最終話 余光
葬儀が終わってから、いくつかの季節が過ぎた頃。伯爵家の屋敷の庭先には、淡い日差しを受けて一帯を彩る花が咲き乱れていた。かつて彼女が生前こよなく愛し、手をかけて育てていた花と同じ品種が、わずかな風に揺られて柔らかく舞う。美しくも儚い光景は、まるでその人が今でもここにいるかのような錯覚を与える。屋敷の調度品や装飾はかつてと変わらぬままでありながら、そこにいない一人の存在が、すべてを大きく塗り替えていた。
彼女の死からしばらくの間、屋敷を包んでいたのは静寂と哀しみだった。部屋の隅々には彼女の気配がまだ色濃く残っており、侍女がそれを整理しようとするたびに、涙が止まらなくなる。ひとつ手に取るたび、そこに彼女の思いが宿っている気がした。机の上に置かれた小さな花瓶、棚の奥に大切にしまわれていたアクセサリー、そして衣装部屋に一揃え残されていたドレスたち。すべてが彼女が生きていた証だった。
今では落ち着きを取り戻したかのように見える伯爵家だったが、侍女の胸には、失った悲しみが今なお生々しく息づいている。それでも、彼女の存在を嘆くだけではいけないと、侍女は自らに言い聞かせるように日々を送っていた。かつて主人である令嬢が見せてくれた優しさと決意、そして隠された病を抱えながら生きてきた彼女の矜持――そのすべてを心に刻むために、侍女は日々の務めを淡々とこなしている。
屋敷の正門から続く敷石を、一人の青年が歩いてきた。背筋を伸ばした立ち姿は、かつての婚約者であり、今は伯爵家の人々とも頻繁に顔を合わせている。彼が初めてこの門を訪れたころとは明らかに表情が異なり、何かを乗り越えたような落ち着きを帯びていたが、それと同時に深い悲しみも隠し持っているように感じられる。その青年こそ、かつて令嬢の死を最後まで看取った人物だ。
侍女は彼が館に姿を見せるのを感じ取り、玄関のほうへ足を向けた。青年は花束を手にしており、柔和な微笑みを浮かべている。その微笑みは悲しみと優しさが入り混じったものだったが、侍女はそこに新たな決意を感じて、胸が温かくなるのを覚える。
「お嬢様の墓前に、花を手向けに参りました」
彼はそう言って、差し出したのは彼女が生前好んでいた優雅な花束。鮮やかな色彩が庭の花々と溶け合うように見える。侍女は「お待ちしておりました」と静かに一礼すると、庭の奥へと案内した。そこには新しく建てられた小さな祭壇があり、令嬢の遺影が見守るように飾られていた。飾られた写真は、病にむしばまれる前の、健康的な表情を捉えた貴重な一枚。彼女をよく知る者たちが、本当の彼女を忘れないようにと用意したものだった。
青年はそこへ近づいていき、いつものように静かに頭を下げる。彼女との思い出がよみがえるたび、胸を押しつぶすような痛みが走るが、その痛みに耐えることで自分が生きている意味を感じるようにもなっていた。束の間の沈黙ののち、彼は花束を捧げて口を開く。
「いま、あなたが見ているなら――わたしはあなたとの時間が、どれほど大切だったかを、もう一度言葉にしたい。もっと早く気づきたかったけれど、遅かったね。だけど、あなたが残してくれたものを大切に胸に抱いて、わたしは前に進んでみせる」
その小さな呟きを、侍女は黙って聞いていた。令嬢の病を知ったあとに、青年がどれだけ必死で彼女を救おうとしたかを、侍女はそばで見てきた。どんなに悔やんでも、彼女の命は戻らない。けれど、彼はもう立ち止まることをやめたのだ。彼女が守りたかったもの、貴族としての誇りや愛する者たちへの配慮、そして何よりも、弱さを抱えながらも最後の最後まで美しさを貫いた姿。それらを胸に刻みつけ、青年は新しい道を歩き出そうとしている。
「わたくしも、まだお嬢様の面影が消えないままです。ですが、それでも日々の務めをこなし、いつか誇れる自分になれるよう、頑張っていこうと思っております」
侍女の声はわずかに震えていたが、その表情には決意が宿っていた。令嬢に仕え、その死を看取ったこと。これは侍女の人生の大きな支柱だった。その重さに押し潰されそうになりながらも、乗り越えようとしているのは、令嬢の遺志を受け止めるためだ。令嬢が最後まで死と向き合いながらも、いつかの夜に綴った日記に吐き出した願いは、たとえ短い人生であっても誇りを失わずに生きることだった。それを継ぐために、侍女はもう迷わない。
「ええ、あなたが支えてくださっているからこそ、わたしも前に進めます。お嬢様の分まで……なんて言い方はご不快かもしれませんが、せめて、お嬢様の残した思いを絶やさないように」
侍女の言葉を受け、青年は少し苦笑するように笑みを浮かべた。彼女の分まで生きるなんて、あまりにも重すぎるかもしれない。けれど、互いに相手を思い出し、死を無駄にしないための道を歩む。そこにあるのは、辛さだけではないはずだ。この世を去った女性が、確かに生きたという証を胸に、彼らは自分の人生を再構築しようとしているのだから。
そのとき、風が緩やかに吹き抜け、庭の一角に植えられた花がそよぐ音がした。かつて令嬢が大切に育てていたという花が、太陽の光を受けて柔らかく揺れる。見たこともないほどに鮮烈な色合いが、まるで彼女の微笑みを象徴するかのようで、青年も侍女も胸を熱くする。まるで「まだここにいる」と、彼女が示しているようにすら感じられた。
穏やかな光と風の中、青年は墓前に視線を戻して再び心の内を語る。あの夜、彼女が最期に見せてくれた涙と微笑みは、生涯忘れられない記憶として刻まれている。彼女の死を嘆き悲しむだけでなく、その意志を受け継ぐことでしか、この胸の痛みは癒せないと知っているからこそ、彼は前に進む決意を固めている。
「あなたが最後にくれた言葉が、わたしには光です。これからの人生、あなたの分まで必死に生きて、誰かを守り抜く道を探そうと思います。……それが、わたしにできる唯一の償いなのだと」
そう誓うように言葉を落とすと、侍女はわずかに微笑みながら頷く。いつかはまた新しい日々がやってくるだろうし、伯爵家としての務めも続いていくだろう。けれど、彼女のことを知っている者たちは、同じ悲劇を繰り返さないためにも、彼女の命が教えてくれた尊さを忘れないはずだ。
陰からそっと二人を見守っていた執事が、粛々と花壇のそばを片付け始める。遠巻きにその姿を見て、青年は侍女と一緒に立ち上がった。まだ日は高く、風が穏やかに吹き寄せる。悲しみは尽きないとしても、日常は確かに続いている。あの人がいない世界で、それでも明日がやってくる以上、今を生きるしかない。
墓標の前で手を合わせ、青年がもう一度心の中で呼びかける。「ありがとう」と。「遅すぎたけれど、最後に向き合えたことを今は感謝している」と。すると、不思議なほど胸の奥に暖かな感触が広がった。まるで彼女が返事をしてくれているかのように感じられる。青年は少しだけ笑みを浮かべて、そのまま背を向ける。
「行きましょう、わたしはまだやらなければならないことがある。この国や家のためにも、そして彼女のためにも」
侍女は「はい」と応じ、少しうつむき加減だった視線を上げた。その瞳に決意と覚悟が映る。人生は続く。喜びも悲しみも、交錯しながら流れていくけれど、二人はもう独りにはならないだろう。どちらも、彼女を想い、彼女が残した輝きを共有しているからだ。
やがて、二人は並んで屋敷の外に向かう。背後で風が音を立て、花々を揺らす。まるで「さようなら」と告げるかのようなその光景に、侍女は少しだけ足を止めて微笑んだ。先を歩く青年もちらりと振り返り、同じように微かに笑ってみせる。そこには切なさと同時に、静かな希望が満ちている。
あの女性はもういない。けれど、彼女が生き抜いた時間は確かに存在していた。その証となる形見の日記や、小さなアクセサリー、そして何よりも、最期に見せたあの儚い笑顔。苦しみを抱えながらも愛を求め、最後にそれを手にして逝った彼女の人生は、短くとも揺るぎない意味を宿していたのだろう。彼女の分まで強く優しくあろうとする婚約者と侍女の姿は、まさしくその証明ともいえる。
ふと庭の一隅で、風にそよぐ花の音が耳を打つ。それは、令嬢が幼いころに種を蒔いて育てた花の子孫だという。色とりどりの花弁が、穏やかな日差しの中で輝き、どこか懐かしさと温かみを感じさせる。この花を大切にしていた彼女が、それとなく二人を見守っているかのように思えた。
形あるものはいつか朽ちるとしても、人々の心に刻まれた記憶や思いは、そう簡単には消えない。彼女のことを覚えている限り、彼女が遺した光は絶えず誰かを照らし続けるだろう。短い人生だったが、それでも周囲に確かな影響を与え、優しい火を残した。その火を守り育てようとする人々の姿こそ、彼女が命をかけて示した奇跡のようなものに違いない。
青年と侍女は歩みを進める。やがて石畳を抜け、穏やかな青空の下へ向かう。屋敷の門を出るまえに、青年が最後に一度だけ振り返る。花が風に揺れ、柔らかな香りを運んでくる。その香りが、まるで「ありがとう」と告げているように感じられる。青年は心の中でそっと応え、「わたしこそ、ありがとう」と繰り返す。そうして、深く息を吸い込むと、もう迷うことなく前を向いて歩み始める。
こうして二人は、主人が遺してくれた光を胸に、新たな日々へと旅立っていった。その光が時として優しく、時として苦々しい痛みを伴うとしても、令嬢が生きたという事実を、誰かの心に刻み続けるだろう。短くとも確かに燃えた命は、愛に触れた最後の瞬間にこそ最大の輝きを放ち、周囲に希望を灯していく――彼女を愛し、彼女を守ろうとした人々にとって、その炎は永遠に消えることのない記憶になったのだ。やがて季節がめぐり、人々の暮らしに変化が訪れても、彼女が残した思いの軌跡は、いつまでも風に揺れる花のように穏やかに息づいている。
(完)




