第14話 喪失
わたしの意識が闇の底へ沈んでいったあと、どれほどの時間が流れただろう。朧げに感じるのは、かすかな人肌の温もりと、声にならない嘆きの振動だった。深い海の底で、光を探し求めるかのように、わたしは意識の断片を掴もうともがく。しかしそれは、まるで半透明の膜を隔てているようで、はっきりとした形を結ばない。やがて、痛む呼吸が再びわたしを現実へと引き戻していく。
目を開いたとき、視界に映ったのは、おぼろに灯されたランプの光だった。屋敷の一室のように落ち着いた家具が配置されているが、わたしがどこにいるのか正確にはわからない。ただ、この場所があの別荘の小さな寝室ではないと気づくには、さほど時間はかからなかった。傍らに誰かがいる。かすれた呼吸を整えるようにゆっくり顔を向ければ、彼――わたしの婚約者の面差しが視界に飛び込んできた。彼は苦しげな表情を浮かべながら、わたしの手を握りしめている。涙をこらえる気配が伝わってきて、胸が痛む。
「……ここは……?」
細い声で問いかけると、彼は顔を上げ、小さく震えた微笑みを浮かべる。すぐ近くには、侍女の姿もある。彼女の瞳は赤くはれていて、何度も涙を流した痕跡がにじんでいた。どうやら彼はわたしを別荘から連れ出し、伯爵家でも王宮でもない、どこか人目に触れないまま治療を受けられる場所に運んだらしい。だが、わたしの身体は今さら治療で救われるような状態ではない。それを痛感しているわたしに、彼もまた痛いほどの苦しみを募らせているのだろう。
「……少し、落ち着いたみたいだな。ずっと意識が戻らなかったから、心配していたんだ」
そう言いながらも、彼の声は沈んでいる。いつもの力強さや活気はまるでない。わたしが息をするたび、胸の奥を切り裂くような痛みがこみ上げては、意識をかき乱す。ここ数日で、病がさらに進行したとしか思えない。わたしはやっとの思いで唇を開き、震える声を絞り出す。
「……あなたが、助けてくれたのね。ありがとう……でも……」
その言葉に、彼は首を横に振り、わたしの手をしっかりと抱くように包み込む。少し硬く感じる彼の手のひらに、潤んだ熱が伝わっていた。侍女は何か言いたげに身を寄せたが、言葉をかけることなく唇を結んでいる。部屋には、わたしの浅い息づかいだけが響き、沈黙が満ちていた。
わたしの体は痛みと共に確実に限界へと近づいている。胸の奥を走る鈍い熱が、まるで命を削る炎のように感じられる。わかっていたはずだ。余命はわずかで、どんなに抗っても最期は避けられない。もう十分、ここまで生き延びたことが奇跡とすら思える。けれど、その奇跡が愛する人の腕の中で迎えられるとは、思ってもいなかった。
「お嬢様……っ」
侍女の声が震え、わたしはかすかに顔を向ける。彼女の目には涙が溜まっていて、頬を伝うのを必死でこらえている様子だった。何も言わなくても、彼女がどれほどわたしのために奔走し、苦しみ、願ってきたかは痛いほどわかる。わたしは視線を侍女と交わしただけで、今にも消え入りそうな声で「ごめんなさい……」と呟いた。侍女は「あっ」と小さく息を詰まらせ、再び視線を伏せる。わたしが幼い頃から守ってくれた彼女に、わたしは感謝しかないのに、結局“ありがとう”すらまともに伝えられなかった。
「……やめてくれ、謝るな。君は何も悪くない」
わたしの微かな独白を、彼が制するように言う。その眼差しは、涙で歪んでいるのか揺らめいていて、どこか悲しく、そして悔しそうに見える。それだけわたしの命の火は、今にも消えかけているのだと、彼は理解しているのだろう。わたしは呼吸を整えようと試み、しかし浅い咳がこぼれると止まらない。
「ごめんなさい……もう……わたし、頑張れないわ……」
身体に力が入らず、瞼が落ちていきそうになる。深い眠りの誘惑と、激しい痛みの拮抗が、わたしをもてあそんでいるようだった。どんな言葉をかけられても、まるで遠い海の向こうから聞こえてくるような感覚がある。彼はそれでもわたしを置いてはおけないらしく、暖かな手で背中をさすって呼吸を助けようとする。
「もういい。もう何も考えなくていい。君は十分、頑張ったんだ。わたしがずっとそばにいるから……」
そう囁く声に心が揺れ、閉じかけた瞼が微かに開く。嘘みたいだ。自分がどれほど強がっても、死の間際にこうして腕に支えられ、涙を流してもらえるなんて。わたしはもう一度、顔を上げて彼を見つめる。かつて冷たく突き放したときとは違い、そこにはもう壁もなく、ありのままの弱い自分がむき出しのままだ。
「……わたし、本当はね、あなたに頼りたかった。怖かったの、死ぬのが」
震える声で漏れた本音は、ずっと抑えこんできた苦悩そのものだった。死が怖い。人知れず消えてしまうのはもっと怖い。けれど、弱音を吐けば周囲の期待を裏切り、同情を浴びて生きるしかない――そんなジレンマに閉ざされてきたわたしが、今、最期の瞬間にだけ正直になっている。彼はわずかに肩を揺らしながらも、わたしの手を強く握る。
「知ってる……日記に書いてあった。それなのに、わたしは何も気づけなかった。許してくれとは言わない。けど、せめて最後まで君のそばにいさせてくれ」
目頭が熱くなり、瞳に涙が浮かぶ。こんなにも優しい言葉が届くのなら、もっと早く弱さを見せればよかったと、後悔の念が溢れて止まらない。けれど、それももう終わりだ。頭の奥で、かすかな警鐘が鳴るのを感じる。咳が深くなり、体の奥から血がこみ上げてきそうだった。彼がそれを止めようとするが、どうにもならない。わたしは口元を覆い、鮮やかな赤をほとばしらせる。
「……苦しいの……ごめんなさい……」
「言うな……謝らないでくれ……苦しいなんて、君が言わないでくれ……!」
悲痛な訴えが耳に刺さるが、わたしは彼を気遣う余裕もなく、咳に身を預けるしかない。どこからか侍女が水を持ってきた気配がするが、視界がかすみ、はっきりとは見えない。首を振って、「もういい……」と小さく呟くと、侍女が押し黙ったまま足元にひれ伏すようにして声を詰まらせる。
ああ、こんなにもわたしは人に愛されていたのだ。ずっと孤独と思い込んでいたが、それはわたし自身が周囲を遠ざけていたからだ。最後の瞬間がこれほど切ないのは、失うものがあるからなのだろう。わたしは涙を流しながら、彼へ視線を戻す。まばゆいほどの悲しみを宿した瞳が、わたしのどんな言葉も逃さないように見つめている。
「あなたが、好き。……ごめんなさい、本当は、頼りたかった。わたしのために、こんなにも苦しんでくれて、ありがとう……」
初めて口にする愛情の言葉に、彼は驚いたように息を飲む。だけど、すぐに涙を流しながら微笑み、わたしの頬にそっと手を添えた。その手のひらの暖かさが、今のわたしには奇跡のように感じられる。彼は震え声で「わたしもだ」と繰り返し、もはや言葉にできない感情を必死にこらえているようだった。
「ずっと君のそばにいたかったんだ。君に笑ってほしかった。それなのに……こんなにも遅くなって……」
すべての後悔が詰まった声音に、わたしは首を左右に振る力さえない。ただ涙を流し、声にならない声で「ありがとう……」と伝え続ける。彼がもう一度「諦めない、絶対に」と言うが、世界が遠ざかるのを止めることはできない。耳鳴りのような空白が訪れ、意識がじわりと薄れ始める。ふと呼吸が止まりそうになり、彼が必死に呼びかけるのがわかる。
「待ってくれ……行かないでくれ……!」
願い叫ぶ声が痛いほど切なく、わたしの胸を締めつける。だが、身体の奥にある命の灯はすでに燃え尽きかけていた。最後の気力で、か細い声を振り絞る。
「わたしを、覚えていて……あなたが、わたしを思い出してくれれば……それだけで……」
言葉が途切れ、口から一瞬くぐもった息が漏れる。彼が目を見開いて、泣き叫ぶように声を上げるが、わたしの聴覚は静寂に包まれていく。思考も薄まり、何か温かい光に身を委ねるような感覚にとらわれる。両側から触れてくる手のぬくもりだけが、最後の安らぎだった。侍女が泣き崩れるのが見え、彼の瞳にも大粒の涙が溢れている。わたしはその泣き顔を、どこか愛おしさを抱えながら見つめ、もう何も言えないまま、瞳を閉じる。
静かに息が漏れ、身体の力がすべて抜け落ちる。呼びかける声が次第に遠のき、世界が暗い深淵へ溶けていく。こうしてわたしは、やがて失われる運命を受け入れながら、彼と侍女に看取られた。それは、孤独を抱えていたわたしにとって、最も幸せな最期だったのかもしれない。
翌日、その報せはすぐに貴族社会を駆け巡った。かねてより「冷たい令嬢」と呼ばれていた伯爵家の娘が、病の悪化でこの世を去ったという。ほとんどの人々は、「あの人が死んだのか」程度の驚きと興味本位で噂を交わす。中にはせせら笑う者や、「大袈裟に病を装っていただけなのでは」と根拠のない憶測を並べる者もいた。実情を知らない者たちは、彼女が死に瀕するまで必死に生きていた努力など微塵も気づかないのだ。
「結局、あの方は何をやりたかったのかしらね」「そもそもご病気とは本当だったのかしら」という陰口が、社交界のあちこちで広まる。しかし、彼女の死に隠されていた真実に辿り着いた一部の人々――彼女と近しい関わりを持った者は、その噂にひそかな衝撃を抱く。なぜ誰も救いの手を差し伸べなかったのかと自責する者もいれば、今さら悔やんでも取り返しがつかないと胸を痛める者もいた。
屋敷の一角に佇む侍女は、彼女の小さな日記帳をそっと手の中に納めて泣いていた。その日記は、かつて主人公が苦悩を吐き出し続けてきた本心の証。侍女の手からすでに婚約者へと渡されたはずだったが、今は形見として一部が複写され、ここに返されている。彼女の優しさや想い、そして誰にも話せなかった怖れ――すべてを抱えて主人を亡くした侍女が、遺された文字を何度も指でなぞり、泣きしずくを零し続けるのを、誰も止められない。
婚約者の方も、伯爵令嬢の葬儀には人目を避けるようにして弔問に訪れた。その瞳には深く激しい悲しみが焼きついたまま、言葉ひとつなく長い間、棺の前に立ちすくむ。その姿を見た人々は「あの方は本気で恋していたのかしら」「いまさら何を思うのだろう」とささやくが、彼にはもはや耳に入らない。彼女と交わした最後の言葉、そしてあの日記が示した真実――それが、今も生々しく胸を締めつけているのだ。
棺が静かに閉じられ、主人公の小さな形見や愛用していたアクセサリーが納められていく。その手の中に握られたはずのアクセサリーに気づいた侍女は、涙をこらえきれず崩れるように泣き伏す。婚約者はそれを見ながら、堪えきれない悲しみと悔しさに息を詰まらせる。もしもっと早く気づいていれば、彼女をこんな最期にはしなかったかもしれない。そんな後悔が、鋭い刃のように胸をかきむしる。
「君を守れずに、すまなかった……」
小さな声で呟く婚約者の頰にも、滲んだ涙の痕がはっきりと見える。周囲の貴族たちは「あの人がこんなにも取り乱すなんて」と驚いたり、「本当に愛していたのだろうか」と勝手な推察を巡らせるが、誰一人として事実を知る者はいない。彼が何を失ったのか、彼女が何を求めていたのか。その答えは、もう二度と主人公の口から語られることはないのだから。
主人公は、ぎりぎりまで病に苦しみながらも、弱みを見せまいと孤独に耐え抜いた。悪評や意地悪な噂を聞くたびに傷ついていたが、それでも最後には婚約者と侍女に見守られ、静かに息を引き取った。人々の噂には彼女の本当の姿は残らないかもしれない。けれど、彼女に寄り添い、その死を看取った者たちの胸には、もう二度と消せない後悔と愛しさが息づいている。
こうして、強さと脆さを秘めた一人の令嬢の人生は幕を下ろす。しかし、その死が貴族社会に残したものは大きい。彼女が最期まで隠し通した病の重さや、本心を綴った日記を知る者たちは、口々に「もっと早く助けを呼ぶべきだったのではないか」「彼女をただの冷たい人だと誤解していたかもしれない」と嘆くのだ。だが、どんなに悔やんでも、亡くなった命は決して戻らない。彼女の命が灯した深い孤独と愛の物語は、婚約者と侍女の胸で、痛烈な記憶としていつまでも燃え続けるに違いない。
葬儀を終えた後、静まり返った屋敷の一室に、婚約者と侍女は並んで座っていた。ふたりとも瞳を真っ赤にしながら、小さな形見の品を机にそっと置く。そこには彼女の愛用していたリボンやアクセサリーがあり、そして侍女はわずかな日記の複写を握りしめている。そのページには、彼女が夜な夜な綴った魂の叫びが克明に残されていた。
「これが、あの人の、本当の思いだったのですね……」
侍女は声を震わせる。婚約者はまぶたを閉じて深い息をつく。どんなに懺悔の言葉を重ねても、彼女は二度と戻ってこない。それでも、彼の心はどこかでまだ彼女を感じていた。生きることを拒まざるを得なかった弱い姿を、最後に掬い上げてやれなかった自分を責めながら、それでも「彼女を知ることができてよかった」と思わずにはいられない。
夜を迎えるその部屋に、ふたりの小さな嗚咽が重なる。幾多の誤解と噂の中で、“一人の女性”が必死に生き、そして逝った事実が、じわりと静かな爪痕を残しているのだ。彼女の生き様が真実だと知る者はわずかだが、そのわずかな者たちにとっては何より大切な遺産となる。伯爵家の令嬢――彼女は、もうどこにもいない。だが、婚約者や侍女、そしてほんの少しでも彼女を理解しようとした人々の心の中に、儚くも美しい最後の光を灯していったのだった。