表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

仮初めパーソナリティー

作者: YB

 僕は無個性病だった。

 夏休み前に両親の強い勧めを受けて診療所で治療合宿を受けることになる。僕に個性がなく友達がいないのを心配する両親の最後の悪あがきだった。

「大学行くにしろ、就職するにしろその性格だと何もできない」

 父は性格とよく指摘するが、僕には性格がないので何も響かない。

 親と云う生き物は、【親】と云う設定を背負って生きているのが窮屈そうだと思うだけだった。

 僕は黙って頷いた。頷くのはいつものことで、命令されたら従うようにしている。そうするしかできないから。



 4時間ほど電車に揺られている。僕の住む街が遠く離れるにつれて、景色は緑一色になり、やがて青色の空と海が表れた。つまり、どんどん田舎に向かっている。

 最後の乗り換えで乗った1両編成の電車は冷房がなく、窓の隙間から心地良い潮風が吹き込んでいた。

 無個性病と言えど、暑ければ脱水症状を起こすし、寒ければ霜焼けにもなる。感情的になることはないけど、痛覚や不快感があることは覚えておいてもらいたい。

 小学生の時、イジメで熱湯を頭から浴びせられて、救急車で運ばれたことがある。イジメとはいえ熱湯を浴びせるなんて、誰が見てもやり過ぎなんだけど。主犯で実行したクラスメイトは「反応がないから何しても大丈夫だと思った」と、弁解していたらしい。

 僕は熱湯を被って痛いと云う記憶は残っていても、イジメっ子の名前も顔も覚えていない。自分の個性が分からないのに、他人の個性を区別するなんてできないからだった。

 イジメと云う災害で全身を火傷したのと、台風で飛んできた看板に当たって骨折した、は僕には同じ意味にしか思えない。

 自分に興味がなく、他人に関心がいかない。でも痛いのは嫌だ。うん、これが無個性病だ。



 夕暮れの海は水平線に沈む太陽のフレアを反射させ黄金色に輝き、波の揺れ動きがハレーションをゆらめかせる。

 大声診療所は浜辺に面した場所に建てられていた。パンフレットで見た通り、元々民宿だった建物の看板を【大声診療所】と書き変えただけだった。

『治療とやすらぎを。私たちと一夏を過ごしませんか?』そうパンフレットの最後に記されていた。僕はやすらぎは出来そうだと安心する。

 無個性病の治療施設には軍体のような訓練を強いる場所もあるらしく、昨年受講者が自殺をしたとニュースを騒がせていた。

 そのニュースを見て特に感想は抱かなかったが、しんどいのは嫌だなとチャンネルを変えた。

「……すいません」

 インターフォンはなく、玄関には『大声で読んでください。大声診療所』とデフォルメされた犬の絵が描かれている貼り紙。

 声を出すのは苦手だ。誰かと話す必要がないのなら、1年でも声を出さないだろう。かと言って、内心で自問自答をするほど自分に興味はない。

 例えば、地球に隕石が降り注ぐ日に石ころになって最後の瞬間を迎えたいとか。そんなことを永遠の考え続けるだけだった。将来の不安なんて感じない。ただ、終わりを考える、僕のじゃなくて地球の。

「ワンワンワンッ!」

 民宿から丘の方へと続く坂道を柴犬が尻尾を振り走ってくる。すぐに貼り紙に描かれた犬だと気付く。

 柴犬は僕の周りを歩き「ハッハッハッ」と舌を出す。

「……飼い主呼んでくれる?」

「ワンワンッ! ワンワンッ!」

 柴犬はなんとなく僕の言葉を理解しているようだった。人なつこくまとわりついてくる。

 大声診療所の玄関の引き戸が開く。

「ハナゴエどうした? ん……」

 白衣を着た大柄の女性が僕を眺める。頭に花粉用ゴーグル、鼻の上にブリーズライトを貼っていた。僕も桜の時期はお世話になるけど、真夏にブリーズライトをつけているのは珍しかった。

「ワンワンッ!」

 ハナゴエと呼ばれた柴犬が鳴く。

「ようこそ、大声診療所へ。向井陽太くんで間違いないかな?」

 鼻声なのは目の前の大女の方だと思う。

「……はい」

「時間通りだね。さ、入っておくれ」

 僕は促され玄関を跨いだ。それを確認すると、ハナゴエはまた丘の方へ走っていた。どうやら、僕をエスコートしてくれたようだ。

 ハナゴエの名前は覚えておきたいと思う。けど、明日には忘れているかも知れない。犬の区別も難しい。



 額から滲む汗が垂れるなんて久しぶりだった。診察室の椅子に座り、差し出された麦茶を飲み干す。冷房はなかったけど、日が当たらないだけで過ごしやすい気候だった。

「この子が今日からの子?」

 僕に麦茶をくれた小柄な男性が口にした。男はシャツの上にエプロンをつけており、醤油を煮込んだ匂いがした。若干の生臭さも混じるので、魚を煮つけている最中だと予測する。

「陽太くんだ」

 名前を『くん』付けで呼ばれると一瞬、誰のことか分からなくなる。家族以外で僕の名前を呼ぶ人はいない。

 大柄の女が続けて口にする。

「私はここの先生の早乙女だ。こっちは君の生活の世話をしてくれる村雨」

「ども~」

 村雨は決して痩せているとは言い難い体型で脇腹を内にしめて手を振った。

 あまりにも強烈な個性を持つ二人の関係性が気になってしまう。

「お、陽太くんは私と村雨がどういう関係か知りたい様子だね。どこからどうみても夫婦だよ。君達は個性的な人物にしか興味を持たないからね。私たちはキャラクター作りのひとつとして【早乙女】と【村雨】で呼びあっているのさ」

「……早乙女さんと村雨さん。頑張って覚えます」

 確かに漫画に出てきそうな名前は覚えやすそうだった。

「その調子で頼むよ。症状が進んだ無個性病患者は合宿を終えても私たちの名前を知らずに出ていくからね。名前で呼び会うのを第一歩にして欲しい」

 僕は初めて自分が患者なのだと悟る。無個性病は近年確認された病気で、まだ殆ど解明されていない新型うつ病とされている。

 僕もメンタルクリニックに通い続け、カウンセリングや漢方治療を受けたが、個性が現れることはなかった。

 そもそも、自律神経の機能が低下し脳活動がスムーズに働かなくなるうつ病と違い、僕の脳はいつでも正常に働き、自我の反映が不必要な命令さえもらえれば文句を言わずやりこなす。こう見えて、成績も悪くない。

 僕には個性がないだけ。そう伝えても、どの医者も漢方を処方し、経過観察をします。大人しい性格なだけかも知れませんね、と笑顔で語るだけだった。

 目の前に座る一風変わった花粉症の大女、もとい早乙女先生は個性がない症状がどんなのか理解しているようだ。

 早乙女……早乙女……。

 名前と外見を頭にすりこませる。

 僕の初めての医者になってくれる人。



「やんっ! 焦げちゃう」

 村雨は低音ハスキーボイスでオーバーなリアクションを見せ、診察室から去っていった。診察室には僕と早乙女先生だけになる。

「夕飯まで30分。目覚まし時計を30分後に鳴らすから、そこまでは私の声を頑張って聞いて欲しい」

 膝を外開きにして、大きな声で問いかける。窓の外に見える海はすっかりと暗くなっていた。さざ波の音だけがここに届く。

「30分……分かりました」

 なんとか早乙女先生に興味を持とうと集中する……難しいけど。

「ありがとう。じゃあ、初診を始めようか」

 6畳ぐらいの広さしかない診察室で僕は久しぶりに緊張していた。

「まず、君の名前を教えてくれ」

「……たぶん、向井……陽太。家族がそう呼ぶから」

 早乙女先生はカルテにボールペンを走らせる。見たことのない文字だった。

「陽太くんは自分が無個性病で特殊な存在であると気付いているかい?」

「……人間を特殊と呼ぶ意味が分かりません」

「好きなテレビタレントはいるかい?」

「面白いと思う人はいますけど、1日経つと忘れてしまいます」

「ふむ……」

 早乙女先生が一息入れ、カルテを眺める。その間のせいで先生に対する興味がなくなっていく。魚の煮付けや電車の隙間から吹き込む潮風や。そういった、肌の表面を刺激するものに関心が移っていく。

 僕の様子に気付いた早乙女先生は突然、立ち上がり、両肘で胸を挟みグラビアポーズをして見せた。

「シャツの下は水着だから大丈夫だ」

 僕はそこそこ歳がいってそうな大柄の女の谷間を見せられても反応に困るだけだった。しかし、反応に困り、居心地が悪くなったおかげでまた先生に興味が向かう。

「続けるぞ。家族は好きか?」

 早乙女先生は立ったまま、微妙にポーズを変えつつ問いかける。

「分かりません」

「じゃあ、嫌いか?」

「分かりません」

「陽太くんはイジメられていたよね? イジメっ子を憎んでいるか?」

「顔も覚えていません」

「例えば、陽太くんに熱湯をかけた少年を殺しても罪にならないとするなら、どうしたい?」

 僕は返答に困った。顔も名前も知らない相手に今さら復讐しようとは思えないが、熱湯をかけられた時の全身に鞭打ちされたような痛みと、皮膚に水ぶくれができて、注射で水を抜かれた恐ろしさは忘れられないからだ。

「……その状況になってみないと分かりません」

「うん、それでいいんだよ」

 早乙女先生は椅子に座り目覚まし時計を確認する。

「もう少しだから」

「……頑張ります」

 時間が明確に決まっているのは楽だった。出口のない対話ほど集中を欠く事はない。

 早乙女先生は木製のデスクに置かれたフリップを手にする。そこには、【積極的・消極的・神経質・無神経・感情的……】などの百以上の言葉が並んでいた。

「私の性格はこの中だと、どれに当てはまると思うかい?」

 僕はフリップの文字を目で追いかける。

「気が強い……?」

「なるほど。もう一つ選ぶとしたら?」

 眉間に力を込めて先生の人物像とフリップを必死に見比べる。

「目立ちたがり……で、どうでしょうか?」

「【気が強い目立ちたがり屋】……それが私の個性というわけか。どういうわけか、ここにくる患者は皆同じのを選ぶよ」

 あのグラビアポーズを見せられたら、そうなるだろうと思う。

「じゃあ、村雨はどうだ?」

 先ほど診察室から出ていったエプロン姿の男。それなら簡単だった。

「母性的なオカマ」

 答えた瞬間、早乙女先生が腹を叩いて大笑いする。

「陽太くん、よく見たまえ。オカマなんてどこにも書いてないぞ」

「え」

 僕はフリップを眺め【オカマ】の3文字を探す。しかし、どこにも書いていない。中性的という言葉を見つけて後悔する。

「村雨をオカマと断言したのは陽太くんが初めてだよ」

 嬉しそうに話す早乙女先生が、どこに嬉しいと感じているかは分からなかった。しかし、先生と村雨の印象はより強烈に頭に刻み込まれた。

 【気が強い目立ちたがり屋】の大女と、【母性的なオカマ】のおっさん……2人は夫婦。私生活が気になってしまうほどの組合わせだった。

 早乙女先生が満足気に手を叩く。パチンッの音さえでかい。

「あと5分だ。さて、最後に陽太くんが大声診療所で過ごすキャラクターを決めようか」

「キャラクターを決める?」

「そうだ。フリップの中から私の性格を選んだように、陽太くんがなりたい性格を選んでみてくれ」

「はあ」

 自分がなりたい性格。考えた事もなかった。性格がなんなのかさえ分からないのに。しかし、早乙女先生と村雨の性格を決めつけてしまっている。分からないは通らない。

 僕はフリップとひたすら、にらめっこする。勝敗のつかないにらめっこ。答えがあるようで、ない問いかけ。

「あと3分……直感でいいんだ。私の性格を陽太くんは言い当てたんだ。できるはずだよ」

 そう言われても。フリップに記載されている百以上の熟語がグニャグニャと溶けて錯覚を起こす。

「あと2分……」

「じ、【自己中】でお願いします」

 選んだ理由は文字角張っているから、グニョグニョと歪んでも識別しやすかったからだ。背筋に大量の冷や汗をかいていた。背中のニキビがヒリヒリと主張している。

「あと1分。もう一つ選んでみようか」

「えっ!」

「早くしないと時間がなくなるぞ……残り30秒っ!」

 僕は悩む間もなく、カタカナで記されていて一番最初に目についたものを選んだ。

「リアリストっ!」

 目覚まし時計のアラームが鳴った。それを早乙女先生がゆっくりと止める。

「陽太くんはここでは【自己中なリアリスト】だ。胸に刻んでおくように」

「いや、そんなの分かりませんよ」

「診察はおしまいだ」

 早乙女先生は白衣を脱ぎ椅子にかける。伸びをすると身長の倍ぐらいの大きさになった。

「【自己中なリアリスト】」

 改めて口にする。僕の診療所での性格、つまりキャラクター。何一つとしてピンとこず、空腹感で正気に戻る。先まで体内を駆け巡っていた喧騒感は一瞬で引いていった。

 犬の名前はハナゴエ。まだ覚えている。今日は調子がいい。



 窓の向こうは白波がうねっている。夜の海は宇宙的で呆然と眺めていると足元がすくわれる。民宿ぽさが残る小さな食堂だった。

 カウンターで区切られた台所は乱雑に大量の物が置かれている。撥水加工された緑と白のチェック柄のテーブルクロスは触れるとざらついていた。

 大きなテーブルに僕と早乙女先生と村雨。そして、見知らぬ女の子が座っている。ポテトサラダとつみれの味噌汁とカレイの煮付け。そして、山盛りのご飯。口の中から唾液が滲み出してくる。

 早乙女先生が箸を手にする前に話す。

「いただきますの前に紹介するよ。この子は芽衣ちゃん。治療合宿に3日前から参加してくれているんだ」

 僕の隣に座る芽衣はカレイの煮付けを眺めていた。

「なんと2人は同い歳だ。気を使わず仲良くやってくれ」

「……はい」

 僕は返事をした。無個性病の人に会うのは初めてだった。芽衣は小柄なボブヘアーで、それ以外の特徴はなく、覚えるのは無理だろうと早々に諦めた。

 芽衣が僕よりもカレイの煮付けに興味がいくのも同じ理由だろう。

「芽衣ちゃんはここでは【裏表のない頑張り屋】だから覚えてあげてね」

「はあ」

 芽衣にも僕と同じでキャラクターが与えられているようだった。【自己中なリアリスト】と【裏表のない頑張り屋】どちらも、想像も検討もつかない性格だった。

「それじゃあ、食べようか」

 シャツにジーパン姿の早乙女先生がポテトサラダを頬張った。それを合図に夕飯は始める。

 疲労感のせいか。いつもよりも箸が進む。どれも美味しい。僕は村雨を【料理の上手いオカマ】と、キャラクターを更新した。



「ここが陽太くんの部屋だからね。あと、お風呂場は渡り廊下の先にあるから」

 村雨はそう言い残して離れていった。僕は診療所の2階の部屋の一室にいた。4畳ほどの狭い部屋には、太陽を吸ったふわふわの布団が敷かれていた。

 和室だった。畳に座るのは久しぶりだ。窓からは海が見える。

 ようやく一息つけた。家を出てから半日で、随分遠くに来たような気がした。今すぐ眠ってしまいたかったが、風呂に浸かりたかった。嫌な汗を大量にかいたせいで、全身がもぞがゆかった。

 僕は旅行カバンからタオルと着替えを取り出した。



 風呂場は診療所とは別の建物になっており、渡り廊下を越えた先に位置していた。診察室以外は、診療所と云うよりは民宿色の方が強い。村雨の料理も美味しいし、2人しか患者のいない診療所よりは民宿に戻したほうが儲かるんじゃないかと思う。

 湯と描かれたのれんをくぐり、脱衣場に入る。ロッカーが壁一面に並ぶ。昔はこのロッカーが埋まるぐらい、観光客で盛り上がっていたのだろうか。

 僕は服を脱ぎ適当なロッカーに入れて、風呂場へとつながる引き戸を開けた。

 女の子の裸を見るのは初めてだった。

 風呂を終え脱衣場に向かう芽衣と鉢合わせになった。彼女は火照った体を紅葉させていた。風呂場の照明に濡れた彼女の肌は光沢し、筋肉の立体が誇張されていた。

 芽衣の鎖骨から膨らむ乳房は小さめで、乳首は肌色の彩度を高くしたような色だった。引き締まった腰まわりに窪むおへそは縦長で、そこから下の股間は陰毛に覆われていた。

「………」

 静止した芽衣であったが、何も言わず脱衣場へと歩いていった。

 僕は彼女の裸を見て、何か神秘的な壮大な感情を抱くべきなのかも知れないが、生憎そんな器用な真似は出来なかった。

 僕にとって男女の裸の違いはたいした差ではないからだ。



 翌日、朝から診察は始まった。ラジオ体操と朝食を済ませると早乙女先生が白衣を着て「始めようか」と口にした。

 診察室には海猫の鳴き声と船のエンジン音が開いた窓から響いていた。潮風になびくクリーム色のカーテン。

 僕と芽衣は向かい合わせで座っていた。昨日は気付かなかったが、彼女の鼻筋にはホクロがついている。なんとなくホクロがあると、目印にしてその人物の区別が出来るようになる。

 鼻筋にホクロがあるのが芽衣。曖昧な特徴よりも、ホクロの方が分かりやすく具体的であった。

 早乙女先生は僕らの間に立ち大きな声で話す。

「これから陽太くんと芽衣ちゃんには会話をしてもらう。もちろん、君らがキャッチはできるけど、投げることは苦手だってのは理解している。でも、これから会話をするのは君らじゃない」

 早乙女先生が僕と芽衣の前に名札立てを置いた。僕には【自己中なリアリスト】芽衣の前には【裏表のない頑張り屋】と描かれた名札だった。

「名札に書かれたキャラクターを演じながら会話をしてもらう。なんとなくでいいから、発言してくれ。そしたら、私が評価をする。名札通りのキャラクターなら1点。先に5点とれた方が勝ちだ」

 表情のない芽衣が口を開く。

「負けたらどうなるの?」

「うーん、風呂場の掃除でもしてもらおうか」

「……分かった」

 風呂場と聞いて昨晩の芽衣の姿を連想した。服を着て目の前に座る彼女が全裸で立っていた。そのギャップ感のみが心象に残っていた。

「陽太くんもいいかな?」

「はい」

 風呂場の掃除は面倒だなと思っても、【自己中なリアリスト】をどう演じればいいか分からない。

 早乙女先生が目覚まし時計をセットする。

「それでは、今から30分。私が出題するテーマに沿って会話をしたまえ。最初のテーマは『今日の天気』」

 早乙女先生が手のひらを見せ、僕らを促す。窓から見える空は雲一つない快晴であった。

 先に口を開いたのは芽衣だった。

「雲一つない快晴」

 僕と同じ感性の答えだ。

「こらこら、芽衣ちゃん。それだと会話にならないぞ。天気当てクイズじゃないんだから」

 早乙女先生が微笑みかける。

「……難しいわね」

 芽衣が唇に手を当て悩む。

「今日は昨日よりも暑いですね」

 僕は芽衣に訊ねた。アンサーがダメならクエッションにすればいい。

 芽衣が思い出すように目を細める。

「そうかしら。昨日のほうが暑いと思うけど」

 芽衣の返答に早乙女先生が指を鳴らす。

「芽衣ちゃん1点。同調せずに、自分が感じたことを答えたね。【裏表のない】キャラクターならではの空気の読めなさだったよ」

 誉めているのかどうか分からない言い回しだったが、ようやくゲームの意図を理解できた。

 要は会話のテーマはおまけで、本質は与えられたキャラクターに沿う発言をすれば点数がもらえると云うルールのようだ。

【自己中】であり、【リアリスト】でもある自分は何て発言すれば良いのだろうか。

「テーマを変えよう。『昨日の夕飯』について」

 また、早乙女先生が手のひらを見せ僕らを促す。

「私はポテトサラダが好きだったわ」

「ポテトサラダなのに、少し辛くなかった?」

「ブラックペッパーが入っていたんじゃないかしら」

「へぇ、ブラックペッパーか。気付かなかった」

「あなたは何が好き?」

 先生が割り込んで。

「芽衣ちゃん『あなた』ではなく『陽太』って呼ぼうか。陽太くんも『芽衣』だからね」

「………陽太は何が好きだった?」

「僕はカレイの煮付け。生姜の香りだけでご飯が進んだよ」

 僕はご飯を3杯もおかわりしていた。

「カレイの煮付けも美味しかったわよね。村雨さんに作り方を教えてもらいたいわ」

「芽衣ちゃん1点。料理を学びたい姿勢はまさに『頑張り屋』だ」

 芽衣の頬が微妙に緩んだ気がした。もしかすれば、彼女はゲームに勝ちたいのかも知れない。

 僕も風呂場の掃除は面倒だけと、どう発言すれば【自己中なリアリスト】になるのか分からなかった。

「じゃあ、次のテーマは……」

 こうして早乙女先生がテーマを出題し、僕と芽衣が会話をする時間は続いた。結果は僕が0点で芽衣が5点だった。

「陽太くんも芽衣ちゃんも、会話ゲームを忘れないで欲しい。診療所にいる間はそれぞれのキャラクターを常に演じるように心がけてね」

 表情はないがたぶん上機嫌の芽衣が口にする。

「分かった」

 早乙女先生が指を鳴らす。

「前向きな発言は【頑張り屋】らしい。1点だ」

 6対0。返事をしただけで、点数が入るなんて【頑張り屋】はズルいと思う。



 昼食は食堂で担々麺をすする。甘辛スープに肉そぼろが多く盛り付けられた太麺は食べやすく、ネギの酸味が程よく効いてラー油のピリッとした辛味を香ばしくさせた。

「辛いの苦手だったけど、これ美味しい」

 隣の芽衣が麺をすすり口にする。額がじんわりと汗ばんでいた。

「ありがと。黒砂糖と白ゴマをたっぷり入れてあるから、食べやすいと思うわ」

 村雨が小指を立てて喜んだ。

「替え麺もできるからね」

 芽衣はそのあと、替え麺を頼み美味しそうに担々麺を満喫していた。

 僕は担々麺の具材や味付けなんかを細かく暗記する。明日の診察の時に、テーマとして出題されても答えられるように。



 午後の診察は早乙女先生と散歩をすると云うものだった。

「この半島は一昔前は造船と漁業と観光で賑わっていたんだ。けど、少子化でご覧の有り様だ」

 診療所から坂道を登り、丘の上に立つと辺りを羨望できた。海側は水平線の彼方まで海しかないが、その反対側は森林とまばらな民家が並んでいる。しかし、出歩く人は見つけられなかった。

「寂しく映るかも知れないけどね。この土地は何も変わってないんだよ。海はおだやかで、空は広い。変わるのはいつも人間の方さ」

 変わらないといけない無個性病の僕には、先生の『変わる』と云う言葉が悪い意味に聞こえた。

 早乙女先生がどうして、こんなことを話したのかは分からない。けど先生の本心のような気もした。

「すまない、午後の診察を始めようか。ハナゴエおいで」

 先生がそう言うと、猛スピードで柴犬が坂道をかけ上ってきた。首輪は着けていなかった。

「ワンワンッ!」

 しっぽを振り舌を出して早乙女先生の周りを歩く。

先生はハナゴエの撫でまわし「よしよし」と口にする。

「それじゃ、ハナゴエと一緒に散歩に出かけようか。もちろん、ただ散歩をするだけじゃない」

 先生が僕らを見つめる。

「散歩の道中、気になった物があったら声に出して伝えてもらうよ。例えば……ハナゴエの体にくっつき虫がついている」

 先生はハナゴエの毛についたくっつき虫をとった。それを僕たちに見せる。

「ハナゴエは森の中でもおかまいなしに探検するから、いつもひっつき虫をつけてくるんだ」

 隣の芽衣が口にする。

「これもキャラクターを演じないといけないの?」

「いいや、ただの散歩だ。君らは思ってることを言葉にするのが苦手だからね。その訓練だよ」

「じゃあ、点数は?」

「それは、午前の診察だけ」

「……そう」

 なんとなく芽衣が残念そうに見えた。午後の診察でも僕にコールドゲームを決めたかったのか。

「それじゃあ、行こうか」

 僕たちはハナゴエに先導されて歩き始めた。

「蝶々だ」

 僕は口にする。野花を飛び交う蝶々は羽根をひらつかせていた。

「そいつは蝶々じゃなくて、オオムラサキだよ。夏によく見かけるね。次、見かけたらオオムラサキと詠んであげてね」

 早乙女先生は丁寧に説明してくれた。

「オオムラサキ……覚えました」

「綺麗な花」

 芽衣が黄色い花を指差して口にした。

「それはオオキンケイギクだね。綺麗だけど、外来種でこの辺の植物もだいぶとコイツにやられちゃった」

「……悪い奴?」

「いいや。不思議な話、オオキンケイギクが増え始めた時は、この辺りにはオオキンケイギクしか残らないなんて騒がれたけどさ。ここ5年ぐらいは増えていないんだよ。コイツなりに気を使ってるのかもね」

「植物が気を使うんだ」

 こんな感じで診療所の近くを歩き続けた。早乙女先生は虫や植物について詳しく、必ず名前と簡単な補足説明をしてくれた。

「名前で呼んであげてね」

 先生は最後にそう付け足した。名前なんてただの記号に過ぎず、意味なんてものはこじつけに過ぎないと考えていた。

 僕には向井陽太と云う名前があるけど、それは両親が勝手につけただけ。虫や植物も同じで、過去の人間が勝手に名付けた……だけ。

 意味なんてない。ただのこじつけ。でも、先生は大切に慎重に名前を扱っていた。

 僕は昨日、同学年の女の子から初めて『陽太』と名前で呼ばれた。そして『芽衣』と呼んだ。その時はルールを課せられたから、そうしただけだったが、もしかすると凄く特別な事件だったのかも知れないと思った。

 芽衣は花の名前を教えてもらう度に、何度も口に出して覚えようとしていた。彼女も変わろうと必死だった。



 午後の診察が終わり夕飯までの間に風呂場の掃除をする。村雨から手順を聞いた。とりあえず、デッキブラシで床を磨く。

 僕がデッキブラシを擦っている最中、脱衣場から芽衣が監視をしていた。早乙女先生に「陽太くんがサボらないように見張っていて」と言われたからだった。

 普段は他人の目なんて気にならないのだが、風呂場に芽衣といると昨晩の光景が思い出されてしまう。彼女の引き締まった裸と小さな乳房、股間の陰毛。

「陽太」

 不意に芽衣が口にした。僕はデッキブラシを止めて芽衣を見つめる。鼻筋のホクロの確認は怠らない。

「なに」

「先生がなるべく陽太とおしゃべりしろって」

「僕も同じこと言われた」

「話すのって難しいよね。陽太に聞きたいことなんてないのに」

「そうだね……手伝ってくれない?」

「負けたのは陽太で、私は監視役だから無理」

「そっか」

「うん」

「掃除に戻る」

「うん。私も監視に集中する」

 僕が風呂場の掃除をしている間、芽衣はずっとこちらを監視していた。その視線にむず痒さを覚えたのは、芽衣には教えなかった。



 夕飯はトマトのぶつ切り、鳥ももの唐揚げ、わかめがたっぷり入った味噌汁だった。僕と芽衣はご飯を2杯おかわりした。

 夕飯を食べ終えると、お風呂に入り自分の部屋に戻る。布団に横になって目を閉じると、外からジーーと鳴く虫の声。確かクビキリギス。早乙女先生に教えてもらった。

 夏の夜は騒々しかった。物音を起こす全てに名前があり、生きていると思うと不気味だった。その一部に自分の居場所があることが恐怖だった。

 しかし、何故か心地よい恐怖だった。この先に恐ろしい何かが待っていたとしても、思わず先に進みたくなるような、そんな恐怖。

 僕は旅行カバンからノートと筆箱を取り出した。早乙女先生から教わったことを日記に残そうと思う。虫や植物の名前をたくさん知ったが、日記の一番最初に書いた名前は『芽衣』だった。

 芽衣は負けず嫌いかも知れない。

 そう日記の二行目に書いて、無個性病の彼女を【負けず嫌い】って感想を抱いたことがおかしく思えた。



 毎日、午前の会話ゲームと午後の散歩の繰り返しだった。繰り返さないのは、村雨の料理の品目だけ。2週間が経っても一品もかぶらなかった。民宿を再開すれば良いのにと思う。そしたら、合宿が終わっても遊びにこれるのに。

 会話ゲームは随分、上達していた。僕も芽衣も自分の与えられたキャラクターの特性を理解し始めていた。

「お題は『昨晩、みんなで見た映画の感想』」

 早乙女先生がお題を出題する。話を切り出すのはいつも芽衣からだ。

「性格が最悪な小説家がシングルマザーに恋をするってシチュエーションが素敵だったわね」

「でも、冒頭の犬をダストシュートに投げるのはやり過ぎじゃないか?」

「あれぐらい見せないと、主人公の性格の悪さが演出できないんだと思う」

「犬をダストシュートに投げるなんて、現実だったらドン引きするって」

「……陽太って映画と現実の特別もつかないのね」

 早乙女先生が笑いながら口にする。

「陽太くん1点。芽衣ちゃんは【リアリスト】な男は嫌いのようだ」

「あ、しまった」

 芽衣がくやしそうする。彼女はこの2週間で表情の変化が分かりやすくなっていた。

「今日の風呂場の掃除は芽衣で決まりだな」

 これは【自己中】ぽいかな、と先生の顔色を確認する。先生は首を横にふる。ただの嫌な奴だったかもと反省する。

「先生いいですか」

 芽衣が手を挙げる。

「なんだい?」

「私、昨日の夕飯作るの手伝いました」

「それは頑張ったね。芽衣ちゃんに3点」

「やった」

 芽衣が小さく拳を握る。

「え、芽衣って手伝いしてたっけ」

「うん。村雨さんに時々、料理を教えてもらっているの」

 早乙女先生は微笑むだけだった。

 二週間経つが、芽衣は一度も風呂掃除をしていない。つまり、僕の全敗と云うわけだ。

 午後の診察の時間。玄関を出るとハナゴエが走ってくる。僕と芽衣周りをぐるぐると歩く。芽衣がハナゴエの全身を撫でると「キャウゥゥ」と嬉しそうな声を出す。ハナゴエとも仲良くなった。

 遅れて来た早乙女先生が口にする。

「今日から私抜きでハナゴエの散歩に行ってきて。川で遊ばないこと。森には入らないこと。知らない人にはついていかないこと」

「知らない人って……人とすれ違ったことなんてあったけ」

 僕が口にする。たまに軽トラが通りすぎるぐらいで、人に会ったことはなかった。

「もしもの話だよ。2人とも約束事できるかい?」

 僕と芽衣は顔を見合わせた。こういう時は決まって彼女から返事をする。

「はい、気をつけます」

「それじゃあハナゴエ。2人を頼んだよ」

「ワンワンッ!」

 ハナゴエに引率されて、僕と芽衣は散歩に赴く。

 診療所から坂道を登り丘の上へ。海を見渡し、カモメの数を数える。日差しが強く、芽衣は麦わら帽子をかぶっていた。これもつい最近の変化だ。無個性病は言われた通りの服しか着ないので、毎日似たような服装になりがちだ。僕の旅行カバンには同じ色のシャツが10枚も詰まっている。

 芽衣の鼻筋のホクロよりも、麦わら帽子が気になるのは僕の変化なのかも知れない。

 丘から更に進むと、森の中を抜ける道。足を踏み入れると野鳥の鳴き声と葉のすり合う音。歩く度に枯れ枝が靴底に潰されてパキパキとする。

 途中に小川があり、不揃いな平たい石を踏み越えて渡らないといけない。ハナゴエは川の中にためらいもなく入っていき、水浴びをするのがお決まりだった。

 僕と芽衣は小川を越えてすぐにある大きなくぬぎの木の下で休憩しながら、ハナゴエの水浴びが終えるのを待っている。

 風で葉が揺れると合わせて木漏れ日も揺れ、地面の影を揺らす。クマゼミ・アブラゼミ・つくつくぼうしの合唱。小川の水中ではハナゴエから逃げまとうウグイの群れ。

「熱いね」

 芽衣が口にする。胸元のシャツを指でつかみパタパタとする。彼女の首筋から流れる汗が、胸元に吸い込まれていく。

「うん。でも、嫌な熱さじゃない」

「陽太はどんなところに住んでいるの?」

 2人の時間に会話するのは珍しくなかった。これも、早乙女先生から「どんな会話でもいいからしなさい」と常日頃、言われているからだった。お互い、相手の気になった事は訊ねて、聞かれたらしっかりと答えなさいとも。

「海も森もないよ。コンクリートに舗装された川ならあるけど」

「都会なんだ」

「どうだろう。普通だと思うけど。芽衣の家は?」

 芽衣は麦わら帽子の紐を閉め直す。

「ここよりちょっとだけ都会かな」

「それは都会じゃないだろ」

「うん。強がってみた」

「……変な奴」

「マンハッタンってどんなところかな」

「は?」

「昨日の映画。主人公はマンハッタンに住んでいたじゃん」

 僕はゴミゴミとした人と物と階段で溢れた町並みを思い出す。

「汚そうじゃない?」

「えー、陽太は分かってない。マンハッタンはなんか人間が作ったって感じがするじゃん」

「だから、汚そうなんじゃないか」

「違うよ。デリケートなんだよ」

「デリケートって意味不明」

「……本当だ。意味分かんないね」

 水浴びを終えたハナゴエが近付いてくる。そして、わざわざ僕らの前に立ち、全身を震わせて水っけを弾いた。

「キャッ! 冷たいっ」

 芽衣が僕の後ろに隠れる。ハナゴエの水が僕にかかる。

「ワンワンッ!」

 ハナゴエが満足そうに吠える。

「……ひどくない?」

 ぼくの顔は水浸しになっている。シャツも濡れてしまった。

「ごめんって。ハンカチ貸してあげる」

 芽衣がハンカチを取りだし、僕の顔を拭いた。

 小川を越えて森を抜けると広大なひまわり畑の一本道につながる。早乙女先生が言うには、これほどひまわりが綺麗に咲いているってことは誰かが管理しているはずなんだけど。そんな人見たことないんだよね、とのことだった。

 ハナゴエはひまわり畑に入ると蝶々を追いかけ走り回る。キアゲハ・モンシロチョウ・コムラサキ他にも僕の知らない蝶々がハナゴエに追いかけられているはずだ。

 僕と芽衣は歩調をゆるめて、ゆっくりとひまわり畑を歩く。ここでも、ハナゴエが満足するまで次に進めない。

「陽太、寒くない?」

 芽衣が心配そうに訊ねる。

「もう乾いたから大丈夫」

「実は私たちって今、凄いことをしているって思わない?」

 芽衣の会話の文脈がコロコロ変わるのはいつものことだった。無理に興味を持とうとする意識が先走るせいで、会話を連続して続けることが難しいのだ。僕も自覚がないだけで、たぶん同じだと思う。

「犬に水をかけられて、ひまわり畑を歩いているのが凄いことなの?」

「違うって。高校1年の夏休みに異性と2人きりでいるんだよ?」

「ハナゴエがいるけど」

「犬じゃん」

「うそうそ。うん、凄いことだと思うよ。しかも、そこそこ口数も多いし」

「私さ。男の子とこうやって話すの初めて」

「僕も。ってか、性別限らず普段は話さないし」

「そうよね。なんか、『普通』って感じしない?」

「『普通』かな。こんなに綺麗なひまわり畑は普通ないと思うけど」

「あ、今の【自己中なリアリスト】ぽい」

「そう? 意識してなかったけど」

「じゃあ、私は【裏表ない頑張り屋】にならないと」

 芽衣は僕の手を握った。彼女の5本の指が僕の指の隙間に滑り込んでくる。ぎゅっとした力を感じた。

「これって【裏表のない頑張り屋】なの?」

 僕が口にした。心臓の音が妙にはっきりと聞こえる。僕のものか、芽衣のものか。それとも2人の鼓動が早くなっているのか。

「……分からないけど。結構、頑張ったんだよ」

「じゃあ、1点をあげないと」

「えー、5点ぐらいじゃないと割に合わない」

 僕と芽衣はそのまま手をつないでひまわり畑を歩いた。日が沈み始めていた。もうすぐ夏休みは終わる。それは、彼女との別れも意味していた。

 僕は芽衣の手の温もりに触れながら、自分が確実に変化していると感じていた。自我の芽生え。無個性病からの修復。

 夏の終わり、僕の終わり、芽衣の終わり。初めてがたくさん始まったと思ったら、終わりの連鎖が訪れる。



 僕の合宿が終わる一週間前に台風はやってきた。昼間にも関わらず、外は薄暗く枯れ木を散開させる。戸を叩くのは風、風速おおよそ40メートル。

 芽衣は昨日から体調を崩していた。早乙女先生は「熱が高いけど、ただの夏風邪だから大丈夫だよ」と教えてくれた。彼女は自分の部屋で眠っているはずだ。

 早乙女先生は早朝、診療所から森の奥離れにある知り合いがケガをしたと連絡を受けて飛び出していった。村雨は必死に止ようとしたけど、先生を止めることは叶わなかった。

「夕飯までには戻る」

「ワンワンッ!」

「ハナゴエも来てくれるか?」

「ワンッ!」

 僕と村雨は強風でなびく先生の雨ガッパを見て、不安になるしかできなかった。

 食堂にいた。いつもは明るく、騒々しいこの場所も雨戸を叩く横雨の音しか聞こえなかった。その音に耳を預けていると、自分がこの場所で与えられたキャラクターが偽りだったのでないかと曖昧になってくる。

 いや、そもそも偽りのキャラクターを演じることで始まったはずだ。僕は空っぽで何者でもなかったのだから。

【自己中なリアリスト】何故、こんなキャラクターを選んでしまったのか。もっと、楽に演じられる性格はあったはずだ。

 僕は午前の会話ゲーム中に言葉が出ない度に後悔した。それなのに、今はどうだ? 僕は【自己中なリアリスト】を演じきり、自己中らしさとリアリストらしさを日常的に考えて生きている。

 自己中な僕なら、すぐにでも「心配だから」と一言放ち芽衣の部屋に行っても許されるんじゃないか。リアリストな僕なら、早乙女先生を「先生がケガしたらどうするんですか」と呼び止めたんじゃないか。

 だけど、僕は食堂にいる。何も行動に移さず、ただテーブルに肘をつき、台風の乱気流にいることを実感して息をひそめる。そうして過ぎる時間。

 先ほどから食堂を出たり入ったりして忙しない村雨が言った。エプロンには雨が濡らした跡が残る。

「早いけど昼食にしようか」

 相変わらずの女口調の低音ボイスだったが、微かに震えていた。

「手伝いますよ」

 僕は立ち上がる。何でもいいから、気を紛らわしたかった。

「【自己中】の陽太くんがお手伝いなんて珍しいわね」

「今はそんな場合でもないでしょ」

「……そうね。陽太くんは優しいもんね」

「………」

 僕は優しいと云う言葉を受けとめきれずにいた。自分のどこに他人を思いやる気持ちがあるか理解できない。

「こっちに来て、ジャガイモの皮を剥いて」

「あ、はい」

 僕と村雨は台所の流しの前に並んで立っている。

僕はピーラーでジャガイモの皮を剥き、村雨は鳥のモモ肉をぶつ切りにしている。

 昼食の前に夕飯のカレーの支度をしておくとのことだった。診療所でカレーを食べるのは初めてだ。

 村雨はもも肉を切り終え、タッパに移し牛乳で浸すと突然、泣き始めてしまった。

「ぅう……グスッ」

 大人の涙、おっさんと涙、オカマの涙、どれも衝撃的なのに同時に攻められると逆に冷静になってしまう。

「どうしたんですか?」

 僕が訊ねると、村雨はタッパを冷蔵庫入れた。

「……早乙女が死んだらどうしよう」

「死ぬって大袈裟な……先生なら大丈夫ですよ。ハナゴエもついているし」

「うぅ……でぇもぉ……」

 村雨は完全にノイローゼになっていた。嗚咽のせいで呼吸が乱れ唇が真っ青だった。村雨にまで倒れられたら、いよいよ診療所は滅茶苦茶になると考えた僕はどうにかして落ち着かせようとした。

「村雨さん……早乙女先生とはいつ出会ったんですか?」

 話題に困ったら昔話を振りなさいと先生から教わっていた。それで村雨が落ち着きを取り戻すかは分からないが、他の方法は思いつかなかった。

「……早乙女とは大学の同級生だったの」

 村雨はティッシュを手に取り鼻をかむ。それから、息を大きく吸うと話を続けた。

「私はまだ男で、でも女になりたくて。本当の自分が分からなくて……うん、死ぬことだって考えていたわ」

 村雨の呼吸は整い、唇にも気色が戻り始める。

「そんな時、早乙女が助けてくれたの。本当の君を一緒に見つけようって。それで私は女になれたの」

「大学生の頃から付き合ってるんですか?」

「ううん。あの時は助けてもらっただけ。お互い専門は違ったし、研修とか始まると会うことなんて殆どなかったわ」

「……村雨さんってもしかして元医者なの?」

「そうよ。形成外科専門だったわ」

「へぇ。人間どうなるか分からないですね」

「何それ、馬鹿にしてない?」

「いえ、料理が美味しんで料理人かなとか勝手に思っていたので」

 村雨が肩をすくめて不気味に笑う。

「ウフフ……ありがと」

「それで、早乙女先生とはどういう経緯で付き合うんですか?」

「早乙女はね、私と付き合う前は別の人と結婚していたのよ」

「えっ! そっか……そういうこともあるのか」

「うん、大人だもん。私だって彼氏いたし」

「彼氏かぁ」

 他人に興味が湧かなかった僕が2人の馴れ初めを知りたくて焦がれている。

「お互い30歳過ぎたぐらいに久しぶりに会ったの。そしたら、早乙女は妊娠していてね。出産を機に仕事も辞めるんだって自慢していたのよ」

「早乙女先生が妊娠ってのも想像し難いですね……あれ」

 僕はこの家に子供がいないと気付く。

「……半年後ぐらいかな。早乙女から流産したって連絡が来たのは」

「……そんな」

「それから私と早乙女は毎日のように電話するようになったわ。流産したせいで、夫婦仲もうまくいかなくなっていたのよね」

「……正直なこと言っていいですか?」

「いいわよ」

「知りたくなかった……早乙女先生にそんな辛いことがあったなんて知りたくなかった」

 僕はピーラーを手放し、泣いてしまった。嗚咽を漏らし膝から崩れ落ちてしまった。知りたくなかった……なんて自己中心的な涙なんだろうか。他人の辛い過去を初めて共有し、その重さに後悔し逃げたくなってしまった。

「聞いたのは陽太くんよ……だから、最後まで聞きなさい」

 村雨を落ち着かせるつもりが、逆に僕が諭される格好になってしまった。僕は鼻水をすする。

「……はい」

「早乙女は離婚したわ。そして、原因不明の新型うつ病に出会う……無個性病よ。当時は性格が形成できない子供がいるなんて考えられもしなかったわ」

 村雨は僕が落としたピーラーを拾い続ける。

「償いだったんでしょうね。子供を産んであげられなかった……早乙女ってああ見えて凄く不器用なのよ」

「別に先生は悪いことしてないのにっ」

「周りがそう思っても、本人が罪を背負ってしまったら償いはしないといけないのよ」

 自分しか許せないのなら、救いが無さすぎると思う。

「だから、私は寄り添うことにした。いつか、早乙女が自分を許すその日まで。ただ、力になることにしたのよ……それからは、早乙女は無個性病の研究に明け暮れて、私は彼女の帰りを家で待ったわ。そして、早乙女は無個性病の治療法を見つけた。それが、陽太くんたちにも協力してもらっている治療法よ」

 ようやく涙の止まった僕はゆっくりと顔を上げた。視界がクリアになり、頭がすっきりしていた。

「世間話一般では無個性病は治療法が分かっておらず、うつ病と同じ扱いをされているわ。だから、早乙女は性格形成プログラムを治療方法として認可してもらおうと足掻いているのよ……それが彼女にとっての償いなのよね、きっと」

「……どうして僕にそんな事まで教えてくれてんですか?」

「聞かれたから。診療所では聞かれた質問には、なるべく素直に答えてあげるってルール忘れちゃった? 他人に興味を持つって疲れるでしょ」

 僕は立ち上がり言った。

「そうですね……疲れました」

 突如、台所の照明が落ちて外が真っ白に光る。その3秒後に落雷の爆音が響く。

「……近いわね」

 村雨が呟く。台所の照明に光が戻る。今度は外でハナゴエの鳴き声がする。

「キャンキャンキャンッ!」

 いつもとは違う鳴き声だった。僕と村雨は急いで鳴き声のする玄関に向かった。

 村雨が玄関の引き戸を開けると興奮したハナゴエが耳をピンと立てて待っていた。

「アオーンッ!」

 僕は嫌な予感がした。ハナゴエは賢い犬だ。こんなに焦って僕らを呼ぶ理由は一つしか考えられなかった。

「早乙女に何かあったのね」

 村雨が先に口にした。

「ハナゴエちゃん、早乙女はどこにいるのっ?」

「ワンワンッ!」

 ハナゴエはついて来いとお尻を向けた。

 村雨がハナゴエを追いかける。僕もそれに続く。横雨が顔を叩く。

「陽太くんは家にいなさい」

「……連れていってください。先生に何かあったら、村雨さんだけじゃ対処できないかも知れない」

 村雨はためらったが、僕が真剣な目を向けると。

「……うん、男の子だもんね。絶対にケガはしちゃダメだからね」

「はいっ!」

 ハナゴエに導かれて、僕と村雨は台風の通い慣れた道を走った。雷鳴が轟く暴風雨だった。別世界のようだった。



 森の中の小川のほとりだった。早乙女先生は根元が焼け焦げたクヌギの木に、足を下敷きにされていた。

「ワンワンッ!」

 ハナゴエが「ここっ! ここっ!」と叫ぶ。僕と村雨は慌てて早乙女先生に近付く。

「すまない……雷に射たれた木の下敷きになるなんて。とんでもない確率の不幸だ」

 先生は衰弱していた。意識が朦朧としているようだ。 

「強がりはいいから、足は抜けないの?」

 村雨の声に先生が下半身を動かす。しかし、挟まった足は一向に動かない。村雨がシャツをまくり木を掴む。

「はー、ふぅー……フンッ、ぬぬぬっ」

 クヌギを持ち上げようとするが、先生の足は動かない。小川が氾濫しかけていた。靴は水に浸かっている。横殴りの雨が容赦なく襲いかかる。

「手伝いますっ」

 僕もクヌギに手をかける。小川が氾濫してしまえば先生の命は危うくなる。

「陽太くん……ありがとう」

 視点の定まらない先生が口にする。寂しがり屋の少女の顔だった。顔についた泥が生々しかった。

「感謝するのは帰ってからにしてください。村雨さん……せーのっ」

 息を合わせて僕と村雨が力を入れる。クヌギは持ち上がらない。僕はもっと息を吸い込んで力を蓄える。

「もう一度……せーのっ」

 鈍い地面のえぐれる音とともにクヌギが数センチ浮かび上がる。先生がなんとか足を逃がす。

 僕と村雨の握力が尽きてドスンとクヌギを落とす。

肩で息をする。二の腕が痙攣を起こし、手のひらが震える。

「……2人とも助かったよ」

 先生が立ち上がろうするが、足に力を入れた瞬間、体勢を崩してしまう。

「いっ!」

 先生が右足を抑えうずくまる。村雨が近づき先生の足に触れる。

「くぅ~ん」

 ハナゴエが僕の膝元で心配そうに鳴く。僕も同じ気持ちだよ。

「これ、足首骨折してるわ。しばらく歩けないわよ」

「骨折か……元形成外科の村雨が言うなら間違いないか。でも、大丈夫。歩いて帰るぐらい自分で出来るさ」

 村雨が先生に背中を差し出した。

「乗って」

「女の君にそんなことさせられないよ」

「こんな時まで強がってないで、さっさと乗りなさいよっ!」

 先生はキョトンと目を丸くした。僕は先生に早く乗ってと手で促す。先生はすぐに降参して、村雨の肩に手をかけた。

 僕は医療器具の入ったカバンを持ち、先生をおぶる村雨を先導しながら診療所へと急いだ。ハナゴエは最後まで僕らを見届けてくれた。

 診療所に帰ると、交代でシャワーを浴びた。僕は泥まみれになったハナゴエにシャンプーをしてあげた。ハナゴエは大人しく終始ご機嫌だった。

 脱衣場のドライヤーと扇風機でハナゴエを乾かす。すっきりしたハナゴエは玄関の方へ走っていき、床に伏せて眠り始めた。

「お疲れさん」

 僕はハナゴエが眠ったのを見届けて食堂に戻った。食堂では早乙女先生の足に包帯をまく村雨がいた。

「いたた……いたっ」

「医者が痛がってどうすんのよ。明日朝一でレントゲン撮りに行くからね」

「分かってるよ」

 夫婦には見えなかった。親友と呼ぶ方が2人には合っているような気がした。でも、そういう夫婦もありだと思う。

 村雨が木の下敷きになった先生を見つけた時の顔。必死に木を持ち上げようとする時の顔。足場の悪い林道を先生をおんぶして走る顔。僕は誰かを『愛する』と云う意味が分かった気がする。

 包帯を巻き終えた村雨が僕に向かって言った。

「早く夕飯にしましょうか。お腹空いたわよね」

「はい」

 僕と村雨は台所に立つ。テーブルでは全身を預けて早乙女先生が眠っていた。

 カレーが出来上がる。バターをたっぷりの使ったチキンカレー。マヨネーズ多めのカニタマサラダ付き。

 カレーの匂いにつられて、芽衣が食堂に降りてくる。

「……お腹空いた」

 芽衣はフワフワした柔らかそうなパジャマだった。ボブヘアーが寝癖で乱れている。少し髪が伸びたかも知れない。

 先生を起こして、4人でカレーを囲う。

「いただきますっ!」

 僕は自然と大きな声で言った。さっきまで、台風の中にいたせいで声量が上がったままだった。

「何かあったの?」

 芽衣は驚いたように口にした。

「ウフフ……芽衣ちゃんの体調が治ったら教えてあげる。陽太くん、超カッコよかったんだから」

 村雨が悪戯に答えた。

「えー、何それ」

 芽衣は納得していない様子だったが、カレーを一口食べると目じりがとろけた。

「ん~……おいしいっ」

 僕は野菜の下ごしらえを手伝っただけだけど、誇らしい気持ちになった。芽衣が幸せそうにしてくれるだけで、僕も幸せになれた。

 例えば、芽衣がクヌギの木の下敷きになっていたら僕はどうしただろうか。

 きっと、腕が千切れても木を持ち上げ助け、おんぶをしてどこまでも送り届けたと思う。村雨のような必死な形相で。

 バターの香りがするチキンカレーの味を忘れないようにしよう。僕が僕になれた、記念の味だから。



 帰る前日。午後の散歩を終えると、早乙女先生から診察室に呼ばれた。最後のカウンセリングをするとのことだった。

 木造の診察室に先生と向き合って座る。海猫の鳴き声、白波のうねる音、潮風になびくカーテン。夕日の光が部屋に差し込み、陰影のコントラストを深くさせる。

 ここに初めて来た日。僕がまだ僕ではなかった思い出がよみがえる。

 僕は何もなく空っぽだった。自分に興味が持てず、他人に関心がいかない。ただ、呆然と生きているだけの生き物だった。

 それが、大声診療所で過ごす間にちょっとずつ僕の空っぽの器が満たされていき、気付いたら僕になっていた。

「陽太くんは大丈夫だね」

 白衣を着た早乙女先生が口にした。大柄で花粉症用のメガネを頭にかけて、鼻上にブリーズライトをつけている。少し前から、右足にはギブスを装着していた。

「大丈夫かどうかは分かりません」

 僕は答えた。診療所を離れ自分がどうなるかなんて、想像もつかなかった。

「アドバイスだ。いきなり、態度や雰囲気が変わると他人はびっくりしてしまう。だから、半年ぐらいかけてゆっくりと自分を出していくといい」

「自分をですか」

「陽太くんは自分をどう思う?」

「それは……【自己中なリアリスト】な人間だと思います」

 早乙女先生は大きくゆっくりと首を振る。

「私は陽太くんのことを【情熱的な人情家】だと思うよ。感情に素直なところがあって、他人のために泣ける良い奴さ」

「そうでしたっけ?」

「ちなみに村雨は【優しくてハートの強い子。チューしたい】って言っていたぞ」

「チューは余計でしょ」

 先生は大口で笑う。よく笑う人だった。こんな素敵な大人なりたいと思う。

「キャラクターなんて、自分では分からないものだよ。他人との関係性で変わるものだし、その日の機嫌にも影響されるんだから」

「……なんとなく分かります」

「だから、人間は他人の顔色を伺い生きているし、どんな自分らしさでも受け止めてくれる他人がいたら安心できるんじゃないのかな」

「先生と村雨みたいに?」

 早乙女先生は聖母のように微笑んだ。

「そうだな」

 こうして僕の治療は終わった。無個性病が治ったかどうかは分からないけど。僕が変わったのは確かだった。



 その夜、僕と芽衣は浜辺にいた。月からの光線で海は光り、星の粒が拡散して夜空を彩る。カエルの合唱と波の伴奏のアンサンブルに風も止む。

 騒がしいはずなのに、聞き慣れた音調は耳をまろやかに通り過ぎるだけ。

 ベンチのような流木に座り、芽衣が最後の手持ち花火に火をつける。最初はライターのギザギザを回すのに手こずった彼女だったか、慣れた手つきで火をつける。

 花火の先から四方に火花が飛び散って、地面に落ちる前に消えていく。水の入ったバケツからは焦げ臭い匂い。花火を瞳に映す芽衣が「終わらないで」と呟く。

 花火は勢いをなくしていき、小さくなって消えてしまった。

 芽衣が花火をバケツに投げると、水が熱の残滓を消滅させた。890円の袋に入った手持ち花火が終わってしまう。

 僕は寂しそうにまつ毛を横に流す芽衣の体温を肩で感じていた。

「……終わっちゃたね」

 芽衣はビーチサンダルのゴム紐に触れる。タンクトップの肩紐が緩み、鎖骨の輪郭が月光に照らされハイライトと影を生む。

「芽衣、好きだ」

 僕は彼女の耳元で言った。波の音にかき消されないようにはっきりと正確に。

 彼女は大きく瞬きをする度に頬を紅葉させていく。誰もいない右を向き、僕が座っている左を向く。目が合うとすぐに下を向き、最後は上を向いた。

 僕もつられて空を見ると一際輝く星に意識は奪われた。

「恥ずかしいからこのまま聞いて」

 芽衣の声。彼女はどの星を選んだのだろうか。

「分かった」

「……私は帰るのが恐いの。先生も村雨も……陽太もいない場所で、私は私を演じる自信がない」

「うん」

「だって、陽太の隣にいる私は本当の私じゃなくて、治療の一環で作られた私かも知れないんだ」

「うん」

「もし病気が再発して私は今の私を失い、みんなのみんなが分からなくなって、空っぽの容器になってしまったら」

「………」

「きっと、陽太を傷つけてしまう。また、ここにきて治療したとしても私は別の私になってしまうかも知れない」

「………」

「……風邪で眠っているとね。ずっと、こんなことばかり考えちゃうんだ……弱いよね、私」

「………」

「陽太……ありがと。ごめんね」

 僕は立ち上がってお尻の砂を払った。

「いいよ、別に」

 なんとなく分かっていたから。

「帰ろっか、診療所に」

 僕は言った。

「……うん」

 芽衣が立ち上がると無数の滴が夜の砂浜に吸い込まれていった。



 村雨の運転するスズキのハスラーに揺られていた。まだ早朝だった。砂利道から舗装された道に変わると森は見えなくなり、市街地に変わった。

 後部座席に僕と芽衣は座っていた。芽衣は風邪を引いたこともあり、もう少し診療所で治療を続けることを決めた。

 朝食は冷凍の銀鮭としじみの味噌汁とだしまき玉子だった。僕と芽衣は普段通りに食事を済ませた。昨晩のことをまるでなかったかのように演じながら。

「着いたわよ。早乙女も足があんな状態じゃなければ、見送りにこれたのにね」

 村雨が駅のロータリーに車を停めて言った。スーツ姿の大人が窓の外を眠たそうに足早に通り過ぎていった。

「いえ、もう十分良くしてくれましたから」

 僕はドアノブに手かける。

「カッコいい男になりなさいよ」

「村雨さんみたいな男になるよ」

「もうっ、私は女よ」

「ハハッ……嘘ですって……それじゃあ」

 ドアを開ける。旅行カバンを肩にかけると、重さで体が沈む。

「芽衣ちゃん」

 村雨が呆れた様子で口にした。

「ここで待ってるから、陽太くんをホームまで見送ってあげなさい」

 僕と芽衣の目が合った。昨日ぶりに見た彼女は、上唇を噛み、大きく頷いた。

 小さな駅だった。僕が乗る電車は10分後の到着を予定している。僕と芽衣は改札機の前に並んだプラスチックのイスに座っている。

 改札機の上で野良猫が大きなあくびをしていた。中年の太り気味の車掌はその光景に違和感はないように振る舞う。

 5分が過ぎても無言だった。それは、僕たちが無個性病だからではなく、個性が芽生え恋愛をしたからこその無言だった。

「あとどれぐらい?」

 いつも最初に口を開くのは芽衣からだ。

「5分」

「嘘っ……陽太に謝らないといけないことがあるの」

「なに?」

「午前の会話ゲームで陽太って私に勝てなかったでしょ」

「そうだね」

「ごめん。ズルしてたのっ!」

 芽衣はポシェットからスマートフォンを取り出した。カバーのない買ったままのスマホだった。

「スマホ持ってたんだ」

「うん。先生から【裏表のない頑張り屋】を演じなさいって言われたけど分からなくて……スマホで検索したら、たくさん出てきたら」

「それでか。芽衣が料理の手伝いをしてるとこなんて見たことなかったから変だと思っていたんだ」

「料理を手伝う子は【頑張り屋】だってなんかのブログに書いてあったから」

「予習してたのか。【負けず嫌い】の芽衣らしいよ」

「え? 私って【負け嫌い】なの?」

「そうだよ」

「そうかなぁ……あのさ、メール交換しようよ」

「電源入ってるかな」

 僕は旅行カバンの奥底に眠る折りたたみ式の携帯電話を取り出した。開けると、電池残量に余裕はあった。父から2通のメールがきていた。時間がないので無視をする。

「メールアドレスってどれだろ」

 僕は不慣れな手つきで携帯電話を操作する。

「もう、電車きちゃうよ」

「そう言われても……」

「貸して」

 芽衣が僕から携帯電話を取り上げると、番号をゆっくりと押していく。すると、芽衣のスマホが音楽を鳴らす。

「電話番号でもメールできるから」

 そう言って携帯を返してくれた。

 中年車掌が「電車到着します。乗車する方はホームでお待ちください」と気だるげに口にした。「にゃーん」と改札機の野良猫が返事をする。「お前はどこにも行かないだろ」と車掌がツッコミ。

 僕は旅行カバンを背負い立ち上がり手をふった。

「バイバイ」

 芽衣はスマホを大事そうに抱えて。

「またね」

 改札機に切符を通す。猫の背中を撫でる。改札機の吐き出す切符を受け取った。「にゃ~」と聞こえた。

 線路を回る車輪の音が近付いてくる。今日も日差しは強く、暑くなりそうだ。



 1両編成の電車に冷房はなく、開いた窓の隙間から潮風が吹き込んでいる。

 僕の前に座る制服の違う女の子2人は美少年キャラが描かれた下敷きを団扇代わりにして扇いでいる。

 僕と同じぐらいだろうか。足元に置いてある大きなケースには何かの楽器がおさまっているようだった。吹奏楽部の練習かも知れない。

 楽しそうに車内にひびく声で会話をしていた。【元気いっぱいのお喋り】な2人だった。

 1人が電車から降りると残された制服姿の女の子はメガネをかけて文庫本を読み始める。金子みすゞの詩集だった。

 国語の教科書に出てくる詩人の本を読む彼女はどこから見ても【物静かな文学少女】だった。

 僕は声を殺して笑ってしまった。早乙女先生の言う通り、みんな何かを演じながら生きているのだ。

 ポケットに入れていた携帯電話が震える。携帯を確認するとショートメッセージが届いていた。

『届いた? 芽衣』

 僕は苦戦しながらも返信に成功する。

『とどいた ようた』

 すぐにメッセージが届く。

『夏が終わったらマンハッタンに連れていって』

 画面に映っている文章にたまらなく芽衣らしさを感じてしまう。

 1両編成の電車の景色が海から森に移り変わり、芽衣から『メッセージ届いてない?』『どうしたの?』と2通届いてようやく返信できる。

『映画なら連れて行ける』

 芽衣からの返事は8秒後。

『約束だからね』

 夏の終わりが待ち遠しくなる。

 知らない彼女に出会って、僕はその全部を受けとめたい。

昔、書いたやつですが、読み直してみたらかなり自分らしかったので投稿してみた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  『無個性病』という架空の病気が面白かったです。「人間は置かれる環境次第」というものなのか、最初は他への興味が三十秒も持たなかった主人公が、最後には自分で考えて決断して人助けをできるように…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ