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第2話 虚飾

 翌朝、わたしはまだ薄暗さの残るうちから身支度を整え、窓の外に広がる屋敷の庭を見下ろしていた。夜明け前の空気はひんやりとしているが、深呼吸をすればわずかに胸の奥が軽くなる気がする。侍女がドレスのリボンを結ぶ手をとめて、「冷えますから、少し窓を閉めましょうか」と控えめに声をかけた。その心遣いをありがたく思いながらも、わたしは小さく首を振る。朝の冷気を肺に取り込むことが、まるで心を奮い立たせる儀式のように感じられたからだ。


 昨夜は早めに部屋へ戻って休んだはずだが、目覚めたときには少しだけ頭が重たかった。おそらくは倦怠感が抜けきっていないのだろう。それでも今日の予定は変わらない。昼下がりにはサロンへ顔を出し、夕刻からは大きな舞踏会へと向かうことになっている。わたしには、これ以上体調に甘える余地などない。


 侍女の手によって完成した装いをもう一度鏡で確かめると、薄い色合いのドレスが思いのほか肌の白さを引き立てていた。自分でも痩せてきたことを承知しているが、だからこそ華やかな色味を避け、やや落ち着いた装いを選んだのだ。もっとも、そんな配慮をしても、わたしの評判は何も変わらないだろう。社交界の人々は、わたしの内面を知ろうともせず、ただ表面の態度だけを見て噂を広めているのだから。


 屋敷を出る馬車の音が石畳を打つころ、わたしはすでにそれに乗り込んでいた。ガタリと揺れた車内で、侍女が「体調は大丈夫ですか」と何度か尋ねてくる。わたしはそのたびに笑みをつくろい、視線を窓の外へ逃がしながら「平気よ」と短く答えた。彼女の優しさは身に染みるものの、それを言葉で受け止めるのはどうしても憚られる。体が弱いことを認めてしまえば、自分自身の立場まで危うくなってしまう気がするのだ。


 朝の早い時間にサロンを訪れるのは珍しいが、今日はどうしても会わなければならない相手がいる。それは母の遠縁にあたる伯爵夫人で、次の舞踏会に関する調整をしてくれる人物だった。彼女はわたしよりかなり年長でありながら、社交界での権威も高く、その発言力は決して侮れない。わたしは伯爵夫人の声がかりもあって、今日の舞踏会である人物と正式に顔を合わせることになる。それが、後にわたしと婚約することが決まっている男性だ。


 馬車がサロンの前に到着すると、扉が開いてそっと冷たい外気が流れ込んでくる。侍女の手を借りながら外へ足を下ろすと、朝の光が眩しくて思わず目を細めた。広々とした庭園を抜け、サロンの扉を開けると、すでに数名の客がそこに集っている。中には軽い朝食をとりながら談笑する貴婦人たちの姿もあった。


「まあ、いらしたのね。お待ちしていましたよ」


 伯爵夫人の柔和な声に迎えられ、わたしは軽く会釈をしてみせる。周囲の視線が一斉にこちらへ向かい、さっと空気が変わった。彼女たちにとってわたしは近寄り難い存在なのだろう。顔見知りであっても決して笑顔を交わすことは少なく、結果として相手も萎縮してしまうらしい。だからこそ、わたしの姿を見た途端、ひそひそと囁く声が聞こえる。


「今日もなんて堂々たる態度でしょう。あんなに若いのに、どうしてあそこまで品が良いというより、むしろ…」


「噂によれば、こちらから声をかけても冷たい視線で睨まれるだけ、ですって。怖いわ」


 ここまで聞こえるような音量ではないが、わたしはそれを察するたびに心の奥底が少しだけ冷える。しかし、その程度では表情を変えないことを自分に課している。伯爵夫人が手招きをしたので、わたしは彼女の近くに歩み寄った。すると、テーブルにはサロンの最新の招待状や、今宵の舞踏会の会場の配置図などが整然と並べられている。


「今夜の舞踏会、あなたの意中の方もいらっしゃるのでしょう?」


 伯爵夫人はそう言って意味深に笑う。わたしが答えを返さないまま小さく息を吐くと、彼女は調子を合わせるように微笑を深めた。


「意中というほどでもございません。ですが、お会いすることになっているのは事実です」


「そうね。政略結婚だと人は言うでしょうけれど、あなたの将来を考えれば決して悪い縁談ではないと思いますよ」


 伯爵夫人の言葉に、わたしは軽く首を縦に振るだけで答えた。確かにわたしの立場を考えれば、国の上級貴族の一人と縁を結ぶことはそれほど不自然でもない。むしろ、伯爵家としても待望の話なのだろう。母などは「これであなたの将来は安泰ね」とほっとしていたくらいだ。しかし、わたしにとっては家のためというより、自分の名を守るために必要な一手段に過ぎない、とどこか達観している部分がある。 


 一通りの書類に目を通し、伯爵夫人と今夜の段取りを確認したあと、わたしはサロンを出ることにした。できるだけ早く屋敷に戻り、今夜の舞踏会まで少しでも体力を温存したいという思惑もある。退出の挨拶をするとき、まわりの貴婦人たちは相変わらずよそよそしくわたしを見やっていたが、中には片手を振って挨拶をする方もいた。わたしが軽く頭を下げてみせると、どこかぎこちなく微笑まれた。おそらく、わたしの内面を知らない彼女たちにとって、そのやりとりは精一杯の友情表現なのだろう。


 再び馬車に乗り込むと、侍女が「戻られましたら、すぐにでもお休みになれますか」と小声で聞いてくる。わたしは「そのつもりよ」と言いながら額に手をやった。どうやら少し熱っぽい。けれど、今夜は舞踏会だ。おそらく、そこで正式に婚約者となる相手と顔を合わせることになる。わたし自身がその場で醜態をさらすわけにはいかない。


 屋敷へ戻り、急いで支度をし直していると、夕刻の鐘が鳴り始めた。舞踏会の始まる時刻はすぐそこまで迫っている。わたしは鏡の前でドレスを変え、髪を結い直している侍女に、「急ぎなさい」といつも以上にそっけなく命じてしまう。彼女は「申し訳ございません」と口早に答えながら、器用な指先でわたしの髪をまとめあげていく。


「お嬢様、こちらのアクセサリーはいかがでしょう。少し華やかですが、今夜のような場には合うかと…」


 彼女の提案を耳にしながら、わたしはちらりと宝石箱を見下ろした。きらびやかなネックレスやピアスの数々。かつてはこれを身につける自分を想像し、わずかに胸をときめかせたこともあったけれど、今のわたしにはそれほど心を揺さぶる存在ではなくなっている。周囲にどう見られるかを考えながら着飾るのは、もう当たり前の日課になってしまったからだ。


「そうね…では、これにして」


 わたしは大ぶりの宝石がついたピアスを手に取り、静かに耳にかざした。ガラス越しに見る姿は、確かに華があって優雅な印象を与える。けれどその奥には、微かに病の影を宿した瞳が映りこんでいるのを感じ、わたしは一瞬、目をそらした。


 準備を終えた馬車が門の前で待機しているという知らせを受け、わたしはすぐに玄関へ向かった。夕闇が広がり始める道を照らす行灯の灯りが、なんとなく心を急かすようだ。侍女に手を引かれながら馬車に乗り込み、その扉が音を立てて閉じられると、一つ大きく息を吐いた。今夜の舞踏会は大きな邸宅で開かれ、そこには名のある貴族たちが一堂に会する。もちろん、わたしの家と縁談が進められている相手も来るはずだ。


 馬車が広い通りをゆっくり進み、目的の邸宅へ近づいていくにつれ、街道沿いには華やかな灯火が連なっていた。わたしは車窓越しに見える景色を眺めながら、胸の奥に小さな疼きを覚える。今夜の舞踏会で、彼とはどのような会話をするのだろう。互いに名を紹介し合い、形式的に言葉を交わすだけかもしれない。だが、わたしがどれほど冷淡に装っても、彼はわたしの内心を見抜こうとするかもしれないと思うと、少しだけ落ち着かない気持ちになった。


 そうこうしているうちに馬車は邸宅の前に到着し、大理石の階段へと続く赤い絨毯が視界に飛び込んでくる。足を踏み出すと、既に多くの来客がそこを行き来しているのがわかった。夫人同士が談笑する声、整列した従者や衛兵たちの視線、そして豪華なドレスの擦れる音が重なり合い、まるで異世界のような空間を作り出している。


 わたしがホールの扉をくぐると、一瞬で周囲の会話がうすく途切れ、何人かがこちらに視線を向けた。案の定だ。わたしの評判はここにも伝わっているのだろう。冷たく、誰の言葉にも耳を貸さない、気位ばかりが高い令嬢――いつからか、そういう定評ができあがっていた。真実を知る者はほとんどいない。それでもわたしは堂々と歩を進める。背中を丸めてしまえば、それこそ彼らの思うツボだから。


 しばらくすると、伯爵夫人がわたしを見つけて軽く手を振った。どうやら、わたしに話したいことがあるらしい。彼女のもとへ向かうと、人だかりがさっと道を開ける感覚がする。気遣いというよりは、関わりたくないという無言の拒絶なのだろう。慣れたものだが、いつまで経っても心が晴れることはない。


「今夜お越しになっているわよ、あなたの将来のお相手」


 伯爵夫人が口元に扇を当てながら微笑を漏らす。周囲に聞かれぬよう配慮してのことだろうが、その言葉に込められた意味を聞き逃すはずもない。わたしは小さく息を吐いた。


「そうですか。では、お目にかかるタイミングを待ちましょう。こちらから出向くのは避けますわ」


「ご自分から話しかけないのね? あちらも今日こそはと思っていらっしゃるそうですけれど」


 彼女の揶揄交じりの問いに、わたしは何も答えずに首を振る。確かに、向こうもこの婚約を成立させるつもりで今夜ここに来ているはずだ。だが、わたしは敢えて積極的に動こうとは思わなかった。政略結婚といっても、これは家同士の取り決めであり、わたしにとってはあくまで義務の延長に過ぎない。もし今夜、彼がわたしの冷淡な態度に不信感を抱くようなら、それもまた一つの結果として受け止めるしかない。


 伯爵夫人が立ち去ったあと、わたしはホールの片隅でワイングラスを手に取り、しばし音楽を聴きながら人々の様子を眺めていた。華やかな貴婦人たち、紳士たちの笑い声が絶えない。誰もがきらびやかな衣服に身を包み、それぞれが自分の存在を誇示している。そんな中でわたしは、まるでひときわ冷たい風を纏うようにたたずんでいるのだろう。


「こんばんは。…あなたが、あの方ですか」


 不意に耳に届いた穏やかな声に目を向けると、そこにいたのは歳若い男性。まだ十代後半ほどに見えるが、佇まいには気品があり、丁寧な礼服に身を包んでいる。彼の背後には取り巻きらしき従者が数人、少し離れて控えていた。わたしは一目で、これが今夜会う予定の“将来の伴侶”候補なのだと悟る。


 彼はわずかに苦笑を含んだ表情で、「初めまして。私は…」と名乗りを上げる。確かに由緒ある家柄の名だ。そして、今夜ここに来ている理由も、わたしとの縁談が本格的になるかどうかを確認したいのだろうと推測できた。


 わたしは顔を上げ、冷静な口調で挨拶を返す。侍女や周囲が聞けば「もう少し笑えばいいのに」と思うような淡々とした声だったかもしれない。彼はあまりにそっけないわたしの様子に、少し面食らったような目をしていた。


「私どもは、いずれ正式にお話を交わす機会があると伺っています。今宵はご挨拶だけで失礼いたしますが、もしご都合がよろしければ、少しお話ししていただけますか」


 彼の言葉は真摯で、わたしの目を見るときも少しも動揺する様子がなかった。内心で「思ったよりしっかりした人」と感じつつも、わたしはわざと視線を外し、ワイングラスの中身を軽く揺らした。


「お話といっても、わたくしは大したことは申し上げられませんわ。立ち話でよろしければ、しばしならお相手いたしましょう」


 決して柔和とは言えない返事に、彼はわずかに口元を引き結ぶ。周囲にいる人々は早くも好奇の視線を向け、囁き合っているらしい。「あのふたりが顔を合わせるなんて」と興味津々の声が聞こえてくるが、わたしは気にしないようにしている。人々は噂話が大好きなのだ。わたしがどんな態度を取ろうと、どんな言葉を口にしようと、それを拡大解釈して面白おかしく語りたがるだけだろう。


「差し支えなければ、今日はいくつかあなたに尋ねたいことがあるのです。お名前やご家門のことだけでなく、普段どのようにお過ごしかなど…」


「わたくしの日常など、お聞きになっても退屈でしょう。朝早くから書類に目を通し、午後からはこれらの社交の場に出向くばかりですもの」


 彼の質問をそっけなく遮るように答えたわたしに、彼は少しだけ困った表情を浮かべた。だが、その困惑はわたしの態度そのものよりも、わたしが自分のことを語ろうとしない事実に対するもののように見えた。


「そうですか。…では、あなたはこういう催しがお嫌いなのですか。それとも、お好きでいらっしゃるのか…」


「さあ、どうでしょう。判断するに値するほど意識したことはありません。貴族として出るべき場には出る。それが当たり前ですから」


 わたしの返答はどこまでも冷たく、まるで心を閉ざしているように聞こえるかもしれない。彼の眉がかすかに動くのがわかった。まるで、「なぜそこまで構えた言い方をするのか」と問いかけたそうに見える。その瞬間、周囲の視線が一層わたしたちに集中し始めたのが肌で感じられた。ここで不要に笑顔を見せれば、また何かと噂が広がるに違いない。わたしはあえて表情を変えず、軽く息を吐くだけにとどめる。


「ですが、政略であれ何であれ、将来を共にする方のことは、もう少し知っておきたいとわたしは思います」


 意外なほど率直な彼の言葉に、わたしは思わず目を見開きそうになる。こうした場面で遠回しに褒め言葉を言う紳士は多いが、彼の口調は飾り気がなく、まっすぐだ。何かを試そうとしているのか、それとも単純に誠実なだけなのか。わたしにはまだ判断がつかない。


「そう。今後ゆっくりお知りになればよろしいわ。今宵は賑わいもありますし、落ち着いてお話できる場ではないでしょう」


 やんわりとはぐらかすように言うと、彼は小さく苦笑した。その奥には、わたしに対する戸惑いや疑問が確かに感じられる。わたし自身もまた、こうして言葉を交わしながら、自分の中に小さなざわめきを覚えるのを抑えられなかった。けれど、わたしは一貫して冷淡な態度を崩さない。意地や誇りだけではなく、そう振る舞わなければならない理由があるからだ。


 わたしたちの会話は一見すると淡々としたやり取りだが、周囲からはどう映っているのだろうか。すれ違いざまにこちらを見やる貴族夫人たちの視線には、複雑な驚きが混ざっているようにも思える。わたしがあまりに素っ気ない言葉を投げかけるので、彼が失望するのではないかと不安を抱いている者もいるかもしれない。もともと、「わたしは冷酷な令嬢だ」という評判が先行しているのだから。


 だが、このやり方がわたしにとっては一番楽なのだ。相手を寄せ付けぬ雰囲気で身を固めておけば、過剰な期待や馴れ馴れしさから自分を守ることができる。そうして長い年月を生きてきた結果、わたしの周囲にはいつの間にか厚い壁のような噂が築かれていた。それはわたしの本意かどうかに関わらず、一度広まった噂はそう簡単には消えない。それでも構わない、と自分に言い聞かせることが、いつしか習慣になってしまったのだ。


 やがて、彼との会話が一区切りついたころ、伯爵夫人が別の来客を連れてわたしたちのもとへやって来た。するとわたしの相手は、名残惜しそうに「また後ほど、お話しできれば」と言って頭を下げ、他の紳士たちの輪に加わっていった。その背を見送りながら、わたしはほんの少しだけ肩の力を抜く。見知らぬ人と言葉を交わすのは、体力的にも気力的にも負担が大きい。特に、わたしの未来を左右する可能性のある人物なのだから、なおのこと神経を張り詰める必要があった。


「どうかしら。あちらの印象は悪くなかったでしょう?」


 伯爵夫人が後から声をかけてくるが、わたしは軽く笑いを浮かべて曖昧に返すだけだ。けれど、彼に対して思ったより悪い印象を持たなかったのは事実かもしれない。少なくとも、わたしの冷たい態度に怯む風ではなかったし、言葉を選びながらも率直に伝えようとする姿勢には好感が持てた。ただ、それ以上の感情を抱けるほど、わたしは素直ではない。


 その後、舞踏会はさらに華やかさを増し、男女が音楽に合わせて踊り出す。わたしも誘われるままに何曲か踊ったが、どの相手もわたしの顔色を窺いながら慎重にステップを踏む。ひとしきり踊り終えたころ、やはり体に疲れがたまり始めた。頭の奥がじんと重くなる気配を感じ、これ以上無理をすれば倒れるかもしれないと察する。


「そろそろ休ませていただきます」


 そう呟いてホールを出ようとすると、数名が「あの方、もう帰られるのかしら」と噂を立てるのがわかった。わたしはちらりと振り返り、特に誰にも挨拶をすることなく足早にホールを後にする。背後で、伯爵夫人がわたしを呼び止める声がしたが、立ち止まらなかった。今は一刻も早く、屋敷へ戻って横になりたい。それに、余計な詮索をされないためにも、ここで姿を消しておくのが得策だ。


 大理石の階段を下り、待機していた馬車に乗り込むと、扉が閉められるまでの短い間に夜風が吹き込む。わたしはその冷たい風に当たって、少しだけ頭を冷やす。こめかみに指を当て、深呼吸をするうちに、あの男性の言葉が頭をよぎった。


「将来を共にする方のことは、もう少し知っておきたいとわたしは思います」


 彼がわたしにそう述べたときの表情は、けっして押しつけがましいものでも、高慢なものでもなかった。むしろ、純粋にわたしという人間に興味を抱いているように思えた。これまで多くの貴族たちはわたしを敬遠したり、一方的に非難してきたりするだけだったのに、彼だけは違う何かを感じさせた。だからといって、わたしが心を開けるわけでもない。体が弱く、いつ倒れるかもわからない。この先どれほど生きながらえるかすら定かではない自分を、誰かに知られるなど考えられない。


 馬車が動き出すと、車内の揺れに合わせてわたしの瞼が重くなり始める。倦怠感と微熱が静かに体を蝕んでいるのを感じながら、侍女が心配そうに顔を覗き込む。わたしはなけなしの力で微笑んでみせ、口を開いた。


「…大丈夫、屋敷に戻ればすぐに休むわ」


 それだけ言うと、彼女は不安げな様子を隠さぬまま「かしこまりました」とだけ答えた。その声を聞きながら、わたしは視線を下げる。もし、自分が今抱えているものを彼に知られたら。もし、いつか彼がわたしの本心を知ろうとしたら。わたしはそれを拒み通せるのだろうか。そうした疑念が浮かんでは消え、消えては浮かぶうちに、馬車は闇に包まれた街を静かに走っていった。わたしは何度か小さく咳をして、痛む胸をそっと押さえる。これ以上の弱音は、今のわたしにとって許されない贅沢だと、自分でわかっているからだ。


 外は星明かりもない曇り空。風の音だけが小さく響く。まるで、わたしが孤立していることを象徴するように、ただ黙って馬車を揺らしていく。わたしが今日の舞踏会で見せた振る舞いは、また新たな噂を呼ぶだろう。それはけっして好意的なものではないに違いない。だが、それでも構わない。ここで完璧に強気の姿勢を崩してしまえば、わたしはあっという間に立場を失ってしまう。家のために、そして自分が最後まで“余計な詮索”を受けずに生きていくために――わたしは冷たいと囁かれ、恐れられる存在であり続けなければならないのだ。


 そして、そうした自分の生き方が、今は一番楽なのだと、自分自身に言い聞かせてきた。社交界から敬遠されるほどの仮面をかぶっている方が、わたしは安心できるのかもしれない。何より、そのほうが弱さを隠し通すには都合がいい。あの男性がどんなに真っ直ぐな眼差しを向けようとも、それに応えるわけにはいかない。わたしは、これからもこの道を歩み続けるのだろう。限りある自分の命がいつ途絶えようとも、最後まで凛としていられるために。


 馬車の軋む音が急に鳴りを潜め、屋敷の門が見えてきた。わたしはちょうど、微睡みから冷めるように背筋を伸ばす。扉の外で従者たちが待ち受けている光景が瞼に焼きつくと、わたしは再び“冷ややかな令嬢”の仮面をかぶることを思い出す。扉が開いて一歩足を下ろす間、ほんの数秒のあいだだけ、わたしは弱い自分に戻りたい衝動に駆られた。けれど、すぐにそれを振り払った。


 これがわたしの選んだやり方だ。誰にも知られない弱さを抱えながら、他者からは敬遠されて生きる。それが、幼い頃からの誓いを貫くことになるのだと信じている。今宵の出会いがもたらした小さな動揺など、一晩眠れば忘れてしまえる。部屋に戻ったわたしは、そう自分に言い聞かせながら重いドレスを脱ぎ捨て、ベッドへと身体を横たえた。淡い月明かりが窓辺を照らす中、瞼を閉じれば、どこかで彼の言葉がやけにはっきりと聞こえた気がする。


「あなたのことを知りたいと思います」


 けれど、わたしは心の中で答えることなく、ただ静かに息を潜める。深い眠りの淵に落ちる前に、微かな痛みが胸を締めつけた。まるで、誰にも悟られないよう、自分自身へ戒めをかけるかのように――わたしは今夜もまた、孤独に包まれながらまぶたを閉じたのだった。

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