Chapter4 米農家のもてなし
辺り一面霧の中、ダーティーパッチは自分をムチで叩いた野郎にゆっくりと近づく。そいつは霧で視界が悪いというのに呑気に煙草を吸ってやがる。
「おい兄ちゃん、プチ整形だ!」
「誰だ!」
ダーティーパッチは石で奴の鼻を強打する。怯んでいるところを馬乗りし、ボコボコに殴る。もちろん奴の顔面の変形具合はプチ整形どころではない。
「ヘヘッ……くたばりやがったか」
ダーティーパッチは笑いながら鞭を奪う。山からの景色を眺めながら笑って、
「俺を裏切ったクソ農家め、鞭で打たれる痛みを教えてやらねえとな」
場面は変わり、沼田家の広いテーブル。ブレッドガイの向かい席に沼田が座り、食事が運ばれるのを待った。洒落た服を着た部下達が丁寧に飲み物を置き、食事を配膳する。
ブレッドガイはまず飲み物に驚いた。グラスに少しずつ注がれる赤い宝石を液体に融解させたかのようなあの美しい液体。
「赤ワイン……」
次に置かれたのはペスカトーレ、鴨肉のソテー、フォアグラを乗せたステーキ。どれも最高級品だ。沼田は満足そうな表情でナイフとフォークを使い食べる。
「どうかね新田くん」
ブレッドガイは戸惑い目を泳がせる。
「あの……村で聞いた話だと飲み物は玄米茶と日本酒しか許されていないと」
沼田はゲラゲラ笑いながら赤ワインを下品に音を立てながら一気に飲む。
「これこそ独裁者の嗜みよ!」
「…………」
「村の者達は和食しか許されていない。飲み物に関してはお前の言う通りだ。破れば死刑という厳しいルール……だがどうだ! この俺は何をやっても裁かれん! それもそのはず。俺は最強の米農家だからだ!」
ブレッドガイは勢いに圧倒される。沼田はニヤッとしながら、
「悪いな。ほかほかご飯を出してやらなくて……」
「いいえ」
「たまには洋食もいいだろ」
ブレッドガイはグラスを手に取りワインの匂いを嗅ぐ。沼田は機嫌良さそうにブレッドガイを見つめて、
「このワインはな、フォアグラとの相性抜群なんだ。フォアグラのなんとも言えないツンとした甘味を上手く抱擁してくれる。高級品と高級品、アダムとイブ、元々組み合わせは決まっていたんだ」
沼田はパスタをフォークで絡める。
「魚介の旨味をふんだんに含んだ麺。コイツもワインの恋人さ……ところで……」
沼田はまるでブレッドガイにアピールしているかのような大きなため息をついて、
「お前も……米にはうんざりしてるだろ?」
突然の問いにブレッドガイは戸惑う。彼は沼田の鋭い目と恐ろしいハンドサインにぎょっとする。
「迷い箸」! 日本に伝わる有名なファックサインである。沼田はフォークで迷い箸をしている。お前を刺し殺す準備はいつでもできているという意味だ。
「俺もお前と同じさ。昔から米ばかり食わされ、米作りばかりやらされていた。どうあがいても米とは切れない縁に結ばれ、心の中で米を憎んでいる。だろ? 『ブレッドガイ』!」
「なっ!」
ブレッドガイは銃に手をかけるが、
「おいおい、脳が錆びるぜ」
沼田は笑う。ブレッドガイの後ろで2人の部下が銃を構えている。沼田は葉巻をテーブル上のローソクで炙って吸い始める。
「ブレッドガイ……米については詳しいらしいが甘いんだよ。その手が。どう見てもパン屋の手だ。米農家の手ではない。俺と同じ手だ」
ブレッドガイは黙って沼田と目を合わせる。
「お前が米を憎んでいるだと?」
「ああ。米のせいで俺は狂った。だから俺は米農家達を虐げ金を稼ぐ。これぞ復讐」
「人生が狂った?」
「俺は生まれた時から母乳を飲むことはなく親から米を食わされ続けた。喋れるようになると広さが東京ドームほどある田んぼの全てを任された。まだ3歳だぜ」
沼田から笑顔が消え、煙を吐きながらナイフでフォアグラを突き刺し、一口でフォアグラを頬張った。ある程度咀嚼し、ワインでそれを胃に流し込む。カァーと一息ついて話を再開する。
「俺にとっては学校だけが癒しだった。勉強は体を動かす必要がなく、やればやるほど褒められた。さらに学校は……俺に初めての親友をくれた」
沼田は鴨肉を切りながら、
「続き……聞きたいか?」
ブレッドガイは突然の問いに少し動揺して、
「アンタが話したいなら話せ」
沼田は空のグラスにナイフを突き刺した。グラスが粉々に砕ける。沼田はブレッドガイを睨み、
「話したいなら話せだと……愛する女を殺した話、俺が話したいとでも?」
沼田の様子に、怖いもの無しのブレッドガイも少し恐怖した。これ以上変に話せば余計なものに触れそうだ。
「それより食事だブレッドガイ、食え。せっかく作らせたんだ」
ブレッドガイは手をつけない。後ろに死神が銃を構えているというのに呑気に飯など食えない。沼田は立ち上がってブレッドガイの食事をナイフで切って一口食べる。むしゃむしゃ咀嚼しながら、
「安心しろ。毒はない。食わなきゃ殺す。俺をイライラさせるな」
「分かった。いただくよファーマー」
ブレッドガイはゆっくりと食事を味わう。どれも最高の味だ。
「うまいだろ? 君は米が嫌いなんだろ」
「まあ。米には反吐が出る」
「反吐か……日本人にしては珍しい」
「この料理はとてもいい」
「喜んでもらえて嬉しい。遠慮なく食え」
ブレッドガイはフォアグラの脂によって食べるのがキツくなる。手を止める。
「なあ、そろそろ残していいか?」
「ダメだ、全部食え」
パスタに肉に脂の塊フォアグラ。味はどれもいいがボリュームが凄まじい。ブレッドガイは気分を悪くしながらがむしゃらに食べた。
なんとか完食し、布巾で口を拭った。沼田はニヤリと笑って部活に指示する。
「ブレッドガイを立たせて抑えつけろ!」
ブレッドガイは羽交い締めにされた。ブレッドガイは舌打ちをして沼田を睨む。沼田は笑いながらブレッドガイの腹を殴った!
「アゴォア!」
「ハーハッハ! 飯を食った後に殴られる気分はどうだ? 賞金稼ぎ。米農家に伝わる拷問方法さ」
ブレッドガイはなんとか吐かずに済んだがあまりの苦しさに息を荒げる。
「まさか最強のライスキラー様を戦わずに始末できるとは。フッフッフ……女神とやらは俺に恋してるらしい。人生が簡単過ぎて退屈だ」
沼田は力強くブレッドガイの胸ぐらを握り、拳を振り下ろす。ブレッドガイは歯を食いしばる。が、痛みがない。沼田が笑っている。拳は腹の直前で寸止めされている。
「怖いだろ? ハッハッハ! 今から俺の質問に答えてもらうぞ。答えなきゃその腹を拳で品種改良してやる」
沼田は不気味に腹を撫でる。
「お前が連れて来た男は誰だ?」
「米農家だ。そこらで田植えしてた奴を捕まえた」
ブレッドガイは間髪入れずに答えた。沼田は口の中の葉巻の煙をブレッドガイに吹きかける。ブレッドガイは咳きこんだ。
「なるほど……ただの米農家が看守を殺して逃げたと言いたいんだな……フンッ!」
拳がブレッドガイの腹に激痛を連れてめり込む。
「アーーッ……」
「ゲロを吐くか答えを吐くか選びな」
「ハァハァハァハァ……奴は……米農家……ただの」
「なあ、米農家がリボルバーを持つのか?」
ブレッドガイは呼吸を荒げながら鼻で笑う。
「当然さ。ここは日本だぜ」
沼田は突然力を抜き、髭を触って何やら考え事を始めた。ブレッドガイは膝をついて壁に寄りかかる。苦しそうだ。
「ゲホッガハッ…………」
「いいだろ。お前の話を信じよう。ただの米農家なら俺の敵じゃねえ。さっさと殺せばいい話だ」
「で……その米農家の名はなんだ?」
ブレッドガイは何も答えない。沼田は腹を立てて再び胸ぐらをつかむ。いや、よく見ると直接首を鷲掴みにしている。ブレッドガイは息苦しそうだ。
「答えろ! 奴の名は?」
「知らねえ……奴は名無しだ。名無しの米農家だ」
ブレッドガイはまるで息苦しさに逆らうよう力強く答えた。
「名無しだとぉ?」
これには沼田だけでなく、周りの部下達も痺れを切らしたようで、
「ふざけんなあ!」
「何が名無しだぁ!」
「ファーマーのご質問に答えるんだ!」
とブレッドガイに向けて怒鳴り出す。部下の怒声が響く中沼田は手を放し、煙を口から吐き出す。
「騒ぐな」
沼田は静かな声で言った。部下達は一瞬で静まり返る。沼田はずっとブレッドガイの目を見ていた。
「確か……名無しの米農家の脱走を助けた馬鹿がいたはずだ。なんて奴だったか……」
「ダーティーパッチでしょうか?」
部下の一言に沼田は大きく頷く。
「そう。そいつだ。そいつを連れてきて名無しについて吐かせればいい。で、ダーティーパッチはどこに?」
「田植えダムでございます」
部下は間髪入れずに答える。
「すぐに連絡を入れて参ります」
「よし。そうと決ま…………」
何やら大きな足音が廊下から聞こえると思えば誰かが扉を勢いよく開けてきた。
「なんだ!」
「田植えダムから脱走です!」
部屋にいた人間がまさかと思って驚いた。田植えダムから脱走などみんな聞いたことがない。沼田は鬼のように目をギョッとさせて、
「誰が!」
部下は持ってきた書類をじっと見つめ、ぶるぶると震えながら答えた。
「ダーティーパッチです」
道の真ん中をバイクで走りながら名無しはキョロキョロと目を動かして宿を探していた。この村に来てからだいぶ経つ。もうすぐ夕陽が沈む。
名無しは正面に駐車するバイクを見つけてバイクを止める。ヘルメットではなく軍人の帽子、顔に切り傷を負った男が現れた。池田正樹だ。名無しもバイクから降りる。
「よおブレッドガイ!」
名無しは夕陽を背景に眉をひそめる。
「たった1人で追ってきたのか?」
「ああ、集団だと逃げられちまう」
「パッチは元気か?」
「ダーティーパッチか? 奴は今頃田植えダムさ。2、3日で死ぬだろう」
名無しは微笑する。
「なるほど……生きてるんだな。裏切った罪悪感が消えたよ」
池田は不快な顔で、
「奴は死んだも同然だ。お前は奴を裏切って殺した」
名無しはまた笑って、
「奴は眉間を撃ち抜かねえと死なねえ」
それを聞いて池田は目をギロッと光らせて、
「そうか……まあいい。お前の眉間だけでも必ず撃ち抜いてやるさ」
緊張が一気に高まる。人々が立ち止まる。主婦は子供を連れて建物に入り、小鳥も逃げる。猛禽類と荒くれ者達が2人を見守る。
2人は黙って互いの様子を伺いながら手を少しずつガンホルダーに近づける。夕陽が2人をさらに焦らす。
沈黙を破って池田がリボルバーを抜く!
が、名無しの銃口が既に池田の眉間を狙っていた!
「うぐぅあ!」
ドギャーンという銃声が鳴り、池田は眉間に風穴を空け、目を開けたまま死んだ。村人らはニヤッと笑みを浮かべ各々立ち去っていく。夕陽が沈み、村に夜が訪れる。
名無しは池田の元に歩み寄り、胸から煙草を漁る。
「丁度切らしてた。ありがたく吸わせてもらうよ」
名無しは迷わず一本煙草を取り出し吸い始める。決闘の後の煙草はどのような味がするのか? 生き残った喜びによる極上の味か、人を殺めたことに対する懺悔の味か……
名無しは違う。毎日命のやり取りをする彼にとってはその煙草はいつもの煙草だ。何も変わらない。いつ吸っても同じ味……ただの煙草……