第6話 記憶
夜のとばりが降りきったころ、わたしは静かな部屋の片隅に腰を下ろしていた。窓に寄りかかって外の様子をうかがってみても、もう街灯の光すら遠くにかすむだけで、人気の気配はない。昼間はあれほど忙しなく人々が行き交う屋敷も、夜更けには物音ひとつしないほど静まり返る。けれど、わたしの心はまるで落ち着かないまま、この時刻を迎えていた。
机に向かい、そっと引き出しを開ける。そこには小さな鍵で閉じられた黒革の手帳がしまわれている。わたしは乱れがちになる呼吸を抑えるようにひと息つくと、その手帳を取り出して鍵を回した。やわらかい革の表紙を開けば、わたしがありのままを書き留めた世界がそこに広がっている。誰にも見せられない、わたしの心の奥底が詰まった場所だ。
ペンを握り、インク壺に先端を浸してから、一度軽く紙面へと触れさせる。こうして日記を綴るのは毎晩の習慣となっているが、今日は昼も夜も落ち着かなかったせいで、胸の中に言葉が渦を巻いている。わたしは書きかけのページを開くと、思い切って新しい行をつくり、ペン先を走らせた。
「今夜も熱がなかなか下がらず、体が重たく感じる。昼間は絶対安静と言われながら、結局、客や書簡への対応を断るわけにもいかず、また周囲に気取られぬよう心を張り詰めて過ごした」
紙にインクが染みこむ音だけが部屋に響く。耳をすますと、遠くの廊下で控えている侍女が気配を殺しているのがわかる。わたしは窓に視線をやる。重いカーテンを通してわずかに月明かりが差し込むが、部屋の隅には闇がとぐろを巻いているように見えた。
「それでも今日、あの方がいらしたと聞いた。わたしは体調が思わしくなく、お会いすることができなかった。…本当は、自分からお断りしたいわけではないのに」
あの方――そう書くとき、わたしの胸は妙な熱を持つ。伯爵家の令嬢として政略によって結ばれる、いわば義務のような関係だとわかっているのに、彼の視線や言葉を思い出すと、心がざわめいて止まらなくなる。彼はわたしの冷たい態度に気づいているようだが、その一方で、さらに何かを探ろうとしているようにも感じる。その瞳に映るわたしが、どんなふうに見えているのかと思うと、怖さと恥ずかしさがないまぜになって、息苦しくなるのだ。
「もし、わたしが身体の弱さを抱えていなければ、あの方ともう少し自然に言葉を交わすことができたのかもしれない。…そんな夢物語を考えてしまうのは、傲慢なのだろうか」
ここまで書いて、わたしは一度ペンを置いた。右手が小刻みに震えている。微熱のせいか、それとも自分の正直な気持ちを綴ってしまった動揺からか、どちらとも判断がつかない。少し肩で息をしながら、再び紙に目を落とす。文字はインクの光沢を帯びて黒々と浮かび上がっていた。
「わたしは愛されたいと思っているのだろうか。…伯爵家の名を守るためだけに生きているはずなのに、自分の本音を認めてしまえば、いっそう苦しむだけだとわかっているのに」
その問いかけは、まるで夜の闇に向けて叫んでいるようなものだ。誰かに聞かせたいわけではないのに、口にしないとやりきれなくなってしまう。ふと扉のほうを見ると、かすかにノックが聞こえた。侍女が小声で「お嬢様、そろそろお休みになりませんか」と尋ねてくるのがわかる。
「ありがとう。でも、もう少しだけ書きたいの。先に休んでちょうだい」
低い声でそう返すと、扉の向こうで侍女が困ったように息を飲む気配が伝わる。きっと彼女は、わたしの体調を案じて必死に止めたいのだろう。それでも、わたしがこうして日記に思いを綴ることだけは決してやめられないと理解してくれているから、これ以上踏み込んでこない。扉越しに小さく「わかりました」とだけ返ってくると、彼女の足音は静かに遠ざかっていった。
日記に向き合うときだけが、わたしが本当の自分を解放できる瞬間だ。表では気高く、凛としていなければならない。そうでなければ、体が弱いことを知られ、周囲に憐れまれ、それどころか伯爵家の立場までもが危うくなりかねない。幼い頃からそう教えられ、わたし自身もその道しかないと信じて生きてきた。けれど、ひとたび部屋の扉を閉め、誰もいないこの机に向かえば、わたしは弱さをさらけ出すことができる。
「先日、侍女に苦しげな言葉をかけられた。『無理をしないでください』と。…彼女にはいつも支えられているし、わたしの秘密を守りながらも、胸を痛めているのが伝わってくる」
文字を書き進めるたび、心の中に沸き起こる熱がさらに強くなる。侍女の優しさは、わたしを何度も救ってくれた。だけどわたしは、その優しさに甘えきることができない。今ほど熱が上がって苦しいときでも、それを全面に出せば弱い姿を見せることになるから。頭ではわかっていても、こんな生き方はあまりにも息苦しいのかもしれない。
「本当は誰かにすがりたい瞬間が、何度もある。特に、この病がいつ突然わたしの命を奪うかもしれないと感じる夜などは、なおさらだ。でも、わたしは守るべき名を背負っている。わたしがもし弱音を漏らせば、両親をも苦しめることになるし、何より、あの方との婚約も破綻するかもしれない」
わたしは軽く唇をかみ、痛みを感じることで意識を引き戻す。ペン先を紙から離し、部屋のほうへと耳を澄ました。さきほどの侍女はきっとまだ廊下にいるのだろう。寝台に戻るのを見届けるまで、安心して眠れないに違いない。わたしは彼女に対して申し訳なく思いつつも、どうしてもこの手帳を閉じることができない。
「それでも、ときどき思うのだ。もしわたしの寿命が尽きるときが来たら、最後くらいは素直に誰かに甘えてみたい、弱音を吐き出してみたいと。けれど、そんなことはわたしには許されないのだろう。なぜなら、わたしは……」
そこまで書いたところで、思わず息が止まる。夜の静寂が重くのしかかり、自分の心臓の鼓動が耳の奥で高鳴るのを感じる。この続きを書くべきか、やめるべきか――どちらにせよ、わたしの本音は「助けがほしい」と叫んでいる。しかし、それを言葉にすることは、わたし自身の存在を否定するような行為にも思える。
わたしは一度目を閉じ、深い呼吸を繰り返してから、再びペンを握りしめた。インク壺の口にペン先を浸すと、かすかに夜気が入ったような冷たさを指先に感じる。室内は暖かなはずなのに、額にはうっすらと汗が浮かんでいるのがわかる。微熱のせいだろうか、頭がふらついて苦しい。
「きっと、あの方はわたしの本当の姿なんて少しも知らない。それでいいのだと自分に言い聞かせながらも、ときどきあの方が真面目な眼差しでこちらを見つめると、心が乱れるのを感じる。あの方なら、もしかしたらわたしを理解してくれるのではないか、と愚かな期待を抱くこともある」
そう書いた瞬間、気持ちがはじけるように揺れ、わたしはペンを置いて手で額を押さえる。馬鹿げた夢を見ているとわかっていても、想像せずにはいられない自分が歯がゆい。わたしは誰かに愛されるよりも先に、病によって足元をすくわれるのではないかという恐怖にいつも怯えているというのに。
日記を書き進めていると、身体の倦怠感が増してきたのを感じた。さすがにこれ以上は筆を走らせていられそうもない。最後に簡単な結びの文を記して、そっと手帳を閉じる。
「――わたしには、この日記しか、素顔の自分をさらけ出せる場所がない」
小さな鍵をかけると、手帳を両手で抱え込むようにして、ひととき目を閉じた。日記に紡いだ言葉だけが、わたしの本音を証明する。外の世界では背筋を伸ばし、決して弱音を吐かずに生き続けるしかない。それが、わたしに課された宿命であり、守るべき役割なのだから。
しかし、このままではいつか心が壊れてしまうのではないかという予感に襲われる。日記に書きつづることでどうにか自分を保ってきたとしても、それは一時しのぎに過ぎない。朝になれば、わたしはまた華やかな装いをして、周囲に動じない冷ややかな令嬢を演じなくてはならないのだ。
心の片隅で、ふと誰かの声がしたような錯覚に捕らわれる。助けてと叫びたいのに、声にならない声が喉の奥で潰えていく。わたしはそっと目を開け、床の上に月光がぼんやりと伸びているのを見つめる。やがて意を決して鍵をかけた手帳を引き出しへ戻し、震える指で引き出しを静かに閉じた。
今日もまた、夜明けまであまり時間がない。侍女が廊下で待ちわびている姿を想像すると、少しだけ申し訳ない気持ちになるが、わたしの心が落ち着くまで、こうして書き連ねるのを止められない。わたしが真に心をさらけ出せるのは、この日記だけなのだから。
扉のほうへ視線をやりながら、わたしは微かに笑みを浮かべる。侍女が再度声をかけてくる前に、少しでも眠りにつかなければ。けれど、頭を枕につけるたびに、心の奥底で拭いきれない寂しさが呻くように膨れ上がる。その寂しさから逃れたいのに、誰かに打ち明ければ自分のすべてが崩れ去るような気がして、結局は一歩も踏み出せずに朝を迎える。
こうして日々を過ごす限り、彼との婚約話は形式的に進んでいくだろう。彼が疑いの目を向けていることも感じるが、わたしは弱みを見せないまま、最後まで孤独を貫くしかない。例え夜ごとに苦しむ思いを、紙の上に吐き出すしか術がなかったとしても、それこそがわたしの生き方なのだ。そんな自分の姿を、日記の中でだけは認めてやらなければ、きっとこれから先、足元が崩れてしまうだろう。
どうか明日のわたしが、この日記を封じ込めたまま、また平然とした表情を保てますように――わたしは最後にそう祈りながら、椅子から静かに立ち上がった。よろめく身体を支えつつベッドへ向かい、はだけた毛布をそっと引き寄せる。微熱で火照る頬を冷ましながら目を閉じれば、聞こえてくるのは胸の鼓動。悲しみにも似た鼓動を感じながら、わたしはふと「いつか、こんな日記も必要なくなるのかしら」と考える。けれど、その答えは夜の闇の中へ溶け、薄暗い天井に何の輪郭も描き出さずに消えていった。