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第8話 断絶

 それは、朝の光が薄青い空を染め始めたころだった。わたしは屋敷の来客用サロンへと足を運び、出迎えの支度をしていた。実のところ、ここ数日まともに眠れておらず、倦怠感は増すばかりだが、この場を欠席するわけにはいかない。伯爵家としての体裁を守るため、どうしても顔を出さなければならない客人が来るという報せを受けたからだ。


 室内には花の香りと朝の清涼な空気が混ざり合っていたが、わたしの頭は重いまま冴えない。頭痛も続いているせいか、少し立ちくらみがする。侍女が気遣わしげに背後に控えているのがわかるが、わたしは気づかぬふりをしてテーブルに手を添えた。客が到着するまでの間だけでも、こうして体を休めるように見せかけて足の力を抜いておきたい。


 やがて扉が開き、執事が恭しく名を告げる。その名を聞いた瞬間、心臓がひときわ強く脈打つのを感じた。招かれた相手は、他でもないわたしの婚約者。政略とはいえ、将来を共にすることになる人物であり、ここ最近、彼はわたしに何やら疑念を抱いている様子だった。前回の会話でも、「何か隠しているのでは」という鋭い眼差しを向けられ、わたしは距離を置くように高慢な態度で応対するしかなかった。今日もまた、何か詮索されるかもしれない――そんな予感が胸を締めつける。


「ご機嫌よう。こんな朝早くからご足労とは珍しいわね」


 席を勧めようともせず、わたしはゆったりとソファに腰かけたまま、視線だけで合図する。いかにも冷淡な迎え方だとわかっているが、これが今のわたしにとっては精一杯の防御でもあった。彼は静かに頷いて席に近づき、少し間を置いて言葉を発する。


「朝早く失礼しました。どうしても、あなたと話したいことがあったものですから」


 その口調にはわずかに硬さが滲んでいた。やはり何か言い募りたいことがあるのだろう。わたしは胸の奥で大きく息を吐き出すような思いをしながら、わずかに顎を上げて促す。


「話したいこと? ええ、何かしら。用件を聞くだけならわたしも時間はあるわ」


 侍女が紅茶を運んできて、二人の前にそっとカップを置く。彼のカップには湯気が立ち上り、かすかな香りが漂うが、彼は手をつけようとしない。わたしも同じく、まだ手を伸ばす気になれない。そもそも、こうして彼を前にすると、ここ最近の体調不良がいっそう耐えがたく感じられるのだ。心拍数が上がり、立ちくらみと吐き気が同時に押し寄せる。


「あなたのことが、心配なのです。最近、どことなく様子がおかしい。以前にも増して、他人を遠ざけるような言動が増えているように思えます」


 予想通りの言葉が飛び出した。わたしはうっすらと微笑みを浮かべるが、その実、内側では冷や汗が滲んでいた。いったいどのように返せば、彼の疑念を打ち消せるのだろう。先日、医師から「余命は数か月」と告げられたばかりで、ただでさえ心が揺れているというのに。


「わたしの様子なんて、いちいち気にしていらっしゃるの? わたしたちはまだ正式な夫婦になったわけでもないし、干渉される筋合いはないと思うのだけれど」


 突き放すような声音を使いながらも、体の奥が痛む。彼は言葉に詰まるが、すぐに鋭い視線をわたしに向けてくる。その目をまっすぐ見返すだけの余裕が今のわたしにあるだろうか。額にじんわりと冷や汗が浮かぶのを感じ、少しだけ瞼を伏せた。


「確かに、あなたの自由を縛るつもりはありません。けれど、あなたが苦しんでいるのなら、少しくらい力になりたい。そう思ってはいけないのですか」


「苦しんでいる? それは何の話かしら。わたしはいつも通り、何も変わりはないわ」


 自分で言いながら、心臓が軋む。彼のまっすぐな物言いが胸を貫いてくる。ここまで言われてもなお、否定するしかない自分が情けなく、そして悲しい。それでも貴族として、わたしが守るべき体面は大きすぎる。体調の限界に近づいていると知りながら、それを告げるわけにはいかない。


「本当にそうですか。あなたは、まるで誰かに悟られないように必死で隠している――そんな印象を受けるのです。わたしには、あなたが自分に嘘をついているように見えます」


 彼の言葉が、まるでナイフのようにわたしを切り裂く。鋭い痛みと同時に、肺の奥に息苦しさがこみ上げた。体が限界を訴えているのに、そんな素振りを見せるわけにはいかない。わたしはソファからゆっくりと立ち上がると、吐き気をごまかすように背筋を伸ばした。


「あなたの想像でしょ。わたしは嘘などついていない。仮に何かあったところで、それはわたしの問題。あなたには関係のないことよ」


 冷ややかに言い放つと、彼は声にならない嘆息を落とす。明らかに失望や怒りを含んだ表情だ。けれど、その奥には「やはり何かがある」という確信にも似た光が見える。ますますごまかしきれなくなるのではないかと不安に押し潰されそうだった。


「関係がないと、そう言い切れるのですか。あなたとわたしは、いずれ家同士を結ぶ立場にある。そんな相手を遠ざけてまで守らねばならない秘密があるというのですか」


「ええ、そうよ。わたしは最後まで自分一人で処理するつもり。あなたの助けなど必要としていないわ」


 どんどん自分でもきつい言葉を使っているのがわかる。傷つけるとわかっていながら、それでも彼を拒絶しなければ、わたしの嘘が崩れ去ってしまう。もし、本当の病状が知られてしまえば、すべてが終わる。家の名誉も、わたしの矜持も、あっという間に失ってしまうかもしれない。


 彼は唇を引き結び、その瞳に混乱と苛立ちを浮かべていた。わたしはその視線を受け止める余裕がなく、身体の震えを抑えるのに必死になる。少し足元が揺れるような感覚がして、危うくよろけそうになるが、なんとか踏みとどまる。


「あなたは本当に、わたしを拒絶するのですか。なぜそこまで心を閉ざすのか、理由を教えてはもらえないのですね」


「理由なんてないわ。ただ、わたしにはあなたに干渉される覚えはない。それだけのこと」


「そう、ですか……」


 彼は低い声でそう言うと、手のひらで顔を覆うようにして深く息をついた。そして、まるでこれ以上は言葉をかけても通じないと悟ったのか、ゆっくりとカップを手に取る。冷めかけた紅茶を口に運び、苦い表情を浮かべた。わたしの胸にも同じような苦みが広がる。こんなふうにきつい態度で応じてしまえば、彼が落胆して離れていくのは当然だろうとわかっていながら、わたしはどうしても素直になれない。


「わかりました。あなたの意思がそこまで固いのなら、今は何も言いません。ただ、あなたの言葉が本心なのかどうか――わたしは疑いを捨て切れそうにありません」


「疑うなら疑えばいい。それで気が済むのなら」


 突き放すように言った直後、視界が霞んで足元がふらついた。これはまずい。体力が限界に近いことを、わたし自身がいちばん理解している。焦りを抱えつつも、どうにか彼の前で倒れないよう踏ん張る。彼がこちらを見やった気配がし、何か言いかけた気がする。侍女が小さく息を飲むのが聞こえて、わたしは「大丈夫よ」と無表情に呟いてみせた。


「本当に、大丈夫なのですか。あなた、顔色が……」


「気のせいよ。あなたには関係ないと言ったはず」


 心臓が苦しくて呼吸がうまくできない。けれど、気丈に振る舞わなければならない。こんなところで弱音を吐けば、今まで隠してきたすべてを自ら暴露してしまうのと同じだ。そう自分を叱咤して、わたしはドレスの裾を握りしめる。まるで、力が入らない足をドレスの布で支えているかのようだった。


 しばしの沈黙の後、彼は小さく舌打ちにも似た音を立ててカップを置く。サロンの空気が冷えきったように感じる。執事も侍女も、その場を取り持つことができず、ただ遠巻きに見守っているだけだ。わたしはその沈黙に耐えられず、踵を返して部屋を出ようとする。


「待ってください。本当にこのままでいいのですか」


 背後から放たれた言葉に、一瞬足が止まる。胸の奥でじくじくと疼く痛みが増し、口から押し殺した息が漏れる。それでも振り返ることはしなかった。ここで立ち止まれば、わたしの弱さが露呈してしまう。言葉より先に涙が出そうな気がして、必死に堪える。


「ええ。このままで結構。余計な詮索はやめてちょうだい。わたしたちは必要最低限の言葉だけ交わしていればそれでいいわ」


 そう告げると、彼は重々しく息を吐く音を立てた。まるで、わたしとこれ以上話しても何も変わらないと確信したかのように。振り返らずとも、苦々しい表情をしているだろう姿が想像できた。


「あなたがそう望むのなら、しばらくは様子を見守るしかありませんね。しかし、いずれ本当のことを聞かせていただきたい。わたしは諦めるつもりはありません」


 最後の言葉が妙に胸に刺さる。まるで、彼の方はまだわたしを見捨てていないかのようだ。しかし、それがわたしをいっそう追い詰める。もし本当に病のことを知られたら……考えるだけで、息もできないほどの恐怖が込み上げてくる。


 足早にサロンを出ると、廊下に出た瞬間、わたしは壁に手を突いて呼吸を整えた。体の震えが止まらず、頭がぐらりと揺れる。侍女が慌てて駆け寄ってくるのがわかったが、わたしはその手をとっさに振り払う。これ以上は誰の助けも借りたくない。そう思うほどには、心が追い詰められていた。


「お嬢様、無理です……少し座ってください。そんなに急いで歩かれたら……」


「放っておいて。わたしは大丈夫だから」


 わたしは苦痛を堪えつつ、再び足を踏み出す。決して彼にも侍女にも、弱っている姿など見せられない。もし倒れでもしたら、先ほどの言葉がすべて嘘だと悟られてしまう。半ば無理やり足を運び、ようやく自室へと戻る。扉を閉めると、外に侍女がついてきているのを気配で感じながら、鍵をかけて深く息を吐いた。


 ほんの短い言い争いだったはずなのに、ここまで体力を消耗してしまうのか――改めて自分の病状の深刻さを思い知る。余命が限られているとわかった今、いっそう婚約者との関係に悩まされている場合ではないのに、それでも彼の疑惑の目がどうしても心に触れてくる。


「こんなことになるなら、いっそ……」


 そう呟いて、わたしは口を噤んだ。自分の体が持たないなら、どこか遠くへ消えてしまいたい。その衝動がふいに頭をよぎる。けれど、それを実行するには家を捨てることになる。それこそわたしが一番避けたい道。つまり、どこにも逃げ場はない。


 扉越しに侍女が声をかけてきたが、わたしは答えずに背を向ける。表情に出さなかったものの、わたしの中には大きな動揺が渦巻いていた。あれほど突き放してしまったが、内心では彼の優しさや真っ直ぐさに寄りかかりたくなる弱い自分がいる。それを認めてしまえば、守るべきすべてが崩れ去る気がして、怖くてたまらない。


「どうして、こんなにも生きづらいのかしら……」


 ひとりごとのように呟いても、返事をする者は誰もいない。ふらつく体で机に手を置き、重い頭を支えるようにうつむく。少しの間、そうしていなければ立っていられないほどの疲労感だ。やはり少しでも休まなくてはならないと理解していても、心のどこかで休息を取ることを拒んでいる自分がいる。まるで、隙を見せたらすべてが台無しになると、神経を尖らせているかのように。


 そうこうしているうちに、扉を叩く音が再び響いた。侍女が、「お嬢様、ご無事ですか」と声を震わせている。わたしは深い息をついて頭を上げる。今は、誰の力も借りたくない。それを貫くのなら、きっとさらに孤立してしまうのだろう。けれど、わたしはこの道を選ばざるを得ない。苦しげに身体を起こして、かすれた声で返事をする。


「平気よ。少し休めばすぐに戻るわ。わたしを問い詰めるのは、やめてちょうだい」


 廊下の向こうで、侍女がどれだけ辛い表情をしているかを思うと、また心が痛む。婚約者もそうだ。あれほど強い言葉で突き放してしまったのだから、二人の距離は決定的に開いてしまうかもしれない。その悲しみを自覚しながら、それでもわたしは弱音を吐かない。吐くわけにはいかないのだ。


 閉ざされた扉の前で、侍女の足音が遠ざかったのを感じ、わたしは唇を噛んだ。ほんの少し助けを求めれば、受け止めてくれる人がそばにいるかもしれないのに。だけど、その一歩がどうしても踏み出せない。彼のまなざしを思い出すと、罪悪感と後悔が胸を抉る。わたしは震える手でテーブルをつかみ、目を閉じる。


「いつまで、この嘘を抱え込めばいいのかしら……」


 心の底から溢れかかる悲鳴を噛み殺し、部屋の静寂に身を沈める。彼がこれほど強く問いかけてくるとは思わなかった。だが、わたしはすでに「誰にも弱みを見せない」という道を選び、深く踏み込んでしまったのだ。この先にどんな破綻が待っていようとも、もう後戻りはできない。


 婚約者が抱える落胆と怒りは、きっと容易には解けないだろう。わたしの嘘を見抜きかけているからこそ、どうしようもない苛立ちを抱いているに違いない。それでも、わたしが口を割ることはなく、彼が真実に手を伸ばしてもすり抜けていくばかり。そう思うと、二人のすれ違いはますます深まっていくのだろう――その痛ましさを知りながら、わたしは耳をふさいで現実から逃げるしかなかった。

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