10. 事態の急変
休日。リヴェラはダランベール学術研究機関の中枢区画へと足を運んでいた。情報収集のためである。
先日ギルバートから「なにやってんだお前」という趣旨のメッセージカードが届いたため、決してサボっているわけではないということを証明するためにも、次の手紙ではなにかしらの進捗を報告せねばなるまい。そのためリヴェラは下っ端研究員らしく大量の書類を抱えながら、お偉いさんがやたら闊歩している中枢区画にまでやってきたわけだが。
視界の先、どこか見覚えのある後ろ姿。その人物がふと振り返った瞬間、リヴェラの体は考えるよりも先に動いていた。
「……あら?」
「ソフィア殿下、どうされました?」
「今そこに知り合いが……いえ、きっと見間違いね」
最悪の鉢合わせの寸前に全力で物陰へと飛び込んだリヴェラである。かつて培った軍人スキルは今なお随所で発揮されるため、前前前世あたりの自分には感謝しかない。
それはともかく、リヴェラは気配を消したままそっと物陰から身を乗り出した。そして見間違いではなかった光景に思わず呻く。
「なんでソフィア王女殿下がここに……」
ギルバート暗殺未遂の黒幕であるソフィア・エレットが、お供を引き連れてそこにいたのだ。
なぜ彼女がここにいるのだろう。咄嗟の動きをした際にバラけてしまった書類をかき集めながら、リヴェラはあれこれと考える。少なくとも事前調査の段階ではダランベールに所属している王族はいなかった。となると、あれか、視察か。
今すぐギルバートに「どうなってんだコレ」という手紙を送りつけたい気持ちに駆られたが、不可解な状況について調査するのも密偵の仕事の一環である。つまりリヴェラが自分で調べねばならないことである。
仕方がないので早々に中枢区画から離脱したリヴェラは、現在の拠点とも言うべき古代錬金術研究所へと戻ることにした。本当はすぐさま寮の自室へと引きこもりたかったが、引きこもる前に必要な資料を持ち帰る必要があったのだ。
そう思って突撃した第一研究室には、休日であるにも関わらずパンツスーツのイケメン美女がいつも通り白衣を羽織った姿でそこにいた。なにやら真剣な眼差しで分厚い歴史書に目を通しているが、そういえばクーデルカの錬金術の歴史について調べるのは彼女の担当であった。
「所長?」
「ん? ああ、リヴェラか。今日は休日だぞ。なにか調べ物か、あるいは忘れ物か?」
いつも通りの様子のハリエットに、リヴェラはなんとなく安心した。そして思う。どうも自覚していた以上に、自分は先ほどの状況に動揺していたようだ。まだ知り合ってさほど経たないハリエットを見てホッとしてしまうくらいには。
「……所長、さっき中枢区画まで足を伸ばしてきたんですけどね」
「うん」
「そこでソフィア王女殿下と鉢合わせそうになって焦りましたよ。所長も人が悪い。今日が王族視察の日なら事前に教えておいてくださいよ。びっくりして心臓が飛び出るかと思いました」
王族の視察が事前通知なしに行われることなど非常に稀である。リヴェラもいつぞやの王太子妃時代に何度か視察に出向いたものだが、その時は例外なく、場合によっては一年も前に視察の予定が入れられていた。そのくらい事前に取り決められていることなのだ。
八つ当たり気味の苦言を呈したリヴェラに、ハリエットは驚いたように目を瞠った。
「ソフィア殿下がダランベールに?」
「はい」
「私はそんな話聞いていないよ。驚いたな、急な視察だとは思うが……それにしたってなんでまた」
急な視察。どうやらハリエットも知らなかったらしい。リヴェラは眉間に皺を寄せた。
「……知らなかったんですか? 本当に?」
「ああ。こう見えて私はダランベールを牛耳る四天王のひとりだ。どれほど情報規制をかけたところで、私の耳に入らない情報などない」
自分で自分のことを牛耳る側だと公言する人間を初めて見た。リヴェラはつい半眼になったが、問題はそこではないと思い直す。
問題はハリエットが四天王だったことではなく、神出鬼没なソフィアのことだ。とんでもない女傑の配下になってしまったと嘆いている場合ではない。
「もしや王女殿下がダランベールで学ぶことを希望されているとか? それならば今回の件は視察ではなくお忍びの見学だったことになりますが」
それはそれでリヴェラには不都合なことだが、密偵の件がバレていなければ問題はない。いや、問題しかないが、それでも最悪の状況というわけではなかろう。
「見学か……ありえるとはいえ、それだって事前に連絡がありそうなものだけどね。ふ、私も随分と舐められたものだな」
「所長がというより、ダランベールそのものが舐められているのでは?」
「言うな。考えないようにしていたことをペロッと口に出すな」
若干ズレた応酬を繰り広げつつ、リヴェラはさりげなく「そういえば」と話題を変えた。中枢区画でするはずだった情報収集の矛先を、自称四天王へと向けることにする。
「ソフィア王女殿下って、どなたかと婚約されているんですか?」
「いや、まだしていないはずだよ。でも確か十六歳になられたはずだから、もうそういう話が出てもおかしくないだろうね。って、それがどうかしたのか?」
「いえ、単に気になっただけですが……十六歳ということは、クーデルカのギルバート殿下と同い年ですね。案外候補になっているのかも」
好奇心丸出しの顔でリヴェラは笑う。他人の恋路や王族の恋愛事情に、興味津々なフリをする。
呆れられるかと思ったが、意外なことにハリエットは「どうだろうな」と真面目な顔で相槌を打ってくれた。
「詳しくは知らないが、どうやらエレットとクーデルカは今かなり微妙な関係にあるらしいよ。むしろ君が無事に入国できたことが不思議なくらいだ」
「……へえー、そうなんですかー」
なるほど。国王陛下の推薦状がなければここまで円滑に事は運ばなかったのかもしれないのか。だがそれはそれで例外扱いなので、逆に人目を引いてしまう気もする。……それとも、学びたい意思のある貴族の娘を国王が支援したとかいう美談にでもなっているのだろうか?
エレット王国におけるリヴェラの扱いがどうなっているのかは分からないが、リヴェラ自身は自分がするべきことをするまでだ。とりあえず指示があるまではダランベールに留まり続けることにしよう。
「ギルバート殿下は国王陛下の唯一のお世継ぎですから、妃の座を射止めればほぼ自動的に将来は王妃です。オススメ物件ですよ。どうですか、所長。ひと回り程度の年の差なんてあってないようなものです。玉の輿を狙いませんか」
「狙わないよ。そこまでオススメなら君が狙ったらどうだ。仮にも君は侯爵令嬢だろう。立場的に有利なんじゃないか」
「うふふ、残念ながらギルバート殿下とは相性最悪なものでして」
だが、それでも悪友にはなれるし、誰よりも信頼できる間柄にもなれる。それを考えると、もしかしたらそこまで相性は悪くないのかもしれなかった。まあ、だからなんだという話である。
その後リヴェラはハリエットの許可を得てから、必要な資料を持って寮の自室へと戻った。ソフィアがダランベールの敷地内にいるなんて微妙に生きた心地がしないので、今日はもう寮から出ないつもりだ。
机の引き出しからレポートを取り出す。例のメッセージカードの数日後にもう一度ギルバートから送られてきたものだ。
十四歳当時のリリスについて覚えている限りのことを書き記してくれたようだが、大昔のことすぎて記憶が薄れかかっているのはギルバートも同じらしい。目新しい情報は特になかった。
「……やっぱり、私の記憶と大差ない感じね。一番大きな出来事といえば、リリスとギルバートが婚約発表したことくらいで……あ、毎度回帰する日の前日ってリリスの誕生日だったの? よく覚えているものね」
エレット王国に潜入して一ヶ月。わりと充実した毎日を送れてはいるけれど、回帰現象の解明と密偵任務、どちらも行き詰まっている感はある。リヴェラは溜め息をつきながらレポートを脇によけ、とりあえず父に宛てて定期報告の手紙をしたためることにした。
ダランベールで危うくソフィアと鉢合わせそうになったこと、どうやら公務ではなくお忍びの訪問だったらしいこと。今回報告できる内容といえばこのくらいである。最後に、ソフィアのダランベール訪問の真意が分からないため、できる範囲で調査を続けるという旨を書き記してから封をした。
「…………」
先ほど脇によけたギルバートのレポートにちらりと目を向ける。もはやすっかり見慣れてしまった几帳面な筆跡。ギルバートの文字。
少しだけ躊躇った。けれど、これ以上これを手元に保管しておくのは危険すぎる。書かれている内容がというよりも、クーデルカの王太子が婚約者でもない相手に手紙を送っているという事実が危険なのだ。
バレてはいけない。
気取られてはいけない。
そのうえで堂々と行動しなければいけない。
はあ、と溜め息が漏れた。分かっていたとはいえ、やはり精神的に少しきつい任務だ。それでもやると決めたからには最後まで遂行するつもりだった。
リヴェラはギルバートから送られてきたレポートとメッセージカードに火をつける。基本的にクーデルカから送られてきた手紙は問答無用で焼却処分だ。
みるみるうちに燃え上がって跡形もなくなっていくそれを眺めつつ、なんとなく心細くなる気持ちは強引に無視した。感傷的になっている場合ではない。そんな余分な感情など必要ない。
それにしても、他の密偵たちは順調に任務をこなしているのだろうか。次第に燃え尽きて灰になっていく手紙を見つめながら、リヴェラはぼんやりとそんなことを考えた。
危険を伴う密偵という任務。万が一捕まった時のことを考えて、リヴェラはもちろん、他の誰も自分以外の密偵については一切知らされていなかった。知らないことは自白しようがないし、裏切りようもないからだ。
「……まあ、みんな私よりは上手くやるでしょうね」
間違いなく一番のペーペーは自分だろうとリヴェラは思う。考えてみれば、過去の軍人時代も密偵だけは経験したことがなかった。どちらかといえば前線任務が多かったのだ。
そのため、せめて他の密偵たちの足を引っ張らないで済むように十分気を配っていた。
たとえ実のある情報を得られなかったとしても焦らない。慎重に、確実に、周りにはそうと悟られないように。だから。
『まずいことになった。とにかく早く帰ってこい』
しばらくしてギルバートからそんな手紙が送られてきた時、リヴェラは思わず目を点にしたのだった。
え、こっちに来てからまだ三ヶ月も経っていませんけど?




