第7話 宣告
朝の空気はどこか冷たく、屋敷の回廊を吹き抜ける風が心にしみるようだった。わたしはいつものように部屋で書類を整理していたが、今日はどうにも手が震えて仕事にならない。先日から体調が思わしくなく、微熱と倦怠感が続いている。侍女に勧められて休みを取ろうと考えたものの、いつもどおりの務めを放棄すれば、周囲に「やはり体が弱いのでは」と疑われるかもしれない。そんな思いが頭を離れず、結局は椅子に腰かけて書類を前にしたまま動けずにいた。
そこへ、執事が静かな足取りで近づいてきて、わたしに声をかける。
「お嬢様、先ほど医師から連絡がございました。本日、特別に時間をつくって診察されるとのことでございますが、いかがなさいますか」
その言葉を聞いて、わたしは思わず息をつまらせる。ここ最近の容体を考えれば、受診したほうがいいのはわかっている。けれど、医師がわざわざ「特別な時間」をつくるのは、それだけ深刻だということかもしれない。胸の奥で不安がざわめきながらも、わたしは表情を変えずにうなずいた。
「ええ、わかりました。では、支度を整えますので、しばしお待ちいただけるようお伝えください」
執事はかしこまって頭を下げ、足早に去っていく。その後ろ姿を見送ったあと、わたしは机の上に散らばっていた書類を整え、そっと目を閉じた。医師と向き合わなければならない状況に、どこか漠然とした恐怖を感じるが、逃げるわけにはいかない。自分の身体のことなのだから。
やがて侍女が部屋に入ってきて、用意を手伝おうとする。わたしがドレスを選ぼうとすると、彼女は少し悲しげな目をしながら「今日は無理をなさらないほうがいいのでは」と小声で囁く。心配してくれる気持ちが伝わり、胸が少し痛む。だが、ここで「わかった」と言ってしまえば、父母や周囲に余計な不安を与えるばかりか、自分が弱みを認めることにもつながる。わたしは微笑をつくろい、首を小さく振るだけで返事をする。それ以上の言葉は見つからない。
診察室として使われる一室には、薄い緞帳がかかった窓から外光が差し込んでいた。医師はすでに到着しており、わたしを見ると軽く会釈をする。顔なじみの医師のはずなのに、なぜか彼の視線が冷たく思えて、わたしは背筋を伸ばして臨んだ。侍女が後ろに控えているのを感じながら、椅子に座る。
「最近、熱が続いていると聞きました。胸の痛みやめまいもあるのではないですか」
医師の問いかけに、わたしは一瞬答えを躊躇した。しかし、ここで嘘をついても何も得はない。すでに体調は限界に近いことを自分でも感じているからだ。
「ええ。夜になると熱が上がり、息苦しさを覚えることもあります。それでも、日中は多少の倦怠感だけで乗り切れますので、何とか普通に過ごしています」
自分で言いながら、これが「普通」などではないとわかっている。医師は真剣なまなざしを向け、脈を測るための道具を取り出した。しばらく静かに脈拍を確かめたのち、胸元に聴診器を当て、肺と心臓の音を丹念に聴く。わたしは胸を締めつけられるような不安に押しつぶされそうになりながらも、表情を動かさずに耐えた。
診察を終えた医師は、困惑したように口を引き結び、侍女に向かって目をやる。そして何か話しかけようとするが、わたしが静かにそれを制するように視線を返すと、医師は覚悟を決めたように息を吐いた。
「申し上げにくいのですが、あなたの病は思っていたより早く進行しているようです。先天的な心臓と血の巡りの問題があるとはいえ、余命は正直、あと数か月程度かもしれない」
その言葉は空気を斬り裂くように降りかかってくる。わたしは息をのんだ。まるで、頭上から重い槌で殴られたかのような衝撃だ。今までも医師から「先天的に危険な症状がある」と言われ続けてはきたが、「数か月」という具体的な期限を突きつけられたことはなかった。視界が一瞬揺れ、耳鳴りがしそうになる。後ろに控えていた侍女が思わず「あ……」と声を漏らすのが聞こえた。
わたしは、それでも顔を上げて医師を見つめる。ここで取り乱すわけにはいかない。慣れたように何事もないふりをしてきた自分なのに、この事実を前にして、今はまるで頭が真っ白になる。やがて手のひらに冷たい汗が滲んできたのを感じ、どこか自分が自分でないような感覚が広がる。
「……そうですか。数か月、というわけですね」
喉が震えているのがわかった。医師は深刻な面持ちで続ける。
「もちろん、個人差がありますし、決して数か月で絶対に終わるというわけではありません。けれど、これまでよりも安静を第一に考え、激しい活動や過度な緊張状態を避けていただきたい。最善を尽くしても、余程慎重に暮らさなければ持たないかもしれません」
わたしは黙って耳を傾けるしかなかった。医師が話す言葉は、どれも容赦のない現実を突きつけてくる。侍女のほうは、胸を押さえて必死に震えをこらえているようで、顔が青ざめている。わたしがこのままでは寿命を迎える――その未来は、頭の中でずっと避けてきた想像だ。わたしは唇をきつく結ぶ。
「治療を続ければ、もっと延ばせる可能性はあります。ただ、そのためには療養に専念することが望ましいでしょう。貴族としての務めはしばらく後回しにして……」
そこまで聞いたところで、わたしは医師の言葉を遮るように静かに首を振る。療養に専念などしてしまえば、周囲に真実を知られてしまう。そればかりか、家の立場に影響が及び、父母にも負担をかけることになるだろう。そんな道は選べない。
「…わかりました。今までどおり、周囲には悟られないように生活しつつ、薬を飲んでしのぎたい。よろしいですか」
医師は言葉に詰まり、やがて沈痛な面持ちで「お気持ちはわかりましたが、無理を重ねると取り返しのつかないことになります」と返す。わたしは鋭い痛みが胸をついたが、それでも譲れない。伯爵家の令嬢として“弱さ”を晒すなど、わたしには許されていないのだ。
診察が終わり、部屋を出るとき、医師がわたしに「くれぐれも…」と声をかけようとしたが、わたしは小さく頭を下げるだけで立ち去った。そのまま廊下を歩きながら、頭ががんがんと痛む。心臓の鼓動が妙に早く、不規則に高鳴っているのを感じたが、そんな自分を客観的に見ているもう一人の自分が、落ち着けと囁いているかのようだ。
侍女は、ひどくショックを受けた様子でわたしの後ろをついてくる。部屋に戻るなり、彼女はわたしに近寄ってきて「お嬢様…!」と涙声で訴えかける。その手がわたしの腕を震えるほど強くつかむのを感じ、わたしは逆に胸が苦しくなった。
「どうして誰にも頼ろうとなさらないのですか。せめてご両親や、あるいはあの方に……」
侍女の瞳は涙で揺れていて、声も上ずっている。わたしは彼女を見つめ返し、さきほどまでの動揺を必死に鎮めるように、低い声で答えた。
「頼ればどうにかなるの? 周囲に知られれば、わたしはこれまで守ってきたものをすべて失うかもしれない。家の名誉も、婚約の話も、きっとすべてが破綻するわ」
言葉が自分で思った以上に冷たく響いた。侍女の瞳からぽろりと涙が落ちるのを見て、心がきしむような痛みを覚える。それでも、ここで弱音を吐けば、すべてが雪崩のように崩れ去るという確信がある。
「それでも、お嬢様の命のほうが大切です。どうか、どなたかに打ち明けて治療に専念してくださいませ。わたくしだけの力では、お嬢様を救いきれない……もうこれ以上、見ていられないのです」
侍女の言葉は真っ直ぐだ。彼女が長年、わたしの隣で苦悩を抱えてきたことも知っている。わたしの苦しみを一番わかってくれる人だと思っている。だからこそ、これ以上嘘をつき続けてほしくないと願う気持ちは痛いほどわかる。
けれど、わたしは静かに首を振った。
「あなたの気持ちはわかる。でも、わたしはそんな生き方はできないの。もし“わたし”という人間が弱みを見せてしまったら、残りの限られた時間を人々の同情の中で過ごすことになるでしょう。わたしはそれが耐えられないし、家にも迷惑をかける」
一瞬、涙が込み上げそうになったが、それを必死にこらえて深く息を吐く。侍女は苦しげに言葉を飲み込み、わたしの腕を離さないまま首を横に振った。
「それでも…! お嬢様が生きてくださるなら、どんなに大変なことがあっても乗り越えてみせます。それが、わたくしの役目だと信じています」
彼女の必死の訴えに、わたしは思わず目を伏せる。生きるためにすべてを捨てる――そんな選択肢をわたしはどうしても受け入れられない。伯爵家の令嬢として、そして誇りを保ち続けたいという意地がある。子どもの頃から覚悟してきたことなのに、今さらそれを曲げるわけにはいかない。
「ごめんなさい。わたしは残された時間を、これまでどおりに生きるつもり。どんなに短くても、わたしは“わたし”でいられなくては意味がないの」
わたしの言葉に、侍女はとうとう堪えきれずに泣き崩れた。彼女が涙を流す姿を見て、胸の奥が激しく軋む。どれほど彼女を傷つけているのか、わたしにもわかる。それでも選ばなければならないのは、この孤独な道だけなのだ。
侍女はしばらく涙をこぼしたあと、ぎりぎりと唇を噛んで顔を上げる。どうやら必死に気持ちを立て直しているようだ。その健気さに胸が締めつけられるが、わたしはもう言葉をかける余裕すら見いだせない。彼女の涙を拭うことさえできない自分が悲しい。
やがて侍女は涙をぬぐい、決意したように立ち上がる。そして小さな声で告げた。
「わたくし、何とかお嬢様の力になれる術を探してみます。たとえお嬢様が今は頼ろうとされなくても、必ず助けになってくださる方を……」
わたしははっとして、思わず彼女の手を取る。
「まさか、わたしの意志を無視して、どこかへ情報を漏らすつもりじゃないでしょうね」
侍女はかすかに視線を反らす。言葉が見つからないらしい。わたしはきつく息を吐き、なるべく静かに言う。
「……あなたがそんな行動に出れば、あなたとの絆までも傷ついてしまうかもしれない。それでも、わたしが止めても聞かないの?」
侍女は唇を震わせながら、目を閉じて首を振った。どこかで覚悟を決めているのだろうか。だが、今はそれ以上何も言わず、ただわたしの手をそっと握り返した。その手がどれほど冷たく震えているかを感じ取りながら、わたしは自分の選んだ道を再確認するしかない。
――余命は数か月。
頭にこびりついたその言葉を、わたしは何度も振り払おうとするが、どうしても消えない。死がすぐそばまで迫っているかもしれない現実に、内心では震えが止まらない。けれど、それを表に出すわけにはいかない。最後まで「伯爵家の令嬢」としての姿勢を貫き、誰にも弱さを見せずにこの命を燃やし尽くす。それがわたしの結論なのだ。
侍女がわたしの手を離し、深々と頭を下げて扉の外へ消えていく。部屋の静寂が戻ったとき、わたしは椅子に座り込んだまま天井を見上げる。涙を流したい気持ちが込み上げるが、それさえも封じ込めようと、歯を食いしばる。これから先、どれほどの苦しみに襲われても、わたしは誰にも頼らない。そうやって立ち続けるしかないのだ。
「数か月……。そんなに短いなら、いっそ誰にも知られずに消えられるかもしれないわね」
自分でも聞きとれないほど小さくつぶやく。心の奥では怖くてたまらないのに、その声はどこか自嘲しているかのようだった。何も感じないふりをしている自分が、ますます惨めに思えて仕方ない。それでも、これがわたしの選んだ道。最後まで偽りの気高さを保つことが、わたしに課せられた唯一の選択なのだから。
やがて窓の外を見やると、太陽が雲間から顔を出し始めていた。いつもと変わらない朝の光。それが、今のわたしにはやけに遠いものに思える。あの光の中を笑顔で歩く日は、もうそう長くは続かないのだろうと考えると、一瞬呼吸が止まりそうになる。けれど、わたしは唇を引き結んで目を閉じ、わずかに震える胸を押さえ込む。
薄暗い心の闇の奥底に、確かな恐怖と孤独が巣食っている。だけどわたしは、誰にもそれを知られないまま、生を全うする。それが自分の意志であると、今しがた医師と侍女の前で決めたのだ。そう、これがわたしの人生。そう考え続けることでしか、自分を奮い立たせる術はなかった。