救済の重み、命の相対性論
「命に本質的な価値はない」
この言葉を述べるために、いくつかの反論のうち一つに答えなければならないだろう。その代表的な一つとして、「命に価値がないならば、何故、世界は命を奪うことを許さないのか」というものがあるだろう。これについては、私もかねてより頭を悩ませた問題の一つだった。
まず、私は命の無価値について、これを二つの価値軸から論じた。
これを踏まえ、この問題に答えるならば、第一の無価値論については、命とは罪であること、生きることとは罰であることという私の価値観に触れつつ説明しなければならない。
私達は生まれてきた時点で、どうしても逃れられない宿命を持っている。これは、命を奪わなければ生きていくことができないという宿命である。
ヴィーガニズムでさえ、この問題を解決する手段を持たない。
動物性、植物性を問わず、私達はあらゆるものから命を奪うか、或いはなんらかの命を奪ったものから排出される一部を摂取することで、この命を繋いでいると言える。命に価値がないならば、それらは確かに断ち切ることを許されるべきだと考えることもできるだろう。
しかし、もし仮にそれが許されるならば、何故私達は自らの命を放棄できないのだろうか?先に述べた通り、生きるということ自体が罪であり、罰である。
本来この、命を奪う行為が良き行いであるとすれば、私達は摂食を繰り返すうちに救われなくてはならない。しかし、実際には命が続くために、私達は食事をするのである。つまり、食事は、自分が摂取した事により、命、即ちその刑期が延長されるという性質を有している。それ故に、食事という行為によっては、あくまで我々の刑期が長くなるという点に留意する必要がある。つまり、本質的に、我々は、「命を奪うことが罰である」ということを理解しなければならない。そしてそれは、「自分の命」も、おそらく例外ではない。だからこそ、人間は死の間際、強烈な苦痛に襲われるのだろう。つまりは、生涯分の罰をその瞬間に一気に受けることになるのだ。
命が損なわれることが救いならば、この回答は矛盾していると言える。これについて、私は明確な答えを用意できていない。
一応の仮説としては、許諾なく他人の刑期を奪うという窃盗の問題として考えるか、酌量の余地のある罰を繰り返していた者に、過剰な罰を他者に与えたことに対する罰であるか、と言った理屈も用意できるだろう。
いずれにせよ、どうやら「食事」という行為は罪らしく、また、自殺を含む「命を奪う行為」には罰を伴うと言うことのようである。
もう一つの論理であれば、もう少しすっきりした回答ができるかもしれない。
もう一つの論理とは、命は無価値ではあるが、命の価値はある者が執着する程度によって相対的に価値の多寡が生じるというものだ。これは言い換えれば、「命の価値を認めるのは、不特定多数の他者を含んだ生物全般」である。
つまり、この論理が自殺をしてはいけない理由に答えるのは単純明快で、何者かによって価値がある以上、命を奪うことは許されず、また、その命の価値が無価値であることを全世界のあらゆる命から意見を集め、証明する事は不可能だという事である。
命の本質的な無価値は定義できても、ある者の命が無価値である事は、相対的な価値を鑑みると一切証明が不可能である。そうである以上は、私達は命を奪うこともできないし、命を自ら断つことも許されない。酷い理屈だが、そうならざるを得ない。
この論理はあらゆる命へ対する侵犯行為に有効ではあるが、一方で、食事の問題を改めて持ち込む必要が出てくる。
なぜ、命を食すことが許されるのだろうか?命に相対的価値を認めるならば、それは我々の食卓に並ぶ羊や豚や牛、パセリやキャベツやほうれん草にさえ及ぶ筈だ。
この疑問に対しては、このようにも答えられるだろう。つまり、自分の命の価値と食糧の価値を比べている自分が、それを認容しているのだということである。
但し、これは不特定多数の者からの非難は免れ得ないのだろう。やはり、命の相対性論を用いる場合にも、命を奪う行為はどうやら罪らしく、命の継続もまた罰らしいという、先述の曖昧な理屈を持ち込まなくてはならない。
この問題に対する回答は、やはり私の理屈では難しい。その点、「命には絶対的な価値があり、その価値の多寡によって命は選別されるべきだ」と考えた方が、結局は回答が容易になると言えるだろう。
一応、命を奪っても許されるとすれば、それも一つの回答である事は否定しない。ただ、それを社会が許容するのは非常に困難であり、とどのつまりこの問題は、私の理屈でもそうでない理屈でも、解決が必要な主要な問題であると言えるだろう。
この点を踏まえた上で、次に、命について論じることの意義についても、改めて考えていきたい。