08. 留学という名の潜入
それから一ヶ月後。
リヴェラはエレット王国が誇る最高峰の高等教育機関のひとつ、ダランベール学術研究機関の門の前に立っていた。
「……いやまあ、そのうち適当な理由をつけて留学しようとは思っていたけど」
荷物を片手に苦笑する。ここダランベールは前回の回帰の際にリヴェラが留学していた場所であり、回帰を終わらせるためのきっかけを見つけた場所でもあるのだ。そのためどんな理由をつけてでも、もう一度ここへ留学するつもりだったわけだが。
まさか国王陛下の密命を受けて潜入することになるとは思わなかった。これ以上ないほどの強力な後ろ盾がある状態での留学だ。リヴェラとしても予定が少し早まっただけなので、文句などあろうはずもない。
そんなことを考えながらぼんやりと門の前に立っていたら、案内人と思われる女性がやってきて声をかけられた。
「失礼、君がクーデルカからの留学生かな?」
「あ、はい。リヴェラ・ルアンリと申します」
「……へえ、十五歳の少女が来ると聞いてはいたけど、予想に反して随分と大人びた雰囲気の子が来たな」
意外そうな顔でそう言われたが、つまりそれは老け顔ということだろうか。リヴェラが半眼で「はあ」と相槌を打てば、パンツスーツが鬼のように似合うイケメン美女がハッとしたように表情を引き締めて手を振った。
「いや、無粋なことを言ってすまない。年齢だけで君の全体像を勝手に想像していたものでね。予想と違って少し驚いただけなんだ」
「いえ、気にしていませんので」
「改めて、ようこそダランベール学術研究機関へ。私はハリエット・スタッセン。君が所属することになる古代錬金術研究所の所長であり、第一研究室の室長でもある。よろしく頼む」
にこやかな顔で「案内しよう」と踵を返したハリエットのあとを追いかけながら、リヴェラは一ヶ月前の出来事をぼんやりと思い出していた。
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「逆だよ、リヴェラ嬢。そなたの場合は逆なのだ」
「逆?」
サイラスの言葉の真意を図りかねて、あの時リヴェラは思わずギルバートと顔を見合せていた。
密偵は密偵だと思われないほうがいい。怪しまれないほうがいい。だが、リヴェラの場合は逆。……つまりそれは、怪しまれたほうが都合がいいということなのだろうか。
「父上、どういうことですか? まさかリヴェラ嬢を目立たせることで敵国の注意を彼女に集め、他の密偵が動きやすくなるようにするとか、そんなことを考えておられるのですか?」
驚くほど低い声でそう問うたのはギルバートだ。リヴェラは目を丸くする。こんなに冷たい彼の声を聞くのは、回帰が始まったごく初期の頃以来かもしれない。すなわち、ギルバートとの仲が非常に冷え込んでいた頃の話だ。
警戒心むき出しな息子の様子にサイラスは肩を竦めた。リヴェラの父親であるオスカーならともかく、まさかギルバートがここまで過剰に反応するとは思わなかった。
「そう怖い顔をするな。安心しろ、余はリヴェラ嬢を囮のように扱うつもりなど断じてない」
「ではなぜ」
「落ち着け、ギルバート。リヴェラ嬢が驚いておるぞ」
その一言で我に返ったのか、ギルバートはハッとした顔でリヴェラに視線を向けてきた。
「……すまない。ここでわたしが熱くなっても仕方ないのにな」
「いいえ、殿下。むしろここまで気にかけてくださりありがとうございます」
どうやら思っていた以上に息子は彼女のことが気に入っているようだと、サイラスは認識を改めた。王妃も息子の婚約者として熱烈にリヴェラのことを推してきていたが、すでに縁談を断られているというのは悲しい現実でもある。とりあえずサイラスは咳払いをして意識を切り替えることにした。
「いささか誤解を招くような言い方をしてすまぬな。つまり余は、あえて目立つことで逆に敵の目を欺けると言いたかったのだ」
密偵は密偵だと気づかれてはいけない。だからこそ目立つわけにも怪しまれるわけにもいかない。そんなことはエレット王国だってわかっている。
だがそこへ、怪しさ満点のリヴェラが堂々と潜入したらどうだろうか。彼女の能力の高さを目の当たりにしているのは、エレット王国でもソフィアだけだ。そしていくら王女とはいえ、ソフィアの証言だけではまだ十五歳のしがない侯爵令嬢を危険視するには少し弱い。
まったくのシロとは言えない以上、警戒はされるかもしれない。しかし相手は大した実績もないリヴェラである。しかも真正面から堂々と入国してきた上にまったく隠れる気のなさそうな彼女が、まさか国王から直々に任務を受けた密偵だと思い至る人物など、果たしてどれくらいいるだろうか。
「下手にコソコソしたり偽名を使ったりするほうが怪しいからな。堂々とリヴェラ・ルアンリとしてエレット王国に潜入してみてはくれないか。名目は……そうだな、旅行か留学あたりでいいと思うのだが」
留学。その言葉にリヴェラの表情がぴくりと動いたが、それに気づいたのはギルバートだけであった。心なしか前のめりになりながら、リヴェラはすかさずサイラスにお願いをする。
「でしたら陛下、以前から個人的に興味があったところへ留学したいのですが」
「ほう。ならば余が推薦状を書こう。どこへの留学を希望しているのかね?」
そうしてリヴェラが挙げたのは、前回の回帰でもお世話になったダランベールの名前だったわけである。
それを聞いたギルバートはホッとした。もはやリヴェラにとって密偵任務はあくまでおまけであり、恐らく彼女は今度こそこの回帰を終わらせるべく、前回は途中で頓挫せざるを得なかった『調べ物』の続きに励むのだろう。危険な密偵任務に励まれるよりもよほどマシだ。少なくともギルバートにとっては。
「ではリヴェラ嬢、定期報告はルアンリ侯爵に。娘が父親に手紙を送ってもなんら違和感はないだろうからな」
「御意にございます。陛下のご期待に添えるよう全力を尽くす所存です」
しっかりと頷いてみせたリヴェラとは対照的に、娘の隣に座っているオスカーは少し前から悄然と黙り込んだままだ。どうやらあまりの展開に心と思考が追いつかないらしい。
サイラスは眉を下げた。……自分がどれだけオスカーに無理を強いているかは自覚している。国王とはいえサイラスとて子を持つひとりの親なのだ。自分の子供を危険に晒す真似などしたくはないに決まっていた。
「ルアンリ侯爵、君の大切な娘を敵国へ送り込むような真似をしてすまない。だが……」
「陛下、そんな顔をなさらないでください。これは娘が自分で決めたことですし、陛下直々にご指名くださったのは一家臣として名誉なことでもあります」
たとえそれが、どれほど危険なことであったとしても。
そう言うオスカーは酷い顔をしていた。それでも彼は父親としてではなく、侯爵としての毅然とした態度を貫こうとしている。
サイラスはこの場に居合わせている面々をぐるりと見渡した。たった四人しかいない非公式な謁見。だからこそ。
「……ありがとう、侯爵。国王としてではなく、一個人として心から君に感謝する」
深々と頭を下げたサイラスに、当然オスカーもリヴェラも大いに慌てた。唯一ギルバートだけが「頭を下げるだけじゃ足りないですよ父上」とか私情丸出しの文句を言うものだから、ルアンリ父娘が「もう十分です!」と悲鳴をあげるハメになったというのは、まあ、完全なる余談である。
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そんな経緯を経て、こうしてエレット王国に堂々と潜入したわけであるが。
「それにしても、君ほどの若い人材がまさか古代錬金術に興味を持つとはな。なにかきっかけでもあったのか?」
ハリエットにそう問われてリヴェラは意識を現実へと引き戻した。
とうの昔に失われた驚異的な古代の技術、それが錬金術だ。優れた技術だったと聞いてはいるが、すでに廃れたそれを研究する酔狂な研究者などあまりおらず、ハリエットの目にはリヴェラがさぞかし変わり者として見えているのだろう。
しかしリヴェラには錬金術に首を突っ込む理由があった。前回の回帰では王室付きの学者になるべく総合的に学んでいたわけだが、そのとき少しだけかじった錬金術についての知識に気になる点があったのだ。
「きっかけと言うか……ちょっと確かめたいことがあったもので」
「確かめたいこと?」
「はい。……時間が巻き戻る現象と錬金術の関連について研究を――うきゃっ!?」
言い終わらないうちにハリエットがいきなり両肩を掴んできたため仰天する。なんだ!?
「しょ、所長?」
「今なんて言った?」
「え、ですから、時間が巻き戻る現象と錬金術の関連を」
言われるがまま繰り返したリヴェラに、ハリエットはカッと目を見開いた。
「もしかして君も『記憶保持者』なのか!?」
「――――」
絶句した。頭の中が真っ白になる。記憶保持者。なんで初対面であるはずのハリエットがその言葉を知っているのだろう。
しかしその疑問も別の疑問に上書きされてすぐに消え失せる。気になる言葉が、もうひとつあったのだ。
「……君もって、言いました?」
それは、つまり。
一拍おいて、ハリエットが神妙な顔でこくりと頷いた。
「ああ、そうだ。その通りだよ。私には過去の記憶がある。これまで幾度となく繰り返されてきた、まるで呪いのような記憶がね」
事情を知らない人間が聞いても意味不明なその言葉。けれどリヴェラにとっては十分すぎるほどの情報だった。
とはいえ、そんな都合のいいことなどあるのだろうか。リヴェラは無言でハリエットを見上げる。できればなにか、もうひとつだけでも、証拠が欲しい。彼女を信じてもいい証拠が。
「……にわかには信じられませんね」
努めて平静を装う。声が震えないようにだけは気をつけた。リヴェラの反応にハリエットは困ったように肩を竦める。
「そうだろうね。でも私も今かなり動揺しているんだ。まさかクーデルカにも記憶保持者がいるとは思わなかったから……これはこれまでの仮説をいくつか改める必要がありそうだな……」
難しい顔でぶつぶつ言い始めたハリエットだったが、その様子は逆にリヴェラに確信をもたらした。
もはや疑う余地もないし、意味もない。ハリエットはこの世界が回帰していることに気づいている。
「所長」
「参ったな、つまりこれは世界的な問題――うん? なんだ、ルアンリ」
「リヴェラでいいです。すみません、疑うようなことを言って」
お互いが数少ない『記憶保持者』であると分かった以上、もはや信用できるとかできないとかいう段階の話ではない。
とにかく新しい情報が必要だった。リヴェラだけではなく、きっとそれはハリエットも同じだろう。彼女がこの回帰を疎ましく思っていることは「呪いのような記憶」と言っていたことからも容易に想像がついた。
「お互いに差支えのない範囲で情報交換しませんか。私はこの繰り返しを終わらせたくてここに来ました。どうか力を貸してはいただけませんか」
リヴェラの言葉にハリエットは目を丸くして、次いで大きく頷いた。
「助かるよ。私たちも記憶を保持しているのをいいことに地道に研究を続けていたんだが、どうにも行き詰まっていてね」
「私もです。……本当に、今回で終わってくれればいいのですが」
ちなみにリヴェラがここへ来た真の目的は、回帰現象の解明ではなく密偵である。が、そんなことはわりと頭から飛んでしまっているリヴェラであった。