結びに--「理屈じゃない」を理屈にすることの難しさ--
よく命の問題は「理屈じゃない」と言われることがある。この回答は回答を放棄しているものの、問題の核心をついているとも言える。
私たちが命を論じるとき、その論理の多様性は非常に大きく、しかしいずれの論理にも矛盾や拒絶が生じる。だからこそ、命の価値という回答を出してしまえば何らかの問題が生じる問題について、明確な回答を持たせないという立場は、ある意味で賢明であると言えよう。
しかし、あらゆる学術的な思索-核分裂や核融合から、微分積分や文化人類学、鎌倉幕府の年号から織田信長の死亡年、トゲハムシの命名に至るまで-は、新たな問題の発生を常にはらんでいる。それらを解決していくのもまた学問であり、理屈を作り上げることは学究活動の本質でもある。
私たちの問題意識が理屈に向かう必要は必ずしもないが、理屈を組み立てることもまた拒絶するべきではない。私たちは常に、この理屈ではない問題と向き合い続けている。貴方がニュースを見て、自殺や殺人に心を痛めたり、あるいは交通事故を目の当たりにして自分に不幸が訪れないように祈るのと同じように、私は命の問題に対して、頭を悩ませ、自らを納得させてきた。
そうして思うのは、私の論理は穴だらけで欠陥があり、それは年を追うごとに見つかっていき、解決からは程遠いということである。私たちの論理が完全無欠で欠陥の一切ないものであればいいのにと思うのと同時に、それを強く求める探求の中で、新たな問題が生じる難しさもまた、私たちは求め続けるのだろう。
ある価値観を否定することの愚かしさと同時に、その必要性さえも孕んだ探究を、この場所を借りて公表できたことが、何より有難いと思う。
命について、何か良い論理があれば、それもまた聞きたいものだ。私には見つけられない理屈というものが、あってもいいのだから。