第13話 邂逅
夜の闇が沈むころ、小さな別荘の窓辺にはまだ明かりがともっていた。幼い頃に父母と訪れた思い出の場所。周囲には鬱蒼とした森と小さな湖が広がり、ここへ人が足を踏み入れることはほとんどない。わたしは誰にも見つからないよう、まだ動くうちにこの地へ逃げてきた。できるだけ静かに、穏やかに最期を迎えるために。
ドアに鍵をかけ、古いランプの柔らかな灯を頼りに、ずいぶん埃をかぶっていた部屋を何とか整理する。昔、家族とともに来た頃は、もっと温かみのある場所だったように思うが、今はただ冷えきった空気の中で、かすかな懐かしさが胸を刺す。あの頃は父と母に笑顔があって、わたしも熱さえ出さなければ広い庭を走れた。それらが遠い幻のように感じられる。呼吸をするたびに胸が痛む今のわたしでは、この家でさえ広すぎる。
身体を横たえようと寝台に腰を下ろすが、激しい咳が突き上げてきて、しばらく動けなくなる。枕元に置いた杯に血が混じった痰がこぼれ落ちるたび、自分に残された時間の短さを痛感する。姿見に映った頬はやけに白く、いつかの舞踏会で飾っていた華やかさはどこにもない。周囲がどれだけ「あなたは綺麗だ」と囁いても、実際には病魔が蝕む姿がここにはあるだけだ。
少し呼吸が落ち着いたところで、わたしは懐から慣れ親しんだ小さな手帳を取り出しかけて、思わず動きを止める。あの日記は、王宮で彼に見つかる前に侍女へ託したはずだったと思い出し、そっと目を伏せた。ずっと本心を隠し続け、行き場のない思いを綴ってきたその手帳は、今ごろどこにあるのだろう。もしかすると彼の手に渡っているかもしれないと考えると、胸が少し疼く。読まれては困るはずなのに、それでも「知ってほしい」と願う自分がいる。わたしは頭を振って、そんな未練を振り払う。
「もう、何も残っていないもの。……わたしは最後まで誰にも迷惑をかけずに消えるのがいちばんいい」
声に出してみても、悲しみが募るだけだ。蝋燭の火がかすかに揺れ、やがて一縷の煙とともに消えかける。身体を横たえたまま、外が白み始める様子をぼんやりと見つめるが、次第に意識が朦朧としていく。いつ眠り、いつ目覚めるのかも曖昧になりながら、ときおりきつい咳に襲われては苦痛に顔を歪めるしかない。もしこのまま息絶えれば、それも仕方のないこと――そんな諦観すら浮かぶほど、体は弱っていた。
どれほど時間が経っただろうか。遠くから何か物音が聞こえる。誰かが屋敷の扉を開け、荒い息づかいで足音を響かせているのがわかる。こんな場所を知る人などほとんどいないはずなのに、心臓が痛みを伴って高鳴る。まさか侍女か、それとも――
ドアが勢いよく開き、差し込んだ光に一瞬目が眩む。そこに現れたのは、捜し続けていたのだろう、顔色を失い、汗に濡れた婚約者の姿だった。荒れ果てた息を繰り返しながら、わたしを見つけるなり驚愕と安堵が入り混じった表情を浮かべている。
「なぜ、ここに……?」
つい声が出てしまったが、咳に遮られて息が詰まる。彼はわたしに駆け寄ろうとするが、わたしは弱い力で腕を振って制止する。こんな姿を見られたくないのに、どうにも体が動かない。彼は迷わず膝をつき、わたしの肩に手を当て、必死に支えようとするが、わたしはそれを拒むように顔を背ける。
「やめて……これ以上、あなたを煩わせたくないの……」
自分でも聞き取れないほど小さな声だったが、彼は頭を横に振る。瞳に怒りと焦りと悲しみを宿したまま、なんとか言葉を紡ぎ出している。
「煩わされるとか、もうそんなことはどうでもいい。君がどれほど苦しんできたか……日記を読んで、知ったんだ。だから、頼むから……一人で抱え込まないでくれ」
やはり日記が手に渡ってしまったのだと悟り、わたしは思わず目を閉じる。弱音は見せないと決めたのに、彼があの文章を読んだ以上、嘘は通じない。けれど今さらどうしようもないのだ。病状はすでに限界に達し、わたしは自力で立ち上がることすらできない。
「……なら、わかったでしょ。わたしは……時間がない。あなたが助けたいと思っても、無駄よ。だから放っておいて……」
その言葉に、彼は苦悶の表情を浮かべながらも、決してわたしから視線を外さない。「無駄なはずがない」とでも言いたげに唇を引き結び、まるで奪われた時間を取り戻そうとするように必死で手を伸ばしてくる。弱い声で拒もうとしても、彼の決意を崩すことはできなかった。
「馬鹿を言うな……無駄なんかじゃない。君はまだ生きているじゃないか。余命が短いと言われても、何もしないまま終わるわけにはいかない。今すぐ治療を受けるんだ。手配するから、だから――」
「……病は、そんなに甘くはない……」
咳とともに血が込み上げ、口元に赤い染みが広がる。彼の瞳がはっと見開かれ、わたしの肩を支える手にさらに力がこもる。でも、いくら彼が励ましてくれようとも、わたしの身体はもう限界だと告げている。脳裏には幼いころの高熱や、度重なる発作の記憶がよみがえり、今がまさに「終わり」だと悟らせる。
「あなたが、こんなふうに慌ててくれるのは嬉しい……でも、わたしはもう……」
言葉を続けようとした途端、視界が揺れ、呼吸が切れ切れになる。彼はわたしの手を握りしめ、その温もりが心にじわりと染みる。驚くほどの優しさがそこにはあった。わたしを遠ざけていたのはいつも自分のほうだったのに、こんなときになってやっと触れてもらうなんて、なんとも皮肉な運命だ。
「君は愛されていいんだ。君は一人じゃない。だから、頼むから死なないでくれ。僕は……僕は君を助けたい」
痛烈な思いがこもった声に、わたしの心は激しく揺さぶられる。冷たく突き放してきた態度が、今、後悔の波を連れて押し寄せる。もし早く弱さを認め、彼に頼っていたら、何か違う未来があったのだろうか。しかし、そう考えるには遅すぎる。わたしの呼吸はもはや浅く、枯れ果てたような声しか出せない。
「……あなたが、わたしを探してくれるなんて、思いもしなかった……本当は、少しだけ……期待していたのかもしれないわ……」
彼は瞳に涙を宿し、わたしの腕をそっと引き寄せる。わたしの頬に触れる指先は熱を帯び、決して離さないとでも言うかのように震えている。苦しさで朦朧とする意識のなか、わたしはどうしようもない愛しさを覚える。ずっと望んでいたぬくもりが、ここにある。
「本心を打ち明けてくれてありがとう。でも、もう遅い。……わたしに、こんな身体で生き続ける価値なんてない。あなたを巻き込むだけ……」
「そんなこと、誰が決めた。君には生きる価値がある。君の命は尊いんだ。だから捨てるな。捨てないでくれ……」
「……でも……父も母も、伯爵家も、わたしに期待はしていない。いずれ死ぬ娘だと……みんな薄々勘づいていたわ。だから……あなたにも同じ思いをさせてしまう……?」
言葉の端々が途切れがちになり、息苦しさは倍増していく。彼はわたしの話を遮るように首を横に振り、何度も「違う」と否定する。その瞳には熱い涙があふれ、わたしの頬にぽたりと落ちた。冷たくも熱いその滴に触れた瞬間、何かが崩れ落ちる。
「君を失いたくなんかない……君は、僕にとって大切な人だ。血の繋がりや家のためじゃなく、君自身が大事だ。だから、お願いだ、行かないで……」
必死に訴える彼の声を聞きながら、わたしは心の奥底で微かな救いを感じる。同時に、苦しい後悔も込み上げる。もっと早くこの人に打ち明けることができていたなら……と。しかし、病が蝕む身体はそのチャンスを奪い去った。今さら何を言っても、もはや時間は取り戻せない。
「……あなたの言葉、嬉しいわ。わたしの……強がりばかりの人生でも、最後にこうして、あなたに会えて……」
そこで声を失い、激しい咳き込みに襲われる。口元には赤い泡が滲み、彼が悲鳴に近い声を上げるのがわかる。わたしの身体がぐらりと傾くのを、彼の腕が必死に支えてくれた。意識が遠のく中でも、彼のぬくもりははっきりと感じられる。
「駄目だ、こんなところで終わらせはしない。医師を呼んで、何としてでも手を尽くす。いいな、絶対に諦めないぞ……!」
わたしはうまく言葉を返せない。口から血がこぼれ、視界が真っ暗に染まりかけている。まるで、すべてが遠くへ離れていくような感覚だ。だが、彼の声だけははっきりと耳に届いた。
「だから、頼むから目を開けていてくれ。君を救いたい。君のそばにいさせてくれ……」
「……ごめんなさい。でも、……ありがとう……」
微笑もうとしても、唇が思うように動かない。彼が名前を呼ぶ声が耳にこだまするが、もう答えられない。このまま眠るように意識が落ちていく自分を、どこかで冷静に眺めている感覚があった。彼がわたしを抱きしめるようにして支える中、ゆっくりと瞼が下りていく。すべてが真っ暗になる瞬間、わたしはわずかな安堵すら抱いていた。こんなにも必死に自分を想ってくれる人が、最期の瞬間にそばにいるなんて――
そして、世界が静寂に包まれる。彼の叫びも、息遣いも、遠い彼方でざわめく風のように聞こえるだけだった。意識が糸のように細くなり、どこかへ引きずり込まれるように落ちていく。だが、彼の腕の温もりと涙を感じながら、わたしは深い闇の底へ落ちていくのを、受け入れるしかなかった。