スキゾ・プリンセス
なんということだ…
バレエ「ジゼル」を観た柏木太一は、タイトルロールを踊るバレリーナに、目が釘付けになった。
そのバレリーナからは、昔彼が看護学生だった時、精神科実習で担当したスキゾフレミア(統合失調症)の患者から感じられた「プレコックス感」(統合失調症でない人が統合失調症の人と触れ合ったときに感じる独特の感覚)のようなものが感じられたのだ。そのバレリーナとは、直接触れ合っていないにもかかわらず。
それで、いったいどういうわけか、柏木はそのバレリーナにひどく惹きつけられた。恋してしまったのだ。誤解の無いよう記しておくが、彼は別に精神病患者に対する、変な趣味があるわけではない。
なのに、惹かれてしまったのだ。彼女の、その危うい、病んだ魅力に…
元々、彼がバレエを観に来た理由はこうである。
柏木太一は三十二歳、とある病院の整形外科病棟で看護師をしていた。ある時、腰椎ヘルニアで一人のバレエダンサーがそこの病棟で手術、入院し、柏木は彼の受け持ちとなった。同性で年が近いこともあり、二人は仲良くなった。そのダンサーが回復し、今度のバレエ公演「ジゼル」で主人公ジゼルの相手役(アルブレヒトという役)を踊るのでぜひ観に来てほしい、とチケットを渡されたのがそもそものきっかけである。
舞台が終わり、柏木はそのダンサー(皆本光という)に会いに楽屋を訪れた。
「皆本さん、今日は招待してくれてありがとう。舞台良かったな。感動した」
「観に来てくれてありがとう、柏木さん。おかげさまで膝の調子はもうすっかりいいんだ」
「それは良かった。ところで…」と柏木は切り出した。
「あの…主役を踊っていたバレリーナ、三宮実姫といったっけ。彼女、いいな…惹きつけられたよ。だから、その…もしよければ、彼女を紹介してくれないか?」
「実姫?彼女を?」と皆本。
「惹かれてしまったんだ。」と柏木。
「やめておいた方がいい」と皆本は言った。
「彼女は…ちょっとおかしい。いや、おかしいなんて言い方はあれか。でも彼女は…口がきけないんだ。きけない、というか、きかない。全緘黙っていって…何でも昔、酷い苛めを受けたらしい。それ以来、誰も彼女の声を聞いた人はいないんだ。親さえも聞いたことがないらしい」
「ちょっと楽屋に挨拶に行くのもダメなのか?」柏木は食い下がった。
「行ってどうなる?彼女は対人恐怖症だ。すぐに追い返されるのがオチさ…」とか何とか言いつつ、皆本は柏木を、三宮実姫のいる楽屋に案内した。
三宮実姫は小柄で、儚く頼りなさそうに見えた。幼げで、二十一歳であったが、どう見てもまだ十五、六といった感じであった。
「あの…あなたのジゼル、素晴らしかったです。とても。感動しました」
柏木の言葉に、彼女の母親が答えた。
「まあ…それはどうもありがとうございます」
肝心の実姫は、表情一つ変えなかった。
「ええとその…自分はI病院で、整形外科病棟で看護師をしておりまして…怪我をしたり、どこかが痛んだりしたら是非当病院に…いやそういうことじゃなくて」
「看護師業の合間に、こういったバンド活動をしていまして。そこでドラムを叩いていまして。今度この近くのライブハウスでライブをやるのですが、あの…もし良かったら…」名刺とチラシを渡しながら、恐る恐る柏木は聞いた。すると人形のように無表情であった、実姫の唇の端が、僅かに緩んだ…
「まさか本当に来てくれるとは思わなかった」ライブハウスでのライブ終了後、訪れた実姫に対し柏木は言った。
(あなたは神か)実姫はいつも持ち歩いているメモ帳にこう書いた。
(あなたのドラムは、神業だ。あの太鼓の達人対決のバラエティ番組が終わっていなければよかったのに。あなたなら、あの岡倉にも勝てた…)実姫は熱っぽい目で、柏木を見つめた…
こうして、二人の付き合いは始まった。
「どういうことですか?」苛立ちながら、皆本は聞いた。
「言った通りの意味です」柏木は答えた。
「実姫は…彼女は…皆本さん、あなたのことが好きなんだ!」
「あなたに、恋しているんだ!」
二人は、劇場近くの居酒屋でビールを飲みながら話していた。柏木と実姫、二人が付き合い始めて半年近くが経っていた。
「彼女は…俺といても、心ここにあらず、といった感じなんだ。」柏木は続けた。
「舞台の上で、見せるような表情を、俺には見せてくれない。皆本さん、あなたに見せるような表情だ。『ジゼル』でも、この前の『くるみ割り人形』のクララ役でもあなたに見せたような表情だ。俺はオペラグラスで彼女の顔を見たんだ。俺にはあんな表情はしない…」
「…それは、彼女の演技だ」苦々しげに、皆本は言った。
「いや、演技じゃない」柏木は反論する。
「あれは演技じゃない。本気の目だ。…皆本さん、あなたは実姫と、彼女と…付き合っていたことがあるんじゃないか?それで、まだ彼女はあなたのことが好き…」
「…告白されたことならある」皆本は苦虫を噛み潰したような表情であった。
「彼女がまだ十代の時に。彼女はまだ、未成年だったし、どっちみち俺の好みじゃない。あんな、何を考えているかまるで分からない、陰気な女は。俺も当時、まだ付き合ってこそいなかったけど、気になっている人がいたし…それで、彼女の告白を断った。彼女もあきらめ、納得したはずだ。それからまもなく、俺はプリマの紫央里と付き合い始めた…」
「でも、まだ」柏木は言う。
「彼女はあなたのことが好きなんだ…」
「柏木さん、それはあなたと、三宮実姫との問題だ。」苛々と、彼を諭すように皆本は言う。
「俺は関係ない。俺は彼女のことを何とも思っていやしない。紫央里と別れて彼女と付き合う気など、更々ない。このまま彼女との付き合いを続けるのか、別れるのかは、柏木さん自身の問題だ。」
「…別れようと思った。彼女の、あなたへの思いに気づいてから。でも…彼女は俺と、別れたくないと言う。」柏木は苦しげにつぶやいた。
「なら、いいじゃないか。別れたくないってことは、彼女は、柏木さんのことを好いているってことだ」皆本は言う。
「彼女は、あなたのものだ…」
三宮実姫は、付き合っていて全くと言っていいほど面白みのない、魅力に欠けた女であった。
口がきけないことは言うまでもないが、愛想も、愛嬌のかけらもなかった。顔立ちは比較的整ってはいたが、常に能面のごとく無表情であり、人を寄せ付けぬ、冷たい印象を与える。柏木はいつも、もう少し笑ったら可愛いのに、と思う。体つきは大変華奢で、抱きしめると今にも折れてしまいそうである。その細い身体は、女らしい丸み、柔らかさには欠けている。
偏食ではないが食が細く、バレエダンサーの常で油もの、高カロリー食は受けつけない。肉類で口にするのは鶏肉のみである。したがって外食はほとんどできず、デートの時はいつも柏木の手料理となった(実姫は料理ができなかった)。ちなみにその食べ方も、決してきれいとは言えない。
そのデートだが、互いに忙しく、また実姫が人ごみを嫌ったので、常に二人が会う場所は柏木のアパートと決まっていた。
連絡手段は電話機のファックスである。しかし、実家暮らしの実姫に対し、あまり露骨な内容は書けず、約束の日時など、最低限のやり取りしかできなかった。
二人が会うのは大体月一、二回だが、実姫はいつもよそよそしく、常に緊張しているようであった。明るいところでは決して、柏木に自らの身体を触れさせようとはせず、瞳も合わせようとはしなかった。
実姫の方から話題を振ることは全くと言っていいほどない。そもそも、二人は住む世界が違いすぎて、共通の話題に乏しい。柏木はバレエをろくに知らず、実姫は彼が好きなバンドも、漫画も、ゲームも知らなかった。テレビもほとんど見ず、スポーツにも関心がない。
必要最低限の言いたいことは、いつも持ち歩いているメモ帳に綴るが、その文字ははっきり言って悪筆である。こちらが色々と話しかけても、うなずきも笑顔もアイコンタクトも見られず、全くの無反応である。柏木はしばしば、まるで人形に話しかけているようだと思った。
ベッドの中でも、実姫は人形の如くごろりと横になっているだけ、いわゆるまな板の上のマグロであった。それでも若い女の身体は正直で、その反応から彼女が、彼の愛撫を歓んでいるということは伝わってきた…
実姫の踊りは、もちろん素人よりは上手いのだが、同バレエ団の他のダンサー達と比べると、それほどでもない。実姫は中学を出てすぐバレエ団に所属しており、以来ずっとそこで踊り続けているのだが、海外への留学経験や、名だたるコンクールへの出場、入賞経験はない。やはり他の、イギリスフランス帰りのダンサーと比べると、どうしても技術的には見劣りしてしまう。
しかし、その踊りは表現力豊かで、踊っているときの彼女は、踊っているときだけは、別人のように生き生きしていた。柏木と共に過ごしているときよりもはるかに、幸せそうであった。そんな実姫の姿に、彼は心打たれるとともに切なく、虚しくなった…
実姫は、少しずつ心を病んでいった。―元々病んでいた―実は十四の時から密かに幻聴等、精神病の症状が現れていたのだが―それが顕著に現れ始めた。
以前から人混みを嫌っていたのだが、ますます人混みを恐れ、怯えるようになった。まるで人という人が、彼女の命を狙っているかのように。ひどい騒音が、あるいは悪口が聞こえているかのように顔を歪め、耳を塞ぐ。自室にあるものというものを床に投げつけ、たとえそれが破壊したとしても気にも留めない。壁にかかったカレンダーを、カーテンさえも、びりびりと引き裂く。自室が滅茶苦茶な状態になっても、片付けようともせず、そこにずっと引きこもる。家族を部屋に入れようともしない。酒を浴びるように飲み、ものを食べ、すべて吐き出したかと思えば、今度は絶食し、水さえも口にしようとしなくなる。
身なりはきちんとしてはいたが、その恰好はどこかちぐはぐである。眠れていないようで顔色も悪く、目元にはくっきりとクマが浮かんでいる。柏木の身体を執拗に求め、彼に抱かれたかと思えば、今度は彼に触れられることをひどく拒絶する…
こうした状況の中でも、実姫は踊り続けていた。過度の飲酒、繰り返す過食嘔吐と絶食、睡眠不足で身体はフラフラ、もうその踊りはとても見れたものではなかったが、彼女は一人舞い、踊り続けた。バレエのあの繊細な腕の動き、足さばきこそが彼女にとってこの世の真理、信じられる唯一のものであった。バレエは彼女の喜びであり、怒りであり、哀しみであり、楽しみであった。憎しみであり、愛情であり、癒し、救いでもあり、そして狂気でもあった。踊りは彼女の感情のすべてであった。踊ることは彼女がこの世に存在している証、彼女の人生、魂の叫びであった。七歳で言葉を失って以来、踊ることでしか彼女は自分を、表現することができなかったのだから…
バレエ「ジゼル」は恋人に裏切られて心を病み、踊り狂って死んだ娘の話である。柏木がそのバレエを観たとき彼女に対して抱いた「プレコックス感」は間違いではなかった。ジゼルの狂気は、実姫の狂気でもあったのだ。
(もうイヤ…もうイヤ、もうイヤ、もうイヤ、もうイヤ!死にたい、死にたい、死にたい…太一…助けて…助けて、太一!)実姫はこう紙に書きなぐり、柏木の胸に飛び込む。胸元にしがみつき、身体を弓なりにのけぞらせ、顔を歪め、声にならない叫びをあげる…
(私は特別…そう、特別なの!私は天才、選ばれし者、運命の姫君!私は聖なる舞姫、バレエのミューズ!他の連中とは、違う。だから…だから誰も、他の誰にも私のことなど分かりやしない、理解できやしない、誰にも分かってもらえない…私は特別、特別なの…)柏木の胸に顔をうずめ、実姫は泣きじゃくる。彼はそんな彼女を力強く、抱きしめる…
(太一、助けてよ…私を助けて…私を見捨てないで、離さないで、私を…見て…)
とうとう柏木は、実姫に病院に行くことを勧めた。彼が思った通り彼女は「統合失調症」そして彼が思いもよらなかったことに―身に覚えは大ありであったが―「妊娠三ヶ月」で
あった…
「堕してくれ」
「…」
「堕してくれ!」
「…」実姫は、ただ首を振るだけであった…
「堕してくれ。お願いだ。君のためなんだ、実姫。病気を治して、それから…な?今の状態で出産、まして育児は無理だ。妊娠中に、強い薬は飲めない。統合失調症は、早期治療が大切なんだ。そうすれば早く良くなって、また舞台に立てる。子供も生み、育てられる。だから…」柏木のアパート。彼は涙を流して実姫に訴える。
「…」彼女もまた、涙に濡れた瞳で見つめ返す。しかし決して、首を縦には振らなかった。
不意に実姫が口元を押さえて、トイレへと駆け込む。彼女がそこで吐く音を聞きながら、柏木は昼、彼女が何も口にしていないことを…病院の売店で買ったおにぎりと野菜ジュースを待ち時間に差し出したが、実姫はほんの数口、口にしただけで彼の方に押しやったことを…思い出していた。
(ひょっとして…いや、きっと)柏木は思う。
(彼女は朝も、何も食べていない…)
やがて、実姫がトイレから出てきた。ひどく青ざめ、苦しそうだ。柏木は彼女を抱きかかえる…ぞっとするほど、軽い。ベッドの上に乱暴に押し倒し、
「そんな…そんな状態で、子供が産めるとでも思うのか?こんな…今にも折れそうな、瘦せ細った身体で。幼い少女のような、あどけない顔で。精神の病を、壊れきった、心を抱えて…子供を、産むというのか?母親に、なれるとでもいうのか?実姫…!」と、彼女をなじる。怯えきった実姫は顔をそむけ、声を押し殺して泣きだした。その姿を見て、柏木は思う。
(ああ、身も心も病み、こんなにも打ちひしがれ、やつれきっていてさえ、なんとこの女は美しいのか…美しく、愛おしい…この華奢な身体に、俺が愛したこの身体に、俺の子を宿し、苦しんでいるというのか…?なんて、痛々しい…なんと、愛おしい…実姫…!)
柏木は実姫を押さえつけていた手を放し、彼女をそっと抱き寄せる。そして悲しみと、苦悩に満ちた実姫の横顔を見つめながら
「…分かった、実姫。堕さなくていい。その子は、お前だけの子じゃない。俺の子でもある。例えお前が育てられなくても、俺が立派に育てればいい」と言った。
「君の、たっての望みとあれば…」
実姫の結婚・出産に賛同する者は誰もいなかった。当たり前である。統合失調症の、しかも発病したばかりの女が妻に、母親になるなんて!けれども柏木は周囲の反対を押し切り、実姫と、これから生まれてくる我が子のため、すべてを投げだした。
九月。実姫、妊娠六ヶ月。二人は新婚旅行と称し、ロシアへと旅経った。例によって周囲は大反対であったが―せめて国内か、海外でももうちょっと近くて、気候も治安も良いところであれば良かったかもしれないが、よりによってロシアとは―まだ九月だからそれほど寒くはないかもしれないが―実姫の、たっての望みであった。出産前に、一度でいいから本場のロシアバレエが観たい、それと生まれてくる子のために、マトリョーシカが欲しい、というのがその理由であった。
マトリョーシカで遊んだ子供は、幸せな家庭を築くことができるという。我が子に将来、幸せな家庭を築いて欲しい―実姫の願いであった。
幸い、この頃には実姫の状態は、心身ともに落ち着いていた。だから
「ロシアに行きたい」と言えたのだが―狂気の中にいたらそんな事思いつきもしなかったろう―おかげで、無事に飛行機を乗り継いでモスクワにたどり着き、ボリジョイ・バレエの「白鳥の湖」を観、マトリョーシカも購入することができた。
夜、ホテルではこんなこともあった。
(ねえ、しよう?)
「はい?」柏木は最初、何を言われているのかわからなかった。だが、やがてその意味を察し、
「はあ?な…何言ってんだ。だめだだめだ!お前は今…」
(先生は、妊娠中でもしてもいいって言っていたよ)
「そんなこと聞いたんかい。まあ、確かにそうだけど…」上目遣いに柏木を見つめ、誘惑する実姫。柏木はそんな彼女にたじたじであった。
(ねえ、私たち、夫婦でしょ?なのに、夫婦になってから一度もしていないっていうのはどうなのよ)
「いや、だからそれはできちゃった婚だったし…それに、君の精神状態が…そうか、こんなふうに俺に誘ってくるってことは、ずいぶん回復しているってこと…あー、いやでも、
どっちみち今は…俺ゴム持ってきてねえし…確か、感染を防ぐために妊娠中でもコンドームをつけろって母性の教科書には…」
(黙れこのシュッとした、いや、そうでもない顔!)実姫はこう書きなぐり、柏木の面前に突きつける。そして反論しようと彼が口を開きかけた矢先、自らの唇でその口を防ぎ、それから自分の胸に―身籠ったことにより以前よりかなり膨らんだその胸に―彼の手のひらを押し当てた…
この夜が、二人の最も幸福な夜であった。それから先、もう二度と彼らが交わることはなかった。ロシアから日本へと帰る飛行機の中、実姫は再び不安定な状態に陥り、帰国後、彼女は深い、深い狂気の闇の中へと落ちていった…
(イヤ…!皆が、皆が私のことを見ている…皆、私を見て笑っている、私のことを馬鹿にしている…皆が、私の中に、私の心の中をこじ開けて、入ってくる…)
(イヤアッ!誰も、私のことを見ないで!私のことを馬鹿にしないで!私の心を覗かないで!私の中に入ってこないで!)
(もうやめて…やめてよ…私は馬鹿じゃない…私は人形じゃない、化け物じゃない、障害者なんかじゃない…!私は、私は…私は特別、私は天才、私は姫、選ばれし者…太一…私を、見て、ちょうだい…)
柏木はそんな実姫を、力強く抱きしめ、彼女の耳元でささやく。
「実姫、実姫…!『声』がお前に何と言っているか分からんが…『声』が何を言おうと、実姫、お前は周りや、自分自身が思っているよりもずっと、素晴らしい女なんだ…実姫…」
柏木は、知っていたのである。三宮実姫は、心無い人形ではないということを。彼女は自我がないのではなく、踊り以外で自分を表現する術を、知らないだけなのだということを。
心冷たく、情に欠けているのではなく、優しすぎる、情が深すぎるが故に傷つきやすく、傷つくことを恐れ、心閉ざしてしまっているのだということを。
他人に対して無関心なのではなく、関心があり過ぎるが故に、嫌われたくない、よく思われたいと願うあまり、かえって他人にどう振る舞ったらよいか分からず、かたくなな態度をとってしまっているのだということを。
何も考えていないのではなく、色々と深く、深く考え込み過ぎるが故に、その考えを上手に、アウトプットすることが出来ないのだということを。
彼は知っていたのである。実姫の、感情を内に秘めた流し目を。彼女の、わずかな頬の緩みを。咳払いでごまかす、笑い声を。吐息に混じった、かすかな、愛撫に対する歓喜のうめき声を。
(もう死にたい…でも死ぬのは嫌…死にたい、死ぬのは嫌。死にたい、死ぬのは嫌。死にたい、死にたい、死にたい…死ぬのは、イヤ!)
やがて月満ちて―厳密には予定日より三週間早く、帝王切開で―実姫は女の子を出産した。だが、誰もが予想した通り、彼女の狂気はますます酷くなり、とても子育てができる状態ではなかった。
出産後、実姫は精神病院に入退院を繰り返していた。柏木は―結婚を機に整形外科病棟から血液浄化センターへと、夜勤の無い部署に特例で移動したが―仕事、家事、育児、更に実姫が家にいるときには彼女の看護にも追われ、身も心もボロボロになっていった。それでも彼は心病む妻を見て、ああこの女は俺がいなければ駄目なのだ、と、ますます狂乱する実姫を愛しく思い、彼女に尽くし続けた…
(人間に人間は、救えない…医療も、看護も、人間を救うことはできない。私を救うことなんてできない。誰も。何も。医療は私を薬漬けにするだけ。看護は私の心に寄り添うといって、私のそばに、頼みもしないのにずっとくっついているだけ。そして、私の心を、無理やり、こじ開けようとする…押しつけがましい!そっとしておいてよ!私を一人にさせてよ!私にかまわないで!ほおっておいて!私に同情しないで!分かろうとしないで!誰も私のことなんか、理解できやしないくせに!本当は皆、私のことを軽蔑しているくせに!私の心など、誰かに理解されてたまるものですか!誰にも…)
(…太一…私を…助けて…)
柏木の父は、優秀な産婦人科医であった。仕事熱心で患者からの信頼も厚く、人望も
あった。だが、家庭を顧みることはほとんどなかった。
柏木には、三つ年上の姉がいた。生まれた時から重い障害を抱え、かつ病弱であったため、母親は姉にかかりきりで、柏木のことにまで気を配るゆとりはなかった。それ故、彼はずっと、手のかからない優等生として生きてきた。幼い時から母を支え、母親とともに姉の世話をしていた。
母親の手伝いをすれば、姉に尽くせば、柏木は母親から褒められ、認められた。逆に言えば、そうしなければ、彼は母親から顧みられることがなかった。そうして彼はいつしか、
「自分は人に尽くさなければならない」
「人に尽くさなければ、誰かの為に生きなくては、自分の存在は認められない」と思い込むようになった。
柏木は優秀で人望のある父を尊敬していた。その一方で、姉の世話をはじめ、家庭のごたごたの一切を母親に押し付ける父親を軽蔑していた。
「父のような夫には絶対ならない」
「父のような生き方はしない」
「自分は人に尽くさなければ他人から認められない」
「自分は父のようにはならない」この二つの強迫観念ともいえる思い込みが、柏木を縛り付け、自らを犠牲にしてまで人に、妻に、娘に尽くす、彼の生き様となった…
夫婦は、同じ床に就いた。だが夫は、妻に触れようとはしなかった。実姫は柏木の胸を軽く叩き、自らの胸に彼の掌を、押し当てた…
彼は妻の手を払いのけ、こう言った。
「ごめん。疲れているんだ。それに…」
「最近、勃たないんだ…」
柏木は肉体的にも、精神的にも追いつめられるあまり、時に妻や娘に暴言・暴力を振るうようにもなってしまった。ある時など、緊張混迷状態(意識障害なしに何の言動・行動もなく、不自然な同じ姿勢をいつまでもとり続け、外からの刺激や要求にさえ反応しない状態)から興奮状態へ移行し、我を忘れて娘の首を絞めようとした実姫を止めたところまではよかったものの、それから何と彼自身が彼女の、実姫の首に手をかけてしまい、娘に泣いて止められた…
「…死のうか…」柏木は四歳になったばかりの娘に、こう話しかけた。
「お父さんと、お母さんと一緒に、死のうか…」
娘に心中を拒絶された(当たり前である)ため、柏木は実姫をレスパイト(介護者休息)入院させることにした。
「薬は飲んでいましたか」実姫の主治医が、柏木に訊ねる。
「いいえ…」うつろな表情で、彼は答える。
「このところ、自分忙しくて…彼女が薬を飲むところは、見ていません。多分ずっと…飲んでいないんじゃないですか。副作用がひどい、薬を飲む量と回数が多くていつ何を飲んだか覚えていられない、といって服薬を嫌がっていたので」
「…入院させましょう。柏木さん」医師が、柏木の顔を覗き込む。
「大丈夫、ですか?」
「え…?大丈夫、ですよ…?」
柏木はうつ病と診断され、彼もまた入院することになってしまった。そして実姫と柏木、二人は離婚することになった。二人のどちらも、もはや子育てのできる状態ではなかったため、娘は実姫の両親が引き取ることになった。
「これで良かったんだ」柏木を見舞いに来た、彼の友人は言った。
「お前は危うく死ぬところだったんだ。三宮実姫のために。それはそれでドラマチックな愛のかたちだけど…。でも、分からんな。結婚して、彼女のために仕事して、家事をして、子育てして、看病までして…。そこまでする必要があったのか?自分のすべてを捧げてもいいほどの、女だったのか?」彼は、そう怪訝そうに訊いた。
その問いに対し、柏木は、
「…俺が馬鹿なだけかもしれん。でも…彼女は…実姫は、皆の言うような人じゃない。臆病で、自己中心的で、高慢で、陰気で、人形のように何を考えているのか分からない、心の無い冷たい人じゃない。そんな人じゃない。確かにしゃべれないし、自ら殻に閉じこもってはいたけれど。皆が彼女ときちんと向き合って、正面から見ようとしないだけだ。彼女は魅力的な人だった。心優しく繊細で、純粋で、無垢で、時に大胆で、ユーモアもあって…人を愛することのできる人だった。人を愛することができる、そう、それが彼女の一番いいところで、最大のストレングス(強み)だ…」と、つぶやくように答える。弱々しい声だったが、その言葉の一言一言には、力強い響きがあった。
「彼女を嫌い、憎み、その存在さえなければと願う者も確かにいるだろう。でも…彼女の存在に癒され、救われた者もいる。俺が、そのうちの一人さ…」彼はまたそう言って、力なくひとり笑いする。
「もっと違う生き方が出来たかもしれない。誰かのためじゃなく、自分のために生きる、そんな生き方もあったかもしれない。もっと幸せな人生が送れたかもしれない。彼女がいなければ、彼女に恋しなければ、彼女と付き合わなければ、彼女と結婚しなければ、俺はもっと平凡で、けれども落ち着いた、幸せな暮らしが送れたかもしれない。でも…それでも俺は、彼女の笑顔が見たかった。彼女を、愛せずにはいられなかった。恋せずにはいられなかった。彼女が、欲しかった…彼女がいなければ、俺にとってこの世は、もっと味気なく、つまらないものになっていただろうよ」柏木はそう言ってゆっくりと息を吐き、恍惚とした、熱っぽい瞳で空を見つめた。まるで、そこに愛しい人の魂が、漂っているかのように。
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この世界は、人間は、皆汚れている。人間という存在は、弱くて、不確かで、愚かで、自己中心的で、臆病で、残酷で、罪深いもの。世俗に惑わされ、欲望に溺れる。有能なものの周りに集まり、己の欲望のためだけにそのものをあがめ、奉る。役に立たないものは、冷酷にも切り捨てる。それが本当は、たとえその役割が表には見えなくとも、この世界にとってかげがえのない、大切な存在であったことに気が付いても、後の祭り。先人達の過ちを咎め、自らはまた、同じことを繰り返す…
なんという愚かなこと。けれど私も、そんな汚れた世に生まれた、罪深き人間…
小学校一年の時。私は国語の教科書を皆の前で読み上げた。
「…大きなフナや」発音がおかしかったのであろうか。皆が私の音読を聞いて、くすくす笑う。担任教師が
「こらっ」としかり、その場は収まった。だが私の中には、不快感、屈辱感が残った。
皆が私の声を聞いて笑っている。私の声が、私の言葉が、私の発音がおかしいからだ。私はおかしな人間なのだ。現に、ほら、同じクラスの男子が私の髪を引っ張ったり、私の身体を叩いたりして苛めてくる。
「やめてよ」といってもやめようとしない。かえって面白がって、
「やめてよ、やめてよ」と私の口真似をしながら、更に苛め続ける…
皆が私の声を聞いて笑っている。何を言っても、笑われるだけ。誰も私の言葉に、真に向き合って耳を傾けようとはしない。だから私は、声を、言葉を発しなくなった。一切。
笑い声でさえ、上げようとはせず咳払いでいつもごまかした。とにかく、声を発したくはなかった。絶対に。
最初、周りの大人たちはこぞって私をしゃべらせようと躍起になった。だが私はかたくなにそれを拒んだ。誰も私の言葉に、本気で向き合おうとはしないくせに。誰も私の思いを、理解しようとしないくせに。どうせ私が何か言っても、いつも軽くあしらうか、笑い飛ばすだけのくせに…
人間は皆、大嫌いだ。だが私自身も、彼らと同じ人間である。誰よりも、自分のことが一番嫌いだ。大嫌い…
誰も、何も、私の心を揺さぶりはしない。私の心を揺さぶるものは、何もない。そう、バレエ以外は。
バレエ。そう、それこそが私の心を揺さぶる、唯一のもの。音楽、美術、文学、舞踊。それら全てが統合された、人の創りし、最高の芸術。オペラには言葉がいるけれども、バレエにはいらない。声が、いらない。言葉なしで、物語を、心を、魂を、人生を表現することができる。私のすべてを、表現することができる。バレエこそが、私がこの世界で信じることのできる、愛することのできる、唯一のもの。踊っているときだけは、何にだってなれる。踊っているときだけは、全てを忘れることができる。辛いことも、悲しいことも、悔しいことも、恨めしいことも、苦しいことも、憎らしいことも、寂しいことも…自分がいかに、弱く、愚かで欲深く、罪深く、汚れた、孤独な存在であるかということを…
自分が汚れた存在であることを、認めたくなかった。自分が人間であるという事実を、認めたくはなかった。女であるという真実を、認めたくはなかった。自分が汚れた大人に、女になることが嫌でたまらず、徐々に大人の女になりゆく自分に、十の頃からおびえていた。膨らみゆく胸。生え濃くなりゆく体毛。丸みを帯びつつある身体。肉体に変化を感じる度に、私の心は壊れていった。
そして脇腹にえも言えぬ痛みを覚え、それが治まった二週間後、今度は下腹部に痛みが走り…真紅の、女のしるしを見たその日、私の精神は完全に、崩壊した。
頭の中で、私を侮辱する声が、聞こえる。私を軽蔑する声が、聞こえる。私を憎む声が、恨む声が、嘲笑する声が、聞こえる。私を絶望の淵へと、地獄の底へと、死の道へといざなう声が、聞こえる…
「しゃべれないの」
「変な子」
「汚い」
「のろま」
「ばかじゃないの」
「嫌な奴」
「大嫌い」
「バカ小僧」
「大きなふなや」
「障害者」
「人形」
「ロボットか」
「化け物」
「生まれそこない」
「うるせーんだよ、ばーか」
「三宮実姫」
「死ねばいいのに」
「どっかいってくれないかなあ」
「なんで何も言わないの」
「怠け者」
「むかつく」
「腹立つ」
「何様だと思っているの」
「自分を変えようとか思わないの」
「優しさのかけらもない」
「人としてどうなの」
「頭おかしい」
「いかれている」
「ウケる」
「キモイ」
「へたくそ」
「こんなこともできないの」
「何考えているかわからない」
「何も考えていないの」
「どんなしつけを受けてきたの」
「弟も病気だって」
「親がかわいそう」
「チビ」
「サル」
「暗い」
「無神経」
「泣き虫」
「弱虫」
「臆病者」
「最低」
「ぶっ殺す」
「死ね」
「消えろ」…
皆が私のことを知っている。皆が私のことを見ている。私を見て笑っている。皆に私の考えが知れ渡っている。頭の中を、見透かされている。心の中を、覗き込まれている。
もう、イヤ!お願いだから私を見ないで!私の中に入ってこないで!私のことを、弟を、両親を、そんな風に言わないで!悪く、言わないで!
私は馬鹿じゃない…変じゃない、人形じゃない、化け物じゃない、生まれそこないなんかじゃない…!
私は特別…そう、特別なの!私は天才、選ばれし者、運命の姫君!他の汚れた連中とは違う。私は聖なるバヤデルカ(舞姫)、バレエのミューズ…!私は…他の誰とも違う、この世で唯一の、特別な存在…!私は特別、特別な、選ばれし者、姫…!
そう、思い込まなければ、生きていけなかった…
私は踊り続けなければならなかった。地獄の声から、逃れるために。自分は人形などではなく、生まれそこないなどではなく、この世界に生まれてきた意味のある存在であることを、人々に証明するために。この世界で自分が生きてきたという、確かな証を、世に残すために。
皆本光。彼の踊りは、私の心を大いに揺り動かした。私の心を、ときめかせた。あのような見事な踊りを舞う彼ならば、私のことを、分かってくれるのではないかと思った。私のことを、理解してくれるのではないかと思った。私のことを、受け入れてくれるのではないか、そう思った。
だから、告白した。ところが、彼は私を受け入れてはくれなかった。愛しては、くれなかった。彼が愛したのは、他の女性であった。
それでもなお、私の彼に対する未練は残った。彼以上に踊りの上手いダンサーは私の周りには一人もいなかった。私は彼を、皆本光を、ずっと想い続けていた…
皆本光以外の男を、愛するつもりなど、全くなかった。元々私は、男というものが嫌いだ。物心ついた時から、常に男というものから苛められ続けてきた。
男、女という以前に、そもそも私は人間というものが嫌いだ。憎んでさえいる。だから、誰にも心を許さない。人間は常に私を迫害し、傷つけてきた。どうしてそんな人間に対して心を開き、愛することができよう?私は、一生誰のことも愛さない。だから一生、誰からも愛されずとも構わない。一人きりで、生きてゆく。生命尽きるまで、永遠に…
だがしかし、死後三途の川を渡るとき、男は一人で渡ることができるが、女は初めて身体を許した男に背負われなくては、渡ることができない。処女のまま死んでしまった女は、三途の川を渡れず精霊ウィリとなって永遠に、踊り続けなくてはならない。バレエ「ジゼル」はそういう物語だ。私はバレエ「ジゼル」を踊るのは好きだが、死後にウィリになるのはごめんだった。皆本光は私を、抱いてはくれない。だから、死ぬ前に誰でもいいから男に抱かれる必要があった。
成人式で中学時代の同級生と再会し、その男と寝た。彼は根暗なオタクで、中学時代苛められっ子であった。互いにクラスの鼻つまみ者であったこともあり、成人式での再会では意気合同し、流れでそういうことになったのだ。むこうは童貞を捨てたがっており、こちらは処女を捨てたかった。互いの利害は、一致していた。だから、寝た。彼に対する情など、全くない。一夜限りの関係だ。とにかく、これで私が、死後ウィリとなる可能性はなくなった。
柏木太一と出会ったのは、その半年後のことである。
彼とそういう関係になるつもりなど、全くなかった。私はもう処女を捨てており、死後にウィリとなる可能性はない。なのに…
心を、揺さぶられてしまった。強く、惹かれてしまった。初めて、バレエ以外のものが、私の琴線に触れた。彼のドラムが、歌声が…そして、思わず、この身を許してしまった…
柏木は、最初の男とは違って私を優しく扱ってくれた。彼が、私に自分で自分を慰めるのとは違う快楽を、教えてくれた。
彼は、私にバレエ以外の世界を教えてくれた。彼の見ている世界。彼が働く病院、そこで出会う人々。彼が旅した場所。彼が読む本、彼が見るテレビ、彼が聴く音楽。彼が所属するバンド、彼が唄う歌、彼が奏でるメロディー、リズム。彼が愛するアーティスト。彼の見つめる、世界の真理…
私と出会う前、彼は青年海外協力隊で、カンボジアに行ったという。かつてカンボジアは、ポルポト政権という独裁政権下に置かれていて、そこでは教養が、芸術が、音楽が、禁止されていた。わずかな伝統音楽が継承されており、その一つが「アラピヤ」である。彼が、私にその歌を教えてくれた…
柏木に不満などあるはずもない。彼は見た目も悪くなく、心優しく、私をいつも丁寧に扱ってくれる。私に寄り添い、私を理解しようとしてくれている。私もそんな彼を憎からず思っていた。
けれどもまだ、まだ、皆本光にも未練があった。何と言っても、バレエ団に入った十五の時から彼を見続けているのである。おまけに彼の方が柏木よりも、美男で身長も高い。彼の姿を、踊りを見ると、私の心は揺れ動いた。
自分の心が、分からなかった。ひどく、混乱していた。皆本光と柏木太一。どちらも私の心を揺さぶる存在。どちらも、愛しかった。恋しかった。柏木のことは、好きだ。彼も、私を好いてくれている。けれども、皆本の、光の踊りを見ると、彼と共に踊ると、私は、私は…
苦しかった。恋しくて、愛しくて、苦しくて、たまらなかった…
柏木の瞳は、見ることができなかった。自分の方から彼に、触れることはできなかった。彼と手をつなぐことを、拒んだ。彼と共に出かけることを、拒んだ。人前で触れられることを、拒んだ。私は柏木を愛していた。けれどもその気持ちをどう伝えたらよいか、分からなかったのである。人の愛し方を、知らなかった。踊り以外で自分を表現する術を、知らなかった…
皆本光の瞳は、見ることが出来た。彼には、触れることが出来た。手をつなぐことが出来た。共に、踊っているときならば…柏木もバレエを踊ることができればよかったのに。そうしたら彼の瞳も、見ることができたであろうに。手を、つなぐこともできたであろうに。
柏木が、私が自分よりも皆本光のほうを愛していると思うのも、無理からぬことであった。実際私自身も、どちらをより強く、深く想っているのか分からなかったのだから。しかも、共に踊ることを通して皆本光には愛情を伝えることができたが、柏木とは、共に踊ることが、できなかったのだから…
柏木のそばに、いたかった。彼の姿を、彼の笑顔を見つめていたかった。彼の声を、聴きたかった。彼のそばで、眠りたかった。彼に、触れられたかった。彼に、抱かれたかった。彼に、慰めて欲しかった…
それを、うまく言葉で伝えることが、できなかった。ただ狂気の中で、ひたすら彼の身体を求めることしか、できなかった…
愛されれば、愛を知れば、孤独はなくなると思っていた。けれども、違った。彼を知ったことで、愛を知ったことで、私の孤独はより一層深まった。愛が、本当の孤独を私に教えてくれた。愛は人を救わぬ。愛に人は救えぬ。愛は人に対して真の孤独を教え、人を傷つけ、痛めつけるだけだ。人間が人間を救うことなど、決して、ない。
寂しい。寂しくて、虚しくて、切なくて、たまらないのだ。
この身に柏木の胤を宿したことに気付いた時、私の狂気は一層深まった。私に生命を生み、育てることなど、できるはずもない。しかしその生命を絶つこともまた、できやしない。身籠ったという現実から目をそらすべく、私は眠ることも忘れて踊り、破壊し、食べ、嘔吐した。自らの殻に閉じこもり、この世ならざる処からの声に耳を傾け、そちらの世界へといざなわれていった…
私の状態を見かねた柏木に精神科に連れていかれ、頭部のCTを撮影しようか、という段になって初めて、私はこの身に生命を宿している、かもしれないということを告白した。
人という人は皆、柏木でさえも堕胎を求めたが、私は決して首を縦には振らなかった。
何故か。声が、聞こえるからである。人殺し、人殺しと私を責める声が。この身に宿る
生命を消してしまえば、その声が現実となる。人殺しに、なってしまう…
こうして、私は妊娠三十七週、予定帝王切開で娘を出産した。
出産から二週間、娘が退院する段になって初めて私は彼女と対面した。娘は正期産で生まれたものの(私が妊娠中ほとんどものを食べなかったこともあり)出生体重二千五百グラム以下の低出生体重児で、産後しばらくは保育器に入っていた。でももう順調に体重は増え、保育器から出て、今日退院する、とのことであった。私も産後の身体は回復して、あとは精神の方を精神病棟で治しましょう、ということで産科から転科するところであった。
看護師が私の母と共に連れてきた娘を、父、母、夫、産科医、精神科医、看護師らが見守る中、私はベッドの上で恐る恐る抱いた。と、今まで眠っていた彼女は私の腕の中で目覚め、泣き出した。私は怖くなり、慌ててそばにいた夫に娘を手渡した。すると彼女は夫の腕の中で、すぐに泣き止んだ…
私は娘の愛し方が、分からなかった。出産直後から抗精神病薬を服用していたため、授乳することもかなわず、産後すぐに長期間、精神病棟に入院していたことから、娘を抱くことも満足に出来なかった。私がおぼつかない手で娘を抱いても、酷く泣かれた。ただ彼女の寝ているベビーベッドの横で、彼から教わったアラピヤを口ずさむことしか、できなかった…
娘は、私に全く懐かなかった。夫や、よく面倒を見ていた私の両親にはよく懐いた。赤ん坊の頃は、私が抱くとひどく泣き、夫や母が抱くとすぐに泣き止んだ。長じても父である夫や、祖母である私の母にべったりで、母である私には頭を触れられることさえも拒んだ。娘はいつも、怯えたような瞳で、軽蔑するような瞳で、人形を見るような瞳で、私のことを見つめていた…
おかしい。こんなの私の娘じゃない。私に懐かない、私に抱かれようとしない、触れようとしない、笑いかけもしない、そんなの私の娘じゃない。そう、これは私の娘じゃない。私の娘はこれじゃない。私の娘…私の娘は、どこ…?
幼い少女が、まだほんの少女のくせに、母親のような顔をして赤ん坊をあやしている。その赤ん坊は泣きもせず、暴れもせずおとなしく少女に抱かれている。おとなしい赤ん坊…小さく、可愛らしい赤ん坊…そう、これが私の娘…私の、娘だ…私は少女から赤ん坊を奪い取った。
「か、返して、ママ!薫の、お人形…」少女が言う。薫?私の娘も薫といった。ママ?私は、あなたの母親ではない。人形?私の娘が、薫が、人形だというのか。この子は…
私は人形ではない。娘も人形ではない。私はその少女を睨みつけ、引っ叩いた。少女は泣き出した。そして私はその場を立ち去り、本当の娘を、泣きも、動きもしない娘を抱いて、アラピヤを口ずさみながら、あやした…
「なあ、実姫…」夫が、産後間もない私に話しかける。
「俺達の娘に、会ってきたよ…可愛い子だ。俺に全然似てなくて、お前によく似ていて、すげー美人なんだ…実姫…ね、名前、どうする…?」私は、床頭台の上を顎でしゃくる。
「マトリョーシカ?」そう、そこにはロシアで購入したマトリョーシカがあった。中を開けて、と私は頼む。入れ子人形の中身を、一つ一つ開ける。と、中に小さく折り畳んだ紙があった。
「薫」とその紙には書かれていた。
「薫…」夫が、読み上げる。
「薫…いい名だ…」
私は、娘を愛していた。娘に、幸せになって欲しかった。だからまだ彼女が生まれる前、ロシアへ行き彼女の幸せを願いマトリョーシカを購入したのだ。
そしてマトリョーシカを購入したその夜、初めて柏木の瞳をまともに見つめ、自ら彼に触れることができた。そして、結ばれた。この夜が、二人の最も幸せな夜だった…
娘が生まれたのち、彼が私を抱くことは決してなかった。彼は相変わらず私に対し優しかった。だがその優しさは、果たして私を妻として、女として見ており、夫として、男としての愛情からくるものなのか。それとも私を患者として見ており、看護師として私に、接しているのか。分からなかった。そして彼もまた少しずつ、心を、病んでいった…
柏木は、私を愛そうとしてくれた。私に寄り添い、私を、理解しようとしてくれた。けれども彼は、私の真の孤独に気付いてはくれなかった。三宮実姫であるということは、彼が想像するよりもはるかに孤独なのだ。そのことに、彼は決して気付こうとはしてくれなかった。
いや、彼を責めることなどできぬ。彼は精一杯、私のことを理解しよう愛そうと、努力したのだ。所詮、人と人とが完全に理解し合うことなどできない。人間に人間は、救えぬ。
そして私もまた、彼を理解することができなかった。彼の深い闇に、気付くことができなかった。
かつて、私の髪はその背中が隠れるほど豊かであった。柏木はよく私の髪を撫で、
「まるで絹糸に、よりをかけたように美しい」と褒めてくれた。しかし、娘を生んで間もなく私はその豊かな黒髪を、自分の肩の上で短く切り落としてしまった。以来、私は髪を伸ばしていない。
かつて、私は色とりどりの衣服を何着も持っていた。それらの組み合わせを考えて、着回し、着飾るのが楽しかった。着道楽であったのだ。しかし、夫が亡くなって以来、私は黒以外の色を身に付けてはいない。
彼が自らの手でその生命を絶ったと知った時、私は、初めて自分が彼をどれほど愛しく思っていたかを思い知ったのだ。
柏木太一。この世でただ一人、私を色眼鏡ではなく、私のことを真表から見ようとしてくれた人。私に寄り添い、私のことを理解しようとしてくれた人。私を愛して、我が子を残して、私と我が子に全てを捧げて、身も心も病んで、そして自ら、身を滅ぼした…ああ…
ねえ太一…もう二度とあなたに逢えないだなんて、信じられない、信じたくない。逢いたい。もう一度、もう一度だけあなたに、逢いたい。逢いたくてたまらない。あなたが、恋しい。恋しくてたまらない。あなたに逢って、あなたの眼を見て、あなたに、触れて…
私はあなたに、まだ何も伝えていない。あなたのことを、私が、どれほど愛しく思っていたかを。どれほど必要としていたかを。どれほど感謝していたかを。どれほどあなたの存在に、慰められたかを。どれほど癒され、救われたかを。あなたのそばにいるとき、あなたの姿を、笑顔を見つめている時、あなたの声を聴くとき、あなたに触れている時、どんなにか私は幸せであったのかを…
ねえ太一…何故、一人で逝ってしまったの?私も、あなたと共に逝きたかった。あなたに遅れて、死んでたまるものですか。
でもね、太一…私達の愛の証を横目に、私も、自ら終わらせることなど、できるわけがないでしょう?
地獄の声が、聞こえる。私を絶望へ、死へといざなう声が、聞こえる。
ねえ、太一…私はこの汚れた世界で、地獄の声を聞きながら、生き続ける。絶望の舞を踊りながら。あなたが教えてくれたあの歌を、口ずさみながら。この汚れた世界で生きる、私達の愛の証と、今も私の心の中で生きるあなたの幸せを、祈りながら…私は、生き続ける…
そして、そういつか私も、あなたのもとへ…
登場人物紹介
三宮実姫
主人公。二十一歳(物語開始当初)。小学校一年生の時、国語の音読を同級生にからかわれたことをきっかけに全緘黙(ぜんかんもく、全く口がきけなくなること)となる。この頃より人間の愚かさ、醜さを愁いるようになる。
元々神経質かつ情緒不安定なところがあったが、十四歳で初潮を迎えたことにより本格的に発狂、統合失調症を患うようになる。
七歳からバレエを始め、十五歳、中学卒業と同時に地元のバレエ団に所属。二十一歳の時点でファースト・ソリスト(バレリーナの最高位、プリンシパルに次ぐ位)。バレエ海外留学やコンクール入賞の経験はなく、技術的にはパッとしないが、表現力で観客を魅了するタイプのダンサーである。
柏木太一
三宮実姫の恋人かつ夫であり、薫の父親。実姫より十一歳年上。
看護師で、趣味でバンドもやっている(ドラムを担当)。また、二十代の時に青年海外協力隊としてカンボジアへ行ったこともある。
皆本光
実姫の所属するバレエ団の男性ダンサーであり、プリンシパル。「ジゼル」ではヒロインジゼル(実姫)の相手役を務めた。実姫より十二歳年上。実姫は十代の頃彼に告白したが、玉砕した。同バレエ団のプリンシパル、紫央里と付き合っている。
膝の故障により柏木の勤める整形外科病棟にしばらく入院していた。故障後初舞台となる「ジゼル」の公演に彼を招待したことが、実姫と柏木、二人の恋の始まりとなる。
柏木薫
三宮実姫と柏木太一の娘。