06. 戦争の気配
ギルバートに連れてこられたのは、王宮の裏側に広がる庭園だった。王宮の正面に位置する広大な庭園もそれはそれは美しいのだが、普段はあまり客人の目にはつかないはずのこの裏庭園も、非常によく手入れがされていて綺麗である。
「あそこのガゼボに行こう。静かだからゆっくり話ができる」
別にゆっくり話す必要はないのだが、王宮内がバタバタと騒がしいので、確かにここならば多少は落ち着けるという判断には同意する。
リヴェラはぐるりと裏庭園を見回した。……ギルバートを守る護衛が二人。庭師が一人。その他に怪しい気配は今のところなさそうだ。リヴェラがガゼボの隅に腰を落ち着けると、ギルバートは護衛たちを声が届かないところまで遠ざけた。これでいつも通りの口調で会話ができる。
「リヴェラ、先日は迷惑をかけてすまなかったな。おかげで大事に至らずに済んだ」
頭を下げたギルバートに、リヴェラは猛然と首を横に振った。基本的には売れる恩は売るべきであると考えている彼女だが、今回に関しては王妃といいギルバートといい、売りたくもなかった恩を高値で買われるという厄介な事態が起きてしまっている。
「気にしないで。一番早く動けたのが私だっただけで、実際にはお医者様と衛兵たちの働きが大きいわ。彼らにこそ感謝と褒美を与えるべきよ」
誰よりも早く動けたのは確かだが、リヴェラにできたのは応急処置だけであり、それ以外だと犯人と思われる人物の足止めをしたくらいだ。そもそもギルバートは死に至るほどの毒を摂取したわけではないため、頭を下げられて感謝されたところで逆にリヴェラの居心地を悪くするだけである。
「だとしても、俺はお前に感謝している。礼の言葉くらいは受け取ってくれないか」
「そこまで言うなら貸しにしておくけど。いつか返してちょうだいね」
あまり固辞しすぎるのも良くないだろう。ここらへんが落とし所かと思ったリヴェラは、当たり障りなく答えることでこの話題を終わらせることにした。
それにしても、毒を飲まされた張本人がここまで平然と動き回っていていいのだろうか。仮にも命を狙われたばかりの身だ。護衛の人数も二人しかいないなんて、さすがに手薄ではなかろうか。
そんなリヴェラの疑問は表情からしてダダ漏れだったのだろう。まだ口に出してもいないのにギルバートが「問題ない」と答えてきた。
「城内が騒がしい理由をまだ教えていなかったな。実は俺に毒を盛った奴の背後関係が分かったんだ。今はその対処に追われている」
「……下手人だったあのメイドが自白したの?」
「いや、あのメイドは尋問前に死んだ」
予想外のことにリヴェラは大きく目を見開いた。……口封じか。してやられたと唇を噛む。
だが、それと同時に自分の読みの甘さに嫌気が差した。少し考えれば想定できたことなのに、どうやら随分と平和ボケしてしまっているようだ。確かにここ数回の回帰では軍人ではなく学問のほうに精を出していたため、戦闘意識からは少し遠ざかっていた。それでも。
「……ごめんなさい。もっと気をつけていれば良かったわ」
あまり考えたくないことだが、彼のメイドの背後にいた黒幕が、あのお茶会に居合わせていたかもしれないのだ。だが、あの時のリヴェラは自分が目立たないことにばかり意識が向いていて、そこまで気が回らなかった。今になってそのことが悔やまれる。
緩んだ気を引き締めるためにも、今世では軍人に戻るべきだろうか。そんなことを考えていたリヴェラの肩をギルバートが強く掴んだ。
「お前のせいじゃない。そんなに気に病むな」
「でも」
「でもじゃない。油断していたのは俺だって同じだ。俺がもっと口にするものに注意していれば、あんな風にお前の手を煩わせることもなかった」
むしろリヴェラはよくやってくれたとギルバートは思っている。彼女がいなければ自分はもっと長く苦しんだはずだし、下手人を捕まえることも難航していたかもしれない。
ギルバートはリヴェラと視線を合わせた。艶やかなチョコレートを嵌め込んだかのような彼女の瞳に、ギルバートの姿が映り込む。
「いいか、俺たちは万能じゃないんだ。いくら過去の積み重ねがあるとはいえ、なんでも予測できるわけでも、いつでも完璧な判断ができるわけでもない」
実際、何度も何度も間違えてきた。人生をやり直せたらと誰もが一度は思うだろうが、本当にやり直す機会が訪れても、こうして結局はどこかでまた間違える。完璧な生き方ができる人間なんて、きっと一人もいないのだ。
「俺たちは自分の限界を認めないといけない。だからリヴェラ、約束してくれ。多少の無茶は仕方ない。でも無理だけはしないでくれ」
リヴェラの瞳の奥に、わずかに生気が戻ったのが見て取れた。
年代物のワインを思わせる、深みのあるレディシュの髪が風に揺れる。彼女の顔に、どこか自嘲気味な、皮肉げな笑みが浮かんだ。
「あなたに諭される日が来るなんて思わなかったわ」
「……お前な」
「怒らないで。これでも喜んでいるのよ。本当に、あなたも随分と成長したものね」
「不思議なほど褒められている気がしないな……」
ぶつくさとボヤくギルバートをよそに、リヴェラは楽しげな顔をする。それは先ほどまでの皮肉げな笑みとは全然違う、つい零れ落ちたかのような眩しい笑顔だった。
そんな顔を見せられてしまえば、ギルバートもそれ以上は文句を言えない。そのくらい彼女のこんな表情は珍しいのだ。
だが、その笑顔もすぐになりを潜める。リヴェラは改めてギルバートと向き合った。先ほど彼は言ったのだ。毒を盛った人物の背後関係が分かったと。
「教えて、ギルバート。あなたを狙ったのは、どこの誰だったの?」
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スチュアート伯爵からの情報に、リヴェラの父であるオスカーは大きく目を見開いた。
「ソフィア王女殿下ですと? ということは……」
「ええ、恐らくはエレット王国の差し金です」
ソフィア・エレット。ご令嬢たちの間では最有力ではないかと囁かれていた、王太子妃候補の王女様。
オスカーは腕を組んだ。隣国の王女がギルバートを暗殺しようとしたかもしれないということか。城内がここまで騒がしい理由がここにきてようやく判明した。
「ソフィア王女殿下は今どこに?」
「それが例の下手人が死亡した直後には国内から煙のように姿を消していたようで……。もし本当に彼女が犯人なのだとすれば、すでに隣国へと戻っているでしょうな」
逃げられたということか。オスカーはますます難しい顔をした。
真偽を確かめる必要はあるが、今のところは限りなく黒である。このままでは遅かれ早かれ隣国との衝突は避けられないだろう。
もともとエレット王国とは、敵対的ではないが友好的でもなかった関係だ。先の婚約者選びのお茶会にソフィアが招かれたのは、そんな曖昧な関係に終止符を打つためもあったのだろう。姻戚関係ほど両国間の関係を強める要素もない。
しかし、もはやそれは憶測に過ぎないことだ。関係強化どころか、事態はそれとは正反対の方向へと突き進みつつあるのだから。
「……最悪、戦争の可能性も」
「否定できないのが辛いところですな。失礼ですがルアンリ侯爵、従軍経験は」
「ありません。戦争らしい戦争はここ数十年起きていませんしね」
国同士の小さな小競り合いはわりと頻繁に起きているが、それらはとても戦争とは呼べない規模のものである。
だがこの先、もしも本格的な戦争に突入するとすれば、オスカーをはじめ貴族たちが真っ先に召集されることになるだろう。国が危機に瀕した場合、まず最初に動くのは特権階級にいる人間だ。民兵を募るのはその後になる。
貴族の普段の暮らしは民の働きあってこそだ。ゆえに有事の際は民の暮らしを守るために率先して戦うのは貴族だった。
沈黙が落ちる。戦争なんて、それこそ親世代がまだ若い頃の話だと思っていたが、ここにきて嫌に現実味を帯びてきた。
だが、これ以上憶測で暗い気分になっていても仕方がない。真剣な話題の途中ではあるが、この重い空気を払拭するという意味も兼ねて、伯爵は話題を変えることにした。
「そういえば娘から訊いたのですが、ギルバート殿下の婚約者はリヴェラ嬢で決まりではないかという噂があるそうで。先ほどの殿下のご様子からしてもほぼ確定ではないかという感じがしましたが、実際のところどこまで話が進んでいるのですか?」
ちなみにスチュアート伯爵は王妃からの招待だったため娘を例のお茶会に出席させたものの、娘が王太子妃になるかもしれないという期待は特に抱いていなかった。
もしも娘と王太子が強く惹かれ合っているというならその恋路を止めるつもりはないが、そうでないならスチュアート家としては特に必要のない縁である。この件に関しては傍観する気満々であった。
とはいえ、王太子の婚約者とは、すなわち将来の王妃と同義である。いずれ自分が仕えるかもしれない女性がどんな人物なのかは知っておきたいところだ。それで娘に尋ねてみたところ、婚約者選びの茶会では一際王妃に気に入られていたご令嬢がいたという。それがルアンリ侯爵家の長女リヴェラだ。
オスカーが溜め息をついた。……別に隠すようなことではないが、事情はなかなかに複雑だ。
「それが、殿下との婚約の打診をリヴェラはすでに断っておりまして」
「ほほう?」
「お断りしたのは例の茶会より前だったのですが、なぜかリヴェラのところにも招待状が届きましてね。正直意外でしたよ」
嫌々出かけていったリヴェラの顔をオスカーは今でも覚えている。そして帰ってきた時の死んだような目も。
「リヴェラはまったく乗り気ではありませんし、再度打診があっても間違いなく断るでしょう。ですが問題は、あの子の有能さが大勢の前で証明されてしまったことです」
娘が驚くべき手腕と手際の良さで王太子殿下を救ったと聞いた時、オスカーも初めは耳を疑った。これといって特別な訓練を施していたわけでもないのに、一体どうしてそんなことができたのか。
だがリヴェラに直接訊いても、「知らないほうが幸せですよ」と遠い目で言われてしまえばあまり深くは追求できない。結局この件でリヴェラが口を割ることはなかった。
ちなみにリリスはごくごく普通の淑女であり、逆に安心したことを覚えている。そう、普通はこれでいいのだ。
「自分の娘のことですら把握できておらず、お恥ずかしい限りです」
「いやいや、娘とは親の知らないところで成長しているものですぞ。わたしには息子も娘もいるので分かりますが、女の子の成長はとにかく早い。気をつけていないとあっという間に大人になってしまう」
スチュアート伯爵が興味深そうに目を細めた。
「しかし、王家のお気に入りとなってしまった以上は婚約を断るのも難しいのでは? リヴェラ嬢も大変ですなあ」
「まったくです。ここに来るまでの馬車の中でも、どう断ろうかと頭を悩ませておりましたよ」
放っておいたら相手の顎を外しかねないリヴェラの本気が恐ろしい。そんなに嫌かと思いはすれど、あれほど抵抗しているのだから恐らく相当嫌なのだろう。どうしてなのかは分からない。
「それにしても、ソフィア王女殿下はもちろんリヴェラ嬢も辞退するとなると、誰がギルバート殿下の婚約者になるのか見当もつきませんね」
「ええ。婚約者選びは一旦保留になるのではないでしょうか」
つまり、現時点ではリヴェラもまだギルバートの婚約者候補のままなのだ。保留とはそういうことだった。
二人がなおも廊下で話し込んでいると、どこかで時間を潰していたらしいリヴェラとギルバートが戻ってきた。
「お父様、エレット王国の動きが怪しいと王太子殿下からお聞きしました」
単刀直入な話題にオスカーも伯爵も目を丸くした。リヴェラがそれを言い出したことよりも、ギルバートがそれをリヴェラに話したことのほうが驚きである。
別に箝口令が敷かれているわけではないが、話す相手を選ぶ話題ではある。そしてギルバートは決して口が軽いほうではない。
つまり、王太子である彼が、リヴェラには話してもいいと判断したということだ。
「……ああ、そうらしいね。わたしも今スチュアート伯爵から聞いたところだよ」
「では、戦争の可能性はあるとお考えですか」
躊躇いのない娘の言葉に、さすがのオスカーもぎょっとした。隣にいた伯爵も身を強ばらせたのが気配で分かる。
一方、リヴェラのそばにいるギルバートは驚く素振りを見せなかった。どことなく諦めたような目をしているものの、リヴェラを止めることはしない。まるで、もう二人の間では話し合いが終わっているかのようだ。
「あくまで可能性の話だ。お前が気にすることではないよ、リヴェラ」
言外に娘の言葉を肯定しつつ、その上であまり深入りしないよう釘を刺す。今ここに居合わせている四人のうち、もっとも戦争に無関係なのがリヴェラなのだ。それに、当然だが父親として大事な娘をこの件に深入りさせたいとは思わない。
リヴェラは頷いた。一見納得したようにも見えるが、これがどんな意味の肯定の仕草なのかは、ギルバート以外は知る由もないことだ。
「ところでお父様、お話はもう終わったのですか?」
「ああ、終わったよ。そろそろ帰ろうか」
必要な情報は仕入れることができた。この先どうなるのかは分からないが、隣国の動きによっては戦争も辞さないことになるだろう。王宮が騒がしいのはその準備のためでもある。
「では王太子殿下、スチュアート伯爵、わたしたちはこれで」
「失礼いたします」
並んで去っていくルアンリ親子を見送った伯爵がふと振り返ると、もうそこにギルバートの姿はなかった。本当にリヴェラをここまで送ってきただけのようだ。
伯爵の横を、兵士たちが慌ただしげに通り過ぎていく。がちゃがちゃと武器の音が聞こえ、伯爵は思わず眉根を寄せていた。
『……最悪、戦争の可能性も』
『では、戦争の可能性はあるとお考えですか』
無意識に詰めていた息をフッと吐き出す。……戦争。
王太子の命が狙われたのだ。隣国の仕業であると確定したら、すぐにでも戦いに発展するだろう。こちらには黙っている理由がないのだ。
……この国はどうなるのだろう。伯爵は廊下の窓から空を見上げ、重苦しい溜め息をついたのだった。