七週目
――病室。
目覚めたユウキの横には、例の白い紙。
《後悔メモ:自分の人生を諦めた》
「……来やがったな、ラスボス」
これまで、ユウキは過去の“他人への後悔”を一つずつ回収してきた。
父に謝り、元恋人にけじめをつけ、母に線香を上げ、親友と向き合ってきた。
些細な嘘、すれ違いの沈黙、握りしめたままの後悔……それらを拾い集めながら、ここまで辿り着いた。
だが今度は、“自分自身”への後悔だった。
「……オレは、自分で自分を捨ててたってことか」
自堕落に溺れ、嘘で逃げ、夢も目標も捨てて、ギャンブルの海に沈んでいた。
そんなユウキだが、昔は小説家になりたかった。
高校を出て、家を飛び出してから数年間。ユウキは工事現場で働いていた。
鉄骨の上でバランスを取りながら、夏の炎天下で汗を流し、冬の朝には手がかじかむ中、シャベルを握っていた。
日当で食いつなぎ、週末の夜にだけ、安いノートパソコンを開いて、小説を書いていた。現場の休憩室で、誰にも見せないまま書き溜めた物語。
人の心を動かす物語を書きたい。
読み終わった後に、胸が熱くなるような……そんな話を。
でも現実は、そう甘くなかった。
「山下さん。この文章レベルの人って、世の中にいくらでもいるんだよねぇ。小説家一本で飯を食べれる人ってのは本当に一握りだし…………ハッキリ言わせてもらうけど、あなた向いてないよ。このまま続けても売れずに苦労するだけだから諦めた方がいい」
それは、原稿を持ち込んだ出版社で編集者から言われた言葉だった。
持ち込んだ作品はユウキの自信作だった。
「……あの一言で、心が折れたんだよな」
その日を境に、ユウキはキーボードから手を離し、競馬と酒に逃げた。
「俺は何も持ってない。だからもう、何も目指さない。そっちのほうが、楽だった」
けれど今、後悔メモにこう書かれている。
《自分の人生を諦めた》
「……ってことは、まだ“やる資格”はあるってことか?」
蝉仙人が、いつの間にかベッド脇のカーテンから顔を覗かせていた。
「さぁ〜て、気づいたか? 今週のミッションはな、“他人”じゃなくて“お前自身”への後悔ってわけだ」
「……ずっと逃げてたもんな、俺」
「ああ、お前は逃げっぱなしだ。だから、そろそろ自分に向き合ってもいいんじゃねーのかってな?」
「やり方、忘れちまったよ」
「そしたら、また一文字ずつ思い出しゃいい。1レース外すよりマシだろ?」
ユウキはふっと笑った。
「競馬の話、いちいち挟むな……」
「うるせぇ、お前が理解できる例えがそれしかねぇんだよ」
その日、ユウキは街を歩いた。
昔バイトしていたコンビニの前、よく喧嘩していた交差点、元同僚と語り合った居酒屋の前。失くしてきた場所を巡りながら、当時の“自分”を探していた。
「夢……あったな、俺にも。小説書いて、人を泣かせる話作るんだって……」
すでに空虚な締め切りのない人生。でも、まだ“残された時間”があった。
ネカフェに戻ると、ユウキはパソコンの前に座った。
ドキュメントアプリを立ち上げ、タイトルを打ち込む。
『明日、蝉』
「……書いてみっか。どうせ死ぬなら、やりたいことをやって死ねばいい」
その夜、カタカタとキーボードを叩く音だけが、静かに響いていた。
7週目、最終日。
ユウキは満身創痍の体で、出来上がった原稿をプリントアウトし、病室のテーブルに置いた。
蝉仙人が現れる。
「おおっと、これはこれは……ずいぶん真面目な顔しちゃって〜。あれ?どうした? 汗?涙?どっちぃ〜?」
「うるせぇ……お前のせいで、全部吐き出した」
「へ〜、タイトルがいいねぇ。『明日、蝉』って、俺の話でも書いてくれたんか?」
蝉仙人がページをめくりながら笑う。
「ほう……お前、結構いいセンスしてんじゃんか」
ユウキは薄く笑った。
「……もういいだろ。やれることは、やった」
蝉仙人が珍しく、真顔になる。
「じゃあ聞くけどよ。お前、“明日”を生きたいか?」
「……それって……」
「そう、これが最後だ。ループの出口。お前がそれを望むかどうか——それだけだ」
その声が、今までで一番静かに深く響いた。
ジィ……ジィィィ……ジィィ……
ユウキは黙って蝉仙人を見返した。
「……“明日”を生きたい、か」
天井を見つめたまま、口の中で繰り返す。
「生きるって、どういうことなんだろうな……」
「おいおい、哲学始めんなよ〜。お前の“やらかし全集”読んできたオレから言わせりゃ、生きるってのは“本当の自分と向き合うって”ことじゃねぇか?」
「本当の自分、か……」
ユウキは、テーブルの上の原稿にそっと手を置いた。
指先がかすかに震える。だが、顔は穏やかだった。
「これ書いてるとき、ちょっとだけ思ったんだ。……俺、やっぱりもう一度やり直したいって。今度は逃げないで、自分に向き合って生きたいって」
蝉仙人は、煙草を咥えながらニヤッと笑った。
「そのセリフ、前にも聞いた気がするけどな〜?」
「……あの時は“言ってただけ”だ。今は、“マジで思ってる”。」
沈黙。
蝉仙人は煙草の灰を落とし、じっとユウキを見た。
「……じゃあ、決めろよ」
「え?」
「“明日を生きたい”って言えばいい。そうすりゃ、お前のループは終わる。ただし——」
蝉仙人は目を細めた。
「ひとつ条件がある」
蝉仙人は、爪先で地面をコツコツ叩きながら、ゆるく笑った。
「……条件?」
「お前の後悔を言葉にして残せ。書くなり、話すなり、叫ぶなり、なんでもいい」
ユウキは眉をひそめた。
「……残す? なんでそんなこと……。もう俺の中で全部終わってんだよ」
蝉仙人は煙草の灰を落としながら、首を傾けた。
「は? お前、何カッコつけてんの?心の中で“わかった気になる”のは楽だけどな、それじゃ誰にも届かねぇんだよ」
「誰にも……?」
「そう。“言葉”ってのは、他人に届いて、初めて“意味”になる。後悔も同じだ。隠してたら、ただの自己満。でも語ったら、誰かの人生を変えることがある。……お前がこのループの中の誰かのセリフで変わったみたいにな」
ユウキは、黙ったまま蝉仙人を見た。
「お前が拾い集めた後悔、ぜんぶ吐き出してみろよ。そうしたら、やっと“生きてる”って言えるんじゃねぇのか?」
蝉の声が遠くで聞こえた。
「……わかった。……逃げる自分に嫌気がさしてたとこだから丁度いいわ」
蝉仙人はニヤッと笑い、最後にひとことだけ付け加えた。
「そうこなくっちゃ。“後悔”ってのはな、閉じ込めたら毒になる。だけどな、誰かに渡せたら……たまには薬にもなんだよ」
ユウキは黙ったまま床を見つめた。指先にはまだ汗がにじんでいた。
ただ、その指先には、小さくても確かな“覚悟”が宿っていた。
ゆっくりと顔を上げ、まっすぐ蝉仙人を見つめて言った。
「…………俺……生きたいよ。……“明日”を、生きたい」
蝉仙人は肩をすくめ、最後に言った。
「じゃあ、最後の最後に……お前に贈るぜ。卒業祝いの——」
蝉仙人が、股間に手を伸ばす。
「やめろ!!! そこは変わんねぇのかよ!!!」
「冗談だよ!冗談♡」
初めて蝉の声が“清々しく”聞こえた気がした。
ジィ……ジィィィ……ジィィ……
――朝。
陽が差し込む小さな部屋。安いアパートの一室。6畳一間。
布団の横には、ぐしゃぐしゃのTシャツと、半分読みかけの文庫本。
ユウキはゆっくりと目を開けた。
天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥が、妙にざわついていた。
「……夢じゃなかったのか」
呟いた声が、やけに真っ直ぐ響いた。
頬に触れた空気が冷たくて、目に見えない何かがスッと染み込んでくるようだった。
体はまだ重い。
だが、確かに動く。
胃が空っぽなことにも、部屋の狭さにも、もう何も感じなくなっていた。
それでも、今までとは違っていた。
――原稿。
ローテーブルの上には、プリントアウトされた『明日、蝉』の原稿。
しわくちゃになった1ページ目。
そこに打たれた最初の一文を、ユウキは見つめた。
“人間は、過去の後悔に殺される生き物だと思っていた。でも、違った。”
その言葉が、今の自分に返ってくるようだった。
自分の指で打ち込んだはずの文章が、まるで“誰かからの手紙”のようだった。
横に置かれたスマホ。
ひとつだけ未送信のメールが、画面にぽつりと浮かんでいた。
件名は空白。
本文には、たった一行。
『これ、読んでくれないか』
添付されていたのは、PDF化された『明日、蝉』の原稿。
宛先は、まだ空欄のままだった。
ユウキはその空欄をじっと見つめた。
数秒。いや、たぶん、もっと長い時間。
指先がそっと動き、文字を打ち込む。
“親父”
手が震えていた。
でも、指は止まらなかった。
蝉仙人の声が、心の奥から響いた。
――「後悔を言葉にして残せ。そうじゃなきゃ、ただの自己満で終わる」
ユウキはスマホの画面を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……逃げっぱなしじゃ、伝わんねぇもんな……」
そして、送信ボタンを押した。
メールが送られていく音が、やけに大きく聞こえた。
何かが終わり、何かが始まった音だった。
カーテンを開けると、強い陽射しが部屋に流れ込んだ。
まぶしさに目を細めると、どこか遠くで蝉の声が響いていた。
ユウキは原稿を片手に、ゆっくりと立ち上がる。
さっきより、ほんの少しだけ背筋が伸びていた。
「“生きる”って……こういうことなんだな」
コンビニで買ったカフェラテを片手に、公園のベンチへと歩く。
木陰には小学生たちがいて、虫かごを覗き込んではしゃいでいた。
ひとりの男の子が、手のひらで蝉を持ちながら言った。
「こいつらさ、地面に何年もいて、地上じゃ7日しか生きられないから、めっちゃ鳴くんだって」
ユウキは、その言葉にふっと笑った。
「……鳴けるうちに、鳴いとかないとな」
ベンチに腰を下ろし、カフェラテをひと口すすってから、スマホを取り出す。
新しいメモ帳を開いて、新規ファイルを作成する。
タイトルを打ち込む。
『今日を、生きる』
その瞬間、心のどこかで何かが“前に進んだ”音がした。
過去が消えたわけじゃない。
痛みがなくなったわけでもない。
けれど、今のユウキはそこから目をそらさずに、今日という一歩を踏み出しはじめていた。
「“明日から”じゃねぇ。“今日から”なんだよ」
ジィ……ジィィィ……ジィィ……
どこか遠くで、蝉の鳴き声が一段と強くなった。
――お前、明日から蝉な。
あのクソ野郎の声が、ほんの少し懐かしく感じられた。