表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/15

第10話 崩壊

 燦然と輝くシャンデリアが、宮廷の大広間をまばゆいばかりに照らしていた。鏡のように磨かれた大理石の床には、貴族たちの華やかな衣装が次々と反射し、まるで宝石箱をのぞき込んだかのようなきらめきを放つ。王宮や大貴族の有力者たちが一堂に会する大舞踏会――その盛大さは、毎年の恒例行事ながら、今年はとりわけ豪華さを増しているらしい。噂によれば、王太子殿下の政略的な計画も兼ねているとかで、国内外の客人がこぞって参加しているのだという。


 わたしは扉の前で一度だけ深呼吸し、扇で口元を隠すようにしてゆったりと入場した。今日の衣装は、かすかな金糸が織り込まれた濃い青のドレス。腰から裾にかけて緩やかに広がるシルエットが、優雅さと冷淡な印象の両方を与えるように仕立てられている。周囲から向けられる視線を意識しながら、わずかに背筋を伸ばして歩を進める。その姿は、まるで自らがこの場の中心であるかのような振る舞いを装っているかもしれない。


 しかし、実際には身体の奥底で鳴り響く微かな痛みが、何度もわたしの足を止めようとしていた。日々の体調悪化に加え、昨夜も高熱で苦しんだばかりなのだ。顔色を取り繕うために下地を厚めに施し、どうにか痩せ細った頬を隠しているものの、少しでも気を抜けば足が震えて倒れてしまいそうになる。侍女からは何度も止められた。けれど、この舞踏会を欠席すれば伯爵家の立場は揺らぎかねない。もはや意地と使命感だけが、わたしを支えているといってもいい。


 大広間の中央では、貴婦人たちが華やかなドレスを広げ、楽団の奏でる曲にあわせて優雅に踊っている。かつてはわたしも、こうした舞踏会をわずかな楽しみのひとつとしていた時期があった。だが今は、それを楽しむ余裕などない。胸の奥に走る疼痛を無視し続けるだけで精一杯だ。人々がわたしの存在に気づき、遠巻きに視線を投げかけているのもわかる。冷ややかな令嬢として知られるわたしが、いったいどんな態度でこの舞踏会に臨むのか――彼らにとっては、それも一種の興味の対象なのだろう。


 少し離れた場所では、伯爵夫人や華々しい貴族の一団が談笑している姿が目に入る。わたしは気づかぬふりをして、ホールの一角へ視線を移した。そこで目に留まったのは、やはりあの人の姿。わたしの婚約者として名を連ねる人物が、かしこまった笑みを浮かべて誰かと会話を交わしている。時折こちらをちらりと見やるあの鋭さに、胸が騒ぐ。先日の衝突以来、彼とは話をしないまま今日まで来てしまった。わたしがこの場に現れたことを、彼はどう思っているのだろう。案じているか、それともまた問い質しに来るつもりなのか。


 そんな疑問を抱きながらも、わたしは平然を装って大広間の壁際へ足を進める。シャンデリアの下はあまりにも明るく、まるで真実を照らし出そうとする光のようで落ち着かない。壁際には長いテーブルがいくつも並び、各国の酒や食事が並べられていた。口にする気力などなかったが、グラスを手にすれば少しはごまかせるだろうと考え、白ワインを注いで軽く香りを確かめる。


 そこで、ふとめまいが起こり、視界がゆらりと揺れた。何とかテーブルに片手をついて踏みとどまる。息を深く吸い込むと、苦しいほどに胸が締めつけられる。脈打つ痛みが背中から脳まで響くようで、思わず歯を食いしばった。こんな状態のまま最後まで乗り切れるのだろうか。すでに体力は限界を超えかけている。けれど、今ここで崩れては、わたしのすべてが露わになってしまう――その恐怖心が、ぎりぎりのところで意識を保たせている。


「おや、今日はずいぶんお顔色が悪いように見えますが、何かご病気でも?」


 不意に聞こえた声に顔を上げると、そこにはわたしのことをあまり好ましく思っていない婦人が立っていた。彼女はあからさまにわたしを値踏みする視線を送りつつ、「まあ、いつもと違うわね」とでも言いたげな口元を歪める。わたしは軽く扇を動かして微笑をつくり、首を横に振った。


「ご心配には及びません。少し疲れているだけですわ。貴婦人こそ、お加減はいかが?」


 そう返すと、婦人は肩をすくめ、「それならいいのだけれど」と呟いて踵を返していく。その背に投げかけられた周囲の視線も冷たい。わたしが何か失態を犯すのではと期待している人々もいるのだろう。この場で醜態を晒すわけにはいかないと、改めて決意を固める。


 そこへ、まるでそれを見計らったかのように、先ほどの婚約者が近づいてきた。彼は短く挨拶を交わしつつ、苦渋に満ちた表情を浮かべている。すぐにでも「あなたは本当に大丈夫なのか」と問いただしたそうな気配が伝わるが、彼もまた周囲の視線を意識してか、言葉を飲み込んでいるようだった。


「今夜はずいぶんお疲れのように見えますが、踊りの予定はありますか」


 顔色をうかがうような聞き方に、わたしは苦笑交じりに応じる。背筋を伸ばすことで何とか吐き気を押さえている状態だが、それを悟られないよう言葉を選んだ。


「踊りの相手など、山ほどいるでしょう。わたしは今宵、眺めるだけで十分です。あなたこそ、楽しんでいらして」


「……そうですか。もし気が変わったら、お声をかけてください」


 遠巻きに視線を投げる貴族たちの前で、わたしはクスリと笑って扇を閉じた。彼がまだわたしを心配しているのは明白だが、答えてやれる余裕はない。息苦しさは増す一方だし、いま会話を続ければ、いつ弱みを見せるかわからない。その恐れに耐え切れず、彼が立ち去るのを待つこともなくわたしは足を速めて大広間の奥へと向かう。


 しかし、限界は突然やってきた。人々の華やかな談笑や音楽の響きにかき消されるように、わたしの意識がふっと遠のき始める。床が揺れるような錯覚と同時に目がかすみ、次の瞬間、激しい咳が胸を突いた。思わず口元を押さえた手に生温かい液体が触れて、ゾッとする。振り返れば、白い手袋に赤い滴がにじんでいた。


「……っ……」


 理性が一瞬飛びかけるほどの衝撃。周囲はまだ気づいていないが、いずれは見られてしまうかもしれない。わたしは必死にもう片方の手でハンカチを探し、どうにか血を拭う。だが、動揺と呼吸困難が重なり、足元が崩れ落ちるように傾いた。誰かが「大丈夫ですか」と声を上げるが、わたしは苦痛に耐えながら「触れないで」と低く呟くしかない。


 とうとう人々が異変に気づき、ざわざわと声を上げ始める。見たくもない視線が、まるで生き物のようにこちらに集中してくるのを感じ、頭が真っ白になる。動揺が大きくなるにつれ、激しい吐き気と息苦しさがこみ上げて、わたしは重力に引きずられるように身をかがめるしかなかった。


「どうしたの……?」


「え、血……まさか、あの方が……」


 囁く声が聞こえる。周囲の人々が一斉に距離を取る者、あるいは好奇の目で近寄ってくる者に分かれ、輪をつくっている気配がする。みじめな形で立てなくなる前に、この場から逃げなければ。そう思うが、足が動かない。呼吸が浅く、わたしは扇を落としそうになりながら床に手をついた。そのとき、よく知った声が、わたしを呼び止めるのが聞こえた。


「大丈夫ですか。しっかりして……!」


 婚約者が目を見開き、駆け寄ってくる。彼はわたしの肩に手をかけ、支えようとするが、わたしはその助けを拒むように腕を振り払った。こんな姿を、よりによって彼に見られるなど屈辱的すぎる。


「……放して……あなたに関係ない……」


 か細い声しか出せず、苦しげな呼吸を繰り返しながら彼の助けを拒絶すると、彼は唇を震わせた。周囲が騒然となり、悲鳴のような声も聞こえる。だが、わたしはその声を遠くに感じつつ、どうにか逃げ出す方法を探すしかない。こんな場所で倒れてしまえば、すべてが露わになってしまうだろう。


「お願いだから、もう少し落ち着いて。医師を……」


「医師なんて呼ばないで……結構よ……」


 耳鳴りが強くなり、意識が暗く染まりそうになる。だが、最後の気力を振り絞って、彼から身を引き離す。彼は何かを言いかけたが、わたしは聞き取れないほど朦朧としていた。それでも、ここで助けを借りれば、わたしがずっと隠してきた病が広まってしまうに違いない。そんな絶望感が、意地でも自力で立ち上がろうとする原動力になっていた。


 わたしは周囲の動揺の隙を突くように、床に置きかけた扇を拾い上げ、誤魔化すように胸の前に掲げる。赤い染みが広がる前に、どうにかハンカチと一緒に手を覆い隠し、ドレスの裾を持ち上げた。息苦しくてたまらないが、ここで倒れたらすべてが終わる――その一念だけで、きしむ足を前に出す。


「……邪魔をしないで……」


 彼がもう一度呼び止める声に返事をせず、わたしは大広間の隅を回り込むようにして扉へ向かった。視線が集中するなか、式典役人らしい人物が「ご無事ですか?」と声をかけてきたが、わたしは顔をそむける。瞳に涙がにじむのは、単に苦しいからだけではない。こんな醜態を晒し、心配をかけ、噂になってしまうことへの、はちきれそうなほどの屈辱があるからだ。


 扉に手をかけて廊下へ飛び出すと、さきほどまでの喧騒が一気に遠のいた。そのかわり、頭の中が轟音のようにざわめき、意識が薄れていく。何とか足を運び続けるが、吐血した証拠はすでに手袋についている。こんな状態で舞踏会へ戻るなど到底不可能。結局、逃げるしか道は残されていないのだ。


「待ってください、そんな無茶を……!」


 背後から聞こえる声を振り切るように、わたしは必死にドレスの裾を握りしめながら歩を速めた。息苦しさに耐えきれず、とうとう咳をこぼしてしまう。どうやら再び血が混じっているらしく、息を吐くたびに鉄のような味が口中に広がる。廊下の角を曲がるたびに視界が揺れ、床に倒れ込みそうになるが、絶対に人目のある場所では倒れるわけにはいかないと必死でこらえる。


「……っ……!」


 結局、わたしは会場の裏口に当たる小さな扉へたどり着くと、そのまま何も言わずに外へ出た。夜気が頰を刺し、ひんやりとした冷たさを肺に取り込むと、かろうじて自分がまだ生きていることを実感する。息も絶え絶えの状態ではあるが、このまま誰かに連れ戻されれば、伯爵家にも婚約者にも大きな波紋が広がるのは火を見るより明らかだ。


 舞踏会は大勢の目がある場だからこそ、わたしにとっては最悪の環境でしかなかった。限界を悟りながらも出席せざるを得なかったのは、家の威厳を損なわないため。それなのに結局、こんなにも派手に取り乱す結果となってしまった。後ろめたさと悔しさが胸に込み上げるが、それを表す気力も残っていない。


 これで、わたしの秘密が決定的に周囲へ広まったかどうか――どちらにせよ、疑惑は確信に変わるだろう。家の者がどう動くかは想像もつかないが、わたしがこの場で倒れ続けるわけにはいかない。夜の闇へ紛れ込むように足を進めながら、もう逃げ切るしかないのだと思い知る。


 背後では、まだ人の気配があわただしい。扉を開けて追ってくる足音があるのかもしれない。だが、今だけはそのすべてを拒絶してでも一人でこの場を離れたい。追いつかれれば、家にも迷惑が及ぶし、わたしの「弱さ」がはっきりと知られてしまう。心臓の奥をえぐる痛みは今や限界に近いが、それでも前に進むほかない。


 こうして、大舞踏会という華やかな夜の裏側で、わたしは限界を超えた身体を引きずりながら姿を消す道を選んだ。あの華麗な大広間に残してきたもの――倒れかけたわたしを助けようとする婚約者の言葉も、人々の目も、すべてを断ち切るように遠ざかっていく。わたしがやっとの思いで息を継ぎ、石畳の外へ踏み出したとき、頭の中には冷たい決意だけが残った。もう、後戻りはできないのだと悟りながら、わたしは夜の闇へ溶け込んでいくしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ