冥府の恋文
この世界には、決して踏み越えてはならない境界がある。生者の地と、死者の地。命ある者が死者の国に足を踏み入れることはなく、死した者が生者の国に戻ることもない。それが世界の理。
だがその境界を繋ぐものが、ひとつだけあった。冥府の鐘楼、天にそびえる黒き塔。塔の頂に吊された大鐘は、冥府の門を開く鍵と言い伝えられている。
その鐘の番人がエルネアである。
「また今日も鐘は鳴らない」
千年もの時が過ぎた。塔に登るたびに、彼女は鐘を見上げる。だが鐘は沈黙したままだ。打ち鳴らす術もなければ、誰の手にも届かない。ただひとつ、この鐘がひとりでに響くときがある。それは、冥府の門が僅かに開かれるとき。
その瞬間を、彼女は待っている。
「いつまででも待ってるよ、ルアス」
かつての恋人の名を、エルネアはそっと呟く。想いは千年経っても変わらない。
騎士ルアス。若き剣士として名を馳せた彼は、隣国との戦争で命を落とした。だが死してなお、魂は冥府に囚われたまま、帰ることはなかった。それを知ったエルネアは、冥府の鐘楼の番人となる道を選んだ。魂を迎え戻すために。温もりを取り戻すために。
「もう帰ってこない、と皆は言うけれど」
エルネアは微笑む。ひとりごとのように。
「私は信じてる。だって、あの日、あなたも言ってくれたでしょう」
「必ず帰る。君のもとへ」
その言葉だけが、彼女をこの長い時のなかで支えてきた。
季節はめぐり、人は去り、王朝は滅び、国さえ変わった。けれど彼女の時は止まっている。ただ、ただ彼のために。
そして、その夜のことだった。深い霧が塔を包む晩。
「?」
エルネアは微かな気配に気づいた。階下から、誰かがこちらへと登ってくる。生者の気配ではない。だが、恐ろしいものでもない。
エルネアはそっと塔の扉を開けた。
そこに、彼はいた。
朽ちた甲冑に身を包み、半ば影のような姿で。けれど確かに、彼の声は響いた。
「エルネア」
「ルアス!」
その瞬間、胸が締めつけられるほどに高鳴った。涙がこぼれた。
「どうして、千年もの間」
「ずっと探していた。迷って、鎖に、縛られて。でも君が、呼んでくれた気がして」
彼はふらりとよろめき、エルネアはすぐにその身を抱きとめた。冷たい。けれど確かに、彼の体にかすかなぬくもりが残っている。
「君の温もり。忘れてなんか、いなかった」
その言葉に、エルネアは声を詰まらせる。
「私だって、忘れるわけないわ。ずっと、ここで、待ってたのよ」
「僕はもう、長くは持たない。冥府の鎖が」
「だったら私も行くわ。あなたと一緒に」
「だめだ、君は」
「もう、私の時間は止まっているのよ。生きてなどいない。ただ鐘の番人、それだけ」
そう言って、彼女は彼の頬にそっと口づけた。
「地獄だろうと冥府だろうと、あなたといられるなら、それが私の世界」
ルアスの影の瞳に、微かな光が戻る。
「エルネア」
その時、不意に世界が揺らいだ。塔の頂、冥府の鐘が、千年ぶりに響いた。低く、深い音が夜を裂いた。冥府の門が僅かに開かれる。
二人の姿は、やがてその闇に溶けてゆく。けれど、その最後の瞬間、確かに彼女は思った。
いつまででも待っていてよかった。闇のなかでも、彼の温もりを、ずっと感じていた。