23. 明日は必ずやって来る
月日が流れ、季節が巡る。
もはや時間が巻き戻る心配などしなくても良くなったこの世界の一角で、リヴェラはつい先ほど届けられたばかりの本を抱え、感動のあまり打ち震えていた。
「この世でたった数冊しかない、所長のサイン入り超限定初版本……! 見てちょうだい、ギル! ここに『リヴェラ・ルアンリ・クーデルカ様へ』って書いてある!」
「わかったから俺の顔に本を押しつけてくるな。見えん」
大興奮のリヴェラをなだめながらギルバートは遠い目をした。いとも容易く妻をここまで狂喜乱舞させるとは、おのれハリエット・スタッセン……。しかし彼女には一生かけても返し尽くせない大恩があるため、文句など言えるはずもないのだった。
ここはクーデルカ王宮の裏庭園。いつの間にやらこの場所は、『ギルバート殿下とリヴェラ妃の憩いの場所』として周知されるようになっていた。なお本人たちとしては空いているので集っていただけなのだが、そんな風に周知されると逆にいたたまれない気分である。それでも居心地はいいので行くけども。
ちなみにリヴェラが大事そうに抱えているのは『理不尽な時間旅行』というハリエット・スタッセン著の小説である。完全なる架空の物語を謳っているし、実際そうなのだが、見る人が見れば実話を元にしているということが分かるであろう作品だ。お前はいつから研究者から作家になったんだと思わなくもないギルバートだが、大っぴらに発表するわけにもいかない先の研究結果を世に残すには、きっとこの方法が一番良かったのだろう。
「それより明日の準備はできたのか? リリスの結婚式だって半年も前から張り切っていただろ」
「うふふ、準備万端に決まっているでしょう。今の私には抜かりも死角もないわ」
そこまで断言されると逆に不安になるこの気持ちはなんだろう。ギルバートは溜め息をついて、とりあえずリヴェラをぎゅっと抱きしめることにした。
「ギル?」
「……頼むから、浮かれすぎて調子に乗るなよ。お前やお腹の子に何かあったら俺は絶対に耐えられないぞ」
悲愴な声にリヴェラはつい笑ってしまった。「笑い事じゃない」と怒られたが、こんなのニヤけてしまうに決まっているではないか。
結婚して早二年。今までの中で一番まともな、そして幸せな結婚生活が送れている今現在。リヴェラはぎゅっとギルバートを抱きしめ返す。
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
「明日は俺も一緒に行けたら良かったんだけどな。気をつけて行ってこい。リリスとコンラッドによろしくな」
「ええ。必ず伝えるわ」
不思議だな、とぼんやり思う。あんなに大変で、何度も心が折れかけて、もう何をどう頑張ればいいのかも分からなかった回帰人生。それなのに八年も経った今となれば、それらの記憶は夢だったのではないかと思えるほどに現実味がなくなってきていた。
「そういえば、回帰の代償として世界に使い潰された所長の部下たちがいたじゃない? 今年また新たにひとり研究所に戻ってきたんですって。これでいなくなった全員が揃ったっていう報告の手紙が来ていたわ」
「そうか。やっぱり全員無事だったのか。良かったな」
世界が時間を巻き戻す際に犠牲となった記憶保持者たち。その全員を把握しているわけではないが、少なくともハリエットが知ってる限りの犠牲者は、全員この世界に再び生きて戻ってきたらしい。これに関しては完全に嬉しい誤算であった。
さらに時間が巻き戻りすぎていた謎についてだが、これに関してもハリエットがとある仮説を打ち立てていた。
曰く、これは「捩れた綱現象」だったのではないかと。
例えば、上からぶら下げた一本の綱があるとして、それがまっすぐぶら下がっている状態が正常に時間が進んでいる状態だとする。しかし、誰かがその綱を捩りに捩ったことで時間の進みに異常をきたしてしまった。その誰かというのはリリスなのか世界なのか、そのへんはまだ曖昧だが、ある意味どちらでも同じだろう。どちらにせよその誰かが綱から手を離せば、捩れていた綱は一気に元の状態へと戻り始める。それもかなり勢いよく。
そのため、綱は捩れが解けたあとも反動で少しだけ逆方向へと捩れることになる。ほんの少しなのですぐに自然と元に戻るわけだが、その逆方向への捩れが、時間が戻りすぎた要因だったのではないか。手紙の中でハリエットはそう語っていた。
リヴェラは嘆息する。そのハリエットとは、もうしばらく会っていない。
「所長には何度もクーデルカに遊びに来てくださいって言っているんだけど、なかなか頷いてくれないのよね。王太子妃になってからは一度も会えてないから寂しいわ」
「もういっそのこと出版記念のサイン会でも開催したらどうだ?」
「……ちょっとやだ、あなた天才じゃない? どうしよう、惚れ直しちゃう」
「いくらでも惚れ直してくれ。愛想尽かされたら俺が困る」
なおこの時の会話が原因で、数ヶ月後には本当にクーデルカへと召喚されるハメになるハリエットだが、それはまあ、まだ先の話である。
二人がサイン会の計画を立て始めたところへ、リヴェラ付きのメイドであるカレンがやってきた。今世での彼女は密偵ではない。そうなる前に、エレット王宮で働いていた彼女を正当に引き抜いてきたのだ。ついでにソフィアともつつがない関係を築いておいたので、当面はエレット王国との間に緊張が走ることはないだろう。あくまで当面はの話だが。
「妃殿下、フレデリカ・スチュアート様がお越しになっておりますが」
「ああ、明日出席する結婚式の段取りのことで最終確認をする予定だったの。先に部屋にお通しして。すぐに行くわ」
かしこまりました、と一礼してから踵を返すカレンの後ろ姿をリヴェラはじっと見つめた。
ずっとエレット王国に利用されるばかりの彼女だったが、今世では幸せなのだろうか。充実した毎日を送れているのだろうか。彼女をここへ連れて来たのはリヴェラの自己満足であるが、できればこの世界では幸せになって欲しいと思う。
もはや回帰することのないこの世界で、皆はどんな人生を歩むのだろうか。
リリスは明日、フレデリカの弟であるコンラッドと結婚する。父オスカーと母ジョーハンナと同じ、貴族では珍しい恋愛結婚だ。
一方のフレデリカは弟が婿としてルアンリ家に入るだろうことをいち早く予測して、スチュアート家を継ぐため一念発起。なんと数年前にダランベール学術研究機関に留学してしまった。あれにはさすがに驚いた。
そのダランベールにいるハリエットだが、最近は錬金術を現代に蘇らせることも視野に入れた研究を進めているらしい。その気にさせたのは例の懐中時計の修復がきっかけだと言っていた。
カレンはエレット王宮ではなくクーデルカ王宮で生き生きと働いているし、気になるソフィアの動向に関しても今のところはまだ問題ない。でも要注意人物であることに変わりはないため、今後もしばらくは気を張って接する必要がありそうだ。
これまでの記憶があってもなくても、皆それぞれ今までとは違う道を歩んでいる。そしてそれは、リヴェラとギルバートも同じことで。
「リラ、そんなにニヤニヤしてどうした?」
「んー、明日の結婚式が楽しみだなと思っただけよ」
明日が必ず来ることを、疑いもしないで済む世界。どんどん先へと流れる時間。そんな当たり前の毎日が、何年経っても愛おしい。
「じゃあ私は先に戻るわね。フレデリカ様を待たせるわけにはいかないし」
「ああ。そうだ、今日こそは一緒に夕食をとろう。約束だ」
「……昨日のことを気にしてるなら大丈夫よ? あなたが忙しいのはわかっているし、アビゲイル様がいるから寂しいとかもないし」
「俺がお前と一緒に過ごしたいんだ。くっ……父上め。自分がリラと一緒に過ごせないからって俺を巻き添えにするとは。絶対に許さない」
剣呑な目をするギルバートにリヴェラが呆れた顔をした。
普段から朝食と夕食はできるだけ一緒にとるようにしている二人だが、昨日はギルバートが国王の公務に付き合わされて戻るのが遅くなってしまい、ようやく寝室に戻れた頃にはすでにリヴェラは夢の中だった。妻の寝顔が見られるのは幸せだが、それとこれとは話が別である。
「今日はできるだけ早く戻る。お前も明日は早いんだ。無理しないようにな」
「そうね。もう私一人の体じゃないものね」
分かっているならいいとギルバートは頷いた。そういえば、彼女はあまり無理をしなくなったなと思う。それに以前よりもずっと笑顔が増えた。これからもそうであって欲しいし、そんな彼女のそばにずっといたいと心の底から願うギルバートだ。
フレデリカのところへ向かうため、リヴェラは大事なサイン入り初版本を小脇に抱えて裏庭園をあとにした。歩きながら、もう一度本の表紙に目を向ける。
――『理不尽な時間旅行』。言い得て妙だ。確かに散々理不尽な目に遭ってきたのだ。ハリエットにはぜひこの本で荒稼いで溜飲を下げていただきたい。だって表彰しようとしたら全力で固辞されたし。あとはもうサイン会を開催して盛り上げるくらいしか報いる手段が思いつかない。
回廊の窓から空を見上げる。リヴェラは笑った。冷たくて無慈悲だと思っていた世界が、最近ようやく愛おしく感じられるようになってきていた。
……のちに、リヴェラとギルバートはクーデルカ王国有数のおしどり夫婦として歴史にその名を刻むことになる。在位中の彼らが成し遂げた偉業は錬金術の復興をはじめ数多くあるが、もっとも語り継がれているのはその夫婦仲の良さであった。
「リラは俺の唯一で最愛だ」
「ギルは私の唯一で永遠よ」
いつもそう言って幸せそうに笑っていたという逸話が、後世にまで伝わっている。
なにが彼らをそこまで惹き合わせたのかは誰にも分からないままだが、リヴェラが生涯大事にしていたという小説『理不尽な時間旅行』の中にそのヒントが隠されているのではないかと読み解く歴史家も多い。が、真偽はきっと誰にも分からないままだ。それこそ本人たち以外には。
後世でそんな風に思われることになるとは露知らず、今日もリヴェラは機嫌よく歩いていく。今ならこの回廊の先までどころか、世界の果てにまで歩いて行けそうな心地がした。
でも一人で行ってもつまらないから、その時はギルバートも一緒に連れて行こう。そんなことを考えながら、リヴェラは二度と繰り返すことのないこの先の長い人生の道のりを、しっかりと踏みしめながら歩いていった。
これにて完結となります。
彼らが迎える結末を最後まで見届けてくださった皆様、本当にありがとうございました。




