころ、とうとう耐えきれないほどの高熱がわたしを襲った。呼吸が乱れ、咳き込むたびに胸の奥がずきりと痛む。声を出そうにも、上ずった喉がかすれてしまって言葉にならない。布団の端をぎゅっと握りしめ、暗闇に向かって喘ぎ続けていると、扉が乱暴に開いて侍女が飛び込んできた。
「お嬢様、大丈夫ですか……! どうか、少しでも水を飲んで……」
侍女はいつものように、慌てた手つきでタオルを絞ってわたしの額に当てる。しかし、その行為だけでどうにかなるような熱ではないのだと、わたし自身が一番よくわかっていた。全身の力が抜けて、呼吸することすら苦痛に変わる。侍女が用意してくれた水を口に含もうとするが、咳が止まらずにうまく飲み下せない。
「このままでは、本当に危ない……お嬢様、どうか今夜は静かに横になって……。医師を呼ばないと……」
「やめて……大げさにしないで。わたしは……まだ……」
咳と息切れの合間にそれだけ言うのが精一杯だった。侍女の目には大粒の涙が浮かんでいる。わたしをどんなに案じているか、その表情から痛いほど伝わる。でも、それ以上に、自分が無力だと感じているのだろう。彼女は唇を噛みしめながら、タオルを何度も交換し、必死に背をさすってくれる。
ようやく咳が落ち着き始めたころ、熱で朦朧とした意識の中、わたしは侍女が枕元で小さくすすり泣いているのを感じた。あれほど冷静に見える彼女が、それほどわたしの命を案じてくれている。それをわかりながらも、わたしは何もできない。生き延びるために弱音を吐いてしまえば、それだけで家の立場を崩すかもしれない――そんな恐怖がぬぐい切れないのだ。
「……わたしは……大丈夫だから……ね、泣かないで……」
力ない声を振り絞ってそう告げると、侍女は「お嬢様、そんなはずが」と首を振る。それでもわたしの言葉に逆らうことを避け、ただ泣くのをこらえるように唇を引き結んだ。わたしはその姿を横目で見ながら、今この瞬間だけは涙を流してもいいのに、と心の片隅で思う。しかし、同時に、その願いがわたしの身勝手な押しつけであることも承知していた。
やがて夜がふけ、意識の散漫が少しずつ収まり始めたころ、わたしは薄暗い部屋の中で手を伸ばし、机の引き出しにしまっていた日記を手繰り寄せる。侍女が「お休みになってください」と必死に止めるが、わたしにとって日記を綴ることは、もはや息をするのと同じくらい欠かせない行為になっていた。
「……もういいの、わたしがしたいから……やめないで……」
震える指先でペンを握り、何とかライトを手元に引き寄せる。侍女がやや離れた場所で心配そうに見つめているのを背中で感じながら、わたしはページを開いた。前のページには、婚約者と衝突してしまった日の記録がまだ新しいインクの跡をとどめている。そこにわたしが記した言葉は、今の自分を追い詰める思考そのもの。守るべきものがあるからこそ嘘をつき、誰にも弱さを見せないまま孤立していく自分の姿が、紙の上にあまりにもはっきりと刻まれている。
今日はさらに、命の限界を感じるような夜だった。先日の診察で示された余命の短さが、まざまざと目の前に突きつけられているかのように思える。いつ呼吸が止まってもおかしくない――そんな不安が、眠れぬ夜を長くしている。
「今夜、わたしは改めて思い知った。わたしは本当に長くはないのだ、と」
ゆっくりとペン先を紙に当て、弱い光の中、震える文字を刻んでいく。詰まる呼吸を整えながら、どうにか書き進めるしかない。
「このまま人知れずに消えていくのは、わたしの望んだことなのだろうか。けれど、今さら誰かに頼れるはずもない。あの人はわたしを救いたいかもしれないけれど、わたしはそれを拒み続けている。それどころか、家のために、名誉のために生きる道を選んだのだから……」
ペンがかすれるたび、身体の奥から湧き上がる痛みがわたしを襲う。昨日まではもう少し平気だったはずなのに、今夜はどうにも筆が重い。心の中で血が滴るような感覚がして、息をするたびに喉がつまるようだった。
「もし、本当に誰もわたしを知らないまま終わってしまうなら、せめて……せめてみんなに迷惑をかけない形で、わたしは去りたい。そうすれば、誰も悲しまないだろうし、家も傷つかないはず」
そんな思いを書き綴りながら、胸が詰まる。侍女の視線が痛いほど背に突き刺さるが、振り向く勇気などない。この人を置き去りにすることになるのだと思うと、後ろめたい感情が膨らんでいく。けれど、わたしが命を終えるという事実から誰も目を背けられない以上、わたしなりの最善策は「静かに去ること」だけなのかもしれない。
「お嬢様……もう、やめてくださいませんか。そんなにもご自分を苦しめて、わたくしを置いていかれるのですか。お嬢様は、わたしにどれだけ助けられるかも試していないのに」
後ろから聞こえる侍女の声には、震えと切なさが交じっている。彼女もわたしを救いたいのだろう。長年仕えてくれた彼女の気持ちを思えば、心が千々に乱れる。それでも、わたしの決意が揺らぐことはない。誰かに頼る生き方をすれば、わたしがこれまで築いてきたものが一瞬で崩れ去ってしまう。そんな怖さに比べれば、病の苦しさなどいずれ終わる不安にすぎない。
「ありがとう。あなたの優しさは痛いほど感じているわ。でも……もう十分なの。あなたがいくら支えてくれても、変わらない現実がある」
それだけ言うのが精一杯だった。侍女は泣きそうな目で、わたしの言葉を受け止めながらも「それでもわたしは……」と声を詰まらせる。何度見ても、彼女の涙は胸を締めつける。けれど、悲しむのは一時だけだ。わたしが消えたあと、彼女はきっと新しい人生を生きられる。そう信じることで、自分を納得させようとしているのだ。
日記を書き終えたあと、わたしは激しい疲労感に襲われ、机に突っ伏すように倒れこんだ。侍女が慌てて支えようとするが、軽く手を振り払って「平気よ」と呟く。夜明けまであまり時間はないが、寝台に向かう余力も残されていない。その場にうずくまるようにして、かろうじて呼吸を繰り返す。
「……もうすぐ終わりが来る……本当に、そう思うの」
声に出た言葉は自分でも驚くほどはかなく、耳に届くか届かぬかの小さなものだった。侍女がそれを聞いているのかどうか、振り返る余裕すらわたしにはない。けれど、彼女の足音がこちらに近づき、か細い声で「お嬢様……やめてください……」と囁くのが聞こえた。
これが、わたしの限界なのだろう。いくら気力で立ち続けようとしても、身体が先に悲鳴を上げる。先日の衝突と、今宵の高熱や咳で、体力は底を尽きかけている。まだ意識はあるものの、いつ失っても不思議ではない状態だと自覚している。
「もし本当に、わたしがここからいなくなる日が訪れたら……あなたにはできるだけ早く忘れて、次の道を歩んでほしい。そうでなきゃ、わたしがいなくなったあと……」
そこまで言いかけて、視界が滲む。侍女が何か言おうとするが、わたしは首を振って制する。その言葉を聞けば、決心が揺らいでしまうかもしれない。だが、わたしの決心はもう変えられない。自分の身体がどれほど弱り、どれほど余命が短くとも、誰かを巻き込む生き方はしたくない。家の名誉を最期まで守り抜くのが、わたしに与えられた使命なのだから。
そして、もしその日が来る前に、これ以上状況が悪化するようなら……わたしは静かに去るしかない。誰にも知られず、迷惑をかけず、ひっそりと終わりを迎えられる場所を探す。心の中でそう思ったとき、妙に冷静な自分にぞっとする。病がいつか引き起こす死を受け入れるどころか、自分から先に決着をつける発想に至るなんて。けれど、このままであれば、秘密を抱えたまま彼との関係も破綻し、侍女の心をかき乱し、家の者にも不安を与える――そんな未来しか想像できないのだ。
……しばらくして、わたしは何とか呼吸を落ち着け、侍女の手を借りて寝台へと移った。そこからは頭がふらつき続け、短い夢を何度も挟んでは目覚めるたびに苦しい咳を繰り返す。その合間には日記の言葉が脳裏を駆け巡り、婚約者の眼差しや侍女の涙が、まるで幻のように浮かんでは消えた。
「お嬢様、どうか、どうかもう少しだけでも休んでください。明日も無理をなさらぬよう、わたくしがお守りいたしますから……」
侍女の切実な祈りにも似た声が、うわごとのように耳をかすめる。わたしはその声に答えることなく、薄れゆく意識に身を任せるしかなかった。なぜなら、わたしが次に目を覚ましたとき、少しでも体調が回復している保証はどこにもないからだ。そして、そのときこそ、わたしが最終的に「去る」という選択肢を具体的に考え始めるきっかけになる――そんな思いを抱きながら、重いまぶたを閉じる。
もう時間は残されていないのかもしれない。余命がわずかとわかってから加速度的に体調が悪化している自分を、自分で制御しきれない。しかし、嘘を守り、周囲に迷惑をかけずに終わりを迎えるのが最善だと信じるしかないのだ。誰にも弱音を吐けず、誰にも頼ることを拒んできたわたしだからこそ、その意志を貫くしかない。苦しさと孤独を抱え込んだまま、静かに眠りへと落ちる瞬間、わたしはぼんやりと「さようなら」を呟いた――誰の耳にも届かない、心の奥だけに響く別れの言葉として。