自分を、せめるな
他者から見た柏木薫と土師光莉の関係性。二人は、いったいどのような関係だったのか?
他者から薫は、どのようにみられていたのか?
薫と光莉の意外なつながりも明らかに…!
とある病院の職員食堂。昼休み、看護師達がテーブルに集まり噂話に興じる。
「あの、越智さんを振るなんて」
「柏木君も薄情な…今まで八年も付き合ってきて、同棲までしていた、彼女のどこが気に入らないというの?二年間の、彼の青年海外協力隊時代も、遠距離恋愛を続けてきたというのに…」
「あんな、十いくつも年下の女の子と…」
「一体、あんな子のどこがいいの?ただ幼いばかりの、頼りないお子ちゃまじゃない」
「柏木さんより六歳年上だけど、越智葉子さんの方がずっと美人で、性格も落ち着いていて、仕事もできて。完璧じゃなかったですか。どうして…」
「本当に、ねえ…」
彼女達は口々に語り合う。噂の主は最近、職場の先輩看護師、越智葉子と別れて、十一も年下のバレエダンサーと付き合いだした、男性看護師柏木太一であった。
三十八歳の越智葉子は間もなく大企業の会社員と見合いで結婚し、柏木太一の方もその一年後、例のバレエダンサーとできちゃった結婚をした。
それから、二十数年後―
某私立医科大学。八月、期末試験が終わり明日から夏休みという日、テニスコートで何人かの学生がテニスに興じていた。その近くの木陰で、テニスに疲れた二十歳そこそこの男女四人が涼んでいた。
「それにしても」口を開いたのはたれ目にショートカットの女学生、医学部理学療法(PT)科所属の速水麻耶であった。彼女は隣に座る、茶色がかった長髪を一つにまとめている女学生に話しかけていた。
「学部中、いや大学中の男は泣いているね。天下の土師光莉の心を射止めた男が、よりによってあの加藤茂だなんて」
そう麻耶に言われた本人、土師光莉は、
「そう?」と、屈託のない笑みを浮かべる。
「かっこいいでしょ?茂君」
「…光莉の目には、そう見えるんだ?」あばたもえくぼ、とはよく言ったものだ。客観的に見れば、加藤茂はチビのデブで、お世辞にもイケメンとは言えなかった。
土師光莉は学年一、いや、大学一の美女であった。医学部作業療法(OT)科の三年生である。相手の加藤茂は彼女と同い年で、同じ中学の同級生、一浪して医学部医学科の二年生であった。
「浩二君も、泣いている男の一人じゃない?」と、そこにいたもう一人の女子学生、小武香が、同じくこの場にいた黒一点、緒方浩二に話しかける。二人はともに、看護学部の三年である。
小武の言葉に浩二は何も答えず、あいまいな笑みを浮かべた。しかしそれが、すべてを物語っていた。
「俺は、光莉ちゃんは、レズなのかと思ったよ」浩二が言う。
「私は、浩二君はゲイなのかと思ったよ」光莉が、まぜっかえす。
「何だって?」と、浩二。その場にいた他の皆は、笑い転げる。
笑いながら、小武は
「まあ、浩二君が光莉ちゃんはレズかもって思ったのは、分からんくもないよ。私みたいな、ブスならともかく、こんな美人が、この年まで男っ気無しだった、っていうのは…」と言う。
「…レズで思い出したけど」と、麻耶。
「光莉が加藤君と付き合いだして、誰よりも泣いているのは柏木薫かもしれないね」
「…あの子は、レズじゃないだろ」麻耶の言葉に浩二が、反論する。彼はつい四、五か月前、柏木薫に告白され、そして彼女を振っているのだ…
「もちろん、あの子はレズじゃない…でも、光莉に対して、友情以上の感情を持っているのは確かじゃない?薫が去年、免疫後半にあれほど執着したのは、何も浩二君のせいだけじゃない」『免疫後半』とは土師光莉、速水麻耶、緒方浩二、柏木薫が所属する国際ボランティアサークル『クロスワールド』で、カンボジアの小学校で行う保健衛生指導の、授業内容の一つである。光莉と浩二と麻耶は、この授業の担当であった。薫は本来しらみの授業担当であったにもかかわらず、彼らが頼りなかったこともあり、何かというと免疫後半のメンバーに口出ししていた。
「柏木薫ちゃんって、どんな子?私、後期からの実習でその子とグループ一緒なんだけど」小武香が尋ねる。彼女はクロスワールドに所属しておらず、また柏木薫の方もテニスサークルに所属していなかったこともあってよく知らなかったのだ。
小武の問いに、麻耶と浩二は何と答えてよいか分からず、顔を見合わせた。光莉の方が、
「いい子だよ。とっても。気が強いけど、傷付きやすくて…誤解されやすい子だけれども、本当は優しくて、情熱的で…」と答えた。
三年後期から四年前期にかけて約一年、看護学部の学生は成人急性(外科)、成人慢性(内科)、精神(科)、老年(老人科)、小児(科)、在宅(訪問看護)、母性(産科)の各領域実習を行う。一つの領域あたりの実習期間は三週間(小児は保育園一週間+病棟二週間、老年は病棟三週間+介護施設一週間、在宅は二週間、母性は助産所一週間+病棟二週間)である。例外はあるが、基本的にこの、約一年間の実習は五~六人で構成された、毎回同じ実習グループで行われる。
小武と薫は、保健師養成課程を専攻していた。保健師課程は看護学部百三十人中二十二人、二年前期までの成績上位者(の中の希望者)で構成された、選ばれし者である。保健師課程は基本、保健師課程のメンバーのみで看護実習グループが構成されていた(一部、保健師課程でない留年者が加わるところもあった)。彼女達の実習グループは、保健師課程の女子六人のみで構成されていた。
彼女達の最初の実習は、小児の保育園であった。ちなみに、すべての看護学生が一度に同じ実習を行うわけではない。そのようなことをしたら、病棟がいくつあっても足りないからだ。一グループあたり一病棟、基本三つの病院、病棟に分かれて三グループが一度に同じ領域の実習を行う。小武と薫は緒方浩二とは同じ実習グループではない(彼は保健師課程ではない)が、同じ時期に同じ領域の実習を行うというグループ編成であった。
保育園実習は、楽しかった。実習グループメンバーの仲は、最初から極めて良好であった。「かおる」が二人いたため、彼女達は小武香を「武ちゃん」もしくは「武」、「お武」と呼び、柏木薫を「薫」と呼んで区別していた。柏木薫は小武香を「お武」と呼び、小武香は柏木薫を「薫ちゃん」と呼んだ(よって、以後小武香を「お武」と表記する)。
保育園での実習が終わった、木曜日(最後の金曜日は学内)。彼女達五人(一人は、親からハヤシライスのルーを買ってくることを頼まれて帰っていった)は連れ立ってオムライスを食べに行った。
「この時点で打ち上げしているのうちらだけだよね」そう、語り合った。もっとも、アルコールは入っていなかったが。
ところが翌週からの小児病棟実習で、薫は体調を崩した。咳と鼻汁、さらに微熱まで出してフラフラになりながらも―小児外来実習では倒れそうになりながらも―休むことなく彼女は病棟に通っていた。単位のために。
日曜日の夜、薫のもとに一通のメールが届いた。お武からであった。
「薫ちゃん体調大丈夫?無理しないでね。明日からも頑張っていこう!」その文章を、薫は感慨深く眺めていた…
次は成人急性期の実習であった。ここでは、記録の量が多かった。ギリギリ族(記録や課題を、ギリギリになるまでやらない者)であるお武は、やはり記録を溜めてしまい、最終日までとても苦労していた。というかこのグループ、薫を除いて皆ギリギリ族であった。
この実習では最終二日間学内で、文献を用いてレポートを四枚、まとめることになっていた。しかもそのレポートは手書きであった。さらに今回、祝日があった関係で通常最終二日間ある学内日は実質一日のみであった。したがってそのレポート作成期間も一日であった。皆、そのレポートに四苦八苦していた。
レポート用紙には何種類かあるが、一番少ない行数のものに、いかに大きな字で書いてレポートを埋めるか、ということがポイントであった。
「ね、どこまでいった?」
「三枚目の一行目」
「え、あとちょっとで終わるじゃん」
「うん。あと一枚と、半分以上ね…半分は、参考文献書いときゃいいよね?」
「もう、レポート用紙の両端空けて書いてる」
「あ、それいい」
「空間の魔術師、みたいな」
「某リフォーム番組か!」と、このような会話が、急性期実習を受けている学生十八人(一グループ六人×三)のために開放されている、ゼミ室内を飛び交う。パソコンが使えればパソコンのある所へ各自散るのだが、手書きであるが故にほとんど全員、そこのゼミ室に固まっていた。
「ああ、もう寝て、起きたら全部実習が終わっていて、クリスマスだったらいいのに(クリスマスごろに、とりあえず三年の実習は一区切りつく。また四年の五月から始まるけど)。なんかいつの間にか実習終わっていて、三か月分(実習分)の知識だけはある、みたいな」一人の男子が、そんなことをつぶやく。
「なに、そのおめでたい考え」
「もしそうだったらかなりのクリスマスプレゼントだよね」
「いや、もうそれ最高のプレゼントじゃん!」彼のおめでたい発言に皆、口々に突っ込み笑う。ささやかな現実逃避である。
そのような中、一人
「終わった…」とつぶやく者がいた。誰であろう、柏木薫である。
「え、レポート?もう終わったの?」
「いや、もう提出する記録全部」薫は答える。彼女の言葉に、皆あきれるやら妬ましいやら、自分のことで精一杯になっていて人のことまで気が回らないやらで、
「おめでとう」と答えた者は一人しかいなかった。その言葉にも、あまり感情はこもっていなかった。何せ皆、昼食の時間も惜しんでレポートに取り組んでいるのである。薫は、しっかり食べたけれども。
「え、誰か他に終わる人いないの?ウタとかは?ずいぶん早くから取り組んでいたよね?」
「…いや、まだ全然終わっていない…」薫の言葉に彼女、歌橋亜弓は答える。
「あー、もう早いけど提出してこようかな」その薫の発言に、レポートが全く進んでいないお武は、
「殺してやる!」と、思ったのだという…
「あんたら馬鹿ぁ?コツコツやってれば、これくらいすぐ終わるっしょ」薫は言う。
「…そんなこと言うなら薫、実習指導の先生にお礼のお菓子でも買ってきてよ」実習メンバーの一人が言う。小児実習の時も、担当の先生に最終日、皆で選んだお菓子をお礼として渡したのだ。
「えー、あの人に?いらんくない?」と、薫。彼女達の実習指導の先生は口が悪く厳しい人で、メンバー内での評判は良くなかった。お武など、先生に会いたくないが故に実習中、トイレに長時間こもっていたこともあったという。もっとも、薫の方は何故か比較的、彼女に気に入られていたが。
「…リーダー(薫は急性期実習においてグループのリーダーを務めていた。リーダーは実習領域ごとに変える)がそう言うなら、買わなくていいよ」
「…分かった。買ってくるよ、お菓子。ついでにここにいる皆の分もね」そう言って、薫は売店へ向かった。そしてその言葉通り、先生の分のパウンドケーキ一個と、十二個入りのチョコレート菓子を買い、ゼミ室にいた皆に配った。誤算だったのは、彼女が出ている間にゼミ室にいた人数が十二人(薫除いて。もともと薫は食べる気がなかった)から十三人になっていて、その人の分のため、もう一個同じ菓子を買いに行かなければならなかったことである…
そう、薫はゼミ室にいた全員に菓子を配ったのである。何故か。そこに緒方浩二もいたからである。
他にも、誰かが糊やハサミ、穴開けパンチがないと言えば快く貸し出した。
「薫、ただ記録が早く終わっただけなのにどんだけ皆に尽くすの?」そう、彼女に話しかけた者もいる。
最終提出期限は十六時であった。薫、お武らの実習指導の先生は
「十六時までしか受け付けませんよ」と前々から彼女達に対して宣言していた。
記録は紐で閉じ、封筒に入れて提出することになっていた。十六時五分前、薫をはじめとするグループの面々は大慌てで一番遅れていたお武の記録を紐で閉じる作業を手伝った。「皆、ほんとごめんね~」お武は謝る。
そして皆、先生の研究室へと走る。走りながら薫は、笑っていた。この後には、打ち明けの焼肉と、カラオケが待っている。大変な状況ではあったが彼女はそこに、グループで一致団結して危険に立ち向かう喜び、楽しさをひしひしと味わっていたのだ…
精神科実習は、変則的なグループ編成となる。薫達のグループは、二人ずつに別れてそれぞれ別の病院・病棟に行くことになっていた。
しかし幸い(?)お武と薫は同じグループであった。この精神科実習で、二人の仲はより一層深まることになる。
「…ねえ、お武」最寄りの駅から病院までは、十分ほどの距離があった。朝、駅から病院へと向かう道すがら、薫がお武に話しかける。
「実習最終週の学内、午前で終わるじゃん?だから、その時…どっか、ランチでも食べに行かない?」
「いいよ」お武は、快く答える。
「でもさ、その時慢性の事前課題あるじゃん?」と、お武。
すると、薫は怪訝な表情を浮かべてこう言った。
「あんた馬鹿?そんなの、夏休み中に終わっているよ…」
精神科では、身体拘束の体験も行われた。一人の学生が患者役となり、興奮状態となって暴れる(演技)。それを他の学生達で押さえつけ、患者役の学生に拘束具を取りつける、という演習であった。
患者役には、薫が自ら志望した。
「いやああっ!もうイヤ、イヤ、イヤッ、ツライ!キライ、キライ、大っキライ!」そう叫び、髪を振り乱し荒れる薫の姿には、神鬼迫るものがあった…
「やめて…!イヤ、ツライ、離せ!痛い!やめて、殺す、イヤ、イヤ、イヤアッ!」他の皆は必死になって、抵抗する彼女を取り押さえていた…
精神領域実習最終日は、記録も終わり皆でストレングス(強み)カードで遊んだ。一人が後ろを向き、その間に他の皆はその人のストレングスだと思うこと、例えばおおらかさだとか協調性、リーダーシップ、笑顔、人生を楽しんでいる、友達が多い、などだ。一枚のカードにつき一つのストレングスが書かれている。それを一人一枚ずつ選ぶ。全員が選び終わったところで後ろ向きになっていた人に振り返ってもらい、それぞれ選んだカードを見せてなぜ自分がそれを選んだのか発表する、というゲームだ。それを一人一人繰り返す。
お武が薫のストレングスとして選んだカードは、「自分の意見が言える」であった。
「え、何でそれ?一番ないカードだと思った」薫は驚く。
「そう?確かに、普段はあんまりしゃべらないけど薫ちゃん、言いたいことは割とはっきり言うよね?カンファレンスの時とかさ」と、お武。
「えー、カンファの時とか全然ダメじゃん、私。口下手でさ…何かいつも、自分でも言っていて訳分かんないなって思いながらしゃべっている」と、薫。
「そんなことはないよ」
「うん、言いたいことは伝わってくる」
「そうそう、思っていることがあって、一生懸命表現しようとしているってことは分かる。ただ、アウトプットが上手くいかないんだなってのが」お武の言葉に、他の皆も口々に同意する。彼らの言葉に薫は呆然と瞳を、見開いていた…
病棟実習中、昼食は同じグループでも患者や病棟の都合に合わせ、それぞれバラバラの時間帯で摂ることが多い。しかし成人慢性期実習の病棟実習初日、お武と薫は共に昼食を摂ることとなった。
「武、この唐揚げあげるよ」そう言って薫が、弁当の中に入っていた唐揚げを差し出す。彼女の弁当は、実習期間中は祖母が作ってくれていた。
「え、いいの?」
「うん。急性の時に美味そうって言っていたでしょ、これ。精神じゃ食堂だったし…良かった、今日一緒に昼休憩に入れて」
「わーん、ありがとう薫ちゃん。愛してる!」
慢性期実習二週目の水曜日。一日の実習を終え、お武はようやく帰ろうとロッカールームで着替えていた。と、ロッカールームの扉が開き、今にも泣かんばかりの形相で薫が飛び込んできた。
「お武ぇ~」と、薫が泣きつく。
「ど、どうした?」
「インシデント(医療事故発生・発生未遂)レポート!二枚!」薫が叫ぶ。
「患者が、いけないのよ。一人で歩いちゃ駄目で、看護師の付き添いが必ず必要なのに、勝手に『もう大丈夫だから』ってトイレに行こうとして…離床センサが切れていたから、ほんとにもう大丈夫なのかもって一瞬思った私もそりゃ、悪かったけど…でも、助手さんだって『学生さん付いていれば大丈夫ね』って、言ったよ?それに…あの人はいつも、あんな、頭を打ちそうな姿勢でベッドに、のけぞるの。こっちが『危ないですよ』っていくら言っても、そうするの!あの時も師長に『危ないですよ』って言われたけど患者は『大丈夫』って、そのまま…頭打っていたらアクシデントだけど、打たなかったんだから、いいじゃない!動けない人じゃないんだから、患者がすぐ自分で体勢整えれば、いい話じゃない!私は最初、そうするのかと思った。だけどあの人が『大丈夫』っていうから…患者が自分で大丈夫って言っているんだから、いいじゃない!私も『学生さん危ないよ』って師長に言われてすぐ直したんだから、いいじゃない!なんであんなことで、レポート書かなきゃいけないわけ?」そう、泣きまくしたてる薫の背を、お武はただ優しく撫でた…
しかもその日の朝、薫はその患者に、
「もう勘弁してほしい」と受け持ちを断られていたのである。要は、薫がその患者にかまい過ぎたのである。
明日は学内日なので、その翌日の金曜日からまた、彼女は新たに二人目の患者を受け持たなくてはならない…薫の精神状態は、体調不良であった小児病棟実習の時以上にボロボロで、崩壊寸前にあった…
「光莉ちゃん」大学内で光莉に会ったお武は、彼女に話しかける。
「…薫ちゃんと、喧嘩したんだって?」
「喧嘩?」光莉が、形の良い美しい眉を吊り上げる。
「あれは、喧嘩なんかじゃない…あの子とはもう、絶交したの」
「どうして…ねえ、また、あの子と仲直りしてやってよ…あの子にはあなたが必要なの」お武の頼みを光莉は、
「嫌」と、断る。その瞳の奥には、憎しみの色さえ宿っていた。
「あの子が、私に何て言ったと思う?…もう、あの子は私が好きだった、あの子じゃない…あの子は、変わってしまった…いや、もともとああいう性格だったのを、私が気付かなかっただけか…武」光莉はお武を見て、
「あの子は、誰にも心を開いていない。誰のことも好きじゃない、信頼していない…看護師としてどうのこうの、とか言う以前に人として、何かが欠けている。あの子は、あなた達実習グループのメンバーについても悪く言っている。記録が遅すぎる、保健師の劣等生だって」と、忠告する。
「…嘘」お武が、反論する。
「あの子は、そんな子じゃない…私達が保健師の劣等生、記録遅いっていうのは事実だね、うん。あの子は…この前の慢性だって結局、三時までにすべての記録と課題を終わらせて…二人持ちでインシデントレポートまであったのに。それで、また、私をはじめまだ終わっていない人の面倒、みてくれたの。あの子は…」
「あの子は、いい子だよ、光莉…確かに口は悪いし、人を見下すようなところはあるかもしれないけど、それで色々、人から誤解されてしまうのかもしれないけど、でも…お願い、光莉。あの子と、また仲直りしてやって。彼女にはあなたが必要なの…」けれども、薫のことに関して光莉はもう、聞く耳を持たなかった。お武の願いはむなしく、土師光莉は彼女の前をさっさと、素通りしていった…
お武も地方の出身であったが、緒方浩二もまた、地方の出身であった。彼がこちらに来て、驚いたことの一つが土師光莉である。
光莉の美しさは、浩二がこれまで地元で見てきた、どの女性にもかなわなかった。大学内には他にもきれいな女性はたくさんいた。しかし、彼女達の美しさはファンデーション、チーク、口紅、アイシャドウ、マスカラ、つけまつげ、エクステといった化粧や、ヘアカラー、パーマといったヘアアレンジでつくられた、いわば人工の美しさであった。
だが光莉は違った。彼女は化粧も何もしておらず(ひょっとして薄くファンデーションくらいは塗っていたかもしれないが)、髪も黒髪で染めたりなどしていなかった。それなのに、いや、だからこそ土師光莉は、大学内の誰よりも美しかった。
面食いの浩二が、そんな彼女に惹かれぬはずがない。おまけに光莉は、性格も頭も良いのである。浩二が光莉に恋するのは当然の結果であった。たまたまサークル(クロスワールドとテニス)が一緒になったこともあり、彼は幾度となく彼女にアプローチした。しかしそれはいつも軽くかわされてしまっていた。
一年の前期は語学、心理学、社会学、物理、生物、化学、体育といった一般教養の講義が多い。これらは(体育はさすがに分かれるが)学部の垣根を超え、全員同じ部屋で講義を受ける。そこで浩二はさりげなく光莉のそばに席をとり、彼女を見つめていた。
そこでは、いつも光莉のそばにいる柏木薫の存在がいやでも目に入る。薫とて見た目は決して悪くはないが、光莉の隣にいるとやはり、どうしてもかすんでしまうのだ。
「いつも光莉の隣にいる地味な女」としか、柏木薫は浩二の中で捉えられていなかった。
柏木薫の存在が緒方浩二の中で浮上してきたのは、彼女が新しくバイトを始めてからである。薫が新たなバイト先として選んだコンビニに、偶然にも浩二が先に働いていたのである。
「緒方君」一月初めのテニスサークルで、光莉が彼に話しかける。
「看護の柏木薫ちゃんと、バイト一緒なんだって?」
「え?あ、ああ…」いきなりそんなことを話しかけられ、戸惑いつつも浩二は答える。
「どう?あの子。中学の時からの親友なんだけど」と、光莉。
「…あ、そうなん?いや、どうって言われても…別に。普通じゃない?」と、浩二。
「よかった。あの子、今まででもう二つもバイト、やめているからさ…あ、掃除の方はまだ続いているんだっけ?でも、きついしもう今度、カンボジア行くまでにやめるって言っている…でも今回は、続きそうだね。大学の同級生がいるからさ」浩二はただ、その光莉の笑顔に気をとられていた…
カンボジアには前半後半それぞれ十日間ずつ、二手に分かれていくことになっていた。浩二は前半、薫と光莉は後半であった。前半組と後半組ではお互い関わりがなく、それぞれが何をしているのかさっぱり分からない有様であった。ミーテイングは何回か開かれたものの、集まりはよくなかった。クロスワールドは彼らが入学する一年前にできたサークルで、去年カンボジアに行った二年生の何人かが中心となって 何もかも決めて新しく入ってきたメンバーを引っ張っていた。新メンバーは、何が何だかよく分からないままついていくしかなかった。
これではいけない、と立ち上がった一人の学生がいた。浩二、薫、光莉らより一学年上、看護学科の及川幸である。彼女は、初年度にはカンボジアへ行っていない。二年生で初めて行き、そして今回、新たにリーダーに名乗りを上げたのである。
前回の反省を踏まえ今回は、初めて行く人達にも積極的に話し合いに参加してもらおう、前後半の垣根をなくそうというコンセプトでやっていくことになった。そのためにはどうしたらいいか、という話し合いが夏休み中、前年度カンボジアに行き、今回も行く人達の間で行われた。
その話し合いは午前中で終わるはずであった。その日の午後、浩二はバイトを入れていた。薫は自動車の教習所があった。ところが、午前中では話がまとまらなかったのだ。
ところで、彼らが通う医科大学は、医学部医学科こそ町中に、附属病院と共にあるが、それ以外の学部・学科のキャンパスは駅から遠く離れたところにある。周りには田んぼが広がるばかりで、学生が住むような下宿も寮もない。学生は数か所の駅前から出ているスクールバスか、原付か、バイクか、自転車か、あるいは自家用車で大学に通う。下宿生は大概数か所ある駅前スクールバス停の周辺で下宿している。薫と浩二は同じ駅前から出ているスクールバスである。ちなみに土師光莉の交通手段は自家用車である。浩二はその駅周辺のアパートに下宿している。薫は、言わんや実家である。スクールバスの自宅生は駅前のバス停からさらに電車やバスを乗り継いで帰るというのに、彼女の実家はそこから徒歩十分のところにある。
そのスクールバスの本数は、少ない。授業が終わったらすぐに乗らないと、一本逃したら次は一時間後、というのはざらではない。平日でさえそうなのだ。まして授業の無い夏休みは。
話を戻そう。クロスワールドの話し合いは、白熱していた。とてもスクールバスの出る十二時二十分には終わりそうにない。
「千佳(鷹司千佳、OT専攻の二年生。休日学校に来るときは車を使う)に送ってもらえばいいじゃない」幸はそう言うが、しかしそれではバイトに、教習所に、間に合わない!そういうわけで浩二と薫は失礼して、大学のバス停に走った。
ところがバスは、もう出て行ってしまったのである。
「ああ…」二人は、互いに顔を見合わせる。
「…柏木ちゃん、今日何かあるの?」浩二が尋ねる。
「教習所。(運転)免許の」薫が答える。
「そうか。俺はバイトや」
「うん、知ってる」
「…こうなったら仕方ない、タクシーを呼ぼう」ということで浩二がタクシーを呼び、それに乗って二人で駅まで帰ることになった。
タクシーを待つ間とそれに乗っている間(合わせて二十~二十五分くらい?)、二人は色々な、と言ってもサークルとバイトのことぐらいだが、話をした。思えば、こうして二人きりで会話するのは初めてであった。たまにバイトで同じシフトになることはあるが、そこでは私語を交わすことはためらわれるし。
十一月。この頃、二人は毎週末昼間によくバイトのシフトに入っていた。日曜日の昼間、同じ大学の後輩が、彼らが働くコンビニにやってきた。薫は彼女を知らなかったが、浩二は知り合いであったらしく、その後輩とレジで言葉を交わしていた。
「…ここでバイトしていたんですね。知らなかった」と、後輩。
「うん。でも今月いっぱいで辞めるけどね。今月から居酒屋でも(バイト)しているんだけどね。ここ辞めて、もう居酒屋一本に絞る」と、浩二。
「へー、そうなんですね…」辞めるなんて聞いてない…隣でレジを打ちながら、薫は愕然としてその会話に、耳を傾けていた…
(浩二のいないバイトなんて)薫は思う。
(揚げ物の無いコンビニと、同じ…)
十二月の半ば、看護学部二年の忘年会が行われた。まだ二十歳になっていない者もいるので、アルコールはなしであった。皆しらふにもかかわらず、大いに盛り上がった。薫の友人グループは比較的、冷めていたが。
二十一時、忘年会はお開きとなり、自宅に帰る者、二次会と称し飲みに行く者、カラオケに行く者―これはさすがに一人だけであったが―バイトに行く者もいた。
薫は最初、自宅が遠く、終電が心配な友人達と別れて他の同級生達とカラオケに行くつもりであった。忘年会は柏木家の最寄り駅周辺の店で行われた(ここが一番、店が多く、またどの方面から大学へ通う者にも交通の便が無難)ため、彼女には終電の心配がなかった。ところが浩二がカラオケに参加しないことが分かり、薫もそれでは意味がないと参加を取りやめた。
店を出たところで、薫は同じく店を後にする男女四人が前を歩いているのを見た。一人は誰であろう、緒方浩二その人である。
薫はすぐ四人に追いついた。と、そのうちの一人が店内に帽子を忘れたことに気づき、もう一人の女子とともに店内に戻った。
「柏木ちゃん」一人の男子学生が彼女に気づき、声をかける。かくして薫は、帰り道を共にする男二人を手に入れた。
「薫、今日楽しめた?」浩二が尋ねる。薫は
「うん」と弾んだ声で答える。本当は、宴会そのものよりも今この瞬間、彼らと共に帰る道のりこそが一番、楽しいのだ…薫は二人の男と共に、騒々しい繁華街を堂々と闊歩する。
それでもやがて、薫は二人と別れねばならない。二人の家は薫の現、浩二のもとバイト先であるコンビニを隔てて反対方向にあるのだ。
「じゃあ、ここで。またね」名残惜しげに薫は別れを告げる。
「ああ…気をつけてな。この辺、治安悪いから」浩二が言う。
「…ありがとう」薫の頬が、ふっと緩んだ…
三月。いよいよ前半組は明後日からカンボジアへ向かう。今年は浩二、薫ともに後半の日程であった。ちなみに光莉は行かない。
大学内での最終ミーテイング終了後も、薫は何故かだらだらと浩二、光莉、おりん(藤井佳織、看護学部三年生)らとともに学内に残っていた。一応、浩二らの担当授業である『免疫後半』のことについて(子供達に行う授業はともかく、現地の先生達にも救急法を指導することになっており、その内容が未だ明確に固まっていなかった)話し合っているはずなのだが。
「…カンボジア行く前に美容院に行きたい」と、おりん。完全に雑談である。
「美容院か。もう何年も行ってないな」と、発言したのは誰であろう、光莉である。
「ええ⁉そ、そうなの⁉」一同、唖然。
「うん。いつも自分で切っちゃう」光莉は笑いながら言う。何と、彼女のその、長く美しい黒髪は、プロ(=美容師)によってではなく、彼女自身で手入れされていたのだ。
「…光莉って、ほんと身なりにお金かけないよね」こう言ったのは薫である。対する薫は化粧こそ薄い(ファンデーションと色付きのリップクリームくらい)が、美容クリームや化粧品自体はかなりいいものを使っている。美容院には一か月半に一度は通っており、へアクセサリーや服装にもかなりの金をかけている。それでも、いわゆる実家暮らしの、平均的な大学生並みである。
そう、土師光莉は本当に身なりに金をかけていない。つまり、彼女の美しさは真の、天然ものなのである。
「…もう一回ぐらい、皆で集まって話し合った方がいいよな?本当は後半組だけで、出発前日に集まるはずやったけど…」と、これは浩二である。どうやら、話しの軌道は修正された模様である。
「その日は日曜日」おりんが答える。そう、せっかく後半組全体で日程調整してこの日に集まろう、となったのに、この日は日曜日で、もちろん大学は開いていない。
「皆来れる日曜日に、免疫だけでもどこかで集まった方がいい」と、浩二。
「…どこで?」
「どこで?…俺のアパート、って手もあるけど。でもあそこ、狭いよな。なんせ六畳一間の上に、電子ドラムまで置いてある…光莉ちゃんのところは、厳しいよね?」浩二は、軽音もやっており、ドラマーである。
「そうだね…実家だし…私の部屋にも、ドラムがある。狭いくせに」光莉が答える。そう、光莉も地味に軽音サークルに所属していて、ドラムを叩いていた。しかし、その姿を薫が見たことはない。
「…うちにも、ドラムステッキならある」ぼそりと、薫がつぶやく。
「父の形見で。父はドラマーだった。いや、本職は看護師で、趣味のバンドでドラムを
やっていた。私が生まれたころにはもう、父はドラムを叩いてはいなかった。だから私は、父がドラムを叩く姿を見たことがない。母はバレエダンサーだった。うちには、その形見のトウシューズがある。私が生まれる前に、病気で踊れなくなっていた。だから私は、母が踊る姿も、見たことがない…ドラマーとダンサーの子のくせに、私にはリズム感というものが全く、ない。両親から受け継いだものは、精神を病むリスクという、負の財産だけ…って、何でこんなことをあんた達に話さなきゃいけないわけ?馬鹿!」と、言い捨てて薫は部屋を飛び出す。と、入れ違いに試験当日にインフルエンザであったため、今まで追試を受けていた速水麻耶がやってきた。
「何?どうしたの薫、ずいぶん荒れていたようだけど」麻耶が、残された三人に訊ねる。
「そうかな…いつもあんなのだよ…」光莉が、答えた…
この十一月~三月にかけて、緒方浩二はキャパシティオーバー気味であった。クロスワールドのみならず軽音の卒業ライブ、彼はサークルの長でもあったのだ。ただでさえ看護の二年後期は講義、課題、実習そしてテストと忙しい。その上新たなバイトまで始めており、彼は常に、何かと追われている状況であった。
すべてを完璧にこなせる人間(そんな人間がいるのか)ならともかく、浩二はそうではなかった。一見器用で何でもそつなくこなせそうなタイプだが、意外にも彼は不器用で、熱血なのはいいが能力が気持ちに追い付かず空回りしてしまう、そんな人間であった。
最初、浩二を慕う人間は多かった。一年の頃など、
「緒方浩二は一年看護男子の良心」と言われていた。二年の時も一時期、一年女子の間で彼のファンクラブができたほどである。すぐに消滅したらしいが。けれども次第に、彼の評判は落ちてきた。軽音の先輩やクロスワールドの及川幸、おりんと言った年上からは比較的好かれていたが、同級生以下の男女からの評判は芳しくなかった。
「浩二は保健師の忙しさを全然理解していない」軽音の卒業ライブの練習時間が取れず、浩二と同じバンドメンバーで保健師課程でもあるサンタマリアこと三田晴美は、そんなことをこぼしていた…
薫は、そんな浩二の姿をつぶさに(と言うほどでもないが)見ていた。周りから彼がどのようにみられ、言われているか彼女は知っていた。
薫は、知っていたのである。浩二は、好奇心旺盛で器用であるが故に色々手を出してしまうのだということを。心優しいが故に、自らその責任ある役を一身に引き受けてしまうのだということを。真面目であるが故に、色々と考えすぎて空回りしてしまうのだということを。
薫は、浩二が誤解されやすいものの本当は、いや、本当に心優しく純粋で生真面目、情熱的な人間であるということを知っていたのだ。
だからこそ彼女は、何やかんやと『免疫後半』に口を挟み、彼にメールを送ったりして介入してきたのである。余計なお世話だと思いつつ。
さてここはカンボジア。件の『免疫後半』の授業が終わった夜である。及川幸、緒方浩二、柏木薫、おりんこと藤井佳織の四人は同じテーブルに着きクメール鍋(カンボジアの鍋料理。『クメール』はカンボジアのこと)をつつき、酒を組み合していた。
「…浩二、ごめんね」薫が、ふと口を開く。
「その、授業のこととか色々、口出したりして。最初、良かれと思ってメールしたんだけど、送った後でこれひょっとして傷口に塩塗ったんじゃないかとか思って、それとか、あと、ほんと…」
「ああ」軽い感じで、浩二が答える。
「うん、それは確かに最初は、うざいとか思ったけど。でも、薫が、心配してくれているってことは、分かったから…うん。いやでも、別に薫がそこまで心配してくれなくても、何とかなったと思う」
「…そう…」彼のその言葉に薫は、曖昧にうなずいた。
「…薫は、クロスワールドのことを一番考えてくれている」幸が言う。
「そこ二人は違うけど、今の二年生は友達と一緒に、とか友達に誘われて、とかいうきっかけで入った子が多くて…別にそれが悪いってわけじゃないけど。今の二年リーダーの、千佳達もそうだし」
「三年は、違うの?」薫の問いに
「うん、そうだね。基本バラバラ…ここに入ってから仲良くなった、っていうのが多い」幸、おりんが顔を見合わせて頷く。
「友達同士で入った、っていうきっかけが悪いことはないけど、でもこれ、ただの仲良しグループじゃ困るわけよ。何て言うか…もっとこう、お互い話し合って、意見戦わせぶつかり合って、みたいな…来年の長、このままいくと千佳だけど正直私、あの子はどうかと思う。何か、ただの仲良しグループの集まりに成り下がりそうで…この経験を生かして浩二が、来年リーダーやってもいいんじゃないかと思う。誰か強力なサブがいればね」リーダー、幸が語る。
「…そうかな」曖昧な返事をする浩二。
「あー、それか私、光莉ちゃんでもいいかなって思う。来年のリーダー。おとなしいけど、しっかり自分の意志持って自立しているし。丈次さん(黒井丈次、看護学科保健師課程で光莉と一緒に今年、日本国内でクロスワールドをサポート)と一緒にさ…」幸はそう、言った…
浩二は、薫の自分への思いに気づいていた。だが、彼女の気持ちにこたえることはできなかった。彼はスリム美人で、明るくておしゃべりな子が好みだった。無口で地味な、薫とは正反対であった。しかも浩二は、まだ光莉への未練があった。彼女の親友である薫と付き合うことなど、できるはずもなかった。
そして光莉が加藤茂と付き合いだした頃、彼もまた新たな出会いを見つけその人と付き合い始めた。薫はそのことも、風の便りで知っていた。
薫が及川幸と初めて言葉を交わしたのは、薫が二年の時のクロスワールドの新入生歓迎バーベキューである。一年の時、薫はそのバーベキューに参加していなかった。カンボジアは、前後半に分かれていたので関わりがなかった。だからそのバーベキューで、幸が薫たちのテーブルに乱入したのが始まりである(ちなみに薫のテーブルには、浩二とおりんもいた)。
幸がクロスワールドの国外活動新リーダーになってからは、薫はちょくちょくその活動について彼女に意見するようになった。幸もまた、ミーテイングごとに感想を幸に求めたりしていた。
けれども薫が幸を心から信頼するようになったのは、次のことがきっかけであろう。
時は十月の半ばであったか、昼休み、友人と弁当を食べていた薫に、
「ちょっと話したいことがある」と、幸が声をかけた。そこで彼女は薫に、色々とカンボジア活動について、今後のミーテイングの進め方や今年の目標、やりたいこと、そもそもこのサークルに入ったきっかけ、今年も続けようという動機について訊いてきたのだが。
「今年もこの活動を続けようと思ったわけは」薫が言う。
「一つは去年が楽しかったから。二つ目はつながりが欲しかったから…もう、他のサークルとか、学園祭のスタッフとか全部辞めちゃったから、同じ学年、同じ学部生との関わりはあるけど、他学年、他学部とのつながりはここでしかない。それに…」ここで一度口をつぐみ、あることを言おうか言うまいか、しばし躊躇した。やがて意を決したのか、薫は言葉を続けた。
「カンボジアに、救われたから。私、本当はこの大学行きたくなくて、高校が国公立志向だったこともあって、国公立行きたくて、でも第一志望落ちちゃって、後期で受験したとこは受かったんだけど、でも諸事情で行けなくて、それで…この大学に、入ったの。それでずっと、葛藤していた。こんな大学行きたくなかった、国公立がよかった、どうして来てしまったんだろう、って。でも…カンボジアに、救われたの。私立だけど、いや、私立だからこの大学にはクロスワールドがあって、カンボジアに行ける。カンボジアで初めて、この大学に入ってよかった、って思えたの。クロスワールドで、カンボジアで、私は自分がこの大学に来た意味を見つけたの。これからもさらにこの活動を通して、自分がこの大学に来た意味を、見つけたいの…」薫のその言葉に、幸も、
「私も…」と言った。
「私は、国公立に落ちるのが怖くて受けなかったんだけど。でも同じように高校が進学校で、周りの友達皆国公立で。私も、ずっと後悔していたの。何で国公立受けなかったんだろう、何でこんな大学来てしまったんだろうって。大学の友達は地方の子が多くて、出身校(薫の出身高校よりもずっと優秀な、県内有数の進学校であった)言っても、聞き流されるし、国公立受けときゃよかったって言っても、『せっかくこの大学に入ったのにそんなこと言うのはおかしい』『どこの大学でも資格は取れるんだからいいじゃん』とか言われて…いや、その意見も間違ってはいないと思うよ。でもそう言われると何か、高校や高校の友達が否定されるような気がして…高校時代、すごく楽しかったからさ、周りもいい人ばかりだったし…でも」幸は、語り続ける。
「私もカンボジアに、救われたの。カンボジアに行って初めて、ああこの大学に来てよ
かった、そう思えるようになった。だから私は今回、リーダーに立候補したの…」
薫の、国公立至上主義の高校から私大に入学したことに対する葛藤を、ここまで受け止めてくれた人は初めてであった。薫自身、今までこの葛藤について、深く人に語ることはなかったのであるが。しかしこのとき薫、クロスワールドにおけるカンボジア活動を今年も続けようと思った最大の理由は、幸にまだ告げていない。
彼女が今年もカンボジアに行こうと思った最大の理由、それは土師光莉と緒方浩二の存在に尽きる。この時から薫は彼らに対して尊敬、好意、ジェラシー、憧れといった様々な感情が入り混じった、特別な思いを抱いていた。そして彼らの存在こそが、薫にとってのクロスワールドに対する情熱の全てであったということを翌年、二人のいないクロスワールドで彼女は、まざまざと思い知ることになる。
おりんこと藤井佳織との出会いは、薫が一年の時の、オープンキャンパスにおける学生スタッフアルバイトである。そこで二人は、共に高校生に向けての進路相談ブースを担当した。
しかしそれを、おりん自身が覚えているかどうかは分からない。だが薫は、覚えている。そこで彼女が、気さくにリードしてくれたことを。この大学の一般入試の成績上位者には、大学病院からの特別奨学金が出る。彼女がその、特別奨学生であることも…
本格的な二人の関わりは、カンボジアへ行ってからである。
カンボジアでのある日、おりんが薫の泊まっている部屋の扉を叩く。カンボジアではみなゲストハウスに泊まっており、一部屋を三人で使っていた。
「誰か、水買いに行かない?光莉と行くんだけど」おりんが、そう声をかける。ちなみに水は二リットルペットボトルを大量に全体でまとめ買いして一部屋に置いておき、各自そこからとっていく、という形式であった。その水が底をついたから、買いに行かないか、というのだ。カンボジアでの外出は三人一組が基本である。
「光莉も?じゃあ、私行く」薫が起き上がって言った。
こうして三人は炎天下の中、歩いて水を買いに行った。帰りはもちろん、トゥクトゥク(バイクタクシー)である。強い日差しが照り付け、整備などもされておらず、歩けば土埃が舞う道のりをおりん、光莉らと共に、行き交うバイクや四輪車の間をくぐり抜けながら、薫はその口角にうっすらと笑みを浮かべ、軽快な足取りで歩いていた…
看護の二年生の後期は、保健師課程の授業が始まり、忙しい。しかし三年生はそれ以上に忙しい。各論実習が始まるからだ。保健師課程の授業が終わって帰るとき、薫はよくおりんとすれ違った。彼女も保健師課程で、二年の時の忙しさはよく覚えていたのであろう、彼女とすれ違うたびに
「薫お疲れ」と声をかけた。本当は彼女の方が、ずっと忙しいにもかかわらず。
「…お疲れ」ありがたいような、申し訳ないような気持ちで薫はおりんに、そう返していた…
大学三年生の二月。薫の看護実習はもう、一区切りついていた。久しぶりにクロスワールドのミーティングが大学で行われ、彼女はそれに参加した。
終了後、スクールバスに乗り遅れた薫はリーダーの鷹司千佳の車に乗せてもらい、最寄りの駅まで送ってもらった。車の中で二人は、とりとめもない会話をした。
千佳の車が、駅に到着した。
「じゃあね、薫。また」と、千佳。
「うん、送ってくれてありがとう。またカンボジアで恋バナ(直前まで二人は恋バナをしていたらしい)しようね」と、薫は車を降りる。
遠ざかる千佳の車を見つめながら薫は一人、つぶやく。
「…またね、か…」ぞっとするほど低く、冷たい声であった。
「そうやって、甘ったるい言葉で私の心を開いて、期待させておいて、でも結局は皆裏切る。皆、私とのことなど、まるでなかったかのように振る舞う。元彼達も、お武も、おりんも、幸ちゃんも。浩二も、光莉も…そしてどうせ千佳、あなたも。こうして皆、私から離れていく。分かっている。私のことなど、誰も愛してはくれない。私は誰からも、愛されやしない。所詮皆、うわべだけ…私が彼らを愛した事実は、永遠に消えないというのに…」
かつてクロスワールドは、薫の生きがいであった。
「クロスワールドは、私の全てなの」情熱を帯びた瞳と声で、薫は熱く、語っていた。
「人生は、あまりに短い。何のために生まれ、何をして生きるのか分からないまま終わるのは、まっぴら。この馬鹿大学で、何もせずにただ四年間、勉強とバイトと実習に明け暮れ、朽ち果てるのは、まっぴら。やらずに後悔するくらいなら、やって後悔したほうがまし。私は生きて、愛して、戦って、死にたい。私の生、私の愛、私の戦い…そう、それが、クロスワールドのカンボジア活動なの。私の、この大学生活の、全てなの…」
しかし、三年次におけるカンボジア活動で、彼女は幻滅することになる。土師光莉も、緒方浩二もいない、クロスワールドに。
「去年の国内での準備活動は、楽しかった」薫は、暗い顔で愚痴る。
「ほぼ隔週で集まって、何度も、話し合って…小学校で、どんな授業をやるか、どんな目的・目標でやるのか、時間をかけて全員で話し合ったっていうのに。大勢の前だとなかなか意見言えないっていう人もいるし―特に初めて行く一年生とか―たくさん人数がいると自分は考えなくてもいいや、って思って何も考えない人もいるから、一度少人数のグループを作って、少人数で話し合って、一人一人に、自分の意見を考えてもらって、それでそのグループごとに出た意見を、まとめて全体の前でそれぞれ発表して、それぞれの意見をぶつけ合い、語り合って…楽しかった。あの話し合いを、無駄だっていう人もいるけど、私はそうは思わない。話し合うことに、意味がある。何もわからない一年生でも、二・三年の意見を聞いて、考えることに、意味がある。考えた結果ではなく、その結果が導かれるまでの過程に、意味がある」
「なのに、今年は…ヘルスチェックのやり方についてちょっと話し合っただけで、後は全然…初めての集まりに、参加していなかったせいもあるのかもしれないけど、何故その授業を、どのような目的でやるのか、分からない。栄養の授業も、危険予知トレーニングも…所詮先代のリーダーの、思い付きじゃない。確かに、大切なことだよ?栄養教育も、危険予知も。でも、実際それが、今現在のあの村の、ニーズなわけ?ただの押し付け、自己満じゃないの?そもそもうちら、ろくにアセスメントしないまま、あの人達の健康・生活についての情報を把握しないまま、彼らの本当のニーズを知らないまま、自分達で勝手に健康問題考えて、授業を展開しているけど…まあ、去年の授業参観で親の声を聞いて、デング熱について知りたいって声が聞けたから今年はデング熱について授業しよう、ってなったり、今年から家庭訪問を始めて、村の各家庭を訪れて、実際の村人の生活を把握しようってなったのは、いいことだと思うけど…」
『授業参観』とは、去年から始まった取り組みで、小学校の子供達だけではなく、その親にも自身や子供の健康について興味・関心を持ってもらおう、ということで一日、保護者を小学校に招いて数日前に子供達を対象に実施したヘルスチェックの結果報告、各授業の復習を行い、その後保護者に生活や健康についてのインタビューを行う、といった内容である。そのインタビューの結果から、彼らがデング熱について知りたがっていることが分かり、今年は授業参観でデング熱についての授業も行うことになったのである。
「各授業での、話し合いも…他はどうだか知らないけど、私達の『感染』においてはほとんど、ない。一回一回の全体の集まりの時に話し合うのみで、それ以外の、昼休みとかに集まって話し合おう、っていうのがほとんどない…まあ、無理もないけどね…皆、忙しいから…」
「全体のリーダーである鷹司千佳も、ほとんど授業の方には関わろうとはしていない。全体の、旅行の手配だとか、現地の小学校や通訳との連携だとか、報告書のまとめだとか何とかで、手いっぱいみたいで…」
「千佳が、悪いってわけじゃない」そういって薫は、今度は今年度のリーダーを擁護する。
「彼女は良い人だし、あの子達なりに皆をまとめて、頑張っている。去年の幸ちゃんも、決して完璧なリーダーというわけではなかった。『免疫後半』にかまい過ぎたし―それは、浩二のせいでもあるけど―逆に、『授業参観』にはほとんど介入しなくて―それで、去年授業参観担当だった子達から、良く思われていないんだけどね」
「でも…彼女は、幸ちゃんは、少なくともメンバーのことを考えていた。このサークルをただの自己満足の活動にしたくなくて、色々と、考えていた。彼女は、この活動に対して高い志を持っていた。メンバーにも、その志を持ってほしくて、色々考えて活動し、語り合おうとしていた。この活動は、継続することに意味がある。その前年の後半組が、この活動に幻滅して大勢辞めちゃったから―一人でも多くのメンバーに継続してほしくて、メンバー一人一人の、この活動に対する思い・意見・考えを聞こうとしていた…あの子は、違う。メンバーの思いを、意見を、考えを、聞こうとはしない。皆で、何のためにカンジアに行くのか、クロスワールドの活動とは何か、ボランティアとは何か共に、語り合おうとはしない。自分達が忙しいから、短期間の集まりで準備を終わらせようとして、ろくに話し合おうとはせず、どんどん先へ先へと進んでいる。目先の効率性ばかり、考えている…」
前年度、つまり薫達が一年の時、二十日間の内後半の日程で薫と共にカンボジアへ行ったメンバーの大半は、それきりでカンボジアの活動を辞めていた。次年度国内でサポートしていた土師光莉、黒井丈次を含めても、残ったメンバーは同期で四人しかいなかったのである。
彼らがクロスワールドのカンボジア活動を辞めた理由は、一つは現地で体調不良―水・食べ物が合わなかったことによる下痢―になってしまって懲りたということ、二つ目は元から観光目的で参加していたから、一度行っただけで満足したということ、三つ目は単なる経済的理由―旅費は飛行機代・十日間の食費・通訳代・バン代・ゲストハウスの滞在費含め全部で十万円以上かかる―ということ、これらはまあ、前半・後半含め一年、二年で活動を辞めた者達に共通する理由である。この他に、二年生で引退した者の中には、
「三年から始まる実習が忙しいから」という理由がある。
そしてこれが後半組の主に『しらみ』の授業担当であった者達の最大の特徴なのであるが―授業の準備が、上手くいかなかったことである。初めての取り組みであったことから、二年目の先輩達も何をしてよいのか分からず、ジタバタ、ギスギスしていた。他の授業担当の先輩達も、自分の担当授業に精一杯で、『しらみ』が迷走していることを知っていながら、誰も助けてはくれなかった。
それでも薫達一年生、しらみを撲滅するにはどうしたらよいか必死で考え、しらみには酢が効くという情報を掴み、
「酢でリンスを作ろう」ということになった。そして一年生六人で、リンスを作る説明のための絵を作成した。
ところがその絵が完成した段になって、二年の先輩が「それは非現実的すぎる」と言って、酢リンスの案を否定してきたのである。まあ、よく考えてみれば―よく考えてみなくても―カンボジアの小学校で酢リンスを作り、それで子供達の頭を洗うというのは不可能な話であった。けれども物品を全て整えた時点でその案を全否定され、薫達のプライドは傷ついた。『しらみ』の授業内容が完成したのは、最終的にカンボジアへ旅経つ二日前のことであった。
そんなことも、彼らがクロスワールドに幻滅した理由の一つではと薫は睨んでいる。『しらみ』の同期六人のうち、二年以降も活動を続行したのは薫だけである。だからこそ、二年の時彼女は、一年前の『しらみ』同様迷走し行き詰っていた『免疫後半』に介入してきたのである。『免疫後半』の一年生が幻滅して
「もうクロスワールドにはうんざりだ、一年で辞める」などと言わないように。
薫が介入したおかげか(多分違う)『免疫後半』の一年生三人、誰も辞めることなく二年生となった今もなおこの活動を続けている。
「一年の時カンボジアから帰って、二年になってすぐに、同期の後半メンバーだけで活動のフィードバックをしたときは、楽しかった。丈次が中心になって…何故カンボジアに行くのかとか、クロスワールドの目的とは何か、子供達の笑顔のために、っていうけど、何もしなくてもただ一緒に遊んでいるだけで彼らは笑顔じゃないか、とか、押しつけボランティアとそうでないボランティアの違いとは何かとか、現地に迷惑をかけない、自己完結型のボランティアとはどういうものか、とか…黒井丈次は、クロスワールドに必要な存在だった。カトリナ達は、彼を良く思っていなかったようだけど…確かに、あの人は口が悪いし、誤解されやすい。でも、誰よりもよく、物事を見極める眼を、持っている…」
黒井丈次は薫達よりも三、四歳上で、留学・社会人経験もある。それ故、物事を多角的にとらえることにたけている。元々、児童福祉に並々ならぬ関心があったようで、医療の方面から児童福祉を考えたいと、看護・保健師の道を志望した。クロスワールドのカンボジア活動に参加したのも、そういった理由からである。
だが、一年次に実際カンボジアへ行ってみて、このサークルの方向性と、自分が求めていた者は違う、と失望したらしい。それでも翌年は、新リーダーとなった幸への期待と、光莉への執着から―同い年の恋人が学外にいたにもかかわらず、彼は光莉に執心していた―彼女への思いが、果たして恋愛感情を含んだものであったかどうかは不明だが―国内で光莉と共に、サークルの活動を陰でサポートしていた。幸も、現地で体調不良者が出た際には、丈次の助言を大変頼りにしていた。及川幸は、自分が引退した後のクロスワールドを率いる人物として、緒方浩二と土師光莉、そして黒井丈次こそふさわしい、とはっきり言ったのである。
しかし現実には、浩二も光莉も丈次も、こぞって活動から退いてしまった。そして今回のリーダーには、幸が不安視していた鷹司千佳が就任した。
千佳も、そこまで悪いリーダーではなかった。いや、むしろ素晴らしかった。最終的には、メンバーは皆、彼女達に感謝していた。二年生が中心となって感謝の思いを込めた動画を作成し、メンバー一人一人のメッセージ入りの写真を準備した。そして、カンボジアでの後の夜、メンバーはサプライズで動画を流し写真を手渡し、一人一人、リーダーに対する感謝の言葉を伝えた。こんなことは去年も、一昨年もなかった。千佳が、感極まったことは言うまでもない。
皆、鷹司千佳は素晴らしいリーダーだったと言い、一、二年生は、来年もぜひこの活動を継続したい、と言っていた…
それでも薫の中では、活動に対する不満がくすぶり続けていた。それは決して、愛する光が、浩二がその場にいないからというだけではなかった。
薫は、語り合いたかったのだ。何故、何のために、自分達はカンボジアへ行き、子供達に保健の授業をするのか、ということを。ボランティアとは、クロスワールドの活動とは何かを。自分達はカンボジアの人々に対し、一体何ができるのか、ということを。そういった倫理的な、深い問題について薫は、皆で共に考え、話し合いたかったのである。
丈次がいれば、できたはずである。彼ほど深く、論理的に物事を考えることのできる人物は、クロスワールドに、いやこの大学において他にいなかった。薫は今回の活動でつくづく、自分達がやっていることは結局、単なる自己満足なのではないか、と苦々しく思っていた…
「…長いね」薫三年の三月。三度目のカンボジア。『感染』の授業前夜である。一連の授業内容を通しでやって見せた薫ら『感染』授業メンバーに、千佳がきっぱりと言う。
今回の『感染』の授業内容としては、しらみ、下痢の時に飲む経口補水液の作成、手洗いが含まれていた。
いつもはしらみについてだけなのに、はっきり言って内容が多い。重すぎる。授業の時間もどうしても長くなってしまって、一方的にこちらが情報を伝えるのみで、子供達はただ聞いているだけ、という授業形式になってしまっている。薫は本当は、こちらが一方的に説明するだけではなく、クイズなどを取り入れて、子供達自身に考えさせるような授業がしたかったのだが、この内容量では無理というものである。
一体何故そんなことになったのかというと、そもそも経口補水液については他の授業グループが担当するはずであった。こちらが本来の『感染』であり、最初薫達はただの『しらみ』であった。
ちなみにその本来の『感染』グループの大半は、速水麻耶含め前年度の『免疫後半』の面々である。彼らは先生方にも、前年度の『免疫後半』同様、カンボジアの小学校の先生方にも、救急法を教えることになっていた。
しかしそれでは、あまりにも負担が大きすぎる、ということになり、本来の『感染』組は、子供達にも分かる、危険予知トレーニングを含めた応急手当について押しあることになり、彼らが途中まで考えた経口補水液についての授業を、『しらみ』の授業担当者達が引き継ぐことになったのである。
そこからさらに千佳が
「手洗いについてもやってほしい」と言ってきたので、『しらみ』は名を『感染』と改め(本来の『感染』は『応急救護』という名になった)、しらみ・経口補水液・手洗いについての授業を行う羽目になったのである。
一見何の関連もない、この三つの内容に無理矢理関連性を持たせるために、まず感染とは何ぞや、という説明から、授業は始まる。感染には傷口からのものと口からのものがあるということを伝える。傷口からの感染ということで、しらみがあると頭がかゆくなって、かきすぎてしまって頭に傷ができて、そこから感染してしまうよね、ということで、無理矢理話をしらみに持っていく。そこで、しらみの対処法を劇で説明する。
次に、口からの感染ということで、下痢を例に挙げる。下痢の時は砂糖と塩でつくった経口補水液を飲みましょう、ということで、経口補水液の作り方を説明、実際に子供に一人、代表で前に出てきてもらい、作ってもらう。
最後に、感染を防ぐには手洗いが最も効果的、ということで手洗いのやり方を伝える、といった授業の流れだったのだが。
「その(感染とは何ぞや、という)くだり、いらないんじゃない?」千佳のその言葉に、『感染』授業のメンバーは愕然とする。今まで、必死になってあれこれ考え、ここまできたというのに…
「授業全体のつながりよりもむしろ、しらみ、経口補水液、手洗い、って一つ一つ内容がくっきり分かれていた方が、子供達にとっては分かりやすいんじゃないかな」と、鷹司千佳。なるほどいわれてみれば、確かにそのとおりである。
というわけで、明日小学校へ行って子供達に授業をする、という日の夜になって、鷹司千佳、『授業参観』担当である三年の歌橋亜弓、そして『感染』の面々は授業内容と、そこでしゃべるセリフの練り直しを、午前一時近くまで行ったのであった。
授業内容を練り直しながら、薫は、この話し合いが、こんなギリギリではなく、日本で準備している間に行われていたらどんなにか楽しかったであろう、と思っていた。千佳も、もっと各授業の内容に関心を持って、もっと早い段階でアドバイスをくれればよかったのだ。
「ごめんね」薫の心の声が届いたのであろうか、千佳がすまなそうに謝る。
「もっと早い段階で、気付いてあげればよかった。こんなギリギリになって、いきなりあれこれ口出しちゃって…」そう謝られては薫も、何も言えない。そもそも、この『感染』の授業内容が重すぎるということは、日本にいたときからとうに分かっていたことなのだ。その問題に今まで蓋をし続けていたという点では、初めてこの活動に参加した一年生はともかく、二年生や、三年の薫達も同罪なのだ。
こうして薫達は、睡魔と疲労感と戦いながら、夜遅くまで授業内容の練り直しを、行っていた…
紆余曲折あったが、果たして無事に『感染』の授業は終わった。
その翌日は、フリーであった。午後、薫は三年の阿部真佐季、歌橋亜弓、二年の瀬戸内直美、一年の団ちゃんこと団野翔子と共に、『コーヒーブラウン』という店に出かけた。このメンバー、特別親しいわけではないし、阿部真佐季(真佐季はリハビリテーション学科)全員看護学科である、ということを除いて、特に共通点は見いだせない。日本であれば絶対にありえない組み合わせである。
何はともあれ、彼女達は『コーヒーブラウン』を訪れた。去年の三月にはまだなかった店である。お洒落で清潔で、エアコンが効き、音楽の流れる、開発途上のカンボジアとは思えぬほど洗練された空間であった。
そこでフラペチーノを飲みながら、彼女達は語り合ったのである。深イイ話を。
最初、きっかけを作ったのは直美である。
「来年は(カンボジアへ)行くメンバー、もう少し人数絞って前後半無くしたいんだよね」
瀬戸内直美は、二年生のリーダーであり、次期サークル長としてクロスワールドを引っ張っていく存在である。看護で、保健師課程。及川幸も、彼女のことは高く評価していた。
今年初めてカンボジアへ行く、一年生の話もよく聴いているようだし、薫もそんな直美のことは認めていた。だが如何せん、問題を一人で抱え込む傾向があり、かつての浩二やおりん―彼女もまた、何でも一人で抱え込んでしまうところがあり、かつて一度クロスワールドのサークル長候補にもなったのだが、その傾向を危惧され、選ばれなかった―のように、あれこれ抱え込みすぎるあまり暴走する可能性もなきにしもあらず、と薫は内心案じてもいた…
「前後半を無くしたいのは、再試のせい?」直美の言葉を受け、歌橋が尋ねる。今回、二年生の再試期間と、カンボジアに前半で行く者達の日程がもろにかぶっており、再試となってカンボジアに行けなかった者、途中帰国してしまった者がそれぞれ一人いる。
「それもあるけど」直美が答える。
「やっぱり…もうちょっと条件とか絞って、カンボジアへ行くための絶対条件として準備のための国内での集まり九割以上参加(今も建前上はそうなのだが…)とかにして…志の高い子達だけで、行きたい」
「…幸ちゃんに近い、考えだね?」歌橋が言う。
「今の千佳は、どっちかっていうと、国際支援とか、あんまり興味ない子でも幅広く受け入れて、その魅力を知ってもらおうっていう考えでしょ?」
「千佳にも、もう少し絞った方がいいかもねっていう思いはあった」千佳と親しい真佐季が、口を挟む。
一同、この問題についてしばし考え込む。彼女達のテーブルは静まり返り、ただフラペチーノをすする音のみが聞こえる。
「幸ちゃんは、本当にこの活動に対する思いが強くて」やがて、歌橋が再び口を開く。
「それで、ただ観光目的とか、友達と一緒に、みたいな、何となく理由でここに入ってきた子達のモチベーションも、何とか自分と同程度にまで持ち上げようと頑張っていた。でも、ねえ…難しいよ、それは」歌橋の言葉に、真佐季もうなずく。
「私は、この活動は、続けることに意味がある、って思っていて。だから一年生とか、最初のきっかけがどうであれ、実際にカンボジアに行ってみて、色々学んで、考えて、そこから今後もこの活動を続けようってなって、次につなげてくれればいい、と思うんだけど」
「一年生、ねえ」と、歌橋。
「私二年から入ってきたから、一年生のカンボジアに対するモチベーションとか、よく分からないんだけど。でも、一年生の時カンボジアに行って、一年で辞めちゃった同級生から聞いたんだけど、『国内での集まり数回しか行かなかった』っていう子もいて、それはどうなの、って思ったけど…」
「…今年の二年は、この活動に対する思いが、あんまり深くない」と、直美。
「色々話していても、何か、どうも…観光目的とか、去年仲良くなった子供にまた会いたい、遊びたいっていう思いが強い」直美の言葉には、薫にもうなずけるものがあった。ゲストハウスでルームメイトとなった二年生に彼女が、
「どうして今年もカンボジアに行こうと思ったの」と尋ねた際、その子からは、ただ、
「(去年カンボジアが)楽しかったから」という答えが返ってきただけであった。もっとも、薫の訊き方も悪かったかもしれない。もう少し深く突っ込めば、また違った言葉が出てきたのやもしれぬ。
「再試のことにしたって、日程がかぶっているってことは、最初から分かりきっていたことじゃない。落とさないように、頑張って勉強すればいい話でしょ?甘いんだよね、やっぱり」そう言って、直美は鼻を鳴らす。
「再試云々っていうのは、幸ちゃんも一昨年一個落として途中帰国しているし…何とも言えないけどね。一生懸命勉強していても、落ちるときは落ちるし」ぼそりと、歌橋つぶやく。
と、それまで黙っていた団ちゃんが、不意に口を開いた。
「私は、この活動、カンボジアに行って小学校で子供達に健康教育をする、っていうのはすごくいいなと思っていて。それで、このサークルに入ったんだけど…正直、私アプリオリ(防災サークル)にも所属していたんだけど、そこで結構失望していて。だからどうかな、って思っていたんだけど…実際に入ってみて、まず驚いたのが、観光とか、フリーの日が多いっていうことなんだよね」ちなみにこのサークル、先輩に対して敬語禁止である。敬語を使うと、どうしても上下関係を意識してしまって、後輩が先輩に対し、言いたいことも言えなくなるから、というのがその理由である。○○先輩、というのもNGだ。だから一年生の団ちゃんも、先輩に対し普通にタメ口である。
「アプリオリに、所属していたんだ?」自身もアプリオリである、歌橋が驚いて言う。
「うん。でも…私の求めていたものと、方向性が違うって言うか…何か、あの人達は…被災地にいった自分達かっこいい、みたいな感じで…」
「確かにね」アプリオリに対する団ちゃんの批判に、歌橋はうなずく。
「アプリオリは、次がないよね。被災地に行った、それで終わり、みたいな」
二人のアプリオリを批判する言葉に、薫は驚きつつもニヤリとする。クロスワールドよりも優秀な一、二年生が多いと聞いて、ずっとライバル視していたのだ。しかしその内実は、大したことなかったのだ。
(所詮は自己満、ナルシストの集まりだったのね)だが、果たして我がクロスワールドも、そうでないと言い切れるのか?
団ちゃんの言葉を待とう。
「クロスワールド…その活動とか、方向性は間違っていないと思うけど。ただ、いくつか疑問点とか、こうしたほうがいいんじゃないかな、っていうのはある。まず、観光があるってところ。ボランティアで行くんだから、それに専念すべきだと思う。あと、カンボジアだけじゃなくて、インターナショナルなんだから、他の国にも行くべきじゃないかって思う。それから、今は自分達だけで色々授業とか考えているけど、せっかく大学に医者とか看護師とか保健師とか、保健のプロがいるんだから、先生方の意見も仰ぐべきじゃないかと思う。それと関連するんだけど、こうやってカンボジアの小学校に介入している団体って、他にもあるわけじゃん?本当に子供達のためを思うなら、そういう他団体とも、もっと連携すべきだと思うし、広報とかも、今フェイスブックとかやっているけど、附属病院の国際支援交流会とかで、もっと積極的に発信して、村社会でせこせこやるんじゃなくて、広く協力を仰ぐべきだと思う」団ちゃんの言葉に、薫はあっけにとられて大きく眼を見開いた。とても一年生とは思えぬ、鋭い、そしてあまりに斬新な意見である。黒井丈次さえも、はるかに超えている。薫など、一年生の時は、何も考えずにカンボジアに来ていたというのに。
「観光は、まあ、いるよ」団ちゃんの疑問に、歌橋が答える。
「カンボジアの文化を知るっていうのも、ボランティアをする上では必要なことだし。それに、こういうフリーの日が無くて、毎日小学校に通い詰めだったら、疲れちゃうよ…」ここで一口コーヒーをすすり、間をおいてから、歌橋は続ける。
「カンボジアは開発途上国だけど、どんどん発達しているっていうことも、知ってほしいのね。ここのコーヒーブラウンだって、去年はなかった。今の三年が、一年生の時小学校へ行く道のりは、整備されていなくてガタガタだったけど、今はきちんと舗装されている。そういう、『発展するカンボジア』を、このシェムリアップ(世界遺産アンコールワットのある都市。薫達が滞在)にいるフリーの日に知って欲しいと、思うわけよ…」
今度は、真佐季が口を開く。
「他の国にも介入しようっていうのは、いい意見だと思う。でもまだ、今は四年目だから。まずはとりあえずカンボジア一か国で、活動の基礎を固めるべきだと思うのよ。あれこれ手を出したら、どれも中途半端になっちゃうから。でも…今がちょうどクロスワールドの、一つの転換期なんだよね。これからどんどん、変わっていくと思う」
「…先生とか、他団体との連携も、考えているよ」直美も、うなずきながら言う。
薫は、ただただ感心して、皆の意見に耳を傾け、相づちを打っていた。これだ。このような、深い意見の、語り合い。活動に対する思いの、ぶつけ合い。悩み合い。話し合い。これこそ、薫がクロスワールドに求めていたものである。
「団ちゃん…」薫がつぶやく。
「あなたこそ、今後のクロスワールドを担う逸材。幸ちゃんの、真の後継者。あなたほど
クロスワールドのことを思っている人は、他にいない…」団野翔子。彼女こそ、今年度の
クロスワールドで、暗黒の一年を過ごした薫にとっての、唯一の希望の光であった。
団ちゃんのおかげで一時救われた薫だが、カンボジアから戻って四年生になってから、彼女の思いは再び深く沈み込んだ。カンボジアでの話をしようにも、光莉も浩二も冷たく、取り付く島もない。大学でいつも一緒にいる友人達とは、クロスワールドに所属しておらず、カンボジアにも行ったことなく、話にならない。
大学三年の十二月に光莉と絶交してからの薫は、抜け殻のようであった。それでも大学の講義やサークル、バイトへは、どうにかこうにか行っていた…カンボジアへの旅費を、とうに振り込んでいたから、そのお金がもったいないということもあって、カンボジアへ行くその日までは、惰性で生きていたのだ。
そのクロスワールドも引退して、薫の中の何かが、切れてしまっていた。四年生になって国試対策や卒論の準備も始まっていたが、薫は全くそれらに身が入らなかった。元々、金と居場所のためだけに看護の道を志した。卒業まであと一年、という時になって、自分は果たして、本当に看護師になるのか、なれるのか、自分がなりたいものは、やりたいことは他にあるのではないか、などと薫は一人、苦悩し続けていた…
中学三年の時まで、薫は友人もおらず、いつも一人だった。その時は寂しいだなんて、思ったこともなかった。しかし薫は、土師光莉に出会ってしまった。そこで初めて、友情を、愛情を知ってしまった。更に大学に入ってから、カンボジアや実習でも、人と交わる喜びを、知ってしまった。
光莉に絶交され、再び一人になってしまった薫の孤独は、耐えようもないほど辛かった。
ある日、お武は食堂前の中庭で、一匹の猫とじゃれている薫を見つけた。いや、薫は猫と和やかにじゃれているわけではなかった。彼女は猫を掴み―その手つきは抱くというより『掴む』であった―ぶつぶつとこう言っていた。
「あんた馬鹿?本当に馬鹿ね。救いようのない馬鹿よ。そう。馬鹿、馬鹿、馬鹿…皆馬鹿。大馬鹿よ。大嫌い…皆、皆、大嫌い!」そう叫び、猫を地面に叩きつける。
空は晴れ渡っていたが、その澄んだ青とは裏腹に、薫の周りにはどんよりとした空気が一面に立ち込めていた。
「馬鹿!馬鹿!嫌い、嫌い、大嫌い!死ねばいいのに。死ね!消えろ!殺してやる、殺してやる…皆、皆、大嫌い!」猫を何度も掴み地面に叩きつけ、しまいには立ち上がってその尻尾を踏みつけ、思い切り蹴飛ばした…
お武はこの風景を、茫然と見つめていた。と、薫がその気配に気づいて振り返る。
「何…?」薫は狂気の色を帯びた瞳でお武を睨みつける。哀れお武は、声も出なかった。
「いいでしょう?別に殺すわけじゃあるまいし…動物には脳の前頭葉の、感情をつかさどる部分がほとんど無いのだから、動物には感情なんか無いんだから、何をしたって」こう語る薫の顔には、かつての面影はどこにもなかった。
とぼとぼと、お武はその場を後にする。
(薫…どうして…)
(あんなに、優しかったのに…私達にお土産を、チョコレートを、配ってくれたじゃない。お互いに電話で励まし合いながら、記録をやったじゃない。何度も何度も、病棟で、控室で、学校で、病棟や患者さんや、先生のことについて、話し合ったじゃない。私の好きなものを、覚えていてくれたじゃない。いつも最終カンファレンスの時プレッシャーで、押しつぶされそうになる私を、励ましてくれたじゃない…どうして…)
柏木薫が土師光莉を絞殺したのは、その翌日のことである。
「どうして?何で光莉が、柏木薫に殺されるわけ?絞殺って…首を絞められて、殺されたってこと?何で…」速水麻耶が、驚愕の叫び声をあげる。
「光莉がそんな殺され方、されるはずがない。薫に。だって光莉は、中高とずっと剣道をやっていて、今も、実習中はともかく普段の学校の時は、週一でテニスをしている。対する薫は、大学生になってから全く運動していない…光莉の方が薫よりずっと握力も、全体的な体力も、勝っている。抵抗しようと思えば、いくらでもできたはず。なのに、どうして…」
「抵抗しなかった、ってことか…?」心ここにあらず、といった体で浩二が言う。
「どうして?何で抵抗しなかったの?それじゃまるで自殺じゃん。どうして光莉が、自殺しなきゃいけないわけ?家族も、友達も、恋人もいて。入試の時の成績上位者だけがもらえる、四年働いたら返還不要の特別奨学金で、就職先は大学附属病院にとっくに決まっていて。先生とかからハラスメントされたって話も聞かないし、実習だって勉強だって、特に困っていた様子はなかった。バイトはとっくに辞めて、単発の派遣しかしていないから、そっちの人間関係で悩むこともない。一体どこに、あの子が死ななきゃならない理由があるわけ?」麻耶は、浩二を問い詰める。彼はただ、言葉にならないうめき声をあげるだけだ。
「家族がいて、友達がいて、恋人がいても、人はどうしようもない孤独に襲われて死にたくなる時がある」
「って、ある作家が言っていた」お武がつぶやく。
「じゃあ、何。光莉はそのどうしようもない孤独に襲われて、自ら殺されたってわけ?」麻耶がお武に、そう噛みつく。
専攻は違えど、大学一年生からの親友である光莉を喪った麻耶の悲しみは大きい。だが、浩二の気持ちも、それ以上に複雑なのであった。かつて自分が愛した女が、かつて自分を愛してくれた―ひょっとしたら今もなお、自分のことを愛しているのかもしれない―女に殺されたのだから。まさか、彼を巡って殺し合ったわけではあるまいが。
そして、お武もまた、深い悲しみにとらわれていた。彼女は友人であった光莉の死も、勿論悲しかったが、それ以上に親友を殺すところまでに追い詰められた、薫が哀れでならなかった。
「…あの二人は、深く愛し合っていた」お武が言う。
「お互いに、あまりにも深く、深く愛し合い過ぎた。だからこそそれが、大きな憎しみに…どちらかがどちらかを殺さなければならないほどの、激しい憎み合いになってしまったとき、二人は…」互いに殺し、殺されなければならなかった。薫は光莉を殺し、光莉は自ら薫に、殺されたのである。
「私は…私はあの二人の関係が、羨ましかった」そう言って、麻耶は泣きじゃくる。
「ずっと…光莉のことが、好きだったの。それで、中学の時からずっと、彼女のそばにいるあの子のことが、妬ましかった。光莉は、本当にきれいで、明るく前向きで、おっとりしていて、優しくて。頭も良く、テニスも上手で…完璧だった。そんな完璧な彼女の片割れになりたい、ずっとそう願っていた。でも、叶わなかった。光莉のそばには常に、影のようにあの子が寄り添っていた。二人が絶交したって聞いた時は、嬉しかった。なのに…」
「その気持ちは分かる」浩二も麻耶に、同調する。
「俺も光莉のそばにいる、柏木薫のことが羨ましかった。それで…恋愛とは違うけど、あの子のことも、好きだった…惹かれて、いた…」
「私は薫ちゃんのことも、好きだった、とても」お武も、口を開く。
「光莉ちゃんは…確かにきれいで、人見知りだけど明るくて、誰にでも優しくて…いい人だし、好きだった。でも、薫は…薫ちゃんは…どっちかと言うとネガティブ思考だし、無口で地味で、暗いけど…でも、言いたいことははっきり言うし、自分の意見、考えを持っている。誰にでも優しいってわけじゃないけど情は深くて、好きな人にはとことん尽くす。尽くし過ぎで、ウザがられることもあるけど。冷めているように見えて実は誰よりも情熱家で…いい人、だった…」
光莉の母は、美しい人であった。光莉は遅い結婚で設けた一人娘で、母はもう還暦を迎えようとしていた。にもかかわらず、彼女はとても美しかった。娘の不幸な、突然の死を嘆きつつも、葬式の場で凛と、気丈に振る舞うさまは見事であった。
その葬式場に、一人の中年の女が、同じく中年の男に連れられてやってきた。
その女の年は、四十のはじめであろうか、それにしては随分と幼く、子供じみた様子であった。髪は肩のあたりで切り揃えられ、黒々と白髪一つなかった。身長はそこまで低いというわけでもないが、ひどく痩せていて、そのため全体的に小さく見えた。そしてその女は、光莉の母が知っている人物であった。
「三宮…実姫…」
「柏木…ああ、そういうことだったの…柏木、薫…彼と、あの女の、娘…ああ…」光莉の母が、つぶやく。彼女の名は葉子、そう、旧姓越智葉子、柏木太一の元カノである。
すべてを悟った葉子は、
「ああっ!」と叫び、三宮実姫に襲い掛かる。
「この…ああ憎い、憎い!あんたは私から、何もかも奪った!彼も、娘も…!お前の娘が私の娘を、殺した…あんたのせいで、あんたのせいで…」ひどく取り乱して、実姫の胸ぐらを掴む葉子を、彼女の夫であり、光莉の父親でもある土師氏が、慌てて引き離す。
「やめないか!…気持ちは分かるが、光莉が死んだのはこの人のせいじゃない。第一、彼女がいなかったら君はそのまま、その柏木とかいう男と結婚してしまって、と、するとつまるところ光莉はこの世に生まれてこなかった、ということじゃないか」そう言ってなだめる夫の言葉に対し、葉子は
「この女が子供を産まなければ」と、その美しい顔からは想像もつかないほどすざましい形相で、実姫を睨みつけながら叫ぶ。
「そう、そうすれば光莉は死ななかった!心を病んで、自分じゃろくに育てられないくせに、子供を産むなんて!おかげでろくに母親に育てられなかった娘は、人殺しになった!何もかも、この女のせいよ、この女の、せいよ…!」泣き喚き、狂乱する葉子と、彼女に襲われる実姫を、葉子の夫と、実姫の弟(薫の叔父)は必死になって取り押さえていた…
お武は、あることを思いだしていた。薫に、伝えなければならなかったことを。
それは慢性の実習でのことであった。お武は自身の受け持ち患者とともに、廊下を歩いていた。と、すると以前薫の受け持ち患者で、彼女の受け持ちを断った人が、その人の娘と思われる人と、看護師と共に歩いているところにすれ違った。何でも、その人は今日退院するのだという。
「学生さん」患者の娘が、お武を呼び止める。
「せっかく受け持ってもらったのに、あんなことになってしまって申し訳ないと、父を受け持っていた学生さんに、伝えてやってください。決して学生さんのせいじゃ、ありませんから…父は、学生さんが来ると色々と話そう、やろうとして張り切ってしまうのです…それで今回、頑張り過ぎて、疲れてしまって結局、受け持ちをお断りすることになってしまったのでしょう…」と…そのことを、今の今まで薫に伝えることをすっかり、忘れていた…
(私は)お武は思う。
(私は…彼女に、薫に、あなたは自分で思っているよりもずっと、良い人だ、っていうことを、伝えることができなかった…)
登場人物紹介
柏木薫
この物語の主人公。
土師光莉
薫の友人。
三宮実姫
薫の母。
柏木太一
薫の父。
越智葉子
柏木太一の元カノで、彼より六歳年上の看護師。柏木に振られたのち、妻に先立たれた土師氏とお見合いで結婚、娘光莉を儲ける。
緒方浩二
薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。
速水麻耶
薫、光莉の大学の同級生で、医学部リハビリテーション学科PT(理学療法士)専攻。
小武香
薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。通称「お武」。テニスサークル所属。薫とは三年後期からの看護各論実習のグループが同じだった。
黒井丈次
薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。ただし、年齢は薫達より三、四歳年上で留学、社会人経験もある。国際ボランティアサークル「クロスワールド」に所属していたが、二年で辞める(理由は自分が目ざしていたものとサークルの方向性が異なるため)。
及川幸
薫、光莉より一学年上の看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」の先輩で、薫達が二年の時のサークルリーダー。
藤井佳織
薫、光莉の先輩。薫、光莉とは仲が良い。通称は「おりん」。
鷹司千佳
薫、光莉の大学の同級生で、医学部リハビリテーション学科OT(作業療法士)専攻。国際ボランティアサークル「クロスワールド」所属で、薫が三年の時にはリーダーを務めた。
瀬戸内直美
薫、光莉より一学年年下の看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」所属で、次期リーダー。光莉とは学園祭の委員も一緒。
団野翔子
薫より二学年下の看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」所属。通称は「団ちゃん」。
歌橋亜弓
薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」所属。
阿部真佐季
薫、光莉の大学の同級生で、医学部リハビリテーション学科OT(作業療法士)専攻。国際ボランティアサークル「クロスワールド」に所属しており、光莉の友人。




