1 狼の懐
「――という事で、1日お世話になります」
ノートを持って禊に言うと、洗濯物を干しながら禊が私を見た。
「急に何なんだ、ココロ……」
困った様子で私を見る。
「心を知るためです」
禊は非常に困った顔をしていたが、
「特に面白いことは無いぞ」
そう言って洗濯籠をしまいに行ってしまった。
五月雨禊。名前の由来は、罪汚れを祓い落とせるようにで、名付け親は御神。五月雨は禊の生まれた頃、五月雨がよく降っていて、禊自身、あの天気が好きなんだそうだ。
禊は雑巾と水を張ったバケツを持ってくると、リビングのフローリングを拭き始めた。
「ねぇ、普段は何してるの」
禊に尋ねると、
「普段……畑耕しに行ったり、肉を狩りに行ったり、アーサーの所で釣れた魚を裁いて保存用に加工したり、あと神殿の事とか国の仕事をしたりだな」
雑巾がけをしながら答えた。
「このお家は誰が建てたの?」
「俺と御神だ。一部巨木の枝を切り取って作ってある」
「部屋数とかは?」
「前はたくさんあったけど、もうみんな一人一人家を持つことになったから、ほとんど取っ払っちまった」
増築が簡単なのか。
「ここら辺は気温も高くないし、湿度もそう高くならないから、木製で事足りる」
なるほど。持っているノートにメモを書いていく。
掃除が終わった禊は壁の時計を見て、
「もう昼飯時か……何が食べたい?」
掃除道具を片付けながら私に尋ねてきた。
「昔、ネットで見た、子供が必ず食べる料理が食べたい。大きなプレートに、ハンバーグやケチャップライス、プリンや温野菜、色々乗っかったアレ」
アレが何なのか私にはわからないため、上手く伝わると良いのだが……。
「お子様ランチな」
禊はそう言って台所に立った。お子様ランチか。それはどうやって作られていくんだろう。
「見たいか? ちょっと待ってろ、椅子持ってきてやる」
禊はダイニングから椅子を持ってきて、
「落ちないようにな」
壁の方に置き、背もたれ側を見る方に向けて置いた。私は椅子の上に立ち、背もたれに掴まって禊を見上げた。
まず、禊は肉を取り出して来た。
「鹿肉だよ。まだ牛の時期じゃないから、これで勘弁してくれ」
そう言って肉の塊を数グラム切り落とし、包丁を2本両手に持って刻んでいく。中に荒刻みの肉も入れ、パン粉、卵、塩、香辛料を入れてこねていく。フライパンに手のひらほどのハンバーグを入れ、その横で溶き卵を焼いていく。大きめの木の皿を出し、焼きあがったハンバーグとスクランブルエッグを盛り付ける。次に沸騰した鍋にブロッコリーを切って入れ、茹で上がったブロッコリーをボウルに上げて醤油と鰹節で和えて、プレートに盛り付ける。ブロッコリーをゆでたお湯にニンジン、玉ねぎ、じゃがいも、キャベツ、セロリ、キノコ、ほうれん草、コーン、レンコンを食べやすいサイズに切って投入し、コンソメの素を数個入れ、出来上がったスープを器に入れる。小さめのおにぎりを2つ作り、プレートに乗せる。最後に、牛乳と砂糖、バニラエッセンス、ゼラチンを混ぜて、容器に入れて冷蔵庫で冷やす。
「ほら、できたぞ」
美味しそうな匂いが辺りに漂う。涎が溢れてくる。待ちきれず走ってテーブルに着くと、目の前にプレートが置かれる。
「スプーンとフォークは大人用しかないから、これで我慢してくれ」
そう言って渡し、スープを側に置く。
禊は私の向かいに座り、私の様子をじっと眺めた。食べてよいのだろうか。禊の様子をうかがいながらフォークを持ってプレートに向かうと、
「食べる前に言う事あるだろ?」
言う事? あぁ、そっか。
「……いただきます」
「たんとお食べ」
禊は微笑んで言った。
始めにハンバーグに手を付ける。香辛料の風味が良い具合に効いてて、食欲を誘われる。スクランブルエッグに味付けは無いが、卵の風味が味わえる。さらにハンバーグと一緒に食べるとコクが出て美味しい。おにぎりも塩むすびだが、妙に旨味があるのは何故だろう。スープも具沢山で食べ応えがある。ブロッコリーのおかか和えも、簡単な味付けなのにどうしたらこんなに美味しくなるのか。
なんて事、これ以上考えていられないほど美味しかった。
「そんなに美味いか」
禊が私の口に付いた汚れを拭きながら、嬉しそうに言った。私はまだ美味しいと口に言ってない。
「そんなに美味しそうな顔して食べてくれた奴は久々だよ」
禊は頬を桃色に染め、頬杖をついて私を見つめる。
「また何か食いたいものがあったら言ってくれ。作れないものは無いから」
禊は料理が得意なのか。ノートに書いておこう。
「こら、食事中は余計な事しない。食う事に集中しろ」
禊に咎められてしまった。確かに、こんなに美味しい料理に集中しないのも失礼かもしれない。
気が付けばプレートは綺麗に空になっていた。
「満足したか?」
禊の問いかけに頷くと、
「じゃあ、食い終わったら言う事があるだろう?」
「ありがとう……」
「それもそうだが」
他に何を言えば……、あ。
「ごちそうさまでした」
「うん、お粗末様でした」
禊は身を乗り出して頭を撫でた。そして冷蔵庫からデザートを取り出して来た。
「ババロアだよ」
プリンに似た調理法の異なるスイーツだったか。ガラスの器の上でプルプルと震えるババロアをスプーンですくう。そして口の中に入れると、舌の上で踊ったババロアが、口の中の熱で溶けて牛乳のまろやかさと佐藤の甘さが広がっていく。いや、それ以上に甘さを引き立たせる風味があった。口の中が溶けてなくなってしまいそうだ。
「そんなに美味いか」
禊は嬉しそうに笑った。そしてプレートを下げて片づけを始める。そういえば、禊は食事をしなくて良いのか? 皿を洗う禊の側に近づき、
「お腹、空かないの?」
「あー、お腹ね……。俺はいいよ、お前が食ってるの見たらお腹いっぱいになったから」
食事をとらずに腹を満たす事ができるのか?
ふと、上の階から禊の宝器、太刀斬鋏がやって来た。二対で一つという、他の宝器に無いタイプの宝器だ。形状は裁ち鋏。
「おや、ココロ様じゃないですか!」
元気で可愛らしい女の子の声で話しかけるのは、白銀姫。性別の美を司る。白い刀身に、私の顔と同じくらいの大きさの翡翠の石が埋め込まれていて、銀色の装飾がされている。
「ごきげんよう、ココロ様」
冷静な少年のようで丁寧な言葉遣いをするのが、黒鉄彦。存在の美を司る。黒い刀身に同じように黒曜石が埋め込まれていて、金色の装飾が施されている。
「ごきげんよう」
私も挨拶をしてみる。
「おや、もしかしてお昼を召し上がった後でした? 旦那様の食事は矛盾一美味しいと聞いてます!」
確かに、とても美味しかった。
「ところでココロ様、今日はどうしてこちらに?」
こういう理由。ノートを広げて見せると、
「なるほど、お勉強でございますね!」
「わからないことがあれば、何でも聞いてください」
折角だ、何でも聞いてみよう。
「禊はどうしてご飯を食べないの?」
「旦那様は過去の戦闘や仕事で胃袋の7割を失っておられます」
「それ故、まともな食事もできず、挙句最近は中に封印されている邪神の影響で、人間のDNAを摂取しなければならない体になってしまったのです……」
2つは落ち込んだ様子で話す。
「ねぇ、その邪神ってのは?」
「邪神は聖女ニーア様と対を成す存在」
「この世の負、死を司る存在です。簡単に言いますと、矛盾の敵です」
「禊は敵なの?」
「とんでもございません! 旦那様は矛盾の長で、聖女様の御気に召された方」
「むしろ邪神が矛盾に手を出さないよう、邪神を手玉に取っておられるのです」
なるほど。ノートに話を書いていると、
「誰が手玉に取られてるだ」
背後から声がした。振り向くと、長い黒髪に、黒い大きな目をこちらに向けて、さっきまでいなかった人間が立っていた。白銀姫と黒鉄彦が小さな悲鳴を上げる。
「お嬢ちゃん、どこから来たんだい?」
「あなたは誰?」
「俺はその邪神ってやつだ。名は千早。おっと、手玉に取られているわけじゃないぞ、手玉に取っているのはこっちだ」
そう言い、千早は腰を折って私の顔を覗き込んだ。とても肌の白い人だ、まるで死人のようだ。私の顔に触れた千早の手は冷たく、長い指が首を這う。黒いノースリーブインナーのようなものを着ていて、白い幅のあるズボンを履いていた。アラビアの方の服装に似ている。笑った口から覗く歯は全部犬歯のようにとがっている。それにしても黒い大きな目がとても印象的。吸い込まれそうだ。
「こら、今度は幼女を誘拐しようってのか?」
洗い物が終わった禊がやって来る。
「誘拐はしねぇよ、こういうガキは可愛気が無いから好かん」
千早は肩眉を上げて私を指した。
さっきまでいなかったのに、どうして急に現れたんだろう。足音もしなかった。
「コイツは千早。俺の中に封印されてる霊的な存在で、俺がある程度封印を緩めればこうやって具現化することができるんだ」
禊はそう言って、千早の頬をつねった。
「痛くないの?」
千早に尋ねると、
「これが痛いなんて言ってられるか」
そう言って禊の頬をつねった。二人はよく似ている。
「俺がコイツの姿を元に人間の姿を作り出しているからな」
千早はそう言って禊の服を捲り上げようとしたが、禊に手を叩かれた。だから目元とか特に似ているのか。
「千早、ココロを寝床に案内してやれ。美紗の隣の部屋が開いているだろう」
「はいよ」
禊に頼まれると、千早は跪いて右手を差し出し、
「案内しよう、お嬢さん」
ニヒルな笑みを浮かべて私を見た。その手に左手を乗せると、千早は少し背中を丸めて歩き出した。そうか、この人は背が高いんだ。禊と並んで頭一つ分あったから、200㎝はあるのかもしれない。そういえば、この人の見た目は男性だが、髪が長いし女性のように細い。男か? 女か? 首にノドボトケがあるか見るが、それらしいものは全く見受けられない。もしかして女性か? でも一人称が俺だし、声も低い。
「俺に性別は無いよ。言い方を変えれば禊と同じ両性って事だ」
禊は男性でなはいの?
「禊は男性寄りの体の造りをしているが、ああ見えて女性器も持ち合わせている、雌雄同体だ」
あの見た目で女性器を……。
「普段は女性器の方は隠していて見えないが、頼めば見せてくれるだろう」
本当に頼んだだけで見せてくれるのだろうか……。
「アッハハァ」
千早は喉の奥から声を漏らすように笑う。
「さぁ、ここが君の部屋だよ」
至って普通のシンプルな部屋に案内される。シングルよりは大きめのベッドが一台と、チェストが一台、テーブルと椅子が2つ置かれているだけだった。広さは10畳程だろうか。
千早がシーツを持って来てベッドメイキングを始める。しわ一つなくシーツをベッドに貼り付ける。
「よし」
千早は満足げにベッドを見下ろして、クッションの柔らかさを確認してベッドの上に置いた。
「さ、リビングに戻ろうか」
また私の手を持って歩き出そうとした時、チェストの上に置かれたレコードプレーヤーを発見した。千早はそれを手に取り、
「少し、運動でもしようか」
リビングのテー物の上にプレーヤーを設置してスピーカーにつなげる。
「随分と懐かしいものを見つけてきたな」
禊が感心した様子で設置する千早の肩越しに覗き込む。千早はリビングの棚の中から何枚かのレコードを持って来て、その中から1枚を選び出してプレーヤーの上に設置した。針をそっと置くと、軽いドラムの音とギターの音が流れ出した。歌っているのは女性で、柔らかくて可愛い歌声だった。ふと、空中にパステルカラーの音符がいくつか見えた。音とはこういうものなのだろうか。薄ピンク色や薄水色の音符がスピーカーから流れ出てはシャボン玉のように飛んで弾ける。
千早はくるりとその場で回ると、あっという間に服装が変わった。模様の入った白いTシャツに、黒いズボンを履いていて、腰に大きな布を巻いていた。スカートのようにも見える。
「お前、そんな恰好どこから知って来るんだ」
禊が怪訝そうな顔で見る。
「なかなか良い恰好だろう?」
千早はくるりと1回転してステップを踏み始める。優雅に舞い始め、曲のサビになると腰布を持って広げてステップを踏む。楽しげな千早を見て、
「こいつ、こういう芸だけは長けてるんだよな……」
いつもの事のように禊は鼻で笑うが、楽しそうな顔をして千早の横にやって来てステップを踏み始める。千早のような優雅さより、可愛らしい振り付けをしてくる。
「さぁ、お嬢さん」
千早が私に手を差し出すと、禊も同じように手を差し出し、
「Shall we dance?」
二人が同時に言った。踊るのは得意ではないけれど、音楽が私の背中をそっと押した。
「Of course」
私が両手を二人の手に乗せると、二人は軽々と私を持ち上げてクルクルと踊らせる。まるでフォークに巻き取られるパスタみたい。
二人があんまりも楽しそうに踊るから、私も楽しくなってきて、自然と顔の筋肉が持ち上がっていく。
「何だ、笑えるじゃないか」
千早がそう言って渡しの頬を撫でる。そうか、私は今、笑っているんだ。
「楽しんでますか、お嬢さん?」
禊が手を取って訪ねるから、私は思いっきり笑って見せた。笑うって、心が豊かになる。
すると今度はなかなか元気の良いギターの音が鳴り始める。流れる音符も色を変え、ビビッドカラーに水玉や星が散りばめられた模様のものが流れ始める。さらに音符は床の上でスーパーボールのように弾んで弾けた。
禊と千早は見事な足さばきのステップを見せる。息もピッタリだった。
それから私と禊は疲れてしまい、千早ずっと踊っていた。3時間程だろうか。
「本当、ウザいくらい踊り続けるよな」
禊は夕食の準備をしながら言った。
「随分体力があるんだね」
「人間の姿をしているから人間と同じだと思うなよ?」
千早はそう言ってくるりと回る。軽快なステップで優雅に踊る姿は不思議といつまでも見ていて飽きず、心を締め付けるようだった。これはどういう気持ちなんだろう。
「相変わらずお上手ですよね、邪神」
「美しいところが憎たらしいですが」
白銀姫と黒鉄彦が私に話しかけた。そうか、この気持ちは美しいっていう気持ちなのか。
「……綺麗」
そう呟くと、目の前に千早の顔があった。目を細めて妖しく微笑むその顔はどこか悲しそうにも見えた。開いた窓から風が吹き、千早の髪をなびかせる。長い髪が私を包んだ。
「それは思ってはいけない感情だ」
千早の細くて長い指が私の唇を滑る。
「美しい、は悪い感情?」
首をかしげていると、
「美しいと思う事は決して悪くない。とても良い事だ、もっとそう思うがいい。ただ――」
千早の顔から感情が消えていくのが分かった。
「判断を間違ってはいけない」
「基準があるの?」
「基準は君の中にある」
「そんな曖昧じゃ、誰かに間違ってるとか言われても困る」
「君は実に正直だ」
千早は私の手を取り、
「ここはあえて慈悲をやろう。俺を美しいと思ったらそれは、矛盾としての人生が終わってしまう事になる」
「どうして?」
「俺の存在が何なのか、よく考えると良い。誰かに与えられて知る答えではない、自ら見つけるからこそ意味のある答えとなる」
どうしてこの人は、こんなにも悲しい笑みを浮かべるのだろう。
「俺は美しくなんかない――」
そう言い残し、千早は黒い靄に包まれて消えてしまった。
「ココロ、夕飯ができたぞ」
しばらく千早の消えた方を見つめていたが、胃袋は正直だったから席について夕飯をいただいた。
白いカレー皿にカレーが盛られていた。ニンジンが星型だったり、ご飯が火山の形になってカレーが火口から流れていた。
「大丈夫、甘口と中辛のブレンドだから美紗でも食べれる辛さだよ」
禊が頬杖をつきながらそう言った。美紗は確か、矛盾の中で身体年齢が最年少の子だ。その子が食べれるなら、私も平気だろう。カレーをスプーンにすくって、息を吹きかけながら口に入れる。スパイシーな風味が口いっぱいに広がる。なのに辛くなく、かつコクが深い。ご飯の硬さも丁度良かった。
「お前は好き嫌い無いんだな」
「栄養食しか食べてこなかったから、こういうのは初めて」
「そうか。レオや美紗はピーマンとかニンジンを嫌がるんだ」
「ピーマンは加熱すると甘味が増幅すると聞く」
好き嫌い……母が食事を作ってくれていた時はそう言うのがあったかもしれないが、人生の食事のほとんどを栄養食と点滴だけで過ごしてきた私には、分からない。
禊はご飯茶碗にカレーとご飯を半分ほどよそっ戻って来た。スプーンに大きくすくい、口を大きく開けて頬張るように食べる。禊は一口が大きい。たくさん口に入れて、口を大きく動かして咀嚼する。飲み込む時、少しつらそうな顔になる。一口の量を減らしたらどうだろう……。禊のカレーはたった3口で完食してしまった。食器を洗うために席を立つかと思ったら、私が食べ終わるまでじっと待ってくれた。早く食べ終わった方がよいだろうか。
「いいよ、ゆっくりで。時間が押してるわけじゃないし」
気づかぬうちに焦っていたのだろう。一口一口をよく味わうようにしよう。
食べ終わり、禊がリンゴを切ってくれた。俗にいう、うさぎちゃんの形。皮が少し鬱陶しい気もしたが、逆にこの方が風味が良い。私が数切れ食べると、残った一切れを食べながら禊は洗い物を始める。
洗い物が終わり、禊は風呂を確認して戻って来る。
「風呂湧いてるけど、先に入るか?」
一人でお風呂は少し怖い。万一、足を滑らせて溺れたら……いや、私は今不死身だ。
「一緒に入る」
「それは難あり過ぎる仕事だな……」
禊は怪訝そうな顔をする。一緒に入ってはくれないけど、背中は流してくれることになった。禊は女の身体を見て何とも思わないのだろうか。私が服を脱ぐのを手伝いながら、
「懐かしいな、琉子を引き取って最初の頃はこんな感じだったな」
琉子?
「あ……俺の娘だよ。両親を亡くした子を引き取ったんだ」
そうか、子育ての経験があるのか。
お風呂は思っていた以上に広く、湯船までついていた。大人が足を広げて入っても余裕がありそう。
――禊はもしかしたら、できない事など無いのかもしれない。背中を洗うのに、手の届かない洗い残しの多い部分を知ってて、かゆいところに手が届いた気分だった。リビングの床に座って、ドライヤーで髪を乾かしながら絵本を眺める。この家は本が多い。リビングだけでも50冊くらいはありそう。絵本も20冊ほどある。美紗ちゃんのものだろうか。髪が乾き終わった頃、禊が風呂から上がって来た。前髪が顔にかかって顔が見えない。普段は右目側に前髪を分けているから、髪を崩すとあんなにも前髪が長いのか。
「髪、梳かすよ」
禊が櫛を持って私の後ろに座る。黒い画面のテレビに私と禊が映る。
「はい、終わったよ」
禊が肩を叩いた。禊から櫛を受け取り、今度は私が髪をとかしてあげる。
「梳かしてくれるのか?」
禊は大人しく頭を差し出す。前髪が鬱陶しいそうだから、後ろに流してあげよう。禊の顔の全体を始めて見た。左目はこんなにも綺麗な翡翠色なのに、右目は千早とよく似た黒い目の色をしていた。大きな垂れ目と細い顔の輪郭のせいで少し不気味に見えるけど、鼻筋が通っていて日本人の割に高くて、綺麗な顔立ちをしている。目元に肌荒れなのか、火傷の痕なのか、細かなケロイドに似た跡があった。
「どうした?」
大きな目が私を捉える。顔に手を触れる。頬は薄いのに、とてもよく伸びる。ストレッチ素材でできてるのかな。
「さ、もう寝ようか」
禊は櫛を私から受け取りと、洗面台に向かう。二人で並んで歯を磨き、禊に仕上げ磨きをしてもらう。
「仕上げはお母~さ~ん」
禊が謎の歯磨きの歌を歌う。自作なのだろうか。
最後にトイレに行って、リビングや台所などの下の階の電気を消し、それぞれの部屋に入る。
「おやすみ、ココロ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ、ココロ様!」
「良い夢を、ココロ様」
白銀姫と黒鉄彦も挨拶し、禊の部屋に入って行った。私も自分のベッドに入って瞼を閉じる。だがいくら経っても眠気がやってこない。それにベッドの中が寒い。骨まで冷えてる感覚。
禊の部屋の前にやって来る。起こしては悪いかと思い、静かにドアを開けて中に入る。禊の部屋は棚が多く、フローリングの上に丸い毛深い絨毯が敷かれていた。机の上は資料や動物の骨、様々なものが置かれていた。壁に立てかけられた太刀斬鋏はじっとしていた。ベッドには天蓋が付いていて、布が垂れ下がっていた。その上に黒い靄が乗っかっているのが見えた。丁度、猫が香箱座りでくつろぐ様子に似ている気がした。ベッドに近づいた時、足の下のフローリングが声を上げた。禊が寝返りを打って私の方を見る。良かった、起きてはいないみたい。そっと胸を撫で下ろした時、
「――眠れないのか……?」
低く唸るような、喉の奥から漏れ出した声が私に話しかけた。
「ベッドが、冷たくて……」
暗闇の向こうには禊がいるはずなのに、化け物でもお化けでもいるような恐怖心が胸に募る。冷気が足の間を抜けて、心臓を撫でる。
すると禊はベッドから手を出して私に手招きした。恐る恐る近づくと、勢いよく手を引かれてベッドの中に吸い込まれた。驚いてもがいていると、禊の腕が私の身体を包み込んだ。温かい。頭上から禊の深いため息が聞こえた。力の無い手が頭を撫でる。禊の胸に頭を近づけると、ゆっくりと奥底から心音が聞こえた。禊の呼吸は非常に浅くゆっくりで、とても静かだった。逆に私の速い心音や寝息が良く聞こえた。
そっと禊の身体に腕を回す。体はとても細く、私に比べて柔らかい部分なんて無かった。抱き心地は硬くてあまり良い物じゃないけど、この人の中にいるととても落ち着いた。そうこうしているうちに眠気が私をそっと抱きしめ、海の中に連れて行く。
気が付けば海の中に沈んでいた。