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人形の娘

「私を見捨てないで~Please love me.」第2章。

 三宮実姫と柏木太一との間に生まれた一人娘、薫とその友人、土師光莉はしひかりの物語です。

 薫は苛められっ子であった。幼稚園の頃からずっと、苛められ続けてきた。

 両親はおらず、祖父母に育てられてきた。

「かわいそうな子」そう言われながら育った。

 両親もなく、友達もいない、苛められっ子の薫のことを同情する者はたくさんいた。だが彼女は、そんな彼らを嫌った。

「かわいそうに」と言われるたびに、

「見下されている、馬鹿にされている」と捉え、心を閉ざした。

 そういうわけで、薫は人間不信であった。人を嫌い、いや、人という人を憎んでさえいた。そして何より、自分自身のことを嫌い、憎み続けていた。彼女に友人と呼べるものは一人もいなかった。そう、十四歳のあの日までは…

 十四歳の四月、中学三年になって初めての体育。ソフトボールの授業で、二人一組で

キャッチボールをすることになっていた。薫と組みたがる者は例によって誰もいない、と思われたが…

「じゃあ、私は薫ちゃんと組む」そう、何のためらいもなく言った少女がいた。少女の名は土師光莉。すでに彼女には新しいクラスの中に四人の友人がいて、彼女を含めて五人のグループであった。

(奇数グループで、余りものだから仕方なく私と組んだのだろう)と薫は考えた。それにしても、光莉の声には、渋々といった感じや同情の色が、まるでなかったが…

 この出来事以来、土師光莉は薫に対し積極的に話しかけるようになった。

「今日の給食、おいしかったよね」

「(合唱の)アルトパートって難しいよね」

「(薫が園芸部で作った)あの寄せ植え、なかなか良かったよ」

「高校じゃ何部活入る?」

「薫ちゃんって、なんでそんなに色が白いの?羨ましい」

「あの先生がつけていたシュシュ、うちのお母さんが持っているのと同じだった」等々…

 薫は当初、ただただ困惑するばかりであった。なぜ彼女は、この私に、こんなにも積極的に話しかけるのか?何か魂胆があるのか?けれども、光莉の薫に対する態度、声色、表情に今まで薫が人から向けられていると感じてきた、同情や蔑み、嘲り、偽善といったものは見られなかった。光莉は純粋に薫に対して興味関心、友情のようなものを抱いているようであった。

 そうして薫は次第に、光莉に対して心を開き、懐くようになっていった。光莉の友人達は、何故彼女が薫にかまうのか理解できないようであったが、彼女達も光莉と同様、薫に対して優しく接するようになった。


 中学校を卒業し、薫と光莉、二人は同じ高校に進学した。クラスも(薫は音楽選択、光莉は書道選択クラス)部活動も(薫は弓道、光莉は剣道)異なる二人であったが、学校への行き帰りを共にする仲であった。

「この前の中間テスト、光莉は何位だったんだっけ?」

「(三百六人中)三十位。そっちは?」

「三十二位。惜しい。あと二人。今度の期末じゃ、絶対負けないから。…少なくとも、国語と公民じゃ、絶対負けないから。」

 高校からの帰り道。この頃、薫は美人で性格も運動神経も頭も良い、光莉に対して露骨なライバル心を燃やすようになっていた。光莉は苦笑しながら、

「薫ちゃん?」と言った。

「何?」光莉にその名を呼ばれ、薫の唇は、かすかな笑いを含み歪む。

「…いや、ずいぶん明るくなったよね。中学の時と比べて」

「そう?元からこんなもんだけど。暗かった?中学時代?…まあ、学校嫌いだったし…でも…別に意識して明るくなったわけじゃないし。自然体だし。私は元々明るいよ。皆が、色眼鏡で私のことを見ているだけで…」

 それから二人は、しばし無言で歩き続ける。薫は時折、ちらちらと光莉の方を窺っては、その美しい横顔に眼を細めつつ、あることをいおうか言うまいか迷っていた。

 「…光莉?」やがて、意を決した薫が沈黙を破った。薫は立ち止まり、不安と期待を含んだ熱っぽい瞳で、じっと光莉のほうを見つめる。光莉も足を止め、

「何?」と訊ねた。薫はややどもりながら

「こ、今度…今度の土曜日、学校が終わったら…(隔週で土曜日の午前中にも補習があった)もしも、もしも嫌じゃなければ…私とい、一緒に、フレンチトースト、食べに行きません、か…?」と聞いた。光莉は少し戸惑いつつ、しかし嬉しそうに微笑みながら、

「いいよ」と答えた。

 光莉のその言葉を聞き、薫はこわばっていた肩の力が抜け、顔をほころばせた。そして再び、二人は並んで歩きだした。

 このころから、彼女たちは二人だけで食事やカラオケ、買い物に行くなどして遊ぶ仲になっていった。


 高校二年、三年も二人は別のクラスであった。薫は文系、光莉は理系クラスであった。

 「やっぱり、理系の方が優秀だよね?」学校へと向かう道のり、薫がこう切り出す。

「そんなことないよ」光莉は答える。

「いやー、絶対理系の方がすごいって。数学も物理、化学も…文系なんて、ただ覚えるだけだもんね」薫は自虐的に言う。彼女の友人は理系ばかりであった。彼女がかつて、二か月余り付き合っていた男も、更にその彼が現在、付き合っている女も理系であった…

「でも私、光莉には負けないから…」

 光莉は誰もが認める美少女であった。三日月型の整った眉、大きな二重の瞳、涙袋。色は黒いが肌はすべすべ、ニキビ一つなかった。高くはないが形の良い鼻、ふっくらした唇に口元のえくぼ。どちらかというと「可愛い系」に分類される。スタイルも良く背は中背。太っても痩せすぎでもない。ファッションセンスはさほどなかったが、彼女は何を着てもかわいかった。成績は理系トップクラス。運動の方もなかなかで、剣道部ではレギュラー、県大会にも出場している。おまけに性格も良いとくる。人見知りではあるが明るく優しく、おっとりしていて、時折ぬけているところもあるがそこがまたかわいい。

 一方薫は、暗く冷たい雰囲気を醸し出す容貌で(めったに笑わないせいかもしれない)、明るく可愛らしい光莉とは対照的であった。運動もさほどではなく、弓道部ではいつも補欠であった。性格も陰気で、高慢かつ自己中心的。好きな人にはとことん尽くすが、そうでない者には全力で無関心であり、冷たい。

そんな薫が光莉に勝てるのは、色の白さとファッション、休日に光莉と会うとき、薫はいつも彼女が考え得る限り最高のおしゃれをしていた。恋人がいる(いた)こと―そう、何故か光莉には高校三年間、恋人がただの一人もいなかった。彼女が完璧すぎるので男達は却って近寄り難かったのであろうか―そして勉強であった。勉強、テストの成績ぐらいしか薫の光莉に対する、勝利が目に見えて分かりそうなことはなかった…(けれども、それさえも光莉に負けることはしばしばあった)


 「私は」薫は言う。

「絶対、何が何でも国公立に行く。県外に出る。…あの家から、早く出ていきたい。私大なんて、あり得ない」二人の住む地方は、いわゆる公立王国であった。

「…私大で、悪かったね?」と光莉。

「ああ、光莉はいいでしょ?作業療法を教える国公立大学は、少ないんだから。医学部だし。でも…看護学部なんて、腐るほどある。今時看護の無い大学なんて、無いといっていいほどなんだから。」薫はこう舌打ちし、鼻を鳴らす。

 高校三年の二月。受験シーズン真っ盛りである。光莉はもう、県内の私立医科大医学部リハビリテーション学科OT(作業療法士)専攻に入学が決まっていた。

 薫はまだ進路が決まっていなった。県外の国立大学医学部看護学科を目指していた。薫が看護の道を目指したのは、将来絶対安定の資格専門職であるということ、それとかつて好きなアイドルタレントがドラマで看護師役を演じていた、という、あまり褒められたものではない動機からであった…

 薫が県外に出たい理由は、祖父母のもとから離れたかったから、国公立を目指す理由は、私立は学費が高く、一人暮らしをさせてもらえないからであった。更にそれだけではなく、彼女らが通う高校の教師たちが、国公立大学進学を生徒たちにゴリ押ししているからでもあった。

 彼女らが通う高校は、もはや生徒は旧帝大であるT大、K大、N大といった大学に進学できるようなレベルにはなく―地元のN大には推薦でなんとか数名送り込んではいたが―生徒たちに地方の、それも合格しても行きもしないような遠方の国公立大学を前・中・後期と一人最高三校、光莉のように私大に行くと決めている者にまで最低でも一校は受験させて(おかげで光莉は、行きたくもない隣県の看護大学を受験させられた)、

「国公立大学合格者数何名」ということでかろうじて「進学校」の名を保っていた。教師たちの口癖はこうだった。

「私大は馬鹿です。皆さん、国公立大学に行きましょう」…いや、さすがにここまで露骨な表現はしていなかったが。だが、そのようなニュアンスの言葉をたびたび口にしており、薫は彼らにすっかり洗脳されてしまった…

 「私大は馬鹿。」薫は言う。

「ああ、もちろん、医学部は別だけどね。医学部は特別だもの。でも、私大の看護は馬鹿」

そう切り捨てる薫を、光莉は苦々しく見つめていた…


 「ああ!どうして」薫は吐き捨てるように言う。

「どうして…こんな、こんな馬鹿大学、来るんじゃなかった…多少無理してでも、あっちに、福井に行けば良かった!」

「こんな馬鹿大学で、悪かったね?」光莉は怒ったように、いや実際怒って言った。

 薫は第一志望の、国立大学医学部看護学科に落ちたのである。後期試験で受験した、地方の公立看護大学には合格したのだが…諸事情により、光莉と同じ、県内私立医科大看護学部に進学することとなった。

 大学内で一番大きな食堂で、学食を食べながら二人は話していた。

「医学部は、そっちは別だよ?もちろん。でも、でも看護は…ここまでひどいとは思わな

かった。半分は推薦で十一月だか十二月だかに入学が決まって、それからもうバイトしたり、免許取ったり、遊びほうけていた人たちだもの…高校の時、クラスで、N大に推薦で進学したあの二人は、合格して入学が決まってからも、毎日私たちと同じように勉強していたっていうのに!私が推薦じゃなくて一般入試でここに入ったって言うだけで、推薦入学の人たちはすごいだの頭がいいだのって言うの!何言ってんの?あんた馬鹿ぁ?馬っ鹿じゃないの?私が優秀?頭がいい?馬鹿だから国立落ちて、こっち来たんだっつーの!」薫は、更に続ける。

「私が優秀って言うのは、私がセンタープレの国語で、何点取ったかを聞いてからにして欲しいわ。私はセンタープレの国語で、百九十八点取った。…本番もこれくらい取れていれば、今頃…何故…古典は十八番の、源氏物語だったのに!」薫は、苦々しげに唇をかむ。

「何故?何故?どうして、何のために…何のために私は、古典を、漢文を、日本史をやったわけ?何のために三月半ばまで、あんなに必死で、それこそ毎日十時間近く勉強したっていうの?…あの馬鹿高校が!何がマジックよ!行きもしない地方の無名国公立大学を生徒に手当たり次第受けさせて、国公立大学何名合格っていう、進学校の名を保ちたいだけじゃない!ああ…あんなに勉強したのにこのザマとは…担任と進路指導はどうでもいいとして、これじゃ日本史や、二次試験のために英作を教えてくれた先生達に、申し訳が立たない!何故…ほんと、馬鹿みたい…」

 それでも、学部は違えど、同じ大学に入学したことで、二人の仲は続いた。同じサークルに、三月の春休みに十日間カンボジアへ行き村の小学校の子供たちに保健衛生の授業を行うボランティアサークルだが、そこに入部した。帰りの時間が合えば、光莉の車で薫が、大学から最寄り駅まで送ってもらうこともあった。夏休みには、二人で旅行もした。薫と光莉の仲は、大学生になってから一層深まったようであった。特に薫は、光莉に対して精神的に依存しつつあった…


 「ああ!楽しい。私今、ほんと幸せ…中学の修学旅行の恨みを、四年越しの大学一年で討つ、みたいな?」薫が、楽しげに語る。夏休み。薫と光莉は千葉にある、某夢の国を訪れていた。中学時代にも二人はそこを修学旅行で、半日だけ訪れていたのだが。

「中三の時は、一つしかアトラクションに乗れなかったものねえ…」光莉が薫の言葉にうなずく。そう、中学の時は一つのアトラクションにしか乗れなかったのだ。

 何故か。彼女達の班の、六人のうち二人が、着いて早々、トイレへ行ったきり行方不明となってしまったからである。修学旅行の班は男女別で、クラス委員がクラスの人間関係を見て決めたのだが、その二人と薫と光莉含む四人は、それほど仲が良くなかった。(厳密にいうと、薫は光莉としか仲が良くなかった)行方不明となった二人は、彼女達だけで夢の国を楽しんだらしい。だが残された四人は、馬鹿正直にも二人を探し、とうとう最後の集合場所まで再会できず、途中で探すのをあきらめた結果たった一つのアトラクションにしか、乗ることができなかった…

「もっと早いこと見切りをつけて、さっさとアトラクションもっと乗ればよかった。あの二人はあの二人で楽しんでいたのから、ねえ?」薫が愚痴る。彼女は相当、根に持つタイプだ。

「まあまあ、いいじゃないの。今、こうして二人で来ることが出来たからさ」光莉は、過ぎたことにあまり頓着しないタイプだ。

「ま、ね…ありがとね、光莉…一緒に、来てくれて…」

「ううん。こっちこそ、誘ってくれてありがと…」二人は炎天下の中を、生き生きと軽快な足取りで、歩いていった…


 アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーアラピヤーアラピヤー ムォーイピー!

 カンボジア、村の小学校。どこかで歌う声がする。薫と光莉は、カンボジアに来ていた。

サークルのボランティア活動である。

 「この歌、どこかで聞いたことがある」薫はつぶやいた。

「昔…昔、ママが私に、歌ってくれたような…ううん、そんなはずない。あの人は口がきけなかったもの…きっとあれは、夢の記憶…」薫と光莉は、子どもを背負いながら校庭を歩いていた。カンボジアの子どもたちは、学生を見ると抱っこ、おんぶとまとわりつくか、学生をつつき笑いながら逃げるか(追いかけっこのつもりか?)のどちらかであった。その歌声は、校庭の端から聞こえていた。サークルの先輩が、子どもたちと一緒に歌っていたのだ。

「アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーヤーヤアラピヤー」薫もいつの間にかこの歌を、アラピヤを口ずさんでいた。光莉の背中の子は降りて、近くでやっていた長縄跳びに興味を示しそちらへ向かった。薫の背中にいた子も降りてそれに加わった。光莉は子どもたちと一緒に行ったが、薫は一人、そこでアラピヤを口ずさみながら立ちつくしていた。

「アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーヤーヤアラピヤー…」


 「どうなの?そっちの…『免疫 後半』の進み具合は?」大学二年の十二月。光莉が食堂で緒方浩二、速水麻耶といったクロスワールド(先述の春休みにカンボジアへ行き、ボランティア活動を行うサークル)のメンバーと話し合っているところに、薫が割り込んできた。

 『免疫 後半』というのはカンボジアの小学校で行う保健衛生の授業内容の一つである。けがの対処法や適切に傷口を処置しないとどうなるか、といった内容の授業を実施することを任されたメンバーなのだが、これが迷走していた。(ちなみに『免疫 前半』は掃除の仕方を教える)原因は内容が歯磨きやしらみの対処法といったほかの授業に比べ、何をどう教えたらよいかがはっきりしておらず難しいこと、頼みの綱である三年生の藤井佳織という看護科の先輩が、実習のストレスからか、ぶっ倒れてしまったこと、リーダーである緒方浩二の暴走(彼はいい人だがどうも頑固というか、一途に思い詰めるあまり周りが見えなくなるところがあり、一年の『免疫 後半』メンバーから苦情が出ていた)その他二年メンバーである速水麻耶と土師光莉が頼りないこと、であろうか。

 とにかく、そういった諸事情があるため、二年連続『しらみ』の授業担当である薫も心配して、介入してきたという訳である。

「…うん、まあ、なんとかね。」浩二が答える。

「…まあ、今見ていた限りでは大丈夫そうだね。三人の仲がいいことは救いだわ。去年の『しらみ』もこんな風に迷走していてね…初めてやることだったし、カンボジアの事情とこっちのしらみ対処法とは全然違うから…二年の先輩たちの仲も、ギスギスしていて…

だからちょっと、心配になって」薫は言う。

「薫のとこは、今年どうなの?」光莉が訊ねる。

「今年はまあ、二回目だし何とかやっているよ。」薫は答える。

「『免疫 後半』が今ぶつかっている問題って、けがした時はきれいな水で傷口を洗いま

しょうって、そもそもむこうできれいな水が手に入るかって話でしょう?それ以外にもいろいろあるけど。去年『しらみ』がぶつかった問題と一緒。あの時、誰か別の授業の先輩に、大丈夫かって声をかけて欲しかった…だから今私こうして声をかけてみたわけですよ。

…ここ今二年しかいないけど。一年が心配だな。去年のカンボジア後半メンバーが今年少ないのは、『しらみ』でいろいろあったことも原因の一つじゃないかって思う」

「難しいね…まあ、頑張って」そう言い残し、薫は立ち去った。


 二月、第一土曜日。クロスワールドの定期ミーティング。その日は一般入試と重なり、大学が使えなかったため、薫たちは地域の交流館の一室をミーティングルームとして借りていた。

 昼の休憩時間。薫と光莉、緒方浩二、速水麻耶、藤井佳織の五人、つまりしらみ一人と免疫後半四人は、交流館近くのコンビニへと向かっていた。寒く、曇り空の下ではあったが、五人で一緒に歩く道のり、薫の心は大変晴れ晴れとしていた。

 「今朝一般入試のスクールバス案内のバイトやったんだけどさ」浩二が口を開く(彼がこの日、ちょっとミーティングに遅れた訳はこういうことらしい)。

「そこで事務員の人(二十代男子)と恋バナしちゃったよ」

「へえ?浩二は(恋バナ)なんかあるの?」佳織が面白そうに尋ねる。

「…」

「ないんだ?」

「…今に見てろ」

「うん、楽しみにしている。カンボジアで浩二の部屋に、麻耶達と押しかけて聞いてあげる」

「いやいや、カンボジアでするのはおりん(佳織の愛称)の話やろ?」佳織に恋人がいることは、このメンバーは前回のミーティングの時点ですでに聞いていた。

「光莉にもテレビ通話で教えてあげるね?」浩二の言葉を交わし、佳織はにこやかに光莉に言う。光莉は今年、国内での活動には参加していたが、カンボジアには行かないので

あった…

「ありがとう」光莉もにこやかに答える。

「…光莉ちゃんはなんかないの?」浩二が訊ねる。

「ないよ。なんにも」光莉は笑い、

「薫は?」と話を振った。

 薫は戸惑いつつも、

「ないよ」と意味ありげに、熱を含んだ眼で浩二の方を見、唇の端に笑みを浮かべながら、こう言った…


 「医学科の加藤茂、彼とは一体どういう関係なの?」薫は強い口調で、光莉を問い詰める。

「だから」光莉は反論する。

「だからただの、幼なじみだってば。」

「ただの幼なじみ?本当に?」薫はなおも、問い詰める。居酒屋。薫はビールを、光莉はカクテルを飲み、串焼きをつまみながら言い争っていた。二人は大学三年になっていた。

「本当だって。彼とは幼稚園の頃からずっと一緒で…高校は別だったけど…」

「それで、この大学で運命の再会ってわけ?」皮肉を込めて、薫は言う。

「医者の卵と、OTの卵として再会ってわけだ。ただの幼なじみ?ごまかさないでよ。

知っているんだから。成人式で、私は行かなかったけど、成人式の中学の同窓会以来、急に…二人で飲みに行っちゃったりして…」

「それはただの…」光莉は口ごもる。

「…関係ないでしょ?私が誰と飲みに行こうが、付き合おうが。…飲みといえば、麻耶から聞いたけど、あなた、この前のカンボジアで酔いつぶれて、おりんに介抱されたんだって?なんでも、看護の緒方君に皆の前で告白して、玉砕したんだってね。…私のことより、あなたはどうなのよ、あなたは。また生田君の時みたいに、彼に、緒方君にストーキングしないでよ?」今度は逆に光莉が、薫をなじる。

「あんなことは、なんでもない」薫はすかさず反論する。

「酔いつぶれたことは…あそこで酔いつぶれたのは、私だけじゃない。おりん自身も、かなり酔っていたし…あの状態で、ゲストハウスの二階三階を何往復もさせて、彼女には申し訳なかったと思うけど…でも、そうなった(おりんにゲストハウスの二階三階を何往復もさせた)のは、緒方浩二、彼も酔っていたからよ。いや、あいつの方がやばかった。」

「ふられたことは…まあ、あれは、もういい。彼への思いが、なくなったってことじゃなくて…彼への思いは、まだ…まだあるけど、まだ好きだけど、でも別に、彼と付き合いたいってことじゃない。寝たいとは思うけど…いや、もう、付き合うとか、そういうのはいい」

 薫はなおも、唇を尖らせながら続ける。

「生田のことは、あれは、あいつが悪い。そりゃ、こっちもやり過ぎたとは思うけど…まだ高二だったし…でも…二股かけていたなんて!あいつは私と別れてから付き合いだしたって言っていたけど、信じられるものか。私と別れて二週間と経たないうちに…私と付き合っていた頃は、同じ部活同士で、建て前部活内恋愛禁止ってこともあって、こそこそしていたけど、あいつとは、彼女は吹奏楽部だったけど、彼女とはあんなに堂々と…やっぱり二股かけていたんでしょ?」高校二年の時、二か月足らず付き合っていた元彼への怒りを、光莉にぶつける。

「もう、いい。恋人とか、そういうのは…たとえ…たとえ彼が、浩二が私を愛してくれなくても、私は彼を愛し続ける。それでいい。愛されるより、愛したい。愛されなくても、愛し続ける…」

 光莉は半ばあきれ、

「…彼の、緒方君の、どこがそんなにいいの?」と、眉をひそめ尋ねる。

「皆彼のことを悪く言っている。OT・PT(理学療法学科)の子達も、軽音の三年女子達も、クロスワールドの子も彼を嫌っている。一見優しくていい人そうだけど、空気読めない、人の話聞かない、頑固で、冷たい人だって…」

「…彼のことをそんなふうに言わないで」光莉の言葉に薫が、口を挟む。

「私が言っているんじゃない。私の友達とか、知り合いが、そう言っているの」光莉は慌てて否定する。

「…皆、彼のことを悪く言う。確かにそういうところもあるけど、でも…彼は、いい人よ。冷静で、情熱的で、弱くて、強くて…賢くて、どうしようもないほど馬鹿で、まっすぐで、ひねくれて、繊細で、図太くて…誤解されやすいけれど、誰よりも純粋で、一途で、心優しい、人を愛することのできる人…」薫は、静かにつぶやく。

「…薫。彼は、あなたとは合わない。あなたには、もっと大人な人の方がいい」光莉の言葉は、薫の耳には届かないようであった。

「…ドラムを叩く奴は皆、いい奴だよ。阪ジョニの大原も、俳優の岸谷賢吾も、浩二も…関西弁で、ドラムを叩く男に、悪い奴はいないんだよ。」『阪ジョニの大原』とは、薫が看護師を目指すきっかけを作ったアイドルタレントである。彼はかつてドラマで、看護師役を演じていた。

「薫」光莉は、薫の言葉を訂正する。

「緒方君は、三重県民だよ…」


 「なんで」大学の廊下を歩きながら薫が光莉を、再びなじる。

「どうして、私が一週間、タイ・ミャンマー国際保健実習に行っている間、連絡をくれなかったの?」

「そんな…私だって忙しかった。実習の準備やらいろいろ…」

「でも、加藤茂とデートする暇はあったでしょ?なんで、どうして、私には…」

 夏休みの終わり。後期から、看護学生である薫はいよいよ病棟実習が始まる。リハビリテーション学科の光莉はすでに前期から実習に行っていた。実習前の手技練習で大学に来ていた薫と、同じく勉強しに来ていた光莉はかち合ったのである。そして、口論となった。

「私がタイで、ミャンマーで、一週間、どれほど孤独だったか。一緒に行った子達の中に、仲のいい子は誰も、いなかった…!私が、一人でどんなに孤独だったか…」

三田ミタちゃんと、ホテルで同室だったって聞いたけど?同じ看護で、保健師課程の」光莉は問いかけた。

「サンタマリアぁ?あの子?…彼女は、なんだかんだ、冷たい。優しそうな顔して…見かけほど、いい人じゃない」薫の愚痴は続く。

「今度のカンボジアも…もう、メンバーに全然、好きな人がいない。光莉、あんたは一年で辞めちゃったし…先輩達も、同期の浩二も、もういない。今度(カンボジアに一緒に)行く後輩達も、同期も、好きじゃない。麻耶は…嫌いじゃないけど、別にそんな、好きでもない。彼女も、冷たいところがあるし…」

 光莉は薫に対し、諭すように語りかける。

「…そんなことは、初めから分かっていたでしょ?私と緒方君が、今年はもうカンボジアに行かないことは。それでも薫、今年行くって私に言って…保健師がどうたらこうたらとか、長文メールよこしたよね?私や緒方君のためじゃなくて、自分のために行くんでしょ?アプリオリ(クロスワールドと並んで、この大学が力を入れているボランティアサークル。国外ボランティアであるクロスワールドに対し、こちらは国内で、主に災害・防災系のボランティアに取り組む。年に一度夏休みに震災があった地域にボランティアへ行き、また月一の防災学習や、他大学との交流を行う。優秀な一、二年がクロスワールドより多いという噂も…)に、負けたくないんじゃなかった?クロスワールドは、カンボジアに行って、子どもたちのためにヘルスチェックをして、しらみや感染の授業をして、彼らと遊ぶことは、あなたの生きがいなんでしょ?」

「…そういうイタメールを、送ったね。浩二にも、今回のリーダーにも…彼女も、彼女のグループの、他のメンバーも、好きじゃない」薫はそう、暗い顔でつぶやく。

「…この大学で私が好きな人は、光莉、あなたと浩二だけ…この大学で、この世で、私が本当に好きな人は、本当に愛している人は…」ここで薫は口をつぐみ、荒々しくその場を離れた…


 光莉、私がこの世で愛しているのはあなただけ、そう、あなただけなの。私は特別、あいつらとは違う。だから誰も私のことなど分からない、理解できやしない。私も人のことがわからない、理解できない、そんな彼らのことなど愛せやしない。

 でも光莉、あなたは違う。あなたも特別、選ばれし者…愛しているの、光莉…

 私はこれまで誰にも見てもらえなかった。誰からも理解されなかった。愛されなかった。

母は私が生まれた時から心を病んでいた。彼女は決して、私のことを抱きしめようとも、話しかけようとも、見ようともしなかった。冷たく、陰気で、何を考えているのかまるで分からない、人形のような人だった。

 父はそんな母と私を見捨て、私が四つの時に家を出て行った…母も精神病院に入院して、戻ってこなかった。そして父は、私が小学校に上がる直前に、自殺した…母とは、その父の葬式以来、顔を合わせてはいない。

 私を引き取ってくれた祖父母も、同居している叔父も、他の親戚の人達も、近所の人達も、学校の先生達も、周りの子供達まで、皆、私のことを

「親に捨てられた可哀そうな子」って、同情の目で見るの。でも、誰も私のことを、本当の私のことを、見ようとはしなかった。私を、可哀そうなだけじゃない、可哀そうじゃない、一人の、普通の、まともな人間として見てくれなかった。私を、理解しようとはしなかった。私のことを、愛そうとはしなかった…光莉、あなたを除いては。

 光莉、私とあなたは同じ。私たちは似ているようで似ていない、似ていないようでそっくり…私たちは表裏一体、一枚のコインの裏表、白と黒、光と陰…他方がなければ、もう一方も存在することはできない。私たちは共に選ばれし者、運命の姉妹…!その魂は互いに深く、深く結びついていて、決して離れられやしない。特別な、宿命の絆…!

 光莉、光莉!私の片割れ、もう一人の完璧な私、私の運命、私の全て、私の、魂…!愛している、愛している、愛している…

 だからお願い、私を、私のことを見て、見て!私だけを、私のことだけを見て、私を見て!私を見捨てないで、離さないで、ずっと私のそばにいて。私を愛して、愛してよ…愛しているの、光莉…!


 光莉は薫にとって初めての友人で、ただ一人の親友であった。光莉は薫にはなく、彼女が欲しかったものを全て持っていた。美貌、才能、周囲からの人望、そして両親からの、愛…薫はそんな光莉が妬ましく、羨ましく、そして、強く惹かれていた。光莉から好かれること、注目されること、必要とされること、愛されることが、薫の誇りであり、癒しでもあった。

 薫がこの私立医科大に入ったのは―地方の公立大に受かっていたにもかかわらず―光莉が、そこにいたからでもあった。県内の工業大学に通っていた恋人と別れ、同じ大学で恋した浩二にも振られた今となっては、光莉の存在のみが―もちろん、大学内に他にも友人はいたが―彼女のこの大学に在籍している理由の全てであった。薫は光莉にひどく執着し、彼女との関係に固執していたのである。   

 一方の光莉は、というと、最初の頃は薫の中に自分にはないもの―気性の激しさ、ひねくれたユーモアのセンス、強い好奇心と行動力、物事の善悪や裏を見抜く力、計画性の高さ、頭の回転の速さ―に心惹かれ、彼女に好かれること、頼られることを嬉しく思っていた。薫から依存されることに、光莉自身もまた、依存していたのである。だが、光莉の方は次第に、自分に対する薫の執着心を重く感じるようになり、彼女との関係に、疲弊するようになっていった…


 食堂でばったり、二人は出くわした。十二月。光莉の実習は十月半ばで一区切りついており(一月からまた七週間あるが)、薫は三週間の成人慢性期看護学実習の真っ最中、その日は二週目の木曜日で学内日であった。受け持ち患者とのコミュニケーションがうまく取れず、昨日その患者から、受け持ちを途中で断られてしまっていた…

 「自分が心を開かなければ、」光莉は言う。

「患者さんも心を開かないよ」

「…心を閉ざしているっていうの?私が?」薫がむきになってこたえる。

「そうじゃないの?患者さんに対してだけじゃない。薫、あなたは誰に対しても心を閉ざしているでしょう。実習のメンバーにも、指導者さんにも、先生にも。だから実習がうまくいかないんじゃないの?違う?」光莉は諭すように言う。

「…」黙り込む薫。そんな彼女に対し、光莉はなおも説教じみた言葉を続ける。

「聞いたよ。小児看護学実習の時、壇先生にあなたは人を信頼しないところがある、看護師になるかどうか、この実習を通して考え直したほうがいいって言われたのでしょう?それだけじゃない、あなた二年の基礎実習の時も最終日に、基礎看護の教授に呼び出されてなかった?看護師としての、あなたのメンタルがどうこうって。」

 そんな光莉の耳が痛くなるような言葉に対して薫は、

「どうして」と反論する。

「どうして、患者に対して心を開かなければいけないの?どうして、好きでもない他人に、全てをさらけ出さなければならないの?私のことを、私が考えていることを、話さなければならないの?話してもどうせ、どうせ分かってはくれないのに…私のことなんか、誰も好いちゃくれないのに…誰にも、誰にも私の心が、分かってたまるものですか。弱みを見せたら、本音を言ったら、ありのままをさらけ出したら、つけ込まれる、軽蔑される、馬鹿にされる、憎まれる、嫌われる…」

「壇のクソババア、あの…大体小児の病棟実習の時は私、体調崩していたの。それさえなければ、もっと上手くやれていたのに…いや、私は何を言われても別にかまわない。でも、あの女は、あの女は!おりんにも同じようなことを言った。看護師失格だって。実習で倒れた、彼女に対して、そう言ったって…あの女に、おりんの、何が分かるっていうの? 私は逆に、彼女ほど看護師に向いている人はいないと思う。おりんは、おりんは…去年、私保健師の授業が終わって帰るときに彼女と廊下で何度かすれ違ったけど、その度に『薫お疲れ』っていってくれた。自分のほうがよっぽど疲れていたであろうにもかかわらず。それから彼女は酔い潰れた私を、信二を、介抱してくれた…それだのに、あの女は、あの女は…!」

 薫は、なおも続ける。

「実習メン(バー)…!保健師の劣等生の寄せ集め…!同じクールで実習している、保健師じゃない、十二とか十四グループの方が、よっぽど優秀…!特に浩二の十二グループは、急性ではおりんもいたから(去年の急性期実習で体調不良により出席日数が足りなかったため。ちなみにおりんは保健師課程専攻)余計に優秀だった…十四の子達も皆話上手くて、カンファレンスすごいし…うちのグループは毎回最、入念に打合せするにもかかわらず最終カンファレダメ出し食らうのに…ああ、あいつら、なんであんなに記録やるの遅い訳?いや、小児のSOAPの評価のところ書くこと、提出するまで知らなかったのは、私のせいでもあるけど…もっと早く、確認しておけばよかった…でも私は三十分で終わったのに、他の皆に付き合って十九時…『早課題の薫』が泣くわ!私なんて前期、精神のレポートを、提出日が七月一日~二十五日で、その七月一日に学年の誰よりも早く、出してやったわ!小児の看護過程の提出日前日、(それ以前にとうに終わっていたから)記録持って帰らないで、家で本読んでいたわ!まあその代わり、小児の次の、急性の記録とレポートは金曜日の十三時半(提出期限は十六時)に、終わらせてやったわ…これが学年三位の実力よ…!慢性も同じくらいで、記録終わらせてやろうと思ったのに…二人持ち…二人とも最後の評価まで…しかも、インシデントレポート二枚…終わらない。十四時までに。全部、自業自得だけど…ああ…」

「光莉、あんたはいいよ。あんたは!私は、あんたとは違う。あんたも、私のことを半分も分かっちゃいない…美人で、何でもできて、皆から愛されて…!あんたには私の気持ちなんか分からない。分かる訳がない。不器用で、親からも見捨てられて、人からは同情されるか軽蔑されるかの、私の気持ちなんか…私は…私は、昔からあんたの…八方美人なところが、大っ嫌いだった!あんたなんか、あんたなんか…大っ嫌い!」憎しみを込め、薫は叫ぶ。その眼には狂気の色が浮かんでいた。

 薫の言葉に、光莉は傷ついた表情を浮かべ、しばしショックのあまり茫然としていたが、やがて

「あっ、そう」と、冷たく言い放つ。

「あなたはずっと、私のことをそんなふうに思っていたんだ。そう…!私もあなたの、生意気で高慢なところとか、ネガティブなところとか、嫉妬深いところとか、ずうずうしくて、押しつけがましいところとか、秘密主義で何を考えているのか分からないところとか、自分だけが不幸で、特別だって思っていて人を見下すところなんかが、大っ嫌い!」そう言い捨て、彼女はその場を立ち去った。


 薫の母は、彼女が生まれる前から統合失調症を患い、入退院を繰り返していた。幻聴、妄想に取りつかれ、娘のことが分からなくなることもしばしばあった。幻聴に

「あれはお前の娘じゃなくて、人形だ」

「あれ(薫のもっていた人形)がお前の本当の娘だ」と言われ、そう思い込み薫を無視し、人形の世話に明け暮れていたこともある。興奮状態で彼女に暴力を振るったことも、一度や二度ではない。彼女の最古の記憶は、三歳になったばかりのある冬の日、幻聴に

「外に出て、ひたすら真っ直ぐ歩き続けろ」と言われた母と共に、裸足で街を歩いていたことであった…

母は状態が安定しているときは、薫のことを可愛がった。彼女の髪をとかし、きれいな服を着せ、まるで人形のように、彼女を愛でた…

 薫は母のことが嫌いだった。恨み、憎んでさえいた。しかし彼女は、その母によく似ていた。

「お母さんと同じ目をしている」死ぬ間際に、彼女の父はそう言った。

「母親そっくりだ。顔も、暗くて何を考えているのかまるで分からない、その性格も」母の六歳下の弟にあたる叔父は、そう言った。

 反対に父親には全くと言っていいほど似ていなかった。

「あの人に…彼に、全然似ていない。本当に彼の子供なの?」父の従姉妹にあたる女性が、そんなことを言った…


 「もうすぐ母の日なので、お母さんの似顔絵を描きましょう」保育士が子供達に言う。皆、それぞれに母親の似顔絵を描き始める。だが一人、うつむいたままじっと白い画用紙を見つめる少女がいた。

「そうか、薫ちゃんはお母さんがいなかったね」保育士が、彼女に話しかける。その声と表情には、同情の色がありありと浮かんでいた。

「ううん。いるよ。」薫が答える。

「ママはいるよ。精神病院に、入院しているの…」


 「ママ、ママ」薫が、床に座り込んだきり固まってしまった、母親に話しかける。

「ママ!」母親は、固まったまま動こうとしない。と、するといきなり薫の方に振り向き、襲い掛かった。

「マ、マ…」母親の手が、何かに取りつかれたかのように娘の首を、絞めた…

「何をしている!やめろ!」帰ってきた父親が二人を引き離し、薫は一命をとりとめた。薫がふと気付くと、今度は何と、父親がその手で、母親の首を絞めていた…

「パパ、やめて!ママが、死んじゃう!」薫の言葉に父親も我に返り、母親の首から手を放した。

泣きじゃくる薫を抱きかかえながら、彼は「死のうか…」とつぶやいた。

「死のうか、薫…一緒に、死のうか…」

「イヤ!」薫は、父親にしがみつく。

「死ぬのは、イヤ!」


 ガチャリ。重い扉が開く。あたりには奇声が響き渡り、うつろな瞳でじっとこちらを見つめる人、死人のような表情で歩き回る人達がいる。

 そのうちの一人の男が、うつろな表情で薫に近づき、彼女の頭に触れようとした。隣にいた叔父がその男を睨みつけ、薫を自分のそばに引き寄せると、その男は離れ去っていった。

 精神病院の隔離病棟。重度の、慢性精神病患者達がそこに入院している。その病棟の一室、個室に薫の母親はいた。ただベッドの上にじっと、死んだように横たわる、母親…

「ママ」薫が、話しかける。

「ママ!」母親は相変わらず、人形の如くベッドに横たわったままだ。

「お前の母さんは、死んだ」叔父が、冷たく、感情のこもっていない声で言う。

「お前の好きだった母さんは、もういない。お前が愛した母さんはもう、死んだんだ。ここには、ただの魂の抜け殻、人形があるだけだ…」


 「薫…薫…」父が、喘ぎながら娘の名を呼ぶ。彼の腹には包丁が、突き刺さっていた…

「パ、パ…」娘は、なすすべもなく父を見つめる。

 虫の息で、父は娘にこう言った。

「俺を…見て…くれ…」

「彼女と同じ目をしている」


 「うつ病で自殺、か…」

「息子に先立たれた彼の両親も哀れだが、あとに遺された彼の娘は、それ以上に不憫だな。父親は死に、母親も廃人同然とは」父親の葬式。薫は父方の祖母に手を握られて、心無い大人達の言葉にじっと耐えていた。

「両親ともに精神疾患とは。父親はうつ病、母親は統合失調症。まさに呪われた家の子供だな」

「いやいや、呪いはあの娘そのものかもしれんぞ。あの娘が生まれてさえこなければ、母親の病が悪化することも、父親が看護、育児疲れでうつになることもなかったのだから」

「精神病患者の間に生まれた子供…呪われた子…いつか、あの娘も両親と同じように、心を病むのだろうか…」


 大嫌い…パパもママも嫌い、じいちゃんばあちゃん、叔父さんも嫌い!患者は嫌い、看護師はもっと嫌い。実習メン(バー)は嫌い、麻耶は嫌い、おりんも嫌い、サンタマリアはもっと嫌い。生田は嫌い、浩二は嫌い、光莉はもっと、もっと、大嫌い!皆、皆、大っ嫌い!

 …でも、そんな自分が、一番、嫌い…!

 見ないでよ…誰も私のことを、見ないでよ!私のことをそんな目で見ないで!侮辱するような目で、軽蔑したような目で、同情するような目で、私を見ないでよ!人形を、化け物を見るような目で、見ないでよ!私を侮辱しないで、馬鹿にしないで!私に同情なんか、しないで!私は人形じゃない、化け物じゃない、障害者なんかじゃ、ない…!誰も私のことを見ないで。誰も、誰も、私の中に、私の心の中に入って、こないでよ…!私の心をこじ開けないで!私の心の中を覗かないで!私の中に入ってこないで!

…光莉…私を…私のことを…見て…ちょうだい…

 人間に人間は、救えない。医療も、看護も、人間を救うことなどできない。私は誰からも救ってはもらえなかった。助けてはもらえなかった。人はいつも、私を傷つけるだけ。人に近づこうとしても、噛みつかれるだけ…誰のことも信じることなんか、できない。人間は嫌い。皆、皆、大嫌い。誰からも救ってもらえなくたっていい。誰かからの助けなんていらない。私はいつも一人、そう、一人で生きていくの…

 …光莉…私を、救って…私を、助けて…

 他人のことが、分からない。人間というものが、理解できない。彼らに心があるということが、私と同じ、感情というものがあるということが、理解できない。本当に彼らには心があるの?感情があるの?だとしたら、何故、私にあんな酷いことが言えるの?酷いことができるの?分からない、分からない…

 光莉、あなたのことも、分からない。理解できない。あなたも私と同じなの?私と同じように、心があるの?感情があるの?だったら、どうして…

 この世界は、人間は、皆汚れている。救いようがないほど愚かで、醜くて、身勝手で、弱くて、不確かで危うい存在…それが、この世界。それが、人間。ああ、嫌、嫌。世の中を知れば知るほど失望、幻滅し、世界に、人間に、愛想が尽きる。生きていること自体、耐えようもなく嫌になる。こんなにも汚れ、濁った世の中、私はこれ以上、生きてはいたくない…

 光莉…あなたは、この汚れた、濁った世界に、希望を与えてくれた。あなたは私にとって闇の中に照らされた、一筋の光だった。あなたがいるから、あなたがいたから、私は今日という日まで、この暗闇の世界を、生き抜いてこれた。なのに、なのに…

 あなたに愛されないなら、愛してくれないのなら、私がこれ以上、この世に存在する理由はない。もう、死のう。生きていても、仕方がない。この世に生きている、価値などない。死にたい、死にたい、死にたい…でも…

 …死ぬのは嫌、死ぬのは嫌、死ぬのは…イヤ!

 …あなたが…死ねばいいのよ、光莉。死んで頂戴。死んで、永遠に…私だけのものに、なって頂戴…

 

 「ごめん…」

「聞きたくない」

「許して…!」

「言うだけ無駄」

 帰り時。もうあたりは、薄暗くなっていた。駐車場で、車で大学から帰る光莉を待ち伏せ、薫は謝罪していた。

「ごめん、ごめんなさい。ごめんなさい…!許して、許してちょうだい…決して、あんなことを言うつもりは、なかったの。ただ…」

「口が滑ったって?」残忍な、しかし苦悶に満ちた表情で懇願する薫の言葉を、もはや光莉は、聞く耳を持たない。

「もう、いい。あなたが心の中で、人のことを、私のことをどう思っているのかよく分かった。もう終わりだよ、私達。絶交ね、さようなら」

「まって、聞いてちょうだい、私は…私は、あなたのことをそんなふうに思っていやしない。本当に。あなたが、あなたがいなかったら、私は…私はもう、生きてはいけない。お願い…」薫は涙を流しながら、必死でそう訴える。

「あんなことを言われて、また前のように付き合えるとでも思っているの?無理。薫、あなたは変わってしまった…もう以前の、私の好きだった、あなたじゃない…もう、おしまい。さようなら」そう言い捨て、光莉は車に乗り込もうとする。

「どいてくれない?邪魔。ああ、そう、最後に一つだけいいことを教えてあげる。あなたが恋していた緒方浩二、彼、最近彼女ができたんだってね?うちの大学じゃないみたいだけど」

 薫は、谷底に突き落とされた心地であった。薫の中にある、感情という感情がさっと引き、代わりにひどく冷たいものが、彼女の中に満ち満ちてくる。

薫はぞっとするような声で、

「そう…」とつぶやき、

「許して、くれないなら…私を、愛してくれないなら…殺して、やる…」光莉の首に、手をかけた…

「殺してやる、殺してやる、殺してやる…殺して、やる…」こうして、薫は光莉を殺害した。


 光莉の亡骸をかき抱き、泣き崩れているところを発見され、薫は逮捕された。

 大学は大混乱に陥った。学生が同級生を殺したのだから。事件は世間の注目を集めた。人の命を救うはずの存在である看護師の卵が、人殺しをするなんて!

 「看護学生 友人殺し」

 もう二十を超えていたので、薫の名は実名で大きく報道された。柏木薫。そう、あの三宮実姫と柏木太一との間に生まれた、一人娘である。

 看護学部の四年生。二十一歳。被害者の土師光莉(享年二十一歳)とは中学の頃からの親友。大学では成績優秀で看護師のほか保健師課程も専攻。保健師課程であることに誇りを持っている。(保健師課程は百三十人中二十数名しか受講できず、受講者は成績で決められる)三年前期の成績は看護学部百人中三位であった。ボランティアサークル「クロスワールド」に所属し、カンボジアへ二度行き、ボランティア活動を行った。一見ボランティア精神にあふれ心優しく活動的、看護師に向いている性格に見えるが、実際はそうではなく、無口で陰気で高慢、自己中心的で思いやりに欠けた冷たい性格。友人も被害者を含め、片手で数えるほどしかいない。普段は従順でおとなしいが、一度怒りのスイッチが入ると止まらなくなり、非常に激しく、攻撃的になる。三年後期からの実習では行き詰っており、悩んでいた―

 薫と光莉が在籍していた大学は大学の評判のためにも、附属病院の患者のためにも学生・教員等関係者に対して一切マスコミの取材は受け付けるなと言ってはいたが、それでもやはり止められなかったのであろうか、これだけの情報がマスコミに流れ、報道された。

 更に、一体どこから漏れたのか、多分薫の実家の、近所の住民であろうが、彼女の母親が精神障害者であることまで報道された。母親は彼女が生まれる前から統合失調症を患っており、未だ闘病中。四歳の時に父親も精神疾患(うつ病)を発症して入院、以来母方の祖父母に育てられた。ちなみにその父親は彼女が六歳の時に自殺している。容疑者(薫)は取り調べで事件のことについては何も語らず、ただひたすら何か、ぶつぶつ言っている。警察は彼女にも両親同様、精神疾患があるとみて、精神鑑定に回す方針である―

 精神鑑定の結果、薫は他人に依存せずにはいられない「依存性パーソナリティ障害」かつ、自己愛の強い「自己愛性パーソナリティ障害」かつ、「見捨てられ不安」が強く対人関係が非常に不安定、時に精神病症状を示すこともある「境界性パーソナリティ障害」であることが判明した。要はパーソナリティ、人格が歪んでいたということだ…


 光莉を失って以来、薫の精神は完全に崩壊した。寝食を忘れ、ただひたすらに、光莉の名を呼んでいた。

「光莉、光莉、光莉…!どうして…愛して、いたのに…光莉…」薫は精神病院に入院していた。枕を抱きかかえ、それがあたかも光莉であるかのように話しかける。

「光莉…私はあなたを愛している。あなたは私の片割れ、もう一人の私。私達は、同じ…私は特別、あなたも特別、選ばれし者…愛している、愛しているの、光莉…」


 アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーヤーヤアラピヤー

 どこかで、歌う声がする。あれは、カンボジアの歌、「アラピヤ」だ。

カンボジア…サークル「クロスワードクロスワード」で、村の小学校へ行き、子どもたちにヘルスチエックを行い、保健衛生の授業をし―薫はしらみの授業をした―それから彼らと共に、遊んだ。カンボジアの子どもたちは皆貧しかったが、皆輝かんばかりの笑顔だった…あの頃、そこには光莉がいた、浩二もいた。彼らの笑顔が、そう、彼らの笑顔を見ているだけで、薫は幸せだった。彼女はただ、彼らの笑顔が見たかった。それだけだった。一年の時はともかく(カンボジアへ行くと決めた時、緒方浩二の存在はまだ知らなかった)二年の時には、彼らと共にいるために、彼らに自分を見てもらうために、彼らの笑顔のためだけに彼女はカンボジアへ行った。あの頃が、光莉と、浩二と共にカンボジアへ行った時が、それに向けての準備、話し合いをしている時が、薫にとって一番幸せな時であった…

 アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーヤーヤアラピヤー

 歌声が、近づいてくる。病室のドアが開き、刑務官と、一人の中年女性が入ってくる。

 「面会だ」そう言って、刑務官は退出する。女性は歌う。

「アラピヤーヤーヤアラピヤー アラピヤーヤーヤアラピヤー…」どこか懐かしい、歌声

だった。彼女は腕にマトリョーシカを抱えていた。それは、薫の実家にあったものであった。昔、薫がまだ生まれる前、彼女の幸せを願い母がロシアで購入したものであった。

 「ママ…?」薫は尋ねた。

「ママ、なの…?」女性はうなずいた。彼女は薫の母、実姫その人であった。

 実姫はアラピヤを口ずさみながら、薫にマトリョーシカを差し出した。それから娘の瞳をまっすぐ見つめ、バレエのパントマイムで、(私は あなたを 愛しています)と表現した。実姫の瞳には、涙が浮かんでいた…

 「ママ…」薫もまた、泣いていた。カンボジアで聞いたあのアラピヤ、どこかで、まだうんと小さい頃、聞いたことがあったような気がしていた。気のせいなんかじゃなかった、夢なんかじゃなかった。ママが、歌ってくれていたのだ。あの歌を。私が、幼かった時に。

 薫は、母に抱きついた。

「ママ!」

登場人物紹介

柏木薫かしわぎかおる

 主人公。三宮実姫と柏木太一の娘。

 四歳で父柏木が精神病院に入院したことをきっかけに、母方の祖父母(と叔父)に引き取られる。以降、周囲から「両親のいない可哀そうな子」という視線にさらされる。以来、他人に心を閉ざすようになり、誰とも打ち解けないことから苛めを受けることになる。

 十四歳で土師光莉に出会うまで、友人と呼べる存在は一人もいなかった。高校時代には恋人はいたこともあったが、やはり友人は光莉のみで弁当は一人で食べていた。大学生になって以降は光莉以外にも友人を見つけるも、やはり「親友」は彼女ただ一人であり、彼女へ過剰に依存するようになる。


土師光莉はしひかり

 薫とは中学三年の時からの親友。高校、大学も同じ。大学では医学部リハビリテーション学科OT(作業療法士)専攻。

 容姿端麗、頭脳明晰、成績優秀、運動神経抜群、おまけに性格も良い、まさに「完璧なヒロイン」。男女問わず多くの者から慕われるも、内心ではそんな恵まれ過ぎた状態に虚無感を抱いていた。


緒方浩二おがたこうじ

 薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」、軽音、ソフトテニスサークル所属。軽音サークルでは部長を務めるが、同級生、後輩からの評判はいまいちであった。薫とはバイト先も一緒で、彼女に恋される。彼自身は光莉のことが好きだったが、光莉が加藤茂と付き合うようになると学外に彼女を見つける。


速水麻耶はやみまや

 薫、光莉の大学の同級生で、医学部リハビリテーション学科PT(理学療法士)専攻。国際ボランティアサークル「クロスワールド」、ソフトテニスサークル所属にしており、光莉の友人。


藤井佳織ふじいかおり

 薫、光莉より一学年上の看護学部生。国際ボランティアサークル「クロスワールド」の先輩。薫、光莉とは仲が良い。通称は「おりん」。


生田いくた

 薫の高校時代の元彼。彼女と二か月ほど付き合った後、他の女に乗り換える。


加藤茂かとうしげる

 光莉の幼なじみで恋人。医学生。光莉と同い年だが、一浪したため大学の学年は一つ下。


三田晴美みたはるみ

 薫、光莉の大学の同級生で、看護学部生。通称は「サンタマリア」。軽音サークル所属。薫とは三年次のタイ・ミャンマー研修で一緒だったが、あまり仲は良くなかった。


だん

 薫の大学の小児看護学教授。


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