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第12話 慟哭

 静まり返った控室で、彼は革表紙の小さな手帳をゆっくりと開いた。最初の数ページは、短い書き込みと日付の羅列が見えるだけだったが、ページをめくるたびに、彼女の抑えきれない思いが文字の陰から立ち上がってくる。そこに綴られたのは、伯爵家の令嬢としてあまりにも重い宿命を負った一人の女性の孤独と、誰にも頼れない切なさだった。


 ペン先で引きずるように刻まれた言葉の数々は、読み手の心をえぐるほど生々しく、彼の鼓動を容赦なく早めていく。呼吸を整えようと深く息を吸ってみても、ページをめくる指先の震えは止まらない。次の一文を読むのが怖い――そう感じながらも、彼は日記に刻まれた文字から目を離すことができなかった。


「わたしは、誰かに愛されたいと思ってはいけないのでしょうか。

 幼いころから、病弱な身体を周囲に知られてはならないと教えられました。家のため、体面のため、それがわたしにできる唯一の役目だと。

 でも、心のどこかでは、いつか誰かに気づいてほしいと思ってしまう。こんなにも苦しいのに、何も知られずに終わるのは、あまりにも寂しいから」


 その文章を目にした瞬間、彼は息苦しさを覚えて顔を上げた。彼女の態度を高慢だと感じていた自分が、いかに浅い理解しか持ち合わせていなかったのかを痛感させられる。あの冷たく見えた視線や言葉の裏側には、こんなにも強い「愛への渇望」があったのか。否定的な印象に惑わされ、彼女の真意に近づこうとしなかった自分を呪うような思いが込み上げる。


「どうして、もっと早く聞いてあげられなかったんだ……」


 独り言のように漏れた声は、控室の薄暗い静寂に吸い込まれていく。誰もいない部屋の中で、彼はなおもページをめくり続ける。書きつけられた日付が進むに従い、彼女の苦悩が濃密に表現されていくのがわかる。日増しに迫る死の恐怖と、だからこそ決して弱音を吐かずに生きることを選んだ彼女の必死さが、文面から痛いほど伝わってくる。


「いつ終わりが来るのだろう、と夜ごとに考えてしまう。

 余命が数か月だと言われても、わたしはもう動じないつもりだった。けれど実際に血を吐くたび、自分の身体が限界なのだと思い知らされる。

 もしこれが最後なら、誰にも見られずに消えたい。周囲に同情されるくらいなら、一人で消えるほうがましだと、そう思う」


 あの舞踏会で血を吐いて姿を消したのは、まさに「誰にも見られずに消える」ための行動だったのだろうか。彼は呼吸を詰めたまま、日記の行間に滲む悲痛な嘆きに胸を締めつけられる。どれほどの不安と恐怖を抱えながら、彼女は笑顔を装い、家の名声と誇りを守り続けてきたのか。今さら痛感しても、すでに彼女はこの王宮のどこにもいない。


「もし、わたしが病を隠していると知られたら、みんなの期待を裏切ることになる。伯爵家の名を汚したくない。わたしは弱い姿を見せられない。

 いつか婚約者が疑問を抱いても、やはり本当のことなど言えない。あの人に憐れみを向けられるのは、きっと耐えられないから。

 できることなら、愛されたい。けれど、その思いを口にすれば、わたしは依存してしまいそうで怖い」


 彼は日記を握る手をぎゅっと固めた。彼女が自分に向けていた態度の奥には、確かに遠慮や戸惑いではなく、もっと深い苦しみがあったのだ。血が出るほど口を噛んでも、悔しさや悲しさは募るばかり。もし彼女がまだ近くにいれば、抱きしめて「もう一人で苦しまなくていい」と伝えたい。それなのに、彼女はすでにこの場を離れ、どこへ行ったのかわからないまま。


「なんてことだ……」


 読み進めるほどに、彼女がどれほど孤独だったかが克明に描かれていた。誰にも言えない病の恐怖と、自分を大切にしようとしない姿勢――それは「死を恐れながらも、死に一人で向き合おう」としていた証拠に他ならない。そんな彼女の姿を想像すると、彼の胸は耐えがたいほどの痛みに襲われる。今、彼女は命の危険と隣り合わせの状態で、どこか暗い場所に身を隠しているかもしれない。その姿を考えるだけで、身体が震えた。


 さらにページをめくると、彼女が婚約者に対して微かな憧れや感謝を抱いていることも記されていた。舞踏会や社交界で「彼がこちらをどんな目で見ているのか」を意識し、時折見せる優しさに心が揺れたこと、しかし弱さを見せるわけにいかず、突き放してしまったこと――そのすれ違いの数々が、胸を締めつけるほど切ない言葉で書かれている。


「あなたに興味を持たれているのはわかる。

 でも、わたしはあなたの優しさに甘えられない。余命がわずかだと知ったら、きっとあなたは憐れんでしまうでしょう。それが一番嫌なの。

 本当は、そっとでもいいから支えてほしいのに、手を伸ばしてしまえば、わたしのすべてが崩れてしまう気がする」


 この一文にたどり着いたとき、彼は膝から力が抜けて、その場にへたりこんだ。扉を閉めている控室の中とはいえ、もし誰かが見れば驚いたかもしれない。彼が日記の内容を噛みしめるたび、彼女に対する申し訳なさや痛恨の思いが胸を切り裂いている。彼女は何度も救いを求めたいと感じながら、それを自ら拒絶してきたのだ。そして彼もまた、彼女の苦しみを察することなく責めるような言葉ばかり投げかけていた。


「気づいてあげられなかった……こんなに近くにいたのに……!」


 どれほど取り返しのつかないことをしただろう。もし彼女の病を知っていたなら、彼の行動は変わったはず。彼女が孤独と死の恐怖を抱えていたなら、少なくとも冷たい言葉をぶつけることはなかった。その後悔は激しい慟哭となって、声なき声で彼の内面を荒れ狂わせる。目頭が熱くなり、ぐっとまぶたを閉じて息を詰めた。


 日記の最後のページには、舞踏会へ向かう前日と思われる日付が記されていた。そこには、「もし、明日の舞踏会を無事に乗り切れたなら……」と始まる、わずかな希望と決死の覚悟が交錯する言葉が綴られている。そして、その続きは空白。彼女が実際に舞踏会で吐血して倒れ、姿を消した現実を考えると、ここで日記の筆が止まっていること自体が何より痛ましい。


「舞踏会で流した血が、わたしの最期の合図にならないといいけれど……

 できるなら、まだ生きていたいと願っている。

 だけど、もしわたしが倒れたら、きっと誰にも頼らず去る。それがわたしの望んだ幕引き」


 震える呼気を吐き出し、彼は日記を閉じた。怒りと悲しみ、そして熱い衝動が胸の奥に泡立っているのを感じる。彼女は今、どこかで一人死へ向かおうとしているかもしれない。だが、それを見過ごすわけにはいかない。たとえ彼女が拒んでも、死にゆく運命を共に抗う道があるはずだと、彼は信じたい。


「……彼女を、救わなければ。いや、救いたい。わたしはもう手遅れにはしたくないんだ……」


 こみ上げる後悔と慟哭を押し殺すように、彼は力強く日記を抱きしめる。彼女がここまで苦しんできたことを知った以上、たとえ彼女が再び拒絶しようと、何としてでも見つけ出して支えたい。余命がどれほど短くても、一人で死に向かおうとする彼女を放っておくことなどできない。医師のもとへ連れて行くなり、屋敷の者たちと相談するなり、できることは山ほどあるはずなのだ。


「待っていてくれ。わたしは、あなたを決して一人にしない。あなたがいくら突き放しても、わたしが必ず見つけ出してみせる……」


 彼は日記をしっかりと握りしめたまま、立ち上がる。涙が落ちそうになるのをぐっとこらえ、まぶたを固く閉じた。深い呼吸を繰り返して、心を決戦のように落ち着かせる。すでに夜は更けているが、今からできる捜索を始めるつもりだった。王宮の衛兵や使用人にも声をかけ、馬車を手配してでも、彼女の行きそうな場所を一つひとつあたっていく。それが徒労に終わる可能性があっても、彼にはそれしか道がない。


 扉の外へ出る直前、侍女が立ち尽くしていたのが目に入る。彼は短く頷き、ここに記されていたことが真実だと伝えるように、日記を抱く腕に力を込めてみせた。侍女は「ありがとうございます……」と震える声を返し、彼を見送る。その言葉には安堵と祈りが混ざっていた。きっと侍女も、令嬢を助けたいと痛切に願っているのだろう。


「必ず見つけます。わたしのわがままでも、もう放っておくことはできない」


 それだけ言い残し、彼は夜闇の残る王宮の回廊を足早に進んだ。日に日に深まる死の影が、彼女の身を蝕み続けているのを想像すると、心が焼けるような思いに苛まれる。たとえどこまで拒絶されようとも、わたしは彼女を探し出し、守り抜く――その強い決意が、これからの行動の原動力となっている。


 こうして控室を後にした彼は、闇夜を駆けるように、馬車や衛兵を手配し始める。次に彼女と再会するときこそ、真実を知った彼がどれほどの覚悟と愛情を持って彼女を支えるか――その行く末を決めるのは運命か、それとも彼自身の意志か。いずれにしても、夜明けを待たずして、彼の捜索の旅は始まろうとしていたのだった。

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