一週目
蒸し暑い夏の午後。
競馬場のスタンド席には、汗と煙草と絶望の匂いが立ち込めていた。
山下ユウキ、42歳。
Tシャツは黄ばみ、顔は脂ぎり、目は死んでいた。
「10番、来いよ……来いって……!」
赤鉛筆でぐしゃぐしゃに書き込まれた予想紙を握りしめ、モニターを睨みつける。隣の老人がポテチをむさぼる音すら腹立たしい。
「うるせえなジジイ、音立てんな……」
最後の直線――
「差せッ!差せぇっっ!!……差せって言ってんだろおおお!!」
無情にも、10番は3着。馬連もワイドも外れ。紙くず。
「ふざけんなよ……これで3日間、飯抜きかよ……」
ユウキは舌打ちし、空の財布を握りしめた。
「てか、昨日から何も食ってねぇし……クソ……」
場外馬券場を出て、コンビニの前で缶チューハイを開ける。
今日だけで3万円が飛んだ。手元に残っているのは元カノから借りた“最後の5万”だけだった。
「トモカ……どうせもう会わねぇのにな……」
コンビニ裏の駐車場、寝そべって空を見上げる。アスファルトの熱気と、酒と、空腹で、意識がふらつく。
「……明日になりゃ、なんか変わんだろ……」
ふと、視界の端で“何か”が動いた。
――ガサッ。ゴソゴソ。
植え込みの奥から、ギチギチと羽音が聞こえる。
「うわっ、なんだよ……」
そこに現れたのは――
カサカサに乾いた羽、玉虫色のサングラス、腹が突き出た中年体型、無駄に金のネックレスを首から下げた“蝉のようなオッサン”。
下半身は妙にリアルな昆虫脚で、カサカサと歩いてくるたびに地面が鳴る。
「……ダリィ……ダリィ……あーもう、地上ってホント、空気悪ぃわぁ……」
「……なんだよテメェ……着ぐるみ?ドッキリ?YouTuberか?」
蝉のオッサンは、ぎこちない二足歩行でユウキの前までズリズリと進み、鼻の下を擦るようにして笑った。薄い唇の奥から覗く黄色い歯が、不気味に光っている。ユウキを見下ろして言う。
「お前、山下ユウキだろ」
ユウキが言葉を失っていると、オッサンがふと腰に手を当てて、誇らしげに名乗った。
「俺か? 俺は“蝉仙人”よ。見てのとおり、蝉で、仙人。わかりやすいだろ?」
「……はぁ?」
「まあ、名乗るのもダリィけどな。どうせすぐ忘れるだろ、お前みたいなクズは」
ユウキの動きが止まる。
「んだよ、なんで俺の名前……」
「あ、そうそう。ってかお前、明日から蝉な」
「……は? 蝉? 意味わかんねぇよ、何言って――」
蝉仙人が無言で股間をさらけ出す。
「ちょ、おまっ……やめ……っ!?」
そのままジャーッと小便をかける。
ユウキが「うわっ!」と声を上げた瞬間、視界が真っ暗になった――。
――ユウキは見知らぬ病室の天井を見上げていた。
「……目が覚めた? よかった。あのまま意識が戻らないかと……」
白衣の医者が言う。
「山下さん、ちょっとお伝えしづらい話なんですが……。あなたの体、だいぶ弱っていて、今の医学では……一週間、持つかどうかです」
「……は?」
「あと、一週間です」
その瞬間――
窓の外で、“蝉”がジィ……ジィィィ……と鳴いた。
ユウキの耳には、やけにうるさく、そして……意味ありげに聞こえた。
夜。
ベッドに寝転ぶユウキ。テレビでは競馬番組の再放送。1レースごとに頭がうずく。
「……あと一週間って、なんだよ。冗談キツいぜ……」
「それって、競馬2開催分だぞ……なんもできねぇじゃねえか……」
ブツブツ文句を言いながら、眠りに落ちる。
その一週間、ユウキはただ彷徨っていた。
競馬場に通い、当たらない馬券を買い続け、当たり馬券を探してゴミ箱を漁った。
「うっわ、鼻かんだ紙じゃん……クソがっ……」
パチンコ屋の駐輪場で寝て、日雇いのバイトも三時間で逃げ出した。
「俺の人生、そもそもハズレ馬券なんだよ……」
誰にも会わず、誰の目も見ず、誰の声も聞かず。
Xで炎上中の競馬予想アカウントにリプを飛ばし、 昼間から酒を飲み、 クレジットの限度額に震え、 コンビニATMの前で3分悩み、 結局、何もしなかった。
一週目、最終日。
時間は夜の23時半になろうとしていた。
ユウキはネットカフェのブースで、雑魚寝用の薄い毛布にくるまりながら、微熱と吐き気に耐えていた。
「……なんだこれ、風邪か……いや、ちげぇ……身体が……動かねぇ……」
背中が熱く、関節がバラバラに崩れていくような鈍い痛み。歯の根が合わず、ガタガタと震える。
体の奥底からくる吐き気と痺れ。胃液を吐いたが、何も出ない。腹の底が空洞みたいに冷たい。
「……ちくしょう、寒ぃ……」
指先はもう感覚がなく、スマホを握ろうとして落とす。床に落ちた画面に、自分のぼやけた顔が映る。
「……俺、なにやってんだよ……」
唇は乾き、喉はカラカラ。咳が止まらず、缶コーヒーの空き缶を倒してむせる。鼻血がにじみ、咳の拍子に吐いた痰は血の味がした。
足元には空の酒缶とカップ麺の容器。
部屋の片隅でゴキブリが動いた。
それでも、誰にも連絡せず、ただ小さくうずくまって目を閉じた。
「……あーあ……せめて最後に万馬券でも当てたかった……」
意識が薄れていく中で、またあの声が聞こえる。
「ほらな、言ったろ。明日から蝉なって」
ユウキの唇が微かに動く。
「……また、お前か……なんなんだよ……」
蝉仙人。煙草を吸いながらニヤついた顔で近づいてくる。
「なあユウキ、お前の人生って何? 競馬と缶チューハイと嘘だけか? すげぇな、逆に尊敬するわ。……ダリィな~、お前のゴミみてぇな人生、何度でも存分に味わえや」
ユウキの顔めがけ、蝉仙人は容赦なくジャーッと小便をかける。
弱りきった体に小便を浴びながら、ユウキは真っ暗な闇に飲まれていく。
蝉の鳴き声が重く響いた。