第4話 違和
陽の光が窓から差し込み始めたころ、わたしは机に広げた書簡の山を前にして、ふと深いため息をついた。背の高い書棚には、先代から受け継がれた貴重な文献や政治資料がずらりと並んでいる。ここはわたしの父が長年使っている書斎だが、最近はわたしも頻繁に借り受けている。大量の手紙を整理するには、やはりこの広い机が都合がいいからだ。
書簡の多くは、わたしと“彼女”との婚約を祝う文面だった。名ばかりの社交辞令から、率直な驚きを込めたものまで、さまざまな筆跡が並んでいる。こうして並べてみると、この婚約がどれほど世間の注目を集めているのかがよくわかった。もっとも、わたし自身は素直に喜べずにいるのだが。
わたしの家は、代々この国の重要な任を担う家柄だ。父もまた、王宮の高官として国政に関わっている。わたしはいずれ父の跡を継ぎ、同じ立場で働くことになるだろう。そんな背景から、伯爵家の令嬢との縁組を持ち上がったときは、多くの者が「順当だ」と口にしたものだ。父も母も、この話を大変喜んだ。
当初、わたしもそれが悪い話ではないと思っていた。伯爵家は由緒正しく、わたしの家と同等かそれ以上に強い影響力を持っている。二つの家が結びつくことは、政治的にも大きな意義がある。その点でいうなら、わたしは彼女と円満に関係を築き、家同士の絆を深めるのが理想だろう。
ところが、いざ彼女と顔を合わせてみると、その雰囲気の冷ややかさに圧倒された。どんな言葉をかけても通じないような、壁があるのだ。社交界では彼女の評判が芳しくないことも、わたしの耳には何度も届いている。傲慢でとっつきにくく、周囲を遠ざける態度をとると噂されている。
当然、わたしの家の者も心配していた。特に母は、「あのように冷たい方と本当にうまくやっていけるのかしら」と不安を隠さなかったし、父も「政略的には問題ないが、おまえが気苦労をするかもしれない」と苦笑まじりに言うほどだった。わたし自身、彼女が“単なる高慢な人”ならば、婚約後の生活は苦労が絶えないだろうと感じている。
しかし、先日の舞踏会で、彼女とわずかに言葉を交わしたとき、どうしても気になることがあった。彼女は周囲に対して冷え切った態度を崩さないくせに、どこか疲れ切っているような、弱々しさを秘めた眼差しをしていたのだ。あまりに微かな変化だったから、多くの人は見逃しただろう。だが、わたしはその一瞬を捉えてしまった。
書斎の扉が小さくノックされ、執事が静かに入ってくる。わたしが顔を上げると、彼はおもむろに紙片を差し出した。そこには、わたしの友人が寄こした手紙が綴られている。
「今朝届いたばかりでございます。お急ぎではないかと思い、お持ちいたしました」
礼儀正しい執事に礼を言い、手紙を受け取る。わたしはさらりと目を通してから、机に置いていた封筒と並べてみた。その友人はかつて王立学院で共に学んだ仲で、いまは辺境の砦の管理を任されている人物だ。彼はわたしの婚約の噂を聞きつけ、「どうやら凄まじいお相手を得たらしいな」と呆れ半分に書き送ってきた。
彼女が社交界で有名な存在であること、そしてあまり好意的に見られていないことは、友人たちも承知している。少し過剰な表現もあったが、「やめておけ」と露骨に忠告しているところを見ると、彼自身も何らかの噂を信じ込んでいるのだろう。わたしは手紙を放り出すように机に置き、改めてため息をついた。
午後になって、わたしは仕事の合間に屋敷の中庭へ足を運んだ。書斎にこもっていても頭が冴えないし、少しは気分転換をしたかったからだ。
庭を歩いていると、偶然にも出迎えに来ていた母と顔を合わせる。母はにこやかに挨拶したあと、わたしの腕をとって歩き出した。まるで子どもを散歩に連れ出すようなその様子に、わたしは苦笑する。
「あなた、このところ浮かない顔をしているわね。婚約の話に迷いがあるのかしら」
母はストレートに核心を突いてきた。わたしは言葉を選びながら、曖昧に返事をする。結局、婚約に関して「悩んでいる」と告げるのは躊躇われた。政略結婚としては優れた条件を持つ彼女だし、わたし自身も断固反対する理由をまだつかみきれていないからだ。
「ただ、彼女の態度が気になるだけです。まだ深く知る機会がなく、どう接していいのかもわからないから」
そう伝えると、母はわたしの表情を見極めるように覗き込む。
「確かに、噂によるとあまり近寄りがたい方らしいけれど、本当にそれだけなの? もう少し会ってみなければ、わからないこともあるんじゃないかしら」
母の言う通りだ。彼女がなぜあんなにも冷たい態度で周囲を拒むのか、その背景をわたしは知らない。その理由を突き止めないまま、ただ周りの言葉に流されて判断してしまうのは、正しいことではない気がする。
それから数日後。わたしは父に同伴して宮廷へ赴いた。会議が予定されており、わたしも将来を見据えて簡単な雑務を手伝うことになっていた。広い廊下を歩いていると、偶然にも、わたしの婚約者となる予定の彼女が姿を見せる。ちょうど、付き添いの侍女と何事か話している最中だった。
普段の社交界では見られないような表情をしている。彼女はあまりに疲れた様子で、俯きがちだった。そのとき、侍女が彼女にハンカチを差し出すのを見て、わたしは思わず立ち止まる。もしかすると体調が優れないのだろうか。彼女は、一瞬だけ不安げな目で侍女を見上げ、そして小さく首を横に振った。
いつもの彼女なら、周囲を寄せつけないほどの冷徹さを漂わせているはずなのに、このときはまるで幼い子どものように侍女を頼りたい気持ちと、そうあってはならないという葛藤が同居しているように見えた。わたしは思わず、物陰からその光景を見つめてしまう。
やがて彼女は姿勢を正し、侍女に何事か小声で告げる。それを聞いた侍女は深く頭を下げ、彼女の後ろに控えるような形で歩き出した。彼女の表情にほんの刹那、苦しげな翳りが走るのを見て、胸がざわつく。この人は、いったいどこまで自分を追い込んでしまっているのだろう。
その日の会議が終わったあと、わたしは父に呼ばれた。豪奢なカーテンで飾られた控室に入ると、父は深刻そうな面持ちでわたしに話しかけてくる。
「先ほど、ある筋から聞いた話だが、例の伯爵家の令嬢とは、あまり事を急がないほうがいいかもしれない。体調面でいろいろ噂があると耳にしてな」
その言葉に、わたしは思わず息を飲む。確かに、彼女が体調を崩しているかのような仕草を垣間見たばかりだ。父の情報網は相当広いから、きっと裏付けもあるのだろう。わたしが詳しく尋ねようとすると、父は言葉を濁しながら続ける。
「詳しくはまだ分からない。ただ、伯爵家が何らかの事情を抱えている可能性がある。その娘の身体が弱いのか、あるいは別の事情があるのか。いずれにせよ、おまえも無理をして婚約を急ぐ必要はない。家同士の話だ、遅れることはあっても構わん」
父はそう言い残すと、わたしの肩を軽く叩き、先に控室を出て行った。わたしはその場に立ち尽くしながら、彼女の蒼白な顔を思い返す。もし彼女が無理をしているのだとすれば、あの冷たく見える態度も何らかの理由があるのかもしれない。
帰り道、わたしは懇意にしている友人と馬車を並べる形で城門を出た。友人もまた彼女の噂を聞きつけ、「一筋縄ではいかない相手だな」と笑っている。
「おまえが苦労するなら、今からでも遅くはないから再考しろ。政略結婚といっても、後で取り返しがつかなくなったら大変だぞ。どうせならもっと穏やかな相手を探すのも選択だろう?」
そんな友人の言葉を耳にしながらも、わたしの胸中にはもやもやとした疑問が渦巻いている。確かに彼女は近寄りがたい雰囲気を持っているが、果たしてそれだけなのだろうか。あの舞踏会で見せた、ほんの僅かな傷ついたような眼差し。そして今日、侍女と交わしたやり取りから見えた切実な雰囲気。そこには、単なる高慢という言葉では説明のつかない何かがあった。
自宅に戻ると、母が玄関先で出迎えてくれた。わたしは少し気を緩めて、「ただいま」と微笑む。だが、母はわたしの顔を見てすぐに勘づいたらしく、問いかけの視線を投げてきた。わたしは苦笑しながら、返事の代わりに肩をすくめる。
「彼女のこと、まだよく分からなくて…。周りからいろいろ言われるたびに、かえって混乱している」
すると母は、少し考え込むような表情を見せたあと、落ち着いた口調で言う。
「あなた自身が彼女をどう思うかが大事でしょう。人の噂や外聞に囚われすぎては、真実が見えなくなる。もし彼女に何か隠したいことがあったとしても、それを解きほぐす気概がなければ、一緒になる資格はないわ」
その言葉に、思わず胸がぐっと締めつけられた。確かに、彼女が本当に何を考えているのか、わたしは知らないままでいる。もし本当に婚約相手として共に歩むなら、彼女の心の内にあるものを知ろうとする姿勢は必要だろう。単に噂だけに惑わされていては、何も見えずに終わってしまう。
その晩、わたしは眠りにつこうと寝台に横になっても、彼女の姿が脳裏を離れなかった。冷淡な言葉の裏側にある切なさ。それをわたしは理解できるだろうか。否、理解したいと思っているだろうか――自問すると、答えは「はい」と返ってくる。どうやら、わたしは単なる政略のためだけに婚約する気はもうないらしい。彼女のことをもっと知りたい。
そう考えたとき、わたしは初めて胸の奥に小さな熱を感じた。それは、彼女に対する興味や関心だけではなく、もしかすると一種の好意にも通じるものかもしれない。人の噂など当てにならない。わたし自身の目と耳で確かめて、彼女が抱えるものの正体を知りたいと思う。それがうまくいかないかもしれないが、最初から怖じ気づいて投げ出すよりは、はるかに建設的だ。
夜が更け、窓の向こうには静寂が広がっている。わたしは薄暗い灯りのなか、しばらくじっと天井を見つめた。この国を支える家門の一人として、わたしは多くの役目を果たしていかなければならない。その道のりで、彼女と共に歩むことになるならば、形ばかりの婚姻では意味がないと思うのだ。彼女がなぜあれほどの態度をとるのかを、少しずつ探ってみよう。そして、本当に困っているのなら手を差し伸べたい。
自嘲するように唇を歪めながらも、わたしはその思いに揺さぶられていた。噂通りの高慢な人間であれば、努力は報われないかもしれない。それでも、ほんの少しでいいから、彼女の真実を知りたい。その願いがどこから湧いてきたのかは自分でもよくわからない。だが、わたしの心には確かな違和感と興味が息づいている。
政略という枠だけに縛られず、わたしは彼女と向き合えるのか。そう考えを巡らせるうちに、頭の中が白むような眠気が押し寄せてきた。もしかすると、これがわたしの“始まり”なのかもしれない。彼女に対する疑念と、それとは別に膨らむ好奇心とが交錯するまま、わたしはゆっくりと瞼を閉じる。
明日になったら、また新しい情報が耳に入るかもしれない。彼女をよく知る者から、あるいは噂好きな貴婦人たちから。だが、そうした断片的な情報だけでは、本当の姿には届かないだろう。ならば、わたし自身が行動するしかない。彼女がどんなに突き放そうと、その奥にある心を感じ取れるまで、粘り強く話をしよう。それがわたしにとっての、政略を越えた“婚約”の第一歩になるはずだから。




