はじめに‐‐半生に悉く沈む闇についての告白‐‐
私がこの世に生を受けてから死ぬまでの間に、どれだけの米を平らげただろうか。そう思い至って初めて、私の死生観へ対する哲学的な取り組みは始まった。
小学生のころから続く、同学年や下級生からの虐めは、私の心を深い思索の底へと誘った。
曰く、「存在する理由とは何か」
この問いかけは長い青春の仄暗い取り組みとして、私のつまらない生命の一つの課題として、およそ四半世紀の間中の悩みとして付きまとった。この間に受験や交友関係の変化など、様々な課題が起こったが、それも些細なことで、これらを解決したのは単なる「時間の経過」だった。
その一方で、この青春の課題について、私は常に煩悶し続け、自らの命の無価値について説明するか、あるいは価値あることを証明するかのいずれかも成しえないままで、長い人生の折り返し地点までを棒に振ってきた。
なぜ、このようなことを語るのかと言うと、私が出した結論について、恐らく多くの人が嫌悪感を抱くからだ。私はこれを否定してほしいと願っているし、彼らの理屈が私の理屈より数段優れていることをどうにかして証明しなければならないと思っている。そして、本来の課題である、「自分の無価値性」について、彼らから私の半生を否定することによって答えを与えられることを願っている。
願わくば、この呪われた生からの解放を。そうでなければ、鬱屈した魂の救済を。偉大なる不存在者による存在の全否定を。