四週目
――病室。
「……もう4回目か。どんだけやんだよ、あいつ……」
目を覚ましたユウキは、頭を抱えてうめいた。
ベッド脇のテーブルにはまた、1枚の紙。
《後悔メモ:トモカに借金返す》
「……うわ、きたよ……トモカ。いや無理だろ、アイツ絶対オレの顔見たくねぇし」
トモカ――ユウキがまだサラリーマンだった頃に付き合っていた彼女。
優しくて、真面目で、金にうるさくないのが救いだった。
一緒に安アパートに住んで、二人分の夕飯を作ってくれた。深夜帰りのユウキに風呂を沸かし、寝落ちしたソファに毛布をかけてくれた。
けれどユウキは、そんな彼女に平気で嘘をついた。
競馬に金をつぎ込み、生活費をごまかし、挙げ句の果てには「親が倒れた」などとデタラメを言って、金を借りた。
合計で借りた金額は――120万円。
全部返すことなんて、とっくに無理だった。
「……でもなぁ」
ユウキは封筒を取り出す。中には、5万円。
最後まで手をつけなかったトモカへの“けじめ”だった。
「どうしようもないクズだな、オレ……でも……返さなきゃ、前に進めねぇ」
蝉仙人の顔が浮かぶ。
『やりきらねぇと、一生蝉な〜』
「……やるしかねぇか」
駅前の商店街にある、小さなカフェ。
トモカが働いているという情報はSNSで探した。
ガラス越しに見えたトモカは、変わっていなかった。
肩までの髪。白いシャツと黒のエプロン。笑顔はそのまま、でも目の奥に少し疲れが見えた。
ユウキは店の前で5分以上立ちすくんでいた。
「……よし」
ガラン、と鈴の音が鳴った。
「いらっしゃ……」
トモカの声が止まる。
目が合う。完全に凍りついた。
「……久しぶり、トモカ」
「……なんでここにいんの」
「話が、あってさ……少しだけ、時間くれないか」
トモカは数秒沈黙したあと、厨房に声をかけ、空いた席に促した。
「……借りた金、今日返しに来た」
ユウキは封筒を差し出す。
中には、しわくちゃの一万円札が5枚。それだけなのに、指先が妙に震えていた。
トモカはそれを見て、何も言わず、ふっと目を伏せた。
「……これ、何年前の話か覚えてる?」
「……5年。いや……6年、かもな」
「6年よ」
声に刺があった。でもそれは怒りではなく、疲れと、哀しみの滲んだ音だった。
「こっちはその間、ずっと“バカだった”って自分責めてたんだから」
「……まだ全部を返せる訳じゃねぇ。でも……この5万だけは、最後まで残してた。どんなに金がなくても、これだけは使わないって……ずっと決めてたんだ」
「なんで?」
トモカは問い詰めるような目で、真正面から見た。
「今さら、5万だけ返して、何になるの?」
ユウキは視線を落とし、少しだけ口を開いたまま言葉を探した。
「……この金は、ずっと胸に引っかかってた。ちゃんとけじめつけなきゃいけないって、思ってた」
トモカは、じっとユウキの目を見据えた。
「他の借金は知らん顔でも、私のだけは返しに来たってわけ?」
「……違うよ。お前は、最後まで信じてくれてた。信じてくれてる人から奪ったものって……他と違って、ずっと消えねぇんだよ」
トモカの表情が一瞬だけ揺れた。
「……覚えてる? あの夜。私の誕生日だった日。あんた、帰ってこなかった。で、翌朝、私が泣きながら『どこ行ってたの?』って聞いたら、あんた、平気な顔して言ったの。“今日の10レースで取り返す”って」
ユウキは目を伏せたまま、わずかに苦笑いした。
「……うん。覚えてるよ」
「私ね、あの瞬間、心が折れた。『この人には、私のことなんて見えてない』って、思ったんだよ」
「……俺、最低だったな」
「最低だったよ。何度も何度も、信じるたびに裏切られた。でもね……」
トモカは言いかけて、喉元で止まった。
少し息を吸い、整えてから言葉を続けた。
「でも、今日のあんた……少しだけ、昔の“まだ夢見てた頃”のあんたに似てる気がした。私、あんたの“文章”が好きだったんだよ。あんたが居酒屋かどっかで何気なく紙に書いたポエム、それ写真で撮っててさ、それがスマホにまだ残ってる」
ユウキは目を見開いた。
「……残ってるのか?」
「削除できなかったんだと思う。腹立ってんのに忘れられなくてね」
しばらく沈黙が落ちた。
トモカは、テーブルの上に置かれた封筒にそっと手を伸ばし、ゆっくりとそれを胸元に引き寄せた。
「ありがとう。これで借りはチャラ。でも——」
「……?」
「もう、こっち見なくていいから。振り返らないで。自分の道、ちゃんと歩いて。あの時のあんたがやりたかったこと……今度こそ、大事にしなよ」
ユウキは、唇を噛みしめながら立ち上がった。
頭を深く下げ、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
トモカは一度だけうなずいた。
それ以上、何も言わなかったが、その目にはかすかな潤みが浮かんでいた。
ユウキが背を向けて去ったあと、トモカはそっとスマホに目を落とす。
6年前から開いていなかった写真フォルダ、そこに数枚だけある写真。
水滴でにじんだペーパータオルに書かれた文章。
『すべてを失っても、最後に残るのは——君の笑い声であってほしい』
画面を見つめながら、トモカはふっと息を漏らすように笑った。
「……ほんと、バカだったね。お互いに」
外で、蝉が鳴いていた。
四週目、最終日。
また蝉仙人が現れる。
煙草をくわえ、火をつけると、わざとらしく大げさに拍手をする。
「おお〜!ユウキく〜ん!いや〜感動した!泣けた!元カノに5万返して、心の借金もちゃ〜んと返済♡ ……って思ってるぅ〜?」
「……うるせぇな」
「ってか、5万返したくらいでイイ話気取りか? お前が踏み倒したの120万だろ? 115万どこいった、あ〜?なめんなよカス」
「……あれは……このループが終わったら返す。わかってるよ」
「ピンポン!正解〜!蝉卒業しないと“人としての信用”ゼロだからね〜。ループ中はな〜んの価値もない。言うなれば、“信用力ゼロの借金野郎”が幻の中で土下座してるだけってやつ?」
「……チクチク刺してくんの、ホント得意だなお前は」
「ありがと♡ 誉め言葉として受け取っとくわ! でもな、ユウキ。お前のやらかしリスト、まだあるぞ〜。ってか、本当にクソだなお前ってやつは」
「……次は何だ」
「ふふっ、それは見てのお楽しみ〜!体あっためてアップしとけよ。ワンツー!ワンツー!」
「……ダリィ」
「お前の人生がな」
「……」
「じゃ、また来週~。ちゃんと“蝉として”鳴けよ〜。ジィィィ〜……」
そして、死の闇に包まれる。
ジィ……ジィィィ……ジィィ……