13. 回帰、再び
そうして迎えたいつも通りの目覚め。天蓋付きのベッドに仰向けで寝転がりながら、リヴェラはしばし放心していた。
「…………」
いつもなら起き上がってカレンダーを確認するところだが、今回はそんな気力すら残っていなかった。仰向けのまま、ただぼんやりと天蓋を眺める。
今までの回帰とはあまりにも違いすぎて、戸惑ったり悩んだりして無我夢中で過ごしているうちに終わってしまった『前回』。短くて、そして妙に濃かった一年足らずだったが、さて今回はどうなるのだろうか。
「おはようございます、お嬢様。今日は早起きでございますね」
やはり変わらぬテレサの笑顔に「おはよう」と曖昧な微笑みを返せば、水盤を用意していたテレサが心配そうな顔でこちらを覗き込んできた。
「お嬢様、なんだか疲れていらっしゃいますか?」
「……そう見える?」
「はい。なんというか、あまり顔色が優れないように思えます」
なんということだ。リヴェラは愕然とした。疲れても疲れすぎないのがこの体のいいところなのに。
しかし肉体面に関してはこの通り元気なので、恐らくこれは精神面からくる疲れだろう。こればかりは仕方あるまい。感覚的にはつい先ほどまで鎧姿で戦場にいたのだ。いくらなんでもそうすぐには切り替えられない。
「もし体調が思わしくないのであれば、お食事はこちらにお運びしますが」
「大丈夫。ちょっと寝覚めが悪かっただけだから。心配してくれてありがとう」
なおも心配そうなテレサの視線を躱し、リヴェラは重い足取りのまま朝食のため食堂へと向かう。
「おはようございます」
「おはよう、リヴェラ」
「あら、あなたにしては早起きじゃない。頑張ったわね」
食堂には談笑している父と母がおり、妹はやっぱりまだ来ていない。が、じきに来るだろう。元気そうな父の姿を見て、リヴェラはちょっとだけ泣きそうになった。良かった。生きている。
「どうしたの、リヴェラ。なんだか涙目になっているわよ」
「なんでもありません。欠伸をしただけです」
「そう? それならいいけれど」
そして母も無事だ。回帰したのだから無事なのは当たり前なのだが、前回の終わり方はあまりにも不穏だった。だからこうして両親が平和に食卓を囲んでいる姿を見るとひどく安心する。
一方、いまいち顔色の良くない娘の姿に両親は顔を見合せた。リヴェラには訊きたいことがあったのだが、あまり元気のない娘の様子に重要な話題を振ることを少し躊躇う。しかし今日は登城する予定なので、可能であれば例の件の返事を持っていきたいところだ。
「……あー、リヴェラ。ちょっと訊いてもいいかい? 例の件についてなんだけど」
ぴくりとリヴェラの頬が引きつった。そんな娘の様子にオスカーは慌てて手を振った。
「いや、いい。すまない。急いではいないから、もう少し考」
「お受けします」
「そ、そうか、受けるか。受け……え?」
オスカーはリヴェラを二度見した。隣でジョーハンナが目を瞠る。
「リヴェラ、お父様が言っているのはギルバート殿下との婚約の件よ。そこはちゃんと分かっている?」
「分かっております、お母様。王太子殿下との婚約、謹んでお受けいたします」
声は普通に出ているが、無表情なうえ目が死んでいた。自暴自棄とか、やけっぱちとか、そんな言葉が脳裏をよぎる。正直、予想外の反応だ。娘の真意を図りかね、オスカーは慎重に話を続ける。
「ええと、お前は昔からギルバート殿下に好意を寄せていたようだが」
「昔の話です」
「…………。そうか。いやその、断っても構わないぞ? 王家側からの打診だから断りにくいと思っているのかもしれないが、そこは気にしなくても大丈夫だ」
「いえ、別に気を遣っているわけではないのでご心配なく」
淡々と答えるリヴェラに、オスカーは「そうか……」と言いながら引き下がるしかなかった。
だが、明らかに様子がおかしい。オロオロするばかりの夫の代わりに、今度はジョーハンナがいまいち元気のない娘の顔を覗き込む。
「……何かあったのかしら? 私たちには言えないこと?」
「いえ、本当になんでもありません。ただ今朝はちょっと寝覚めが悪くて、それだけです。ご心配には及びません」
これ以上心配をかけるのは得策ではない。リヴェラは意識して表情を変えた。浮かんだのは苦笑だったが、無表情よりはマシだろう。
「王太子殿下との婚約の件は、国王陛下からの打診だと聞いております。つまりこれは殿下の意思も私の意思も関係のない、政略的なものでしょう」
「それは、まあ、そうだけれど」
貴族にしては珍しく恋愛結婚だった両親が身じろぐ。だが娘の言う通りだ。数いる候補の中でも、家柄と年齢がギルバートと一番いい感じに釣り合うのはリヴェラだ。そのため最有力候補として打診があったわけだが。
それでも、今の今までリヴェラがギルバートに好意を抱いているとばかり思っていたオスカーは、そうではなかった事実に衝撃を受ける。たとえ親同士が決めた婚約でも娘にとって喜ばしいものなら問題ない。でも、そうでないのなら。
そんな両親の心中を察したのか、リヴェラは淡々と話を続ける。
「だからお受けするのです。政略的な婚姻ならば、ギルバート殿下に夢見ていない私はそれなりに適任と言えるでしょう。初めからなにも期待していないぶん、傷つかないですみますから」
もっともらしいことを言いながら、リヴェラは自分が捨て鉢になっているという自覚があった。そもそもギルバートとの婚約を了承するあたり、もはや自分は正気ではないと言える。
なんとも言えない微妙な空気が漂う食堂だったが、そこへパタパタと走る足音と共に慌てた様子のリリスが駆け込んできた。
「お父様、お母様、お姉様、おはようございます! 寝坊しちゃってごめんなさい!」
いつもと変わらない明るいリリスの声が、その場に漂うおかしな空気をわずかに払拭する。リヴェラはにこりと妹に微笑みかけた。
「おはよう、リリス。朝から元気ね。でも危ないから走っちゃダメよ」
「あ、ごめんなさい。あれ? お姉様、顔色が悪いけど大丈夫? 昨日は眠れなかったの?」
「大丈夫、寝た気がしないくらいにはよく寝たわ」
それって結局眠れていないのでは……と疑問に思うリリスだったが、姉の目の下にはクマができていないので、よく寝たというのはどうやら本当のことらしい。でもよく分からなかったので、リリスは深く考えないことにした。
なにはともあれ、全員揃ったので朝食である。娘たちのお喋りに耳を傾けながら、オスカーは最後の確認としてリヴェラに言った。
「リヴェラ、本当にギルバート殿下との婚約の話を進めてもいいんだね?」
ギルバートとの婚約。その言葉に強く反応したのはリヴェラではなくリリスであった。
「えっ……お姉様、ギルバート殿下と婚約なさるの?」
リリスの不安げな表情に、リヴェラは「まだ決まったわけじゃないわ」と言って妹を落ち着かせる。
「打診があったから受けると答えただけよ。私も王太子殿下も、別にお互いのことを好きなわけじゃないわ」
「……お姉様、ギルバート殿下のこと好きなんじゃなかったの……?」
両親といいリリスといい、やはり回帰前の自分はよほどギルバートにご執心だったようだ。リヴェラは過去の自分にうんざりする。
いくら恋は盲目とはいえ、あの頃は我ながら本当に幼かった。救いようがないほどに。
「ごめんね、リリス。今まで変に気を遣わせたわね」
「う、ううん。でも本当に? 本当に殿下のことをお慕いしているわけじゃないの?」
「今でも尊敬はしているわ。でも恋はしていないわね」
姉の言葉にリリスはぎゅっと口元を引き結んだ。かと思えば、なにかを決意したような顔で父へと視線を向けた。
「お願いです、お父様! お姉様だけではなく、どうか私もギルバート殿下の婚約者に推薦してくださいませ!」
前回でも似たようなやり取りがあったため、妹の発言にリヴェラが驚くことはなかった。しかし両親はぎょっとしたようだ。
「あなたが? ギルバート殿下の婚約者に?」
「はい、お母様。私ずっと殿下のことをお慕いしていたんです。でもお姉様もそうだと思っていたから、諦めようと思っていて……でも、お姉様のお心が殿下にないのであれば、どうか私を推してくださいませ!」
リリスは必死に言い募る。思い出すのは三年前のこと。当時リリスは十一歳で、王太子殿下お披露目のパーティーで初めてギルバートの姿を見たのが恋の始まりだった。
けれど好みが似ていたのか、姉も一目惚れしたようだった。その日以降、姉は積極的にギルバートと交流を持とうとしていたから。
姉と自分。考えるまでもない。どう足掻いても姉のほうが優れている。それこそすべての面において。諦めがつくくらいに。
それなのに、姉はもうギルバートに恋をしていないと言う。恋をしていないのに、婚約すると言う。愛されなくても傷つかないからと。
「たとえ政略結婚だったとしても、お慕いする殿下と一緒になれるのであれば他に欲しいものなどありません!」
リリスは思う。確かに、愛されないかもしれない。でも愛されるかもしれない。その可能性をリリスは捨てきれなかった。
彼と結婚したい。そして、できれば愛されたい。初めは愛されなくても、結婚後に彼の心を動かすことはできるかもしれない。いや、動かしてみせる。だから。
力説するリリスに両親は顔を見合せた。もともと大してわがままを言わない子だ。叶えてやりたい気持ちはあるのだろう。
なにかを窺うようにちらりと視線を寄越してきた父に、リヴェラは無言で頷いて了承してみせる。彼女としてはどちらに転んでも別に構わないのだ。所詮はその程度の関心である。
「……わかった。リリスがそこまで望むのなら、こちらから国王陛下に打診してみよう。ただし、もともとはリヴェラにきていた縁談だ。断られる可能性は高いと思うぞ」
「ありがとう、お父様! 大丈夫、断られたら私もちゃんと諦めるわ」
こうして、図らずも前回とほぼ変わらない結果となった。この後のことは王家次第、というか国王次第だろう。もしかしたら前回のように婚約者選びのお茶会的なものが開催される可能性もあるが、それはそれで経験済みの展開なので問題ない。
一方、リヴェラが投げやりにあれこれ考えている頃、王宮ではギルバートがサイラスに呼び出されていた。
「……という打診がルアンリ家からあったのだが、ギルバート、そなたの意見を聞きたい」
オスカー曰く、第一候補のリヴェラは婚約を了承。しかし同時に彼女の妹リリスも名乗りを上げたため、一応候補として推しておくとのことだ。
初めギルバートはリヴェラが婚約を了承したという話に驚き、それなのに妹のリリスはどうかという打診があったと聞いて再度驚く。しかし状況を把握したあたりでギルバートはげんなりと額に手を当てた。
「父上……意見もなにも、リヴェラ嬢からは受け入れるという答えが返ってきているんですよね」
「そうだ」
「それなのに、なぜ彼女の妹君の話が出てくるのですか。おかしいでしょう。当初の予定通り、リヴェラ嬢との婚約を進めてください」
そんなわけで、結局ギルバートの婚約者にはリヴェラがなることになった。さすがに今回に関しては撃沈のリリスである。
話はそれだけだと言われ、ギルバートは父の執務室を後にした。そのまま足早に自分の部屋へと戻った彼は、周りに誰もいないことを確かめてから、壁に背中を預けてずるずると床に座り込む。
口元に手を当てた。心なしか顔が熱い。いま鏡を見れば、きっと自分の顔は赤く染まっていることだろう。
「……リヴェラ……」
思わず漏れた声は情けないほどに震えていた。彼女が自分との婚約を受け入れてくれただなんて、まだ信じられない。
とはいえ、恐らくリヴェラは今いろいろと投げやりになっているだけなのだろう。ギルバートの中の冷静な部分がその状況を正確に察してはいたが、それを上回る喜びと愛しさで胸がぎゅっと締めつけられた。
彼女と婚約するのはこれで四回目。一度たりとも彼女を愛さなかった過去三回のことを考えると、今度こそ婚約者として、そして夫婦として良い関係を築きたいと思う。
たとえ彼女がもう自分のことを愛していなくても。この先も愛してくれることがないとしても。今度こそ。
「今度こそ、俺はお前を大事にしたい」
愛されなくてもいい。気持ちが通じなくてもいい。一生片想いでも構わない。
そう、自分のことなんてどうでもいい。ただ彼女さえ幸せであるならば。
そんな風に思えたのは、生まれて初めてのことだった。リリスのことが好きだった頃も、ついぞその境地には達しなかった。
……でも、叶うのならば、許されるのならば、自分がリヴェラを幸せにしてやりたいとも思う。それは過去の罪悪感からくるものではなく、散々すれ違って遠回りしまくった末に芽生えた、確かな想いからくる願いだった。




