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アイム・ア・パーフェクトヒロイン

完璧なヒロイン、土師光莉が抱える心の闇。

 あれは大学一年の春休み、私達はサークル活動で、カンボジア来ていた。そこで夜、宿泊しているゲストハウスの一室で私、土師光莉は友人の柏木薫、阿部真佐季、一つ上の先輩である藤井佳織ことおりんらと共に恋バナ、と言うより男性談議に、花を咲かせていた。

 その夜は、月夜であった。源氏物語第二帖箒木巻にある、男四人の女性談義、「雨夜の品定め」になぞらえて、この夜の女四人の男性談議を「月夜の品定め」と呼ぶことにする…誰も呼んじゃいないけど。

 最初に口を開いたのは、おりんであった。

「ああ、ネットで『別れ方 メール』って検索しているけど、出ないね」

「えっ、あの半年前から付き合いだしたっていう、バイト先の人と、別れるの?」真佐季が、驚いて訊き返す。おりんの彼氏については、この半年のサークル活動の間、散々聞かされていたのだ。

「まあね」おりんは、肩をすくめて答える。

「…その、彼氏ってどんな人だったの?」これは薫だ。彼女は日本国内での準備期間中、私、真佐季、おりんとはグループが違ったので、よく知らないのだ。

「最初は、ベタ惚れだったらしいよ」と、真佐季。

「真佐季!」おりんが、その言葉を咎める。

「おりんとは四つ上の、バイト先の社員だったらしいよ」真佐季がそしり顔で説明する。

「向こうから、メールで言い寄ってきたのよ」と、これはおりん。

「なのに、付き合い始めた途端、がらりと態度が変わっちゃってさ…この間も、デートの一時間前にドタキャンされて、その後フォロー無しだよ。どう思う、これ?」無理もないとは思うがおりん、かなり荒れている。彼女は普段は、とても温和な性格なのであるが。

 おりんの恋人への不満は、なおも続く。

「…髪型変えたとか、そういうことは気付かないくせにさ、何かあるとすぐに、『あれ、

ちょっと太った?』とか言うんだよ?」おりんは、痩せすぎと言っていいほど、スラリスレンダーである。昔から食べても、太れない体質だという。

「何それ。そんなに骨皮筋子さんが好きなら、箒でも抱いていればいいじゃないの」真佐季の言葉に一同、思わず吹き出してしまう。特に薫のツボにはまったらしく、彼女は腹を抱え、涙まで流してゲラゲラと、盛大に笑い転げた。

「まあ、昔飲酒運転をしていたっていう時点で、私はどうかと思ったけど。ルール違反する人って、最低じゃない?」と、ここで一度真佐季は言葉を切り、

「…まあ、私も、人のこと言えないけどね…」と、口ごもりながら言った。

 真佐季の意味深な言葉に、思わず私は

「何?どういうこと?」と訊いてしまった。

 真佐季はややためらいながらも、話してくれた。

「高校時代、同級生と付き合っていたの。身長が百八十センチ近くあって、顔も…まあ、イケメンだった。でも…」

「でも?」私達は興味津々、身を乗り出して聞いていた。

「うちの高校、進学校だったからバイト禁止だったの。でもそいつ、どこだったか忘れたけど、どこかしらでバイトしていたのね。それはもちろん学校にばれちゃって、校長先生に呼び出しまで食らっていた。まあ、それが原因ってわけじゃないけど、原因の一つではあるけど、他にも色々あって、それでこっちもすっかり気持ちが冷めてしまって。結局、数か月で別れたよね」真佐季の話に、おりんはうんうんと深くうなづき、

「やっぱりどんなに見た目がよくても、ルール違反する人は駄目だよね」と言った…

 今度は、薫が口を開く。

「アウトローも、ちょっと付き合うなら面白いかもしれないけどね」

「やっぱり結婚するとしたら、多少見た目が悪くても、真面目で性格がいい人じゃないと」そういう薫は、結構な面食いであるが。

 薫の言葉に、真佐季はふと思い立ったかのように、

「そういえば、薫ちゃんの恋バナ、聞かせてよ。彼氏、いるんでしょ?」と訊ねる。

「…別れた」と、薫は顔をしかめる。

 中学以来の付き合いである私は、薫の恋愛事情について全てを知っていた。薫は、私に何でも話してくれるのだ…私は、そこまで彼女には話さない。

「何で、私に彼氏がいるってこと、皆知っているわけ?一部の人にしか、話さなかったのに…よりによって真佐季、あなたまで知っているんだから」

「人の口には、門が立てられぬって言ってね」と、おりん。

「そういうことは、すぐに皆知れ渡ってしまうんだよ」だから私は、自分の恋を話さない。

 薫は首を振りつつも、自分の元彼について語り始めた。

「高校の時、同じ部活だったの。高二の…クリスマスごろからかな、最初に付き合い始めたのは」私は、もちろん当時のことを知っている。はっきり言って彼女は、クリスマスを共に過ごす、恋人欲しさ故に彼にアプローチしたのだ。

「それで、それから半年以上付き合っていたんだけど、高三の七月八月ぐらいに、お互い受験勉強が忙しいから、って言って一旦別れたのね。その時は私は、大学県外行くつもりだったから、そいつとはそれきりだと思っていたの。でも結局、お互いに大学県内だったから、それでまた何か会うようになって…で、今度は向こうから告白してきたってわけ」薫は、そこまで一気に話して、息をつく。

「で…何で別れたかっていうとね…」薫は、ここで眉をひそめる。

 私も、今回彼女が別れた理由までは聞いていない。固唾を飲み、薫の言葉を待つ。

「実は、私もよく分からないんだよね。最後に会った時は、別に普通だったの。でも、私がそれからしばらくして、またいつものようにメールでデートに誘ったらいきなり『ごめん、会いたくない』だよ?どういうこと?『何があった?』って訊いても、『別に』って、答えてくれないしさ。それでそのまま、何となく自然消滅よ」こう言って、薫は肩をすくめる。

「それはひどいね」と、おりん。

 薫は、また話を続ける。

「まあ…別にそんな、傷ついてなんかいないよ。元々、タイプじゃなかったしね。空気読めないし、オタクだし、冗談通じないし、オネエってわけじゃないけど、全然男らしくなくて、色気に乏しくてさ…ベッドの中でも、下手くそなのよ。ただ…顔はまあイケメンで、背も…百七十三、四センチなら私(百五十三センチ)と並べば十分、高くて、シュッとしてるしさ。大人しくて浮気は絶対しなさそうだし。なんせ空気読めなくてオタクだから、モテないのよ…スポーツも、高校時代弓道部で、今も卓球やっているから、出来ないわけじゃないしね…だから、付き合っていて面白味はないけど、結婚相手として連れ添うなら、悪くない相手だと思っていたわけ。だからまあ、何と言うか…別れて、ショックじゃない、ってわけじゃないのよ…」つまり、ショックだったのか?

「他に、女がいたんじゃない?」これは真佐季だ。

「そうそう、絶対浮気しない男なんていないよ」おりんも、同調する。

 二人の意見に、薫は

「それはない」と、明確に否定する。

「あの工業大には女子はほとんどいないし、あいつバイトしていなかったから、そこで出会うってこともあり得ない。これは想像だけど、多分心を、病んだんじゃないかなって…元々、メンヘラの気はあったし、ただでさえ十代二十代は精神疾患のハイリスクだからね。ただ」薫、ここでちょっと言葉を切り、続ける。

「男は浮気するものだ、っていう意見には、同意する。その元彼と付き合う前にも、男がいたんだけどね。そいつ、私と付き合い始めてまだ二か月足らずで突然…いや、思えば兆しはあったんだけど、別れを切り出してきて、そして別れてから二週間と経たないうちに、新しい他の女と付き合いだしたのよ。『別れてから付き合い始めたんだ』って、そいつは

言っていたけど、どう思う…?絶対、二股かけていたんでしょうが」

「それは、おそらく二股かけでいたんでしょうね」おりんが断言する。

 その当時のことを、私はよく知っていた。二股(?)かけていた彼も悪かったかもしれないが、その後薫が彼にしたこと―『まだ好きだ、愛している』と言う、しつこいほど、ほとんどストーキングまがいの、メール攻め―を思うと、彼一人を責める気にはなれない。

 「ああ、ああ。理想の男って、いないものね」薫が天井を仰ぎ、ため息をついてぼやく。

「本当に」他の皆も、同意する。

 おりんが言う。

「遊びで付き合うぶんにはいいけど、生涯を共にする相手となると、本当に難しいものだよね…十代のころはともかく、この年(一年先輩のおりんは二十歳)になってくると、

やっぱり結婚を考えて付き合う相手を選びたいもの、ねえ?」そこから彼女の、結婚相手として選ぶ上での、男性論が始まる。

「まずはこの際、相手の見た目はどうでもいいとしよう。就職や仕事も、まあ、相手の収入が多少少なくても、最悪うちら専門職(医療系。おりんと薫は看護、私と真佐季はOT(作業療法士)の資格取得予定)だから、どうにかなる。家事や、子供が生まれれば育児も、してくれればそれに越したことないけど、過剰には求めません。ただ、こちらが疲れているときに、きちんと話を聴いてくれたり、『ご苦労様』とねぎらいの言葉をかけてもらえれば、それだけで救われるというもの。何でもかんでも、妻にしてもらって当たり前、と言うのでは困るね。真面目で、浮気やギャンブル、暴力、その他世間様に顔向け出来ないようなことさえしなければそれでよしとして、多少の欠点には目をつぶろう。その上で、何か一つ人より優れたところがあれば、もうけものとしましょう」おりんの理論はいちいちもっともだが、一つだけ盲点がある。

「相手の親とか、家族との関係もあるよね」私は、その盲点に突っ込んだ。

 私の突っ込みに、おりんは苦笑しながら、

「ああ、忘れていた。いわゆる嫁姑関係ね。それ言い出したらもう、きりないよ。ま、でも今時親との同居なんて、ほとんどないし。つかず離れずの関係を保って、上手くやっていくしかないね」と、ウィンクした。

「夫が看護師だと、いいって聞くよね。家事も育児も、夫が献身的にサポートしてくれる、って」と、これは真佐季の意見。

 人の世話をする看護師という職業は、母性的である。男性看護師には、女性的なところが他の職種の者より多いかもしれない。なるほどそれなら家事も、育児にも、協力的かもしれぬ。

 「そういった意見には、一理あるけど」と、薫。

「でもやっぱ結婚するなら、一緒に寝て、楽しい人じゃないと。イケメンじゃなくても構わないけど、色気ある男がいいなあ」薫、なかなかすごいことを言う。

「色気ある男って?」ちょっと眉を吊り上げて、真佐季が訊く。

「まあ、いわゆる性的魅力ってやつね」薫が口角を歪め、にやりとする。

「例えば?…ここの男子で言うと、誰か色気、ある?」

 真佐季の問いに、薫は少し考え込みながら答える。

「うーん。うちらの大学の、男子はあんまり…皆、寝たいとは思わないな。そもそも、イケメン自体少ない。悪いけど、少なくともうちの学年の看護には、私の元彼達以上にかっこいい、ってやつはいないね。勿論さっきも言った通り、顔がすべてじゃないけれど。でもまあ、まだ十代二十代じゃ、なかなか大人の男の色気っていうのは出ないでしょうね。三十、少なくとも二十五、六にはならないと…」

「じゃあ、丈次さんとかがちょうどいいんじゃない…?彼、まだ二十二、三だけど」と、おりん。黒井丈次は私達と同じ一年生だが、年は三、四歳上だ。

 おりんのその言葉に、薫は怪訝そうな表情で、

「彼、彼女いるよね?」と言う。

「どっちみち彼は、私の好みじゃない。顔はともかく、あの体型は…もっと、シュッとしていなきゃ」

「あの性格でシュッとしていたら、人からもっと嫌われていただろう、って本人は言っていたよ」私は、そっとつぶやく。もっとも、私自身は皮肉屋で口の悪い黒井丈次のこと、決して嫌いではない。では恋人にしたいか、と言われても困るが。

 話がそれたのをみて、真佐季が、

「…で、色気、性的魅力っていうのは、一体…?」と元に戻す。

「ああ…あくまで私にとっては、だけど」薫が答える。

「まず体型としては、私はマッチョが苦手なの。太っているのも論外。だらしなく見える。シュッとした、と言っても決して痩せすぎではなくて、程よく肉のついた男が好みだね。あと、ポイントは指。細くて長くて、少しゴツいのが好き。髪型やファッションセンスはどうでもいい。清潔でありさえすれば。不潔は論外でしょう。酒はどちらでも構わないけど、タバコを吸うのは絶対にいや」

「タバコは、ねえ…うちら医療職者の相手として、ないよね。ま、私達が禁煙させる、って手もあるけど」おりんが口を挟む。

「性格は…無口で少しぶっきらぼうで、ミステリアスなのがいい。男に限らず、何でもべらべらしゃべる人は、品が無い。一見冷たく、すれてみえるけれど芯は誰よりも優しくて、純粋かつ情熱的、っていうのがいいね。ま、いわゆるツンデレ、ってやつ?運動は出来なくて構わないけれども、頭は切れるに越したことはない。それに、ユーモアのセンスも欲しい。いくら心優しくても、少しの冗談も通じないというのはやっぱり、ちょっとね…そのことに通じるけど、馬鹿なところも欲しい。ぬけているところ、とでもいうのかな」なおも薫は、欲望に目をぎらつかせて語り続ける。

「レディーファーストは絶対条件。でも、あんまりそれがわざとらしかったり、女性であれば誰彼構わず、やたらと愛想がいいっていうのはいけ好かないね。さりげないのがいい。過去の女性経験は豊富に越したことはないけれども、たとえ経験が浅くても、本当に心から相手の女性を思っているのならばその女を、(ベッドの中で)絶頂に連れて行くことはわけないことよ…と思うけどね。だから若い男は駄目なんだよ。自分が気持ち良くなることしか考えていない…浮気は論外。愛する女のためならば、全てを敵にしてでも守るという、騎士道精神こそ男の極み」

 薫の弁舌を、私はただ黙って聞いていた。あくまで薫の理想なのだろうが、実際に彼女が付き合った二人の男達と比較してみるとちょっと、どうなのかと思う。現実には、少なくとも私達の周りにはそんな男はいない、ということであろうか。そういえば、確かに、つい最近までの彼氏については、

「全く好みのタイプじゃない」って言っていたし…だったら、何故付き合った?

 「ミュージシャンとかが、演奏している姿に性的魅力を感じるっていうよね」黙りこんでいる私をよそに、おりんが話し始める。

「確かに…ドラマーとか、いいよね」薫が好きなアイドルタレントも、ドラムを叩く。それ故、自分では叩かないものの、彼女はドラマーに目が無いのだ。ちなみに私も、軽音で少しだけ、ドラムを叩く。

「それ、よく言うよね…私はどっちかと言うと、ギタリストのほうがいいけど」おりんは、そうらしい。

 誰かが歌ったり、踊ったり、音楽を奏でる姿に、人は魅了されるらしい。ダンサーや、バンドのミュージシャンは多少顔が悪くても、その踊りや歌、演奏が上手ければ異性にモテる。  

 私はさる美人女性タレントと不倫した、お世辞にも美男とは言えぬ、某バンドのボーカリストを思い浮かべていた。マスコミには女のほうばかり叩かれてしまったが、あれはどう考えてみても、インディーズ時代に献身的に仕えてくれた妻を捨て、人気が出たのをいいことに、美人のタレントに走った、男のほうが悪い。

 「あと、弓道とかもよくない?」と、真佐季。

「道着を着て、弓を構える姿。男女を問わず、かっこいい。いや、それというのもね、私が中学時代、密かに憧れていた先輩が弓道部だったのよ」

「中学に、弓道部があったの?」私、どうでもいいところに反応する。私と薫の出身中学には、弓道部などなかった。

「…私も、高校弓道部だったよ…」薫も、ぼそりとつぶやく。

 しかしこれらはおりんの言葉に、かき消されてしまった。

「その先輩とは、どうなったの?」その問いに真佐季は、笑いながら

「何も」と答えた。

「その人、初めから彼女がいたからね…その彼女も弓道部なんだけど、これまた美人でさ。この彼女さんも、私の憧れだったの。だから私にとって、弓道はかっこいい人がやるスポーツなの。なのに…」ここで真佐季は、顔をしかめる。

「うちの弟が、今度高校に上がるんだけど、そこで弓道部に入ろうか、っていうのよ」

「いいんじゃない?」と、おりん。真佐季は、なかなかの美人である。その弟であれば、悪かろうはずがない。

 それだのに彼女は、

「とんでもない」と、頭を振るのだ。

「どうして?」

「だって…」真佐季の表情は、ひどく暗い。何かわけがあるのだろうか。

 声を落とし、真佐季は語りだす。

「私の弟は、顔はまあいいとして、いや全然よくないんだけど、それはまあ置いておいて、体型がもうガリガリですごくみっともなくて…いや、うん、最悪それも許すとしましょう。問題は見た目じゃなくて、その中身で…」真佐季は、大変言いにくそうだ。だが意を決して、彼女は吐き出すように言う。

「中身が…ああ、これがもうすごく幼稚なの。よくこんなんで高校、受かったなって思うくらい。ひどいんだよ、もう。未だにほら、よく温泉旅館でもらうような手ぬぐい、あれを振り振りして遊んでいるし、アニメのドラえもんなんか見ているし、髭も自分じゃ剃れないし、それに…母親にべったりでね。もうとうに身長は追い越しているのに母親に抱きついてきては、『ペットちゃんかわいい?』とか訊いてくるし、ああそう、彼、母親に対しては自分のことペットだとか言っているの。それで母親が『かわいいよ』って言わないと怒るし。あとは母親が、例えばテレビ見ていて、そこに可愛らしい小動物とかが出てきたとしましょう。それでうちの母親がうっかり『かわいい~』とか言うと弟はそれで機嫌悪くして、『ペットちゃんとどっちがかわいいの⁉』とか言うんだよ。それで『ペットちゃん』って母親が答えないと、もうどうなるか…ああやだやだ。最終的にはいつも、無理やり言わせるんだけどね…それでいて私や父親には、やたら高圧的な態度をとるし。母親も含め、本当に彼には家族中がうんざりしているのよ!」

 苦虫を嚙み潰したような顔で語る真佐季の話は、にわかには信じられず、私は笑いながら、

「冗談でしょう」と言った。薫は

「おお嫌だ、嫌だ。マザコン男なんて最悪ね」と言った…

 このような男性談議の中、見ての通り私は時折口を挟む程度で、終始聞き役に徹していた。傍から見れば聞いているんだか聞いていないんだかの体で、居眠りしているのか、とさえ見えるような時もあったであろう(実際、薫に「起きてんの?」と、わきをつつかれたこともあった)。

 しかし私は、しっかりと皆の話を聞いていた。皆が男性についてあれこれ論じ合うのを聞きながら、私はある一人の男性について、思いを馳せていたのである。

私は、その男のことについて大学内の誰かに語ったことはない。そう、薫にさえも。友人も、家族も皆、私にまだ男性経験がない、と思い込んでいる。だが、それは大きな間違いだ。

 私には恋人がいる。八歳年上の二十七歳で、言うまでもなく独身、古書堂店に勤める人だ。もう、彼と付き合いだしてから一年近くになる。

 皆が男性について語るのを聞きながら、私は、世の中には色々な男がいるものだ、だがしかし、我が想う人よりも完璧な人はいまい、と、一人悦に入っていたのだ…

 彼は、ひょろりと瘦せ型の人で、顔はさほどでもないが心優しい、穏やかな人であった。私の我が儘は、いや、そこまで我が儘は言ったことはないけれども、全て受け止めてくれている。

 また彼は床上手でもあった。彼は、私を何度も極楽へと連れて行ってくれた…

 けれども私は、虚しかった。


 私、土師光莉は大企業の管理職である父と、看護師の母のもとに生まれた。父は再婚で、前妻に先立たれており、その前妻との間に息子、すなわち私の腹違いの兄にあたる子がいる。兄とは、七つ年が離れている。

 経済的には裕福なほうで、何不自由なく育ってきた。母は、店でバーゲンやセール品を買ったことはない。

 大学に入ってからバイトも始めたが、未だ小遣いももらっている。それ以前にも、小遣いに不自由したことはない。

 両親は、食べ物の好き嫌いや礼儀作法に関するしつけは厳しかったが、それ以外は甘やかして私を育ててくれた。理不尽なことで怒られることは決してなかったし、私も彼らに反抗したことがない。

 年が離れていることもあり、兄とは喧嘩したこともない。兄も、兄の彼女も私を、とても可愛がってくれる。

 我ながら容姿にも恵まれ、勉強、スポーツもそこそこ出来るほうだと思う。教師陣から可愛がられる性質で、中学時代の内申は四十であった。もっとも、本番の試験に弱く、高校は第二志望であった。

 友人にも恵まれ、苛めを受けたこともない。

 こうしてみると、自分は、何と恵まれているのであろうと思う。裕福な家庭に生まれ育ち、家族との仲も良好。自分で言うのも何だが容姿端麗、文武両道。良き友にも恵まれ、恋人もいる。この就職難の時代、大学でOTという医療専門職、資格職を選択したことから就職は保証されているも同然である。

そう、私は大変に恵まれている。私は幸福なのだ。きっと。


 世界には、いやこの日本、私の周りにも運に恵まれぬ者はたくさんいる。

 友人、柏木薫は幼くして両親(母親はまだ生きている、ようである)に死に別れ、祖父母に育てられた。私が彼女を知ったのは中学からであるが、おそらく小学校から―さらに高校でも―同級生たちからの苛めを受け続けてきた。

 薫は高校時代三年間、クラスに友人がおらず昼食は一人で食べていたという。大学に入って同じ学科に、一緒に昼食を食べてくれる友人が二人出来たといって彼女が喜んでいたのを、私も嬉しく思った…

 同じく友人である、こちらは大学に入ってからだが阿部真佐季も人生の辛酸を味わっている。先述の月夜の品定めで挙がった、三つ年下の彼女の弟は先天性全身性無汗症(生まれつき汗が出ない疾患で、体温調節が困難。体毛や、歯の極端な少なさも症状の一つである。患者は一定数いるが、世間的にほとんど知られておらず、医療職者の中でも、その疾患を知らない者は多いという)で、かつ発達障害も持っている。彼女の両親や彼女自身も、弟が抱えるその特殊なハンディキャップ故に、周囲から差別的な視線にさらされてきたという。

 我が恋人も、幼いころから両親が不仲で、父親がしょっちゅう母親に暴力を振るっているのを、間近で見てきたという。最終的に離婚し、彼は母親について行ったらしいが、その母親はほどなく再婚、彼は新しい継父と上手くいかなかったようである。

 皆、暗い影を抱えている。私の兄にしたって、表面上は幸福そうだが、三つの時に実の母に死に別れ、継母に育てられるという憂き目にあっている。もっとも、彼とその継母との仲は、極めて良好ではあるが。PT(理学療法)学科の友人である速水麻耶が一浪していること、先述の看護の黒井丈次が人より三、四年も遅れて大学に入っていることにしても、彼ら自身は決して多く語らぬが、そこには深い理由、影があるはずだ。  

 麻耶は決して、現役で志望の大学に入れなかったから、という理由だけで浪人したのではなかろう。国公立を目指していたというが、一浪したところで私立大学だ。黒井丈次にしても、単に思いつきで高校卒業後三、四年も経ってから大学を受験したわけではなかろう。そこには、何かがあるはずだ。深く、暗い、影が。

 彼らに比べれば私の人生には何の陰りもなく、幸福そのものである。

 しかし私は、決して幸せではない。

 皆、私には何の悩みもなく、幸せな人生を送っていると考えている。表面的には、確かにそう見えるであろう。けれどもその裏には、限りなく暗く、深い闇があるということを誰も知らない。

 虚しいのだ。誰も彼も、光莉は素晴らしい、完璧だという。実際に、友人と呼べる者の数は多い。年上からは大抵、可愛がられ、年下からもわりと慕われる。特に誰かから嫌われたこともない。

 特定の、同性の友人―柏木薫や、速水麻耶などからは友情以上の気持ち―恋愛感情に限りなく近いもの―を自分が抱かれているということも、分かっている。同性でさえこうなのだ。まして異性から、私はどのようにみられているか。   

 …特に、看護の緒方浩二。彼が私を、我が女神と崇め、恋しているということ、さりげなくかわしてきたが気づいていないわけがない。彼女もちの黒井丈次はまた別であろう。しかし彼もまた、私に特別な執着を抱いているというのはいやでも分かる。

私はそんな、大した人間じゃないのに。私は、そのように完璧な女ではない。

 薫に、麻耶に。浩二に、黒井丈次に、そして恋人にいくら愛されても、いや逆に、彼らから愛されれば愛されるほど、私は虚しくなるのだ。私は、彼らが思い描いているような、完璧なヒロインじゃないのに。


 薫は高校まで、ずっと苛められ、孤立し続けてきた。彼女いわく、初めて手を差しのべたのが私であったという。だから彼女の私に対する愛情は、半端ではない。

 大学では、さすがに苛められなくなったようである。まあ、人を救う医療の道を進もうという者が、人を苛めるというのはよろしくない。

 ところがこの大学においても、苛めというものは存在するのであった。

 いや、これは苛めとは少し違うのかもしれない。

 ことの発端はMT(臨床検査技師)科で、軽音とクロスワールド(先述の国際ボランティアサークル)に所属する、一人の男子学生が緒方浩二を、嫌ったことである。

きっかけは、おそらく一年の三月、クロスワールドで行ったカンボジアであろう。私はこの二人とはカンボジアへ行く日程が異なっていたので、そこで何があったかは分からない。それ以前にも、ひょっとしたら何か問題があったのかもしれない。だが少なくとも翌年、今年もカンボジアへ行くか、となったとき、そのMTの彼は、

「あいつ(=浩二)がいるから、俺は行かない」と、言っていた…

 その彼一人が緒方浩二を嫌っているだけなら、まだよかったのだ。問題は、その二人が所属し、私も所属している軽音とクロスワールドも、浩二と日高茂をめぐる問題で―というより、浩二派とアンチ浩二派で、二分してしまったことである。

 軽音では、浩二はサークル長であった。彼は先輩、特に女の先輩達からは好かれているらしい。だから指名されたのである。

 しかし、同級生と後輩からは、そうでもなかった。中には、彼に好意を持つ者もいたが、少なくとも私の周りの者は皆、浩二を良く言わなかった。

 軽音の部室は、一室しかない。しかし部員は、バンドは、たくさんある。そこをいつ、誰が使うか、というのは、重大な問題である。浩二はそこのところを、上手く調整出来なかったのだ。これが、軽音内に敵を多くした一因であろう。他にも、五月の学園祭ライブや、三月にライブハウスを貸し切って行われる卒業ライブで、采配を上手に出来なかった、ということもある。

 私と同学年で軽音に、看護学部の三田晴美という者がいた。彼女は保健師課程でもあるのだが、その授業と、浩二が計画した卒業ライブリハーサルとの調整が全くつかず、

「浩二は保健師の忙しさをまるで分っていない」と、文句を言っていた。

 クロスワールドの薫や、黒井丈次、おりんも保健師課程であった。そして彼らが、看護学科の一学年三百数人中二十二人、成績上位者のみが選択することを許された、看護のみの者達よりもはるかに授業時間の多い(その分学費は多くかかるが)保健師課程であることを鼻にかけるような態度を、無意識のうちとはいえ、保健師でない浩二に対してとっていたということは、紛れもない事実である。

「保健師がそんなに偉いのか」浩二の本音を叩けば、そんなところであろう。

 緒方浩二は決して、悪い男ではない。要は、リーダーに向いていない、というだけなのだ。慣れない権力の衣を着せられて喘いでいる、というのが実際のところであろう。

 人の上に立つ者は、嫌われる。上に立つ者がどれほど努力しようとも、ある程度大きな組織の中には色々な者がいるから、中にはどうしても価値観が合わない、という者もいよう。組織の上に立つ者が、その全員に好かれる、ということは、ありえない。

 私や薫が三年の時(と言っても私は二年で辞めていたが)のクロスワールドのリーダー、彼女は私と同じOTなのでよく知っているのだが、とても穏やかで、面倒見もよく、リーダーにふさわしい人物であった。その彼女にでさえ、彼女がリーダーであることを快く思わず、悪く言う人がいた…それは主には、柏木薫なのであるが。

 先代のリーダーも、散々叩かれていた。さらにその次のリーダーとなる後輩は、クロスワールドの活動全体に対する思いが人一倍熱く、それ故時期リーダーに選ばれた。ところが彼女の代の他の同期は、お遊び感覚で活動に参加している者が多い。彼女の熱血は、同期達にしてみれば重いものがあったのであろう。そのことを本人も自覚していて、学園祭スタッフの引継ぎの時、私に、

「自分は絶対クロスワールドの同期達に嫌われていると思う」とこぼしていた…

 そういえば私達の代―私が大学二、三年の時―の自治会長も、他の自治会メンバーから

「仕事が遅い」などと叩かれていた…このことも、自治会に友人がいたので、それはまあ黒井丈次なのであるが、彼から聞いて知っていた。

 人は自らの上に立ち、全体を取りまとめ、引っ張ってくれる強力なリーダーを求めていながら、いざリーダーとなる者が現れると、出る杭は打たんとばかりその者を叩きのめす。それが古からの、人の世のさだめだ。人の上に立つ者は、常に孤独なもの…リーダーというものになったことが無く、従って上に立つ者の孤独を知らない私は、幸福なのであろう。

 話を緒方浩二に戻そう。クロスワールドの面々も、こちらは軽音ほど露骨ではなかったが、彼を快く思ってはいなかった。浩二はこちらでも迷走しており、それについておりんや、麻耶はともかく、後輩達は良い顔をしていなかった。黒井丈次も、

「あいつとは分かり合えん」と、彼を嫌っていた。

 勿論、大学生にもなって、まして皆、医療従事者となる者である。露骨に浩二を苛めはしなかった。陰で、彼の悪口を言い合うだけだ。

 実際に、黒井丈次達は表面上、浩二と仲良くやっていた。人の心の裏を読むことを知らぬ彼が、無邪気に彼らを慕うさまはあわれを誘う。

 バイト先のレストランでも、似たようなことがあった。バイトの同僚の一人が、同じく同僚である人を嫌っていた。この二人、表面上は親友かと思うほど仲良くやっていたのだ。しかし一人は陰で散々、もう一方について悪く言っていたのである。ところがその悪口を言われている方は、何の疑いもなく自分の悪口を言っている者を慕っているのである…見るに、耐えられない。このバイトは一年とちょっとで辞めたが、その理由は何も、私の都合も構わず、シフトを勝手に入れられるからだけではない。

 ああ、汚い、汚い。何とこの人間社会は、汚れているのか。人間の心ほど勝手で、醜く愚かで、危ういものはない。人を、社会を知れば知るほど、失望、幻滅する。

 私はこういった問題に関しては、中立の立場をとり続けてきた。だが緒方浩二に関して、彼を嫌う者達の言い分も理解出来るのである。

 苛められる方にも、それなりの理由があると思っている。浩二にも薫にも、人から嫌われるだけの理由はある。

 思い込みが激しく、強情かつ独善的。繊細で傷つき易く、小心者のくせにプライドだけは高い。見栄っ張りの、ナルシスト…浩二のほうは多少素直な分、まだ多少の救いはあるかもしれぬ。

 薫の育ちの暗さは先に触れたとおりだが、緒方浩二のほうも彼が中学生の時、双子の姉を白血病で喪うという暗い過去を負っているということは、心に留めておくべきであろうか。

 ところで柏木薫は、何故か緒方浩二のことが好きなのである。元彼に振られてほどなくしてから、それはもう盲目的に熱を上げているのである。

 似たもの同士、なかなか似合いのカップルかもしれない。けれども浩二は告白してきた薫を、袖にしたのであった。

 しかしそれでも、まだ薫は浩二に恋しているのである。

 信じられぬ。一体、彼のどこがそんなに良いのだ?

 そう問うたら、薫から

「信じられない。彼の、一体どこがいけないのよ?」逆に、問われてしまった。

「何故って…皆、彼のことを悪く言うよ?」私が言うと、薫は、

「知っている」と、鼻を鳴らした。

「春休みの保健師課程で、サンタマリア(三田晴美のこと、軽音)と丈次が、彼の悪口を散々言っていた…彼らの言い分は私も、分からんくはない」と、ここで一旦言葉を切ってから、

「でも、ねえ…」薫は続ける。

「あんないい男、他にいないよ?」

「…どこが?あんたの元彼達の方が、ずっとイケメンじゃない」私は、ややあきれつつ訊ねる。緒方浩二の、一体どこが彼女が以前月夜の品定めで語った、色気ある男像に相当するのであろうか?

 薫はその瞳を見開き、片方の眉を吊り上げて、

「イケメンでしょ?…少なくとも、あんたの加藤茂よりは」と、声を一オクターブ高めて言った…加藤茂とは、私の現在の恋人で、同大学の医学生である。かつての、八歳年上の恋人とは、大分前に別れていた。

 薫は満面の笑みで、瞳をギラギラとさせて、惚れた男の魅力を語り始める。

「まず、身長は、私なら百六十八、九センチあれば十分いける。体つきはそこそこがっしりとしていて、デブでもマッチョでも痩せぎすでもない。就職は、将来看護師だから絶対安定。一人暮らしで、料理も出来る。頭もそこまで悪くないし、性格は、まあ、空気読めないとこもあるけど優しくて、それなりのユーモアもある。何と言っても、ドラマーだしね」

 「ドラマー」は、特に強調されていた。やはりポイントはそこであったか。

 「それにそれに」薫は大変に興奮しており、息が荒い。

「彼、高校時代、弓道部だったっていうのよ!」そこも、萌えポイントであったか…そういえば彼女の、元彼達も弓道部であった。

 薫は、なおも語り続ける。彼女は、もうすっかり自分の世界に入っていた。

「西訛りの言葉(三重弁)話して…完璧じゃん。ああもう、これで一人称が我輩であったら言うことないわ」

「…三重弁と我輩は、両立しないでしょ。っていうかあの年で我輩言っていたら引くわ」私は、もうすっかりドン引きであった。

「この前、休み明けで久しぶりに彼を見たけど、ああ、相変わらず何てエロくて、良い男なの、って思ったよ。二十五歳以下の男は経験浅くて、自分本位で色気に乏しい、と思っていたんだけどねえ。なかなかどうして、彼は…テクニシャンなんじゃない?って、感じるよ。彼を、見ている限り。もう、彼女にはなれなくてもいいから、一度でもいいから、彼に抱かれたい。寝たい…」その、薫の、残酷な欲望にぎらついた眼を見て私は、背筋にぞっと冷たいものが走った…


 加藤茂とは、小学校以来の幼なじみだ。彼は一浪してこの大学の医学部医学科に入ったので、年は同じでも学年は私より一つ下になる。

 前の恋人とのことは隠しおおせたのであるが、さすがに今回は、同じ大学内でのことなので加藤茂との関係は、あっ、とも言わないうちに皆に知れ渡ってしまった。薫をはじめとする、私に恋する面々が、悔しがったことは言うまでもない。

 我が新恋人、加藤茂は、容姿はともかくとしてその性格は、この上なく善良なのである。ベッドの中では、まあ想定の範囲内ではあるのだが、さほど情熱的ではなかったが。

 茂は、小児がんのサバイバー(回復者)である。だからこそ、医の道を志したという。彼もまた人生の憂き目に、しかもかなり人生の初めの方で遭っているのであった。

 そして彼は小学校時代からずっと、クラス委員を務めていた。恐ろしく勉強の出来る彼のことを直接苛めるものは誰もいなかったが、それでも周りには彼を快く思わぬ者もたくさんいたであろう。彼は人の上に立つ孤独をも、知っているのである。

 茂も私に対し、君は幸福だという。そうかもしれぬ。肉親を失った経験もなければ、大病をしたこともない。身近に、病や障害で苦しむ者もいない。上に立つ者の、孤独も知らぬ。

 家族も友人もいて、恋人、しかも医者の卵―もいて。傍から見れば、私の境遇は幸福そのものなのであろうか。きっと、そうなのだろう…

 ならばこの、胸にぽっかりと開いた、虚無感は一体何なのだ。


 薫の私に対する執着心は、年々重くなる一方であった。

 私は、薫のことが好きであった。柏木薫という人は、無口かつ非社交的、確かに誤解されやすい性格ではある。

 しかし彼女は、私にはないものを持っている。

 暗い過去の傷を隠してほほ笑む強さ、優しさ。やるべきことを後回しにせず、先へ先へ、計画的に進めることの出来る、ストイックさ。孤立を厭わず、たとえ一人きりであっても自分がやりたい道を、突き進む強さ。周囲に流されぬ断固たる信念、情熱。なかなか他人と打ち解けぬ性格だが、一度信頼した者に対しては、自分からは決して裏切らぬ、義理堅さ。

 私は、彼女のようにはなれぬ。まず、隠すべき暗い過去が無い。課題は、いつも後回しにしてしまう。期限直前になって初めて焦る、「ギリギリ族」と言われる所以である。

 友人と一緒でなければ、何も出来ぬ。常に、人から嫌われまい、人に好かれようと、人の顔色を窺ってしまう。確かな信念も、何かに懸ける情熱も、無い。

 このOTという道も、両親に勧められるままに進んだ。大学も、両親や教師の言うとおりに受験した。

 幼少時に習っていたバレエやピアノ、スイミング。剣道という中高時代の部活も、大学になって入ったサークル、軽音もクロスワールドもテニスも、全て親や友人達の意見に、流されるがまま選択した。

 友人や恋人との遊びや食事、旅行についても、自分から誘ったことも、行き先を積極的に提案したこともない。たまに都合がつかず断ったり、どうしても嫌なときは反対することもあるが、大抵は友人達の意見に合わせている。これといったやりたいこと、好きなものもないのだ。

 友人や恋人とて、いつも勝手に群がってくる。決して、私の方からすり寄ってきたわけでは、ない…柏木薫を、除いては。

 そう、私の人生、全て受け身。私にはこれといってはっきりした、やりたいことが無いのだ。断固たる自分の信念、意志というものが、無いのだ。受動態、周囲に流されるがままに流される。そう、まるで意思を持たぬ、人形のように。

 だから、薫が羨ましいのである。自分で考え、自分で行動することの出来る、彼女が。人に媚びを売ることを嫌い、非妥協的で、決して自らの感情を、信念を偽ろうとしない。たった一人でも、生きてゆこうとする、強さが。冷めているようで芯は誰よりも熱く燃えている、その情熱、激しさが。

 私は、中学三年の時に初めて同じクラスになって以来、薫のことが気になっていた。彼女に、惹かれていた。初めて私が好意を抱き、自ら歩み寄ろうとした人、それが彼女で

あった。

 薫もまた、私を好いていた。けれどもその好意が年を追うごとに深まるにつれ、私の中で彼女の存在が、重荷となっていった。


 薫は一見図太いようでいて、実は大変繊細で傷つきやすく、脆いところがあった。自分が他人に何と思われようと構わない、一人でも生きていける、そう振る舞っているようでいて、実際は誰よりも寂しがり屋で、自分が他人にどう思われているかということを、とても気にしていた。

 薫には元から感情の起伏が激しく、不安定なところがあった。その情緒の不安定さが、私が加藤茂と付き合いだして以来、より顕著となった。さらに三年後期から始まった看護の各論実習が、彼女の脆い精神に、大いなる打撃を与えた。

 実習中、患者との関係性に行き詰っていた薫に対し、私はアドバイスをした。自分が心を開かなければ、患者も心を開かないと。ところが彼女は、私の言葉に大いに反発した。

 自分は患者に心を閉ざしてなどいない、と言うのである。その一方で、他人に心を開く必要性が、分からぬと言うのである。自分を、他人にさらけ出したくないと言うのである。

 薫は、私のことが大嫌いだと言った。私の八方美人なところが、昔から大嫌いだったと言った。

売り言葉に買い言葉であった。私も、薫のことが大嫌いだと言ってしまった。

 自分が言ってしまったことに後悔しても、もはや後の祭りであった。薫は、永遠に私のもとを去って行ってしまった。

 薫と私の共通の友人が、薫とよりを戻すよう頼み、仲立ちまで申し出てくれた。だが私には、彼女と再び仲良くやっていく自信がなかった。仲直りは、出来たかもしれぬ。だが二人の友情は、もはや、決して以前と同じにはならない。


 「ごめんなさい、ごめんなさい…!光莉…許して、お願い。許して、ちょうだい…!」あの、口論の日から四か月。薫がようやく謝罪してきた。もっと早く謝ってきてくれれば、ひょっとしたら許してやったかもしれないのに、何を今更…

 大学内の、学生駐車場。夕暮れ時で、辺りはもうほの暗くなってきていた。差し込んでくる西日が遅咲きの、満開の桜を照らす。

 私の車の前で膝をつき、涙に濡れた熱っぽい瞳でこちらを見上げ、哀願する薫に対し、

「言うだけ無駄」私は、冷ややかな瞳で彼女を見据え、そう言い放った。

 「そんな…お願い、光莉。聞いて…!」なおも訴えかける薫の顔は、苦痛に歪んでいた。プライド高く、自分の非を認めることが大嫌いな彼女のことだ。こうして私に謝る決意をするまでには、相当な葛藤があったに違いない―悲痛そのものの表情で許しを請う彼女の姿を見ると、気が弱くなってつい、全て許してしまいそうになる。

 が―私は、あの時の薫の瞳に浮かんだ、私に対する残忍な、冷たい憎しみの炎を思い出していた。そして、私の中に芽生えた、薫に対するどす黒い、嫌悪の情も。一度生まれた、互いに対する憎しみの情はどんなにつくろったとしても決して、消せはしない。二人の仲は、二度と元には戻らぬのだ―

 私の車のドアの前に跪き、どこうとしない薫に対して私は、

「どいてくれない?邪魔」と言った。

 すると彼女は、ぬらりと立ち上がった。

「そ、う…」低く、まるで感情のこもっていない声が、薫の口から聞こえた。もはや、その瞳からは何の感情も読み取れぬ。その顔は、能面のごとく無表情であった。その口がものを言わなければ、その身体が動かなければ、人形だと言われても驚かなかったであろう。むしろそこに、生きた人間がいるということの方が驚きであった。

薫の中からは、感情という感情が消え去ったかのようであった。ただ一つの念を、除いては。

「許して、くれないのなら…愛して、くれないなら…」

「殺すのか?」私は静かに言い、不敵の笑みを浮かべた。そう口にして初めて、私は自分が今日まで生きてきた意味を悟った。

 私は死ぬためにこの世に生まれてきたのだ―柏木薫に、殺されるために生まれてきたのだ。それを知って、私は生まれて初めて、ああ生きている、と強く思った。生の実感を、初めて味わったのである。

 私の言葉に反応して、薫が

「殺して、やる…」手を、私の首にかけた…

 剣道とテニスで鍛えたこの手は、薫の軟弱な手など、簡単にひねりつぶすことが出来たであろう。けれども、私はそうしなかった。

 この浮き世は、十二分に味わい尽くした。二十一の女盛りで、愛する者の手によって

死ねるのならば本望だ…この世にはもう、何の未練もありはせぬ。

 降りしきる花びらの中、私は永遠に美しいまま散り逝くのだ…そう、この桜の花のように。

 私は瞳を見開き、首を絞められながらもじっと、薫を見つめ続けていた。薫も、瞬き一つせず、私の瞳を見つめ続けたまま私の首を絞めていた…

 薫。あなたは、私に対して寂しいと言った。辛いと言った。悲しいと言った。自分は誰からも理解されず、孤独だと言った。

 けれども、薫。私も、私の方があなたよりもずっと、寂しかった。辛かった。悲しかった。誰からも真に理解されず、孤独だった。だから、私はあなたに惹かれた。あなたは、私と同じ…もう一人の、完璧な私。

 薫、薫。愛しい、薫。私はあなたの手によって、あなたの手の中で死ぬ。目の前で、私を殺すあなたの魂よりも、あなたを置いてあの世へと、別れ逝く私の魂の方がずっと、悲しい…

 薫、薫、薫。愛しているよ、薫…



 光莉が完全に息絶えたと知ると、薫は彼女の首からその手を放した。薫の瞳に、元の、人間らしい感情が戻る。

 そして、もはや物言わぬ存在となった光莉の、死してなお美しい身体を、薫はかき抱いた。

「光莉、光莉、光莉…!」激しくその身体を抱きしめ、薫は慟哭する。

「ああ、これでやっと…やっと、あなたは私だけのものになった…!もう、誰にも渡しはしない。加藤茂にも、麻耶にも、丈次にも。浩二、にも…」

 残忍な、しかし幸福に満ちたりた思いで、薫は泣き笑いしていた。

 瞳を見開いたまま息絶えた光莉のそれを閉じてやると、彼女もまた、笑っているようであった。

 日は、ゆっくりと沈みゆく。桜は風に舞い、散ってゆく。それは実に美しい光景であった。

登場人物紹介

土師光莉はしひかり

 この物語の主人公。

 薫とは中学三年の時からの親友。高校、大学も同じ。大学では医学部リハビリテーション学科OT(作業療法士)専攻。

容姿端麗、頭脳明晰、成績優秀、運動神経抜群、おまけに性格も良い、まさに「完璧なヒロイン」。男女問わず多くの者から慕われるも、内心ではそんな恵まれ過ぎた状態に虚無感を抱いていた。


柏木薫かしわぎかおる

 光莉の友人。

 十四歳で土師光莉に出会うまで、友人と呼べる存在は一人もいなかった。高校時代には恋人はいたこともあったが、やはり友人は光莉のみで弁当は一人で食べていた。大学生になって以降は光莉以外にも友人を見つけるも、やはり「親友」は彼女ただ一人であり、彼女へ過剰に依存するようになる。


緒方浩二おがたこうじ

 薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」、軽音、ソフトテニスサークル所属。軽音サークルでは部長を務めるが、同級生、後輩からの評判はいまいちであった。


速水麻耶はやみまや

 薫、光莉の大学の同級生で、医学部リハビリテーション学科PT(理学療法士)専攻。国際ボランティアサークル「クロスワールド」、ソフトテニスサークル所属にしており、光莉の友人。


藤井佳織ふじいかおり

 薫、光莉より一学年上の看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」の先輩。薫、光莉とは仲が良い。通称は「おりん」。



加藤茂かとうしげる

 光莉の幼なじみで恋人。医学生。光莉と同い年だが、一浪したため大学の学年は一つ下。


三田晴美みたはるみ

 薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。軽音サークル所属。


黒井丈次くろいじょうじ

 薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。ただし、年齢は薫達より三、四歳年上で留学、社会人経験もある。


阿部真佐季あべまさき

 薫、光莉の大学の同級生で、医学部リハビリテーション学科OT(作業療法士)専攻。国際ボランティアサークル「クロスワールド」に所属しており、光莉の友人。


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 と、いうことで小説「私を見捨てないで~Please love me.」完結です。

 つたないところ、分かりにくい・読みにくいところ等多々あったと思いますが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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