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森のクマさん【真相】

作者: 平井淳

感想をお待ちしております。

 ――ジェシカはある日、森の中でクマさんに出会った。

 花咲く森の道。クマさんに出会った。


 クマ。茶色い毛皮にその身を包んだ獰猛な獣。


 背丈はジェシカより遥かに高い。こうして間近で見ると、かなりの威圧感があった。白い牙を剥き出しながら低い唸り声を上げる姿は、まさに怪物そのものである。


 鋭い眼光がジェシカをとらえる。その猛獣は今にも彼女に襲いかかりそうだ。


 しかし、このような状況に置かれているにも関わらず、ジェシカは不思議と恐怖を感じていないのだった。

 それどころか、彼女は微笑みながらその猛獣に対して無意識のうちに優しい眼差しを向けていた。


 ――素敵なクマさんですわ。是非、わたくしとお友達に……。

 

 そう思っていると。


「お嬢さん。お逃げなさい」


 なんと、クマさんが人の言葉を発したのである。


 ――まぁ、何と言うことでしょう!


 ジェシカはますます、そのクマさんに興味が湧いてきた。


 一人の娘と言葉を話す一頭のクマさん。


 この不思議な出会いが、のちにジェシカの運命を大きく変えることになる。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 ここはとある貴族の屋敷。見晴らしのいい丘の上に建てられたその立派な家には、両親と娘の三人家族に加え、二人の使用人たちが暮らしている。


 ある晴れた日の午後。昼食を終えたばかりの父と母、そして娘がテーブルを囲んで座っている。彼らは沈黙を貫いており、食堂には何とも言えぬ重苦しい空気が漂っているのだった。

 

 白髭を生やした白髪頭の執事がテーブルの皿を下げてから、童顔で赤毛のメイドが食後の紅茶を運んできた時、屋敷の主人である父が口を開いて、静かに告げた。


「ジェシカ。今度、スティーブン家のご子息とお見合いをすることになった。縁談がまとまり次第、結婚式を取り行う予定だ」


 それは突然のことだった。そろそろ結婚を考えるべきだと両親は前々から口にしてはいたが、自分が知らない間に見合いの話を進めるとは何事か。ジェシカは憤った。


「納得できませんわ! 誰が何と言おうとも、わたくしはそのお方と結婚するつもりはありませんの! 勝手にお見合い相手をお決めにならないでください!」


 ジェシカは椅子から勢いよく立ち上がると、両手をテーブルに叩きつけ、向かい側に座る父に向って叫んだ。怒りを露わにする彼女の顔は赤く染まり、瞳には薄っすらと涙が浮かんでいる。


「落ち着くんだ、ジェシカ。お前の気持ちはよくわかる。しかし、いつまでも我儘を言うのはやめなさい。もう子供ではないのだから」


 娘をなだめる父。その声は至って穏やかだった。それから、こう続けた。


「これはお前のためなのだ。どうかわかってほしい」


 あくまでも、娘を想ってのことであるらしい。しかし、ジェシカはそれを聞き入れる気にはなれなかった。


「嫌と言ったら嫌ですわ!」

「ジェシカ。私たちはあなたの幸せを願っているからこそ、スティーブン家にお見合いを申し込んだのですよ」


 と、今度は母が言った。彼女は父の隣に座っている。いつもであれば、紅茶を冷めないうちに飲み干してしまうのだが、今日はまだカップに手を付けてすらいない。


「好きでもない殿方と結婚して、何が幸せだといいますの? わたくしは愛こそが幸せの秘訣だと信じております。愛なき夫婦生活など、長続きするはずがありませんわ」


 反論するジェシカ。本当に自分のためを想っているのであれば、愛し合う男性との結婚を認めるべきではないのか。


「これから好きになればいいんだ。きっと大丈夫。ケント殿は誠実で人望もある素晴らしい人物なのだから、お前のことも大切にしてくれるはずだ。家柄も良く、皆から尊敬される人格者だ。そのことはお前もよくわかっているだろう」


 父の言う通りである。ジェシカはスティーブン家の次期当主であるケントとは面識があり、これまで直接会話をする機会が何度かあった。彼はとても優しく、温厚で、気遣いもできる男だ。非の打ちどころがないと言ってもいい。世の中には彼との婚約を望む女性も多いだろう。


 だが、そんな彼であっても、ジェシカは十分に愛せる自信がなかった。いや、愛するわけにはいかない理由があった。なぜなら……。


「以前にも申したはずですわ。わたくしは今、他に意中の方がいるのです」


 ジェシカには恋人がいたのだ。


 ある夜の舞踏会で出会ったルーカスという名の紳士と恋に落ちたのである。

 それから二人は交際を重ね、将来を誓い合った。

 

「いつか結婚しましょう。今はまだ難しいですが、その日が来るまで、どうか待っていてください」

「ええ、約束いたしますわ」


 ルーカスを裏切るわけにはいかない。彼女は彼との結婚を心の底から望んでいた。たとえどんな男が目の前に現れようとも、決してその気持ちが揺らぐことはない。彼女の愛は一筋であった。


「そうは言ってもねぇ……。肝心のその男は行方不明になってしまったのだろう? お前を置いて姿を消した人間など、私は信用に値しないと思うのだがね」

「あなたは騙されているのよ。ずっと連絡してこないなんて、向こうには結婚する気がないのだわ。もうその人のことは諦めなさい。早く忘れてしまうのです」


 両親の言葉を聞き、ジェシカはますます腹を立てた。


 勝手なことを言わないでほしい。あの人は、絶対に自分を裏切ったりはしない。あの約束が嘘であるはずがない。私たちの愛は本物だ。永遠なのだ。誰にも否定などさせない。


「戻って来るかどうかもわからない男に執着するのは愚かの極みだ。いいか、ジェシカ。何事もタイミングが大切だ。この縁談を逃せば、きっとお前は一生後悔することになる。スティーブンさんの気が変わらないうちに結婚を済ませてしまいなさい。これは二度とない貴重な機会なんだ」


 父はジェシカを懸命に諭す。現実を見ること。機会を逃さないこと。それが彼の最も言いたいことであった。


 母も同調した。幸せを掴む絶好のチャンスをものにできるのは今しかないと口を揃えて言うのだった。


 両親の言っていることは、正しいのかもしれない。だが、それでもジェシカは首を縦に振ろうとはしない。


「お父様もお母様も、何もわかっていらっしゃいませんわ! わたくしの心は絶対に変わりませんの。もう放っておいてくださいまし!」


 そう言い残し、ジェシカは食堂から立ち去る。


「ああっ。待ちなさい、ジェシカ!」


 呼び止める父。しかし、彼女はそれを無視して、屋敷の外へ飛び出した。


 走る。ひたすら走る。丘を下り、麓にある森の中へと入っていく。

 草木をかき分け、奥へと進む。


 数分後。ジェシカがたどり着いたのは、綺麗な花が咲く一本道であった。


 ここは彼女のお気に入りの散歩コースだった。嫌なことがあった時は、癒しを求めていつもここへやって来る。誰もいない彼女だけの楽園。小鳥のさえずりと川のせせらぎが聞こえる安らぎの空間だった。


 ――確かにスティーブン様も素敵なお方ですわ。初めてお会いした時から、わたくしは彼のことを尊敬しておりますの。ですが、それは愛とは異なるのです。わたくしの心を熱くさせるのはルーカス様だけ。ああ、彼は一体、どこへ行かれてしまったのでしょう。


 ジェシカはため息をつく。気づけば涙が流れ始めていた。

 彼に会いたい。会って話がしたい。両親に紹介して、すぐにでも結婚したい。

 

 このままでは、彼女はケント・スティーブンと望まぬ婚約を結ぶことになる。残された時間は少ない。

 

 春の暖かな木漏れ日が彼女を照らし、頬をつたう涙がキラリと光る。

 

 勝手にお見合いを申し込んだ両親への憤り。ルーカスに会えない寂しさ。様々な感情がこみ上げる中、ジェシカは人知れずシクシクと泣いた。誰にも理解してもらえない悲しみを彼女は一人で抱え込んでいる。


 ルーカスと再会できなければ、この涙が永遠に渇くことはないと思うほどだった。


 しばらく泣いていると、茂みの方から物音が聞こえてきた。ガサガサと草をかき分けながら、何かがこちらへとやって来ている。


「……どなたですの?」


 ジェシカは茂みに向って問いかける。


 自分以外の存在がここへやって来たのは初めてだ。誰にも知られていない秘密の場所だと思っていたが、そうではなかったらしい。


「え……?」


 現れたのは人間ではなかった。

 生い茂る草の中からゆっくりと姿を現したのは、体長二メートルほどの大きな獣であった。


 茶色い毛皮。丸い耳。鋭い爪。

 そう、これはクマである。


 こんなところにクマが生息しているとは思わなかった。物珍しさを覚えたジェシカは、まじまじとクマを見つめている。


「ぐるるるるる……」

「こんにちは、クマさん」


 ジェシカは呑気だった。巨体に臆するどころか、愛着さえ覚え始めていた。彼女は初めて目にするクマの姿に心を奪われ、我が身に危機が迫っているなどとは微塵も考えていない。


 クマはじっと動かずに、ジェシカを睨んでいる。彼女のことを静かに観察しているようだ。


 ――素敵なクマさんですわ。是非、わたくしとお友達に……。

 

 そう思っていると。


「お嬢さん。お逃げなさい」


 なんと、クマさんが人の言葉を発したのである。


 ――まぁ、何と言うことでしょう!


 ジェシカはますます、そのクマに興味が湧いてきた。


 動物がしゃべった。はっきりと、人間の言葉を。


 こんなことがあり得るのだろうか。だが、それは今まさにジェシカの目の前で起こっている。言葉を操る不可思議なクマが、彼女に「お逃げなさい」と告げたのである。


「どうしてですの? わたくしはあなたともっとお話ししてみたいですわ」

「それはなりません。私は見ての通りクマです。クマは人を襲います。今は理性を保っていますが、やがて獣としての本能が目覚めることでしょう。その時はもう、あなたの命を保証することはできません」


 おかしなことを言うクマだった。襲ってしまう前に逃げろと自ら警告しているのである。

 知性を宿した獣。ジェシカを襲うことはせず、彼女の身を案じている。しかし、この状態はいつまでも続かないらしい。


「さぁ、早く。ここから立ち去るのです」

「残念ですわ。せっかく仲良くなろうと思っていましたのに……」


 クマとの別れを惜しみつつ、ジェシカは森を出ることに決めた。


 彼女にはまだ心残りがあった。本当にこのままクマと別れてしまってもいいのだろうか。どうして自分は、こんなにもクマに惹かれてしまっているのだろうか。


 ジェシカがそのクマに興味を示したのは、彼が人の言葉を話すから。……いや、それだけではない。


 どこか懐かしい、聞き覚えのある声。温かみのある優しい声。

 いつまでも聞いていたい。せめて、もう一言でいいから何かしゃべってほしかった。


「クマさん」

「どうしましたか?」

「またお会いしましょう」


 もう二度と会えないかもしれない。でも、またここへ来たら、彼に会えるかもしれない。そんなことを期待し始めているのだった。


「うっ……!」


 すると、クマさんが急に頭を抱え始めた。

 唸り声を上げ、何かを必死に抑え込もうとしている。


「クマさん! 大丈夫ですの?」

 

 慌ててクマさんの元へ駆け寄るジェシカ。


「いけません! 早くお逃げください! 私はもうダメです。完全なクマに変わってしまいます。これ以上は危険です。今すぐ離れてください!」


 クマはジェシカを振り払う。強い力で彼女の身体を押しのけるのだった。


 明らかに様子がおかしい。本当にクマの本能が覚醒してしまうのではないか。もしそうなれば、自分はクマに食べられてしまうのではないか。


 もし食べられてしまったら……。もう「彼」に会うことも叶わなくなる。


 ルーカスとの永遠の別れ。

 それは絶対に嫌だった。


 ジェシカは逃げた。走って逃げた。自分はまだ死ぬわけにはいかない。愛する恋人と再会を果たす時まで、何が何でも生き抜かねばならないのだ。


 ――さようなら、クマさん。仲良くなれると思っておりましたのに……。


 全速力で駆けながら、ジェシカは一粒の涙をこぼすのであった。

 後ろを振り返る。クマさんはどうなってしまったのだろう。


「クマさん?」

「お嬢さん!」


 ところが。クマさんが後から、彼女を追ってきているではないか。

 とうとう野生動物の本能が目覚めてしまったのだろうか。彼は彼女を捕食するつもりなのか。


 迫りくる巨大な獣。人間とは比べ物にならない速さだった。このままでは、ジェシカはあっという間に追いつかれてしまう。


「お待ちください! お嬢さん!」


 クマさんが叫ぶ。彼はまだ理性を保っている。

 では、なぜ彼はジェシカを追いかけているのだろうか。


 クマさんはジェシカを追い越して、彼女の前で急停止した。

 両腕を大きく広げ、彼女の行く手を阻む。


「落とし物です」


 そう言って、クマさんはジェシカにある物を手渡した。


 白い貝殻の小さなイアリングだった。


 ジェシカは目を大きく開き、それから満面の笑みを浮かべて、それを受け取った。


「ありがとうございます」


 いつの間にか右耳のイアリングが外れ落ちてしまっていたようだ。クマさんはそれを拾ってわざわざ届けに来てくれたのである。


 ――なんて心優しいクマさんなのでしょう。

 

 ジェシカは温かい気持ちになった。


「これはとても大切なものですの。大切な方からいただいた私の宝物ですわ」

「そうだったのですね……」


 このイアリングはジェシカの誕生日にルーカスが贈ってくれたものであった。以来、彼女はこれを肌身離さず身に着けていた。


 ――今はこんな物しかお渡しできませんが……。

 ――いいえ。とても嬉しいですわ。

 ――次の誕生日には指輪を贈ります。ええ、婚約指輪です。

 ――ルーカス様……!


 あの日の誓いがジェシカの脳裏に蘇る。

 あれからもうすぐ一年。ジェシカの誕生日も近い。


「ああ、なぜでしょう。どうして私はあなたを見ると、こんなに心が躍る気分になるのでしょうか」


 ジェシカはクマさんを見つめながら、そう呟いた。


「私も同じです。なぜかあなたにお会いするのは、これが初めてとは思えないのです」


 クマさんもジェシカを愛おしそうに見つめていた。

 ずっと探していた人を見つけたような、そんな目をしているのであった。


「クマさん」

「はい」

「お礼に踊りましょう。わたくしと」


 そう言って、ジェシカはクマさんの手を取る。


 柔らかい肉球の感触が彼女の手のひらに伝わる。彼女が今握っているのは、紛れもなく獣の手である。当然、彼女はこれまでにクマと手を繋いだことは一度もない。だが、その手から感じられる温もりは、とても懐かしく、安心感を覚えさせるものであった。


「踊る? 私とですか?」

「ええ。もちろんですわ」


 ジェシカはステップを取り始める。クマさんもたどたどしい足取りでジェシカに合わせるのだった。


 これはルーカスと一緒に踊っていたワルツだ。彼がいつもジェシカをエスコートしてくれていた。だが、今日は彼女がクマさんをエスコートしている。


「ああ……ああ……」


 クマさんが何かを思い出そうとしている。次第に彼のステップは軽快になり、ついにはクマさんがジェシカをエスコートし始めるのだった。


「思い出しました」

「わたくしも……ですわ」


 クマさんがこのワルツを踊るのは、これが初めてではなかった。彼は何度も踊っているのだった。彼は様々な舞踏会に顔を出し、これまでたくさんの女性と踊り明かしてきたのだから。


 そして、中でも一番思い出に残っているのが、今目の前にいるレディと一緒に踊った夜のことであった。


 運命的な出会いを果たしたあの夜。踊ったのはこのワルツだった。


「やっと会えましたわね。ルーカス様」


 ジェシカは彼を抱きしめていた。彼もまたジェシカを強く抱いていた。

 クマさんの姿はもうどこにもない。毛皮の感触はない。

 そこにあるのは人肌の温もりだった。

 

「ずっと会いたかったですわ」

「ジェシカさん。もう二度とあなたを離しません」


 二人の愛が再び動き始めた。

 

お読みいただきありがとうございます。

感想をお待ちしております。

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