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隠された日記に綴られた想いを、あなたは受け止めてくれますか?  作者: ぱる子


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第1話 序章

 夜明け前の、まだ薄暗い空気が屋敷の長い廊下を満たしていたころ。幼かったわたしは高熱にうなされ、寝台の上で静かに息を切らしていた。部屋に差し込むかすかな月明かりを受けながら、母はわたしの手を握りしめて額を撫でている。視界の端には、やはり心配そうな父の姿も見え隠れしていた。


「大丈夫…大丈夫だから、もう少し休んでいてちょうだい。熱が下がるまで、しっかり水分を摂るのですよ」


 弱々しく瞬きを返したわたしに向けて、母はゆっくりと口元をほころばせる。しかし、その瞳が揺れているのを、幼いながらも感じ取ることができた。その向こうでは、父が沈んだ面持ちのまま、医師と低い声で何事かを話している。幼い頭でも、わたしの身体が人並み外れて弱いことはわかっていた。普通なら少しの熱でさえ、こんなにも長引くものではないのだろうと。


「伯爵家の子として…いや、この先、あの子が名を冠していくなら、決して弱みなど見せるべきではない」


 夜が明けきる前の薄闇の中、父のその言葉がひどく冷たく響いた気がした。医師の診断を聞いたあと、疲れ切ったようにため息をつきながらも、父はわたしの枕元に立ち尽くしている。母はそれを諫めるように何かを口にしようとしたが、結局は言葉を飲み込んだ。微かに聞こえたのは「この子には責任があるのよ」という、母の不安気な声。だが、はっきりと覚えているのは父の、あの硬い表情だけだった。


「弱みを見せることは、周囲に付け入られる隙を与えること。貴族の立場にある以上、そのようなことは許されない。いずれ、この子にもわかる時が来る」


 父の口調には、どこか悲しげな響きが混ざっていたようにも思う。けれど、幼いわたしにはそれを汲み取る余裕がなかった。高熱にうなされながら、父と母が重苦しい空気の中で交わす言葉だけが、耳にしんしんと残る。熱で視界が霞むなか、わたしは涙をこぼすわけにもいかず、ただ天蓋のカーテンを見つめ続けていた。


 やがて医師が立ち去り、母が部屋を後にしたあと、父は一人わたしの傍に腰を下ろした。そして微かに震える声で、「おまえはこの家の希望でもあるのだぞ」と告げたのだ。その言葉の真意は幼かったころにはわからなかったが、わたしは父の気丈さの裏に隠された不安を感じ、どうにか笑顔をつくろうとした。もっとも、幼子の精一杯の笑みなど、どれほどの力があるのかはわからない。それでもわたしは、熱で荒れた唇の端を引き上げ、父の目をまっすぐに見つめた。


「父様…わたし、がんばるから…」


 それからどれほどの時間が経ったのか、あるいはどれだけの苦しみをやり過ごしたのか。気づけばわたしはいつしか熱を乗り越え、日常生活を送れるほどには回復していた。しかし一度身についた身体の弱さは完全には拭えず、しばしば医師の往診を受けることが続く。食事や睡眠、体力を養うための散歩までも、わたしにとってはいつも以上に神経を張り詰める行為だった。けれど、わたしはあの日、父の言葉を聞いたときに心に決めたのだ。どんなときも弱さを表に出さず、気高くあろうと。


 それから年月が経ち、わたしは伯爵家の令嬢として、表向きには非の打ちどころのない礼儀と華やかさを身につけるようになっていた。ドレスの裾さばきひとつとっても、誰にも指摘されることのないほど完璧にこなす。そして、外面だけを見れば、多少の高慢さは容認されるくらいの雰囲気を纏っている。どんな噂が立とうとも、それを笑って受け流す度量すら、わたしは身につけていた。


 しかし今となっては、その高慢という評価は笑い話では済まないほど拡がっている。実際には、宮廷や華やかな社交の場に出かけるたびに、わたしは聞こえてくる人々の声を、静かにやり過ごしていた。


「今日もあの方がいらっしゃっているわ。…また、誰かに嫌味を言うんじゃない?」


「美しいとは思うけれど、近づきたくはないわよね。どんな言葉を浴びせられるか怖くてたまらないもの」


 広間のあちらこちらで囁かれる言葉に、わたしは眉ひとつ動かさない。表情すら変えず、むしろ涼しげな眼差しを保っている。父の言葉通り、わたしは弱みを見せない。どんなときも、背筋を伸ばしたまま。そして、誰も気づかないように胸の奥をぎりりと締めつけながら、微笑むのだ。


 今宵の夜会も例外ではない。大理石の床にきらびやかなドレスが映え、楽師たちの奏でる音楽は貴族たちの耳を楽しませている。わたしはホールを一人で歩くときでさえ、足音のリズムを崩さないよう意識しながら、優雅に踵を運ぶ。周囲は小声で囁き合い、まるでわたしを遠巻きにしているようだった。


 その様子に気づいているのか、いないのか。わたしはそっと視線をめぐらせるが、自分から声をかけることはしない。誰もが寄せつけぬ雰囲気を纏い、冷たい印象だけを周囲に与える。わたし自身、どうしてこんな振る舞いをするのか、わかっていないわけではない。ただ、かつて父が言ったように、わたしがこの世界で生きていくには、多少の孤立も仕方のないことだと――そう思おうとしていた。


 夜会の席がひととおり落ち着くと、わたしは早めに馬車へ乗り込み、屋敷へ帰ることにした。いつもなら、社交の場では誰かしら、気の合う貴族婦人や知人を見つけて少しは会話を交わすが、今日はやけに胸が重たい。気だるさを感じつつも、決してそれを表に出してはならない。幸い、侍女がわたしの表情の微妙な変化を気にかけてくれたため、長居せずに退散できた。


「お嬢様、今夜は早いお戻りで何よりです。馬車の中で少しお休みになられたらいかがでしょう」


 あえて声には出さないが、わたしが疲れていることを感じ取ってくれているのだろう。控えめにそう告げる侍女は、わたしの顔色をうかがうように視線を落とす。彼女は長年、わたしの側で仕えてきた。幼少の頃からわたしの体調を知り、時には無理をするわたしを止めようとし、時には家の者へ気づかれないよう一歩後ろをついてくれた存在でもある。


 馬車が屋敷へ近づくにつれ、夜の風が少しだけ冷たさを増してきた。侍女がそっと肩掛けを取って差し出そうとするが、わたしはゆるやかに首を横に振る。彼女が本当の意味で心配しているのは、たぶん冷え込む気候ではなく、わたしの身体そのものなのだとわかっていたから。しかし、わたしはこれまで通り、それを口にすることはできない。屋敷に戻ったら何事もなかったように振る舞い、部屋にこもって少し眠れば、また明日も“平常”を装うことができる。


 そう自分に言い聞かせるように、わたしは瞼を閉じる。頭の中には幼い頃の記憶がぼんやりと浮かび上がる。高熱で横たわりながら、どうしても涙をこらえられなかったあの晩。だけど、父と母の前では泣き声を漏らさず、静かに息を詰めていたあの自分。もしあのとき素直に泣けていたなら、今とは少し違う生き方ができたのかもしれないと思うことがある。


「お嬢様、もうすぐです。足元にお気をつけて」


 侍女の言葉で、わたしは無意識に閉じていた瞼を開いた。馬車の窓から見えるのは、馴染み深い伯爵家の門。衛兵がわたしの帰宅に気づき、頭を下げている。わたしは背筋を伸ばし、努めて落ち着いた面差しを取り戻す。屋敷の灯りがにじんで見えるのは気のせいだろうか。それとも、先ほどから感じている倦怠感のせいだろうか。そんなささやかな不調を、誰に話すわけにもいかない。馬車の扉が開け放たれ、侍女が手を添えてくれるのを受けながら、一歩ずつ降り立つ。


 扉の前で執事が深々と頭を下げ、「お帰りなさいませ」と言う。わたしは無言で軽く会釈を返すと、そのまま廊下へと足を踏み入れた。荘厳な調度品や重厚な絨毯が敷かれた廊下は、わたしにとって日常の風景ではあるが、その分、この家で果たすべき責務を思い出させる空間でもある。いつだったか父に、ここを歩くときは常に胸を張れ、と叱咤されたことを思い出し、わずかに口元を引き結ぶ。


「お嬢様、今夜はお疲れでしょうし、お部屋でお休みになりませんか。何か温かいお飲み物をお持ちしましょうか」


「…ええ、頼むわ」


 なだめるような侍女の声に、わたしはつい短く答えてしまう。疲労が蓄積しているのか、思わず語調が弱くなったと自分でも気づくほどだ。もしほかの誰かが聞けば、「あの娘が珍しく弱い声を出した」と思うかもしれない。しかし、幸いなことに、この廊下にはほかに人影はない。侍女が微かな安堵を浮かべたように見えたのは、私が疲れているのを理解してくれているからだろう。けれど、彼女もまた何も言わない。口にすれば、その疲れを認めてしまうことになると知っているからなのだろう。


 静まり返った廊下を渡りきり、わたしの部屋に入ると、一気に心が緩む気がした。とはいえ、両親がこの屋敷に滞在している限り、わたしに許された“気の抜けた”時間など高が知れている。それでも、部屋に戻れば多少は肩の力を抜くことができるはずだ。


 幼い頃の病弱だったわたしは、父母の前でいつも張り詰めていたわけではない。父が厳しくあれば、母は優しくあった。しかし、わたしはその優しさにも甘えきることがどうしてもできなかった。たとえば今夜のように、倦怠感に苛まれながらも屋敷へ戻り、自室へ逃げ込むのは、あの頃からなんら変わらない習慣なのかもしれない。


 侍女が茶器を用意している間、わたしはベッドの傍に腰掛け、壁にかかった大きな鏡をぼんやりと見つめた。鏡の中には、絹のドレスに身を包んだ令嬢が映っている。頬にはわずかな疲労の影が混じっているが、きっと周囲から見ればそれも気のせいにしか映らない程度だろう。やがて、侍女が湯気の立つハーブティーを差し出してくれる。その香りは、どこか幼い頃、母に薬を飲まされたときの記憶を呼び起こし、少しだけ胸をざわつかせる。


「ありがとうございます。しばらくしたら休むわ」


 そう言ってわたしはカップを受け取り、一口含む。温かい液体が喉を通った瞬間、ふっと身体が軽くなるような気がした。侍女はわたしの足元にブランケットをかけてくれたあと、そっと一礼して部屋の隅に下がる。そこには安心だけでなく、わずかな葛藤も見え隠れしている。わたしの言葉には出さない体調不良を、本当は相談してほしいのだろうと薄々わかっているが、それを口にしないのがわたしと彼女の暗黙の了解でもあった。


 弱みを見せるべきではない。あの日、父が部屋の暗がりでつぶやいた言葉を、わたしは今でもずっと引きずっている。幼い頃のわたしは、咳き込みながらも必死に目を閉じて、体の痛みや苦しさを飲み込んだ。そうすることが、伯爵家の名に恥じぬ生き方だと思い込もうとしていた。だからこそ、今のように周囲からどう言われようとも、弱さを表に出さずに生きている。それが自分に課された責務であり、運命のように感じるからだ。


 けれど、時々思う。もし、あの幼い夜に少しだけ父に泣きつき、母の腕の中でその心細さを明かしていたなら、今のわたしはもっと穏やかだったのだろうか。あるいは、こんなにも自分を厳しく律しようとはしなかったかもしれない。そんな考えが頭の片隅に浮かぶたび、わたしは急いで振り払う。過去を悔やむことは、父の言うところの“弱さ”そのものだと思えてならないから。


 そうして黙り込んでいるうちに、カップの中のお茶はいつの間にか冷めはじめていた。わたしは一気に飲み干し、侍女の方を振り返る。


「もう休むから、あなたも部屋に戻ってちょうだい」


「かしこまりました。なにかあればすぐにお呼びくださいね」


 侍女の声には静かな優しさと、少しばかりの切なさが交じっている。それでも余計な言葉を挟もうとしないのは、わたしに無理をさせたくないからだということを感じ取れた。その気遣いに甘えたくなる自分を、わたしはぐっと抑え込む。さすがに今夜の身体は重く、これ以上は考えすぎても仕方ない。いずれ、この家の令嬢として、わたしは再び社交界に出ていかなくてはならないのだから。


 明日もまた、周囲からささやかれる噂に耳を澄ませないように振る舞うのだろう。どんなに心が軋んでも、わたしは表情ひとつ変えずに微笑む。それが、幼い頃にわたしが父に誓った“決して弱みは見せない”という生き方の証なのだから。あの夜、枕元で聞いた父の声と母の嘆きを、わたしはまだこの胸に抱え込んだままだ。ゆっくり目を閉じると、ふいに高熱でうなされていたあの晩の冷たい月光と、母が握ってくれた温かな手を思い出す。あの温度は、今でもわたしの中に微かに残っている。


 ゆらゆらと揺れる想いを抱きながら、わたしはただ静かにシーツに身を沈める。寝台のそばでかすかに揺れるランプの灯りが、どこか心許なく見えるのは、きっとわたし自身が心細いのだろう。けれど、弱音など吐いてはいけない。そう教えられ、そう自分に言い聞かせてきた年月が、わたしを突き動かしている。


 いつか本当の姿を誰かに見られる日が来るのだろうか――そんな問いが一瞬胸をかすめるが、意地を張り続けるわたしには、答えを見出すことはできない。父の言葉に従うように生きてきたわたしが、もしそれを曲げてしまえば、この家の名を汚すことになる。それだけは避けなければならない。今はただ、心の奥にわずかな不安を押し込めながら眠るしかない。


 そうして夜は、ゆっくりと更けていく。外から聞こえるかすかな風の音に耳を傾けているうちに、まぶたが重くなる。幼い頃、病で高熱を出していたときと同じように、そっと息を止める。そうすれば、苦しい呼吸の音さえも消えていくような気がした。そのまま深い闇へと落ちていく寸前、意識の片隅で侍女が部屋を出る足音を感じる。少しだけ申し訳ない気持ちを抱きながらも、わたしは眠りへと引き込まれていくのだった。


 翌朝、東の空が淡く染まる頃、わたしは寝台を抜け出してドレスに袖を通した。いつもどおりのやり方で髪をまとめ、鏡をのぞき込む。そこに映るのは、凛とした態度を崩さぬ令嬢の姿。周囲の噂は厳しいものがあるけれども、伯爵家の名を背負う身としては、このくらいの孤立など耐えられるはずだ。わたしは何事もなかったかのように、また今日も振る舞うだろう。まるで、幼い日の父の言葉を体現するように、頑なに強がり続けながら――。

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