第3話 綻び
朝の光が寝台のカーテンを透かして差し込むころ、わたしはかすかな頭痛を感じながら静かに目を開けた。昨日の舞踏会の疲れもあり、本当ならもう少し身体を休めたいところだが、伯爵家の令嬢としては朝寝坊など許されない。いつものように侍女が部屋の扉をそっと開け、「おはようございます。ご用意はできております」と声をかけてくれる。その穏やかな声を聞くと同時に、わたしは浅い眠りから抜け出すようにゆっくりと身を起こした。
ベッドのそばの椅子にはすでに朝の支度が整えられており、淡い色味のドレスがきちんとたたまれている。侍女が近づいてきて、わたしの寝巻きを手際よく脱がせると、次にはドレスの袖を通していく。その間、わたしは半ば無意識のうちに背筋を伸ばし、体をまっすぐに保とうとしていた。少しでも弱々しい仕草を見せれば、侍女が気を揉むのがわかっているからだ。
「今朝は体の具合はいかがでしょう。疲れは残っていませんか」
そう尋ねる声には、明らかにわたしを気遣う響きが混ざっていた。わたしは鏡の中の自分に目をやりながら、「問題ないわ」と短く答える。頭痛の名残を感じつつも、ここで弱音を吐くわけにはいかない。ドレスのボタンを留め終えた侍女は、わたしの返答にどこか安堵したようにも見えるが、その表情の奥には拭いきれない不安が透けている。彼女もまた、わたしが嘘をついていることをうすうす察しているのだろう。
朝食の席に姿を見せると、両親の姿はまだない。伯爵家の当主である父は早朝から執務に出かけていることが多く、母は体調面を理由にゆっくり起床する習慣があるため、わたしが一人でテーブルにつくのは珍しくなかった。用意されたスープをすくいながら、窓の外に目をやる。中庭の花壇には、まだ夜露の残る花々が朝日にきらめいていた。
食事を終えるころ、執事が書類の束を持って足早に近づいてきた。わたしは軽く息を吐き、すぐにそれらの書類に目を通す。こんなふうに、父から預かった雑務や手紙の整理をこなすのも、わたしの日課の一つだ。内容の多くは行事への出席確認や、ほかの貴族からの書簡、さらに婚約の話を匂わせる文面など。無関心でいるわけにはいかないが、どこか人ごとのように感じてしまうのは、わたしが自分の未来を心から楽しみにできていないからかもしれない。
やがて執事が退出し、わたしは広間を後にして自室へ戻る。部屋に入ったところで、侍女が控えめに言葉をかけた。
「お嬢様、午前中のうちにお医者様が来られる予定です。お父上からも、定期的な検診は欠かすなと申し付けられておりますので」
「そう…わかったわ」
医師の往診は以前から定期的に行われてきたが、最近は頻度が増えている気がする。体調が安定しているように見えても、疲れやすく微熱が続くことがあるため、父も母も“表向きは慎重な姿勢”を取っているのだ。けれど、その心配が本心からなのか、それとも伯爵家の令嬢としての責務をまっとうするための体調管理なのか、わたしには測りかねていた。
しばらくして医師が訪ねてくると、わたしは書斎の一角で椅子に腰を下ろし、簡単な問診を受ける。医師は初老の男性で、昔からわたしの病状を知る数少ない人物の一人だった。脈を測り、胸や背中に聴診器を当てながら、淡々とした口調で問いかける。
「最近は体のだるさや熱っぽさはありますか。夜中に咳き込むようなことは」
「いいえ。とりたてて変わったことはありません」
答えながらも、わたしは胸の奥のかすかな痛みがまだ残っているのを感じていた。しかし、ここで正直に話せば、父母の耳に届き、余計な療養を勧められるだろう。そんなことになれば社交界への出席も難しくなるし、何よりわたしの弱さが広く知られてしまう恐れもある。医師は軽く眉を寄せ、念のため体のどこかを押さえて痛みがないか確認させてほしいと申し出る。わたしは渋々その検査を受けながら、平然とした表情を保ち続けた。
「脈はやや不安定ですね。無理を重ねているのではないでしょうか。くれぐれも安静を心がけてください」
そう小声で告げる医師に、わたしは苦笑を返すだけだ。伯爵家の令嬢が安静ばかりしていられるほど、この生活は甘くない。次々と舞い込む行事への招待状、結婚に関する話し合い、そして家の体面を保つための活動。わたしにできるのは、できる限り自分を奮い立たせて乗り切ることだけである。医師はやれやれといった表情を浮かべながら、最後に幾つかの薬瓶を差し出した。
「夜にどうしても眠れないときは、こちらの薬を。あまり強くはないですが、飲み過ぎには注意を。あと、万が一、熱が上がりすぎたら、すぐに知らせてください」
「わかりました。いつもありがとうございます」
わたしが薬瓶を受け取ると、医師はわずかに目を伏せて一礼し、部屋を退出していく。その後ろ姿を見送ったあと、わたしは机に薬瓶を置き、深く息を吐いた。脈が乱れているという指摘は、医師の前では否定したものの、自分でも心当たりがある。最近は、ちょっとしたことで息苦しさを感じることが増えているのだ。踊りのステップを数曲踏んだだけで眩暈を起こしかけたり、夜更けに微熱で眠れなかったり。けれど、それを表に出せば、わたしの立場は危うくなる。
ふと気づくと、侍女が扉のそばに立ってわたしを見つめていた。彼女は医師の言葉をすべて聞いていたわけではないだろうが、わたしの様子を見て心配しているのは明らかだ。少しカーテンを開けて部屋に光を入れようとする仕草に、「無理はなさらないでくださいね」という彼女の思いが感じ取れる。わたしは「ありがとう。でも、放っておいてちょうだい」とやや厳しい口調で返す。それ以上心配をかけてしまうと、彼女が妙な気づかいをしてくることもわかっているからだ。
彼女は一瞬、胸を痛めるように表情を曇らせた。しかし、わたしの態度に慣れているのか、深く追及することはせず、そっとカーテンを閉じて机の片付けを始める。わたしはそれに安堵した半面、少しだけ申し訳ない気持ちを抱いた。けれど、こうするしかない。わたしは弱くなどない、と自分に言い聞かせなくては、立っていられないのだから。
昼食が近づくころ、屋敷の廊下に足を運んでみると、母がちょうど部屋から出てきたところだった。いつも上品なドレスに身を包み、物腰も柔らかな母は、わたしに気づくと穏やかな笑みを向ける。
「おはよう。昨日の舞踏会はどうでしたか。あまり遅くならないようにと気をつけていましたが、無理をしていないでしょうね」
母はそう言いながら、わたしの体調をそれとなく探ろうとする。わたしはそっけなく首を振り、「大丈夫よ。予定どおり挨拶を済ませてきました」とだけ伝えた。すると母は、小さく頷いて「それならいいの」と続ける。やはり母も、わたしが体調を崩すことを一番恐れているのだろう。かつて高熱で何度も倒れた幼いころの姿が、今でも母の中で鮮明に刻まれているに違いない。
少し遠慮がちな母に対して、どうしてもわたしは突き放すような態度を取ってしまう。昔なら、もう少し甘えられたかもしれない。しかし、今は父の言葉を守り、自分で立っていかなくてはならない身。誰にも弱い部分を見せるわけにはいかない。たとえそれが母親であっても、その優しさにすがることができないのは、わたしの心にある一種の固い鎧のようなものだろう。
母とのやり取りを終え、わたしは応接室へ向かう。そこでは日々届く手紙や招待状の整理をするのが習慣だ。侍女が先回りして、すでに読みやすく並べ替えてくれている。わたしは椅子に腰掛け、手紙を一通ずつ開封していく。舞踏会のお礼状や、今後の予定確認、あるいは他家の娘との懇意を求める書簡。すべてに目を通し、必要なら返信を用意する。こうして屋敷の中にこもっていると、時折頭がぼうっとする瞬間があるが、それさえも気合で乗り切るしかない。
作業を終えたころには日が傾き始め、侍女が「少し休まれませんか」と声をかけてきた。わたしは黙って立ち上がり、自室へ戻ることにする。階段を上がる途中、急に目眩がして視界が揺れた。手すりにしがみついて踏みとどまると、侍女が慌てて駆け寄ってくる。
「お嬢様、大丈夫ですか…!」
「ええ、大したことはないわ。ちょっと足を滑らせただけ」
そう言いながらも、心臓が早鐘を打っているのを感じる。侍女は心配そうにわたしの手を支え、何か言いたげな面持ちだ。だが、わたしがそれ以上の説明をしないまま再び歩き出すと、彼女もそれ以上は問いたださなかった。こうして何も言わないまま、わたしに付き従い、さりげなく身体を支えてくれるのが彼女の精一杯の思いやりだ。
部屋に戻ると、わたしはドレスの腰周りを少し緩め、窓辺に腰掛ける。かすかな息苦しさが胸に残っているものの、しばらく呼吸を整えれば落ち着くはずだ。侍女が気遣わしげに温かいハーブティーを入れてくれたので、それをすすりながら視線を遠くにやる。心配されているのをわかっていながら、わたしは何も言わない。彼女の前ですら、弱音を吐くことを躊躇してしまう。
けれど、いつまでも黙っていては彼女が気を揉むばかりだろう。ほんの少しだけ気を緩めようと、わたしは「ありがとう。落ち着いたわ」と微笑んでみせる。すると、侍女の目元がわずかに潤んでいるのがわかった。どうやら、わたしが今にも倒れてしまいそうだと感じていたらしい。
「お嬢様がこれほど無理をされると、あの、もしまた熱が上がったらどうしようと心配で…」
侍女の声は小さく震えていた。わたしはそんな彼女から視線を逸らし、吐息混じりに言葉を返す。
「心配はいらないわ。私はこの通り、まだ元気よ」
その言葉に嘘が混じっていると、彼女はきっと気づいているのだろう。それでも、わたしの態度を否定することなく、ただ隣に立ち尽くしている。幼い頃から一緒に過ごしてきた彼女は、わたしがどれだけのものを抱えているかを薄々知っているからこそ、強くは問い詰めないのだ。
ここ数日の無理がたたっているのか、立ち上がるたびにめまいがすることが増えた。夜半には高熱を出すこともあり、冷たいタオルで額を冷やしながら、一晩中眠れずに過ごすこともある。侍女はそんな夜でも決して眠らず、わたしのそばにいて看病してくれる。うわ言のように声を漏らすわたしの手を握り、「大丈夫です」と何度も繰り返す。まるで母親のように。しかし翌朝、わたしは再びかりそめの気丈さを纏い、いつも通りの生活に戻る。それが習慣となっている以上、侍女もわたしの意志を尊重してくれているのだろう。
けれど、本心を言えば、彼女に申し訳ないと思うこともある。彼女の優しさに甘えたくなる瞬間も、正直なところ皆無ではない。もしわたしが素直に「休みたい」と告げれば、彼女は手を貸してくれるだろう。だけど、それをすればわたしの決意が揺らぐ気がする。幼少の頃、父から言い渡された「弱さを見せるな」という言葉を、ずっと守って生きてきたのに、今さら態度を変えるなどわたしにはできない。
そうこうしているうちに、外はすっかり夕暮れ色に染まっていた。わたしは一度着替えを済ませ、夕食の場へ向かう。母も父もそろっているときは、家族として食卓を囲むことになる。もっとも、父は仕事の話を続け、母は相槌を打つだけで、わたしが口を挟むことはほとんどない。今日も例外ではなく、わたしは静かに料理を口に運んでいた。数口食べただけで胃が重くなり、箸が進まない。父もその様子に気づいたようだが、口に出してはくれない。わたしも何事もなかったかのように平然を装う。これがわたしたちの暗黙のルールだ。
「体調が優れないなら、早めに休むといい」
食事を終え、父が席を立つ間際にぽつりとそう言った。心配してくれているのか、ただ一応の言葉をかけているだけなのか、わたしには判断がつかなかった。けれど、少なからず父が気にしていることは伝わったので、わたしは小さく頭を下げる。きっと、あの医師から報告があったのだろう。
その夜、わたしはいつになく強い倦怠感を抱えながら自室のベッドに身を沈めた。侍女が枕元に薬と水を用意してくれるが、今は薬に頼りたくない気分だった。自分で立てないと思われるのが怖い。少しでも頼るそぶりを見せれば、父母だけでなく、婚約の話を進めている彼の家にもわたしの体調が知れ渡るかもしれない。それだけは避けなくてはならないという意識が、わたしの心を支配していた。
部屋の灯りを落とし、侍女が静かに扉を閉じる。しばらくすると扉の向こうで控えているであろう彼女の気配を感じながら、わたしは深い息を吐き出した。胸の奥が重く、なかなか眠りの世界へ誘われない。うっかり咳をすれば侍女が飛んでくるに違いない。だからこそ、息苦しさをこらえながら浅い呼吸を繰り返し、何とか朝を迎えようとするしかないのだ。
いつからこんな生活を続けているのか、思い返すのも億劫になるほど日常化してしまった。伯爵家の令嬢として振る舞う以上、どれほど弱っていても「大丈夫」と言うことが義務のようになっている。侍女が必死でわたしを支えようとしてくれるのもわかる。けれど、その優しさに甘えることは、わたしが築いてきたすべてを壊してしまいかねない――そんな恐怖が頭から離れない。
結局、わたしは微熱を感じながら瞼を下ろし、うわの空のまま朝を待つ。医師から伝えられた「脈が乱れている」という言葉が耳にこびりつき、余計に眠れなくなってしまう。それでも明日はまた書簡の整理や行事の準備、そして婚約を進めるための会合が控えている。何より、わたしが背負う家の名を守るためには、弱音など吐いてはいられないのだ。
扉の外からかすかに聞こえる侍女の足音に、わたしはわずかに目を開ける。彼女は今もなお、わたしの身に何かあればすぐに駆け込めるよう、廊下で待機しているに違いない。その健気な姿を思うと、少しだけ胸が締めつけられる。わたしを支えてくれる彼女に報いるためには、やはり“強くあらねば”ならない。この身体がどれほど悲鳴をあげようとも、表向きの姿を崩すことはできない。わたしはうっすらと冷えた額を手の甲で拭いながら、静かに闇の中で息を潜める。
幼いころから続くこの葛藤は、いつまで続くのだろう。答えを見つけられないまま、わたしは薄い眠りの底へと落ちていく。自分の心臓の鼓動がいつになく早い気がして、少しだけ怖くなるが、それでも誰にも助けを求めることはしない。そう決めた以上、わたしはこの道を歩むしかないのだ――激しい鼓動と、胸に広がる鈍い痛みを抱えながら。