三週目
――病室。
目を覚ましたユウキは、天井を見つめながら深く息を吐いた。
「……またかよ。マジで夢じゃねぇんだな、これ……」
起きた瞬間、これまでの記憶が頭に流れ込んできた。
まるで、夢の続きをなぞっているような感覚に、背筋がぞわりとした。
ベッド脇には、あの紙がきちんと置かれていた。
《後悔メモ:父に謝る》
「……しつけぇな。どんだけ親父の顔、見せたいんだよ」
ユウキは天井を睨んだまま、しばらく動けずにいた。
山下ツヨシ。父親。
酒に飲まれて、怒鳴り、暴れ、母を泣かせ、姉を泣かせ、家を壊した男。
高校を出てすぐに家を出たユウキは、それっきり一度も実家に帰っていなかった。
「なんで俺が謝んなきゃなんねぇんだよ……クソが……」
けれど、前のループでの死に際、蝉仙人の言葉がこびりついていた。
『やり切らなかったら一生蝉な〜』
「……マジでウゼェ……けど、やらねぇと終わんねぇんだろ、これ」
ユウキは重い体を起こし、スウェットのまま病院を抜け出した。
炎天下の駅前。
後悔メモの裏にはご丁寧に父親の住んでいる住所が書いてあった。
その住所を頼りに、電車を乗り継ぎ、バスを乗り継ぐ。
途中、コンビニで水を買いながら、昔を思い出す。
夏になると父は酒が増えた。汗をかいてビール、風呂上がりに焼酎。
キレては茶碗を割り、母に手をあげた夜もある。
小さな自分が、テーブルの下で姉と息を殺していた記憶。
「謝るのは、あっちの方だろ……普通……」
それでもユウキは歩いた。
父と向き合わずに逃げてきたのは事実だし、言葉を交わすことすら諦めてきたのも自分だった。
――夕方、くたびれた団地の前に立つ。
「うわ、こんなとこに住んでんのかよ……とんだオンボロ団地じゃねぇか……」
インターホンを押す指が、震える。
指先にじっとりと汗が滲む。
「……はい?」
「……ユウキ。……俺だよ」
しばらく沈黙が続いた。
それは数秒だったかもしれないし、十年にも感じられた。
やがて、カチャン、と音がして、ドアがゆっくり開いた。
中から出てきたのは、背中が少し曲がり、頬がこけた中年の男。
かつては怒鳴り声だけで家族を萎縮させた“あの親父”だ。
でも今、その輪郭にはどこか影が薄く、目の奥だけに、かろうじて当時の面影が残っていた。
「ユウキ……生きてたのか。てっきり……」
「こっちのセリフだよ」
父は一瞬だけ鼻で笑い、小さく咳払いして、ドアを開けたまま背を向けた。
「……入れよ」
狭い室内。古ぼけたカーテン、埃っぽい空気、漂うインスタント味噌汁の香り。テーブルには、読みかけの新聞と空のコーヒー缶。
壁には古びた家族写真。母がまだ笑っていた頃のものが一枚だけ、色あせて掛けられていた。
「座れよ」
無言で座るユウキに、父は湯呑みを差し出した。湯呑みはぬるく、少し生姜の匂いがした。
「……酒、まだ飲んでんのか?」
「……やっと止めた。もう8年近くになる」
「……そうか」
沈黙が落ちる。
その空気が重すぎて、ユウキは思わず笑ってしまいそうになる。
「なあ、親父……」
「……ん」
「俺……今、余命一週間なんだよ」
父はピクリと反応したが、すぐに目をそらした。
「本当かどうか、俺にも分かんねぇ。でも、そう言われた。あと一週間だって」
「……で、それで、何しに来たんだ?」
「……死ぬ前に顔見に来た、って言われたら……腹立つか?」
「まぁな」
父は缶コーヒーを手に取った。空だったことに気づくと、軽く舌打ちして立ち上がり、冷蔵庫に向かった。
「……で、何しに来たんだ?」
「……謝りに来た」
父の動きが止まる。缶の引き出し口を開けたまま、肩が少しだけ揺れた。
「……謝るって……お前が?」
ユウキは、視線を落としてうなずいた。
年老いた父の姿が、ぼんやりと滲んで見えた。
かつて恐れていた背中は小さくなり、手の甲には深いしわが刻まれていた。
その姿を見た瞬間、抑えていた思いが、言葉になってこぼれ出した。
「……ずっと、あんたのこと、恨んでた。母さん泣かせたのも、姉ちゃん苦しめたのも、全部あんたのせいだって思ってた」
「……」
「でも……それだけじゃなかった。オレ、自分が苦しいのを、ぜんぶあんたのせいにして逃げてたんだ。高校出てすぐ、何も言わずに出てって、それっきりだったろ」
父は、冷蔵庫の前で立ち尽くしていた。
「俺は……何もかも、なかったことにしようとしてた。家族だったのに、思い出ごと、捨てちまった」
湯呑みの中で、茶が揺れた。
「……今さら、何言ってんだって話かもしんねぇ。でも……一度くらい、ちゃんと、向き合いたかった」
その言葉が落ちるまで、数秒の間があった。
父がゆっくり振り返り、ユウキを見た。その顔には、呆れも、怒りもなかった。
ただ、少し疲れたような、遠くを見るような目で、ぽつりと口を開いた。
「……お前が家を出てから、俺はずっと、何してたと思う?」
「……知らねぇよ」
「俺、毎晩、母さんの仏壇の前で座ってた。……ずっと、誰もいないリビングでさ。酒やめたのも、あいつに言われた気がしたからだ」
ユウキは黙って聞いていた。
「お前には悪いと思ってた。でも、それを口に出すのが怖かったんだ。あの日、お前が出ていったあの背中……今でもたまに夢に出てくる」
「……親父」
「俺だって逃げてたよ。謝るのが、怖かった」
「……俺もだよ」
父が、やっと腰を下ろした。
沈黙のあと、小さな声で言った。
「ようやく、顔見れたな」
ユウキの目尻が揺れた。
「……ごめん」
父は小さく笑った。
「お前に謝られるの、なんかくすぐったいな。……でも、今の話、聞けてよかった」
ユウキもうなずいた。
「……俺もだよ」
ふと、窓の外で蝉が鳴いた。
「ミンミンうるせぇなぁ」
「ユウキ、蝉はな、一週間しか生きられねぇ。だからな、全力で鳴いてんだ」
「……そっか。……じゃあ俺もあんな風に鳴くか」
二人はそれ以上何も言わず、ただしばらく蝉の声を聞いて座っていた。
三週目、最終日。
再び病室。
ユウキは苦しみに耐えながらも、表情は穏やかだった。
蝉仙人が現れる。
羽をギチギチいわせながら、満面のいやらしい笑みを浮かべている。
「お〜いユウキィ、今週はちょびっとマシだったんじゃねぇの〜? お涙ちょーだいの和解劇、お疲れさ〜ん。親父とハグでもしちゃったか? 」
ユウキは力なく笑う。
「うるせぇな……少しは静かに見送れっての」
「いや~、オレそういうの無理なタイプなのよ。涙腺より尿道が緩いくてね。か~ら~の~!」
蝉仙人が股間をさらけ出す。
「……もう、それやめろってマジで……」
ジャーッと音が響いたあと、ユウキがボソリと呟く。
「……これで終わりか?」
蝉仙人は薄ら笑いを浮かべたまま言う。
「はぁ? 終わるわけねーだろ。後悔ってのはな、一個じゃ済まねぇのよ。お前の人生そのものが借金みてぇなもんだしな」
「……まじかよ……」
「まだまだ回収すんぞー。お前の“やらかし帳”、オレは全部チェックしてっから。来週もよろしくなァ、ユーウーキー」
また世界が闇に包まれる。どこかで蝉が、命の限りを鳴いていた。
ジィ……ジィィィ……ジィィ……