第5話 囁き
早朝の静かな廊下に、かすかな足音が響いていた。わたしは一刻も早く医師のもとへ向かわなければと焦りつつも、気配を殺すようにして歩を進める。お嬢様が真夜中からひどく体調を崩し、とうとう高熱で意識が朦朧とされている。これまでも夜中に熱を出されることはあったが、ここまで激しい様子は珍しく、わたしは胸の奥をつかまれるような恐怖を感じていた。
医師を呼びに行く前に、お嬢様のベッドサイドを離れたのはほんの数分。しかし、その間もお嬢様が苦しみにうなされてはいないか、頭の中で不安が渦を巻く。実際にお嬢様は弱音を吐かない方だが、それでも枕元で小さな声をもらしたときの痛切な響きは、わたしの耳から離れない。
医師を呼び出して自室へ戻るまでの道のりが、あまりにも長く感じられた。部屋に戻るときにはすでに朝日が差し始めており、夜の闇が薄らいでいるのがわかった。わたしの願いが通じたのか、医師はすぐに往診用の道具を揃えて駆けつけてくれた。慣れた手つきでお嬢様の脈を測り、聴診器を当て、熱を確かめる姿をただ見守るしかない。
「少し落ち着いてはきていますが、これ以上高熱が続けば危険です。水分をこまめに与え、決して無理はさせないように」
医師の言葉はいつもながら穏やかだが、実際には深刻な状況であることをわたしは知っている。お嬢様の先天的な病は、普段は隠せるほど微弱な症状にとどまっているが、いったん悪化すれば命に関わりかねない。それゆえ、わたしは医師から同じ忠告を何度聞いてきたか分からない。
「本来なら、もっと安静に過ごすべきなのです。しかし、お嬢様は……」
医師は言葉を濁す。わたしは苦しい気持ちを抑えながら、小さくうなずくしかない。安静という言葉が、お嬢様にとってどれほど遠い理想かを身をもって知っているからだ。伯爵家の令嬢という立場の重さ、そしてお嬢様が決して弱さを見せようとしない性格。彼女が自ら休養を求めることは、まずないと言っていい。それを指摘しても、「放っておいて」と突き放されるのがオチだ。
それでも今朝は高熱で意識もうろうとされているため、自力で立ち上がることもできない。その弱々しい様子を目の当たりにすると、わたしはもう少し早く助けを呼ぶべきだったのではないかと自責の念に駆られた。お嬢様自身がぎりぎりまで隠していたからとはいえ、わたしが強引にでも休ませれば、ここまで酷くはならなかったかもしれない……。
医師が置いていった解熱剤を口に含ませ、しばらく冷たいタオルでおでこを冷やしているうちに、お嬢様の呼吸は少しだけ落ち着きを取り戻した。まだ意識は不安定だが、一時的な峠は越えたらしい。わたしは安堵のあまり膝が震えるのを感じながら、シーツを整える。こんなにも苦しそうなお嬢様を、ただ看病するだけで何もできない自分がもどかしい。
――誰かに助けを求めたい。そう思うことが近頃、増えてきた。このままお嬢様が無理を重ねれば、いずれ取り返しのつかないことになってしまうのではないか。医師も伯爵夫人も、お嬢様の病を承知しているが、お嬢様ご本人が頑なに表沙汰にしたがらない。ましてや外部の人間に知らせれば、お嬢様の立場が危うくなるかもしれないと考えると、わたしは言葉を飲み込むしかなかった。
けれど最近、婚約者の存在が気になっている。お嬢様の将来を共にする相手であるならば、もしかすると、お嬢様を救ってくださる力になってくれるかもしれない。政略的な結婚だと周囲は言うけれど、あの方はどこかお嬢様に興味を抱いているように見えた。先日の舞踏会でも、冷たい言葉を向けるお嬢様に動じることなく、真っ直ぐに気持ちを伝えようとしていたように思う。実際にどんな方なのか、わたしは直接あまり話したことがない。しかし、お嬢様のこれ以上の苦しみを放っておくくらいなら、彼に協力を仰ぐのも一つの道ではないか――そんな葛藤が、頭から離れない。
お嬢様がようやく浅い眠りについたのを確認して、わたしは部屋を出た。寝台の傍を離れるのは心苦しかったが、今は一刻も早く来客や使用人たちに「しばらくお嬢様は体調を崩しているので面会できない」と伝えなくてはならない。そうしなければ、お嬢様は無理を押してでも応対しようとするに決まっている。
廊下を急いでいると、曲がり角で人影が見えた。思わず足を止めると、そこにいたのは、よりによってお嬢様の婚約者――あの方だった。なぜこのような時間に伯爵家の屋敷を訪ねているのか、不意を突かれた形でわたしは息をのむ。
「失礼、こんなところでお会いするとは……」
向こうも驚いた様子で言葉を切る。わたしは慌てて一礼をし、できるだけ平静を装おうとした。お嬢様が今、部屋で高熱に苦しんでいるなどとは言えない。けれど、何も知らされずにこちらへ来た彼も、きっと何らかの用があってのことだろう。
「お嬢様なら、少し……」
言いかけて、声が詰まる。具合を悪くされていることをどこまで告げていいのか判断できない。もともとお嬢様は、外に自分の弱さを知られたくないはず。下手に話せばわたしが咎められるだろう。だが、目の前に立つ彼の眼差しには、わたしが言葉を飲み込んだことへの鋭い気づきが見える。
「実は、一言だけでもご挨拶をと思い、お宅を訪ねました。もし都合が悪いようでしたら、改めて……」
彼の声音は穏やかだが、奥底にある探るような意識を感じる。わたしは視線を伏せ、しかし小さく首を横に振った。わたしがこうして奥まった廊下を走り回っているということは、何か深刻な事情があるのでは、と彼が勘づいていても不思議ではない。
「申し訳ございません、お嬢様は……今はお会いできない状態でして。ですので、失礼ですが、今日はお引き取りいただいたほうが……」
ようやくそれだけ搾り出すと、彼はわずかに眉をひそめる。そして、さらに一歩踏み込むように、わたしを見据えた。
「もしかして、体調を崩されたのですか」
その問いに、否定する言葉が喉元まで出かかるが、すぐに出せない。事実だし、嘘を言って隠し通すのも難しい状況だ。それでもお嬢様の秘密を守らなくてはならない。わたしは何とも言えない苦しさに胸を締めつけられながら、答えを躊躇していると、彼の目に確信めいた光が宿った気がした。
「詳しくは申し上げられません。ただ、お嬢様には……ずっと、人に言えない悩みを抱えていらっしゃるのです」
気づけば、わたしはそこまで言っていた。まさか、あれほど口をつぐもうと思っていたのに、一瞬の感情に押されて言葉を漏らしてしまった。彼が眉を上げ、深く息を飲む音が聞こえる。今さら引き返すことはできない。
「わたくしは、お嬢様のおそばでお仕えする者として、何とかお力になりたいと願っています。けれど、何もかもお一人で抱えていらっしゃるせいで……」
これ以上は駄目だ。お嬢様の病のことを明かしてしまうわけにはいかない。わたしは言葉を飲み込み、口を結んだ。彼は一瞬、何かを聞き出そうとするかのように唇を開きかけたが、わたしの表情を見て思い直したのか、静かに眼差しを伏せる。
「わかりました。あなたも、色々とご苦労されているのですね」
彼の言葉が妙に優しく響いて、胸の奥が熱くなる。もし、この方ならお嬢様を救ってくれるのかもしれない、そう思いたくなってしまう。だが、お嬢様の本音を話すことがわたしに許されるわけもない。お嬢様自身が強く拒んでいる限り、何も動かせないのだ。
「ほんの少しでも、お嬢様にできることがあるなら、わたしは力になりたいと思います。あなたから見て、彼女が必要としているのは何ですか」
彼の問いかけは、わたしの心を乱す。お嬢様に必要なのは、誰かに支えられるだけの安心と、病を治すための時間。そして何より、隠さずに自分の痛みを打ち明ける相手だ。それを言えたなら、どれほど楽だろうか。けれど、わたしは黙るしかない。言葉にしてしまえば、お嬢様の意志を無視することになるから。
「もし本当にお嬢様を案じておられるなら……そうですね。無理をしないでほしい、と伝えていただければ。それだけでも、わたくしは少し心が救われるかもしれません」
ぎりぎりの線で、わたしはそれだけを絞り出した。お嬢様の秘密をかすめるように匂わせつつ、核心に触れない。自分で話しておきながら、何とももどかしい態度だと感じる。だが、これが精一杯なのだ。お嬢様が認めていない以上、わたしが勝手にすべてを打ち明けるわけにはいかない。
彼は困惑したように視線を落とし、それから小さく頷いた。彼の目は、やはりお嬢様のことを深く気にかけているように見える。わたしの曖昧な言葉にも真剣に耳を傾けようとしているのが伝わってきた。
「わかりました。あなたの気持ちは伝わりました。お嬢様にも、どうかお大事にとお伝えください」
そう言ったあと、彼は立ち去るように身を翻す。やや身を乗り出したわたしの前を通り過ぎるとき、ほんのわずかに戸惑いの気配を残していた。わたしは彼の背中を見送りながら、また胸の奥が苦しくなる。これでよかったのだろうか。お嬢様のためにひたすら沈黙を守ることが、本当に正しい道なのか。あるいは、彼に全てを打ち明ければ、お嬢様の心の重荷を少しは軽くできるのではないか。そんな思いが頭を駆け巡る。
しかし、わたしはお嬢様の言葉を忘れられない。「誰にも弱さを見せるな」という伯爵家の方針もあるけれど、それ以上にお嬢様自身が「知られたくない」と言い切っていたのだ。わたしは長年お仕えしてきた身として、その意思を尊重すべきだと分かっている。だからこそ、歯がゆくても我慢するしかない。
結局、わたしはお嬢様に何も報告できないまま、その場を離れる。戻ったころには、お嬢様は眠りが浅くなったのか、しきりに苦しそうにうなされていた。すぐにそばへ駆け寄り、額のタオルを取り替えつつ冷やす。お嬢様が一度寝言のように名前を呼んだ気がして、はっとする。もしかしてわたしのことを呼んでいるのか、それとも――
いろいろと考えているうちに、お嬢様がゆっくり瞼を開けた。まだ熱は下がりきっていないようで、視線はどこか焦点が合わない。わたしは声をかけようとするが、お嬢様はかすれた声で「大丈夫よ」と先に言う。痛々しいほど、いつもの強がりを保とうとしているのがわかった。
「今はゆっくり休んでくださいませ。少し水分をとりましょうね」
そうやって優しく誘導すると、お嬢様は苦しげに息を吐き出しながらもうなずく。とても「大丈夫」と言える状態ではないのに、それでも周囲には弱い姿を見せたくない。それがどんなに危うい選択かを、お嬢様は知っていても譲らないのだろう。
もし、婚約者のあの方が本気でお嬢様を案じているのなら、いつかこの部屋を訪れて、お嬢様に「無理をするな」と伝えてくださるかもしれない。そんな淡い期待が胸に芽生えては、すぐにしぼむ。お嬢様が聞き入れるかどうかは分からないが、少なくとも彼女にとって孤独ではないと思える存在が近くにいるなら、わたしのような侍女がどれほど安心できるかわからない。
お嬢様への深い愛情があるからこそ、わたしは彼に助けを乞いたくなる。お嬢様を支える大きな柱が、もう一本あればいいのにと、心の底から思う。それを願う一方で、お嬢様の意思を裏切ってしまうのではという苦悩もある。こうした二律背反の板挟みにいると、夜中にこっそり涙がこぼれるときがある。わたしがお嬢様の側近であるからこそ、誰にも打ち明けられない苦しみを抱えてしまうのだ。
夕刻になっても、お嬢様の熱は完全には引かなかった。多少は落ち着いたが、体力が奪われているのが見てとれる。それでもお嬢様は、「明日はお客様が来るかもしれないから、応対しなければ」と言い出す。わたしが全力で止めても、聞き入れてくれそうにない。ここで強引に制止できるほど、わたしには権限はないのだ。
「お嬢様、どうか無理をなさらずに……せめて、もう少しご休息をとってください。熱が上がりきってしまったら、大事な予定どころか、お身体が……」
声を震わせながらそう申し上げると、お嬢様は弱った笑みを浮かべ、「大丈夫」といつもの言葉を繰り返す。その笑顔を見るたび、わたしは胸の奥が締めつけられる。どうしてこんなにも自分を追い込むのだろう。なぜ、ほんの少し誰かに頼ることを許せないのか。
もしかすると、いつかは彼女も限界に気づいて立ち止まるかもしれない。あるいは、婚約者がこの家を再び訪れたとき、お嬢様の仮面を突き破るような説得をしてくださるかもしれない。それは甘い期待だと分かっているが、わたしはどうしてもその僅かな希望を捨てきれない。
このままではお嬢様は……。頭の中で悲観的な想像が繰り返されるたび、わたしの胸は苦しくなる。彼に伝えたい、でも伝えられない。お嬢様の秘密を守りたい、でも守るだけでは救えない。そんな矛盾した思いの中で、わたしはただ夜を迎え、明日を迎え、そしてまたお嬢様の傍らで看病する日々を繰り返す。わたしに許された行動は、もはやそれだけのように思われてならなかった。