第11話 告白
夜の静寂を破るように、王宮の廊下には足音が響いていた。息を切らしたまま駆け抜ける婚約者の姿は、それまでの凛とした佇まいとはまるで別人のように見える。まばゆい大舞踏会の最中、突如として倒れ、血を吐きながら姿を消した伯爵家の令嬢。その行方を知るために、彼は狂おしいほどの焦燥に駆られていた。
大広間を出てから、彼は使用人たちに片端から声をかけ、令嬢の足取りを確かめようとする。あの扉を潜ったあと、一体どこへ向かったのか。すでに夜の闇に紛れてしまったのではないか――そんな不安が胸を締めつける。さほど時間が経っていないはずなのに、なぜ誰も彼女を見つけられないのか。脳裏には、先ほど目にした血の赤が焼きついていて、消えることがない。
やがて、重い扉の向こうから小走りで現れたのは侍女だった。彼女の顔色は青ざめ、悲壮ともいえる決意が浮かんでいる。息を詰まらせながら彼に駆け寄ってきた姿に、彼は思わず声を張り上げた。
「彼女は、どこへ行ったのですか。教えてください! あんな状態で外へ出られたら――」
侍女は胸に手を当て、必死で言葉を整えようとしている。けれど、その瞳には深い悲しみと迷いが混在していて、容易に口が開かないようだった。まるで、ずっと守り抜いてきた秘密を、いままさに明かすかどうか天秤にかけているかのようだ。
「お嬢様は……実は……」
侍女の声が震える。王宮の煌びやかな廊下でもう何度目かの足止めを食らい、彼の苛立ちと不安は限界に近かった。けれど、その表情をまともに見据えられないまま、侍女は言葉を選んでいる。彼女がどれほど伯爵令嬢を思い、苦しんできたかを察すると、彼も強く言葉を迫れない。
「教えてください! 彼女はどこへ――あの流れた血はいったい何なのか、どうして誰も止めようとしないんだ!」
思わず声が荒くなる。それでも侍女は反論や拒絶をしない。けれど、唇をきつく噛んだまま、なかなか言葉を出せない。彼が止めどなく焦燥を漏らすうちに、侍女はついに決意したように顔を上げた。その頰には、涙の痕がはっきりと残っている。
「……お嬢様は、生まれつき重い病を抱えておられます。幼い頃から、先天的に心臓と血の巡りに大きな問題を……」
まるで雷に打たれたかのような衝撃が、彼の心に走った。あれほど気丈に振る舞う彼女が病弱だなど、噂程度には聞いたことがあったが、こんなにも深刻なものだとは――意識が遠のきそうになるほどの動揺が、彼を苛む。確かに、彼女の態度には「何か隠している」雰囲気があった。けれど、それが余命を縮めるほどの病だったとは。
「そんな……なぜ、誰も教えてくれなかったんですか。伯爵令嬢が、あんなにも頑なな態度を取る理由が、それほど深刻な病にあったなんて……」
彼の声には、驚きと後悔が入り混じっていた。もし彼女が病を抱え、限られた時間しか残されていないと知っていれば、もっと早く何かできたはずだと、自責の念に駆られる。その思いは激しい勢いで胸をかき乱し、侍女を問い詰めるように目を凝らすが、彼女はただうなだれ、「わたしだって、お嬢様に何かして差し上げたかった……」と呟く。
「お嬢様のご両親や、一部の近しい者だけが知る秘密でした。外部の方に公表すれば、伯爵家の立場やお嬢様の縁談にも大きな影響が出る。お嬢様自身も、それだけは避けようと必死だったのです。だから……」
「彼女は一人で、そんなことを背負っていたのか……」
虚脱感が彼の全身を包み、無意識に壁にもたれかかる。思い返せば、彼女がどんなに冷たい言葉を浴びせても、根底にはどこか哀切な色を感じていた。それは「嘘をついている」という確信にも似た違和感――まさか本当の弱さを隠すためだったなんて。彼はこの瞬間、ようやくすべてを理解し始めていた。
「では……彼女はいま、危険な状態なんですね。病状が進行して、余命も長くない……?」
言葉にするだけで息が詰まる。侍女は小さく頷き、泣きそうに潤んだ瞳を伏せた。
「はい。実は、数か月も危ういという診断が出ていたのです。でも、お嬢様は誰にも弱みを見せようとされませんでした。伯爵家のため、己の誇りのため……そして何より、周囲の同情を嫌がって……」
「そんな……」
彼が思わず膝をつきそうになるのを、侍女が慌てて支える。彼女の指先も震えていて、二人とも落ち着く術を見いだせない。主である令嬢が、血を吐き倒れるようにして行方をくらました今、どれだけ探しても、彼女はこの王宮のどこにもいないのだろうか。もし外に出たのなら、深夜の暗がりで倒れている可能性だってある。想像するだけで、頭の中が絶望感でいっぱいになる。
「どうか、お嬢様を探してあげてください。けれど、どうか責めないであげてほしいのです。お嬢様は、あなたに弱さを見せまいと必死で……それを、わたくしはずっと見守るしか……」
侍女の声が震え、涙がこぼれ落ちる。彼の胸もまた苦しくなるばかりだ。今まで自分が見た彼女の頑なさは、決して単なる冷酷さではなく、死を間近に感じるがゆえの孤高だった。彼女は最期までひとりで立ち続ける道を選んでしまったのだろうか。
そこへ、侍女が震える手を懐に差し入れて、何かを取り出す。その瞳には決意が宿り、もう一度涙を拭うように顔を上げる。
「お嬢様は、ずっとこれに本心を綴っておられました。わたし以外の人に見せるつもりはなかったと仰っていましたが、今はあなたしか頼れる方がいないと思うのです。お嬢様が隠し続けてきた、本当の想いを……どうか知って差し上げてください」
侍女の手の中には、小さな鍵付きの日記が握られていた。革の表紙には、長年使い続けられてきたらしい擦れの痕。まるで秘められた宝箱のように見える。彼女がそっと差し出すとき、その手ははっきりわかるほど震えていた。
「これが……彼女の日記……?」
「はい。お嬢様は、夜な夜な苦しみを抑えながら、ずっと自分と向き合い、この中に書き記しておられました。誰にも見られたくない、と。ですが、こんな形でお嬢様がいなくなった今、わたしはあなたに託すしかないと思うのです」
手渡された瞬間、彼の胸は爆ぜるような痛みを感じる。この手帳を開けば、彼女がどれほどの孤独と苦しみを抱えてきたかを、嫌でも知ることになるだろう。そう考えると、同時に恐怖も湧き上がる。読む資格が自分にあるのか、彼女がどう思うか――さまざまな疑問が頭を巡る。
「これは……彼女の、本当の気持ち……」
見るだけで、まるで彼女そのものを抱きしめるような感覚に襲われ、手が震える。開けば取り返しのつかない現実に踏み込むのではないか。けれど、もう踏み込まなければ、彼女の行方すらわからないかもしれない。侍女が押し黙ったまま、唇を結んでいるのを見て、彼は日記をしっかりと胸に抱えるように握った。
廊下の壁に背を預けて、彼は大きく息をつく。まるで戦場に立つ兵士が最後の決断をするかのようだった。心臓の鼓動が鞭打つようにうるさく響き、その勢いで意識まで真っ白になりそうだ。侍女が小さくすすり泣いているのを感じ、彼は前を向くべく視線を上げる。
「彼女はどこへ行ったのか。可能性のある場所は……教えていただけないでしょうか。何としても見つけ出さなくては」
「わたしにも、はっきりとは……。ただ、お嬢様はもし限界を感じたら、誰にも知られずに去ると、以前から仰っておりました。余命が短いことを知っているからこそ、最期までご迷惑をかけたくない、と……」
その言葉に、再び彼の表情が歪む。よろけるように片膝をつきかけるが、すぐに立て直す。今ここで崩れてしまえば、彼女を見つけることなどできない。日記の重みが、まるで緊急の使命を告げるかのように手を引き寄せる。
「まずは彼女の日記を読ませてもらうしかない。彼女が何を考え、何を思ってここまできたのか……知る必要がある。そうしなければ、探しようもないでしょう」
侍女は涙で濡れた瞳を拭きながら、大きく頷いた。きっと、彼がこの日記を開くことで伯爵令嬢の本心が暴かれると同時に、侍女自身の苦しみもいくらかは報われるのだろう。令嬢を守るため、ずっと秘密を抱え続けた彼女の心中は、今まさにせめぎ合いの極みに違いない。
「どうか、どうかお願いです。お嬢様を憎んだり、責めたりなさらないでください。お嬢様は、精一杯の強がりと意地の中で、きっと何度も泣いてこられたはずなのです」
「……わかりました。責める理由などありません。彼女がどんな理由で隠し通そうとしていたのか、ちゃんと知りたいだけです。そして、可能なら助けたい」
その決意が胸の内に深く刻まれ、喉元を焼くほどの感情がこみ上げる。視界の端が少し滲み、一拍間をおいて彼は顔を上げた。握った日記の錠を開くか開かないか――それが、今まさに未来を左右する行動だ。
「ありがとうございます……わたしは……わたしはそれを願って、ここまで……」
侍女の声が弱々しく漏れ、足元に小さな涙の滴が落ちる。彼は日記をさらに強く抱きかかえ、ゆっくりと立ち上がった。すでにほかの使用人たちも廊下に集まりつつあるが、彼は誰一人として目に入れていなかった。目には日記と、その先にある伯爵令嬢の姿だけが焼きついている。
「……ありがとう。いま、ここで開くわけにはいかない。人目もあるし……落ち着いて読める場所へ移って、まずはすべてを把握したい」
「はい。お気をつけて……どうか、お嬢様を見つけてあげてくださいませ。お嬢様は、きっと……きっと本当は……」
侍女の残りの言葉を最後まで聞き取る前に、彼は日記を胸元に収め、踵を返した。今この瞬間、何よりも急務なのは彼女の手がかりを掴むこと。日記を読みさえすれば、彼女の苦悩や本音が見えてくるだろう。そう信じるしかない。少しでも早く、夜の闇に消えた彼女を探し出さなければ取り返しがつかなくなるかもしれない――その危機感が彼の行動を急かしていた。
震える手で日記を握り締めながら歩を進めるうちに、背後で侍女が小さくすすり泣く声が聞こえてくる。耳に痛いほど悲壮な音色だったが、彼は振り返らなかった。今はただ、ひたすら前へ進み、彼女の書き記した言葉に触れることが最優先だ。扉をいくつかくぐり抜け、誰もいない控室に滑り込んだところでようやく足を止め、壁にもたれて日記を見下ろす。
暗い空気をまとった控室の中で、かすかなランプの光が革の表紙を照らしていた。鍵自体はすでに外されているが、彼はまだ開けることができないでいる。これを開けば、きっと彼女の真実に触れる。病を抱えた人生がどれほど重いものであったのか、どれほど辛い思いをしてきたのか――それが明らかになってしまう。
「……行かなくちゃ。助けなくちゃ。ここで止まってはいけない」
そう自分に言い聞かせながら、彼は意を決して表紙に手をかける。指先がかすかに震え、握り込んだ汗がじっとりと染み込む気がした。心臓の鼓動が、先ほどまでより一段と速くなっている。呼吸の仕方すら忘れそうな状態で、ゆっくり息を吐き、ページの縁に指をかける。ほのかにインクの匂いが鼻腔をくすぐり、彼はまぶたを閉じた。
「……お嬢様……どんな思いで、これを……」
瞼の裏に、彼女の蒼白な顔が浮かぶ。かつて、冷たい言葉を浴びせられながらも、その瞳の奥に悲しみが見えたことを思い出す。もしかしたら、あのときすでに彼女は苦しみのどん底にいて、誰にも頼れないまま必死で気高さを保っていたのだろうか。そう考えると、ページをめくるのが怖い。しかし、ここで止まっては何も始まらない。きっと、彼女はもう、どこか遠くへ行こうとしているかもしれないのだから。
結局、彼は硬い呼吸を吐き出すようにして、まっすぐ日記を見据えた。そして、そっと、一ページ目を開く。それは、伯爵令嬢の内面が克明に綴られた扉。すべてを読み、真実を知ったときに、彼は何を決断するのか――そんな大きな問いを抱えながら、今このとき、日記を手にした彼の手が震えを帯びて止まることを知らなかった。