ピンチも楽しむべきだと先人は言います。
「お、おうまさん……」
「何だよそんな怯えた顔して」
マナは生まれて初めて恐怖していた
父と慕うアレフに叱られた時にも得なかった感情だ。負の感情、身もすくむ思いとはこの事か
そして、ついにマスターは自分の背後に「違和感」を感じる。それは、とても冷たいものを背中に突きつけられたような、それは金縛りにあったかのような全身の拘束感……マスターは恐る恐る後ろを振り返った
「……って、何でぇターキじゃねぇか」
「やぁマスター、久しぶりだね。子連れとは驚いたが……アレフはどうした?」
と、後ろにつっ立っていたのは待ち侘びた旧友、ターキだった。頭に少し白髪が混じり、幾らか老けていたが美丈夫は以前変わらない
「お、おうまさん……?」
「どうしたマナちゃん、こいつがターキだ。アレフの友達だぜ?」
マスターは笑顔でそう言い、ターキを家の中に入れる為に一度頭を外に出す
そして、部屋に入ってきたターキに更に怯えを見せるマナは、徐々に後ずさる
「初めまして。えーと……マナ、ちゃんかな?僕はターキ。アレフとは古くからの仲でね」
「……」
声が出ない、マナは自分が心底怖がっているのを感じていた。膝が震える
しかし、この得体のない恐怖、マスターに伝えなくてはいけない
だが
「なぁマスター、僕はこの子に何かしたかい?例えば気に触るような事とか」
「いーや、何かこの家入ってからずっとこうなんだよ」
何故だ、何故マスターはこの男の異様な雰囲気に気づかない?
ターキはマスターから再びマナの方に視線を戻す。どう見たっておかしい、まるで品物の位を見定める時の父のような目つきをしている……少なくとも自分の事を「人」とは見ていない
「……まぁ小さい子だし、仕方ないか。マスター裏口からなら家に入れるはずだ。そっちから来なよ」
「あぁ、すまねぇな」
マスターはドアから離れ、トコトコと焦る様子なく歩いて裏口に回っていく
数分、いやほぼ数秒間だけ、マナはこのターキとかいう男と二人きりになってしまった
いつか父が言っていた
「危ない。と感じたら、何よりも先に逃げろ。そして逃げる時に一発敵を転ばしてやれ」
(やるならいま……!にげて、そのままおうまさんにはしってもらう!)
荷台は家の外に置いてある。その作戦でいったらまず回収は不可能だろう
父は、それを聞いて怒るだろうか……
「なぁマナちゃん」
肩に手を置かれた。誰と言うまでもなくターキの手、大きく、ゴツゴツとした細い見た目に似合わない大人の手
父とは全く異質の「ソレ」にマナは再び戦慄する。「ヤバい」と全身、そして全ての脳細胞が逃亡を指示してくる
「君は、一体いくらになるかなぁ?」
瞬間
マナは「常識を忘れた」「恐怖を忘れた」
「ただこの場を離れマスターと共に父と合流する。ただそれだけを選び」体を無意識の内に動かした
一閃
マナは目にも止まらぬ速さで屈みこみ、そこから体を捻って全力でターキの足を払った。ターキも予想外だったのか為す術なく地面に転がされる
(いまだ……!)
マナは、その不安定な姿勢からは考えられない瞬発力でドアを蹴破り、裏口へ既に辿り着いたであろうマスターを追う
「おうまさん!おうまさん!にげよ!」
そこを曲がれば居るはず。この距離ならこの声も聞こえるはず……後は全てマスター任せだ。情けないが任せる他ない……何にせよここから逃げないと
「おうまさん!」
角を曲がり、そしてマナは「見た」
不自然にグニャリと四本の足を折り、地面に倒れ伏すマスターの姿を
目が空いておらず、呼吸も浅深まばらなその姿を
(こ、これって……!?)
マナは急いでマスターに駆け寄り
耳元で叫ぶ、ひたすらにその名前を呼ぶ。いつも呼ぶ、その名を
「おうまさん!おうまさん!ねぇおうまさん!おきてよ!おきてってば!!!」
「無駄だよ」
ゾクリ。マナはマスターを呼ぶ声を一度止める……振り返りはしない、背後に何が立っているか理解しているから
その上でこれからどうするかの算段を高速で何パターンも建てていた
アレフは未だ知りもしないが、マナの才能はこういう面でも優れていた
きっとこの子は何でも出来る、いわば天才……奇しくも、マナの背後に立つ
「男」もそれを感じとっていた
「マナちゃん……まさに鴨がネギしょってやって来てくれた。いやはや歓迎するよ。あぁそう、マスターは少し眠ってもらっただけだ、安心してくれ」
算段は建てた。それも数パターンもの数を……しかし、マナは悟っていた
逃げ切るのは不可能だと
何故なら今、この状況で逃げる為には
「マスターを背負って、この家を覆うように並べられた人の包囲網を飛び越すかくぐり抜けなくてはならない」
まぁまず不可能だ……翼でも使えばあるいは。とも考えたが、父に禁止されている
マナからすれば、今捕まるより父に叱られる方が嫌なのだ。故にマナは腹を括った
「のみもの、ください」
「ふふっ……じゃあ家に戻ろうか」
マナは倒れたマスターの口が「いくな」と言っているのを敏感に察知したが
「だいじょーぶ」と小さく笑って言い返し、一人ターキと共に家の中へと戻って行った
▶▶▶
さてさて、愛する娘とさほど愛してはいない馬がそんな危機に陥ってる中
一行の柱、アレフはというと
絶賛、密室に閉じ込められ中だった
「いってて……乱暴が過ぎるだろ」
両手両足には金属で出来た錠、重し付き。出入口は目の前の一つのみで窓も何も無い、お陰で部屋中真っ暗だ
「黙っていろ。貴様はこの街にとって害悪でしかないのだ……もう少しで処分が決まる。せいぜい腹でも括っておけ」
ふむ、どうやら木製のドアの奥に一人人が見張りでついているようだ。部屋の中が見渡せるように穴が空いているのを確認できた。まぁ脱出するには小さすぎるが……さて、どうするか
この部屋……牢屋っぽいし牢屋と呼ぶが、この牢屋に入れられる際荷物は全部没収となった。花束は勿論、金や細かな私物、A5や変音機まで盗られてしまった
(とにかくこの邪魔な錠を外さないと何ともならないか)
じゃないと動く事もままならない。アレフは周りをグルリと見渡す
「なんにもないな……おい聞いてるか、ここはどこだ?」
部屋の中に一切の情報が無いとなると
部屋の外に求めるしか無い、ので見張り番に会話を求めにかかる
「……」
「ん、聞こえなかったか?なぁ、ここはどこなんだ?おい」
「黙れ」
ふむ、どうやら無理そうだ。あまり深追いしても逆上しそうなのでここら辺でやめておく。代わりに見張り番を務める「男」が誰かわかった
(靴屋の倅か……そういやあいつの親父もドラッグの売買に関わってたっけか)
なるほどそれなら合点がいく。さしずめ仕返しがしたいのだろう……それも俺が死ぬほどキツいレベルのを
となるとこれは冗談では済まなさそうだ。それにマナたちも本格的に危ないかもしれない
なら、ならばこそもう少しだけ「時間を稼がなくては」
「おい靴屋の、俺を逃がしてくれればお前の願いを叶えてやるぞ」
「俺の願い?……ははっ、そりゃお前が死ぬ事。それが俺の望みさ。何せ俺の両親はお前の身勝手な偽善行為によって死んでしまったんだからな」
「じゃあお前は、ドラッグを売る事に何の感情も無かったのか?人を殺す事も出来る代物を外に送って、自分らはその金で生活して……楽しかったか?」
ドォン!何かがドアにぶつかる。中々の衝撃音……恐らく靴屋の倅がドアを怒りに任せて殴ったのだろう
感情が激しく動く……何か思う所あったのは図星らしい
「……本当に、もう黙っていてくれないか。どうかしてしまいそうだ」
「ああ、わかった。悪かったな散々喋って……んじゃ、元気でな」
靴屋の倅はアレフの声が入り切らないほど大きく深呼吸をした。心を落ちつけるためだ
(何キレてんだよ俺は……あいつは放っておいても直に死ぬ。そして俺の仕事は唯一の逃げ道、このドアを守る事……落ち着け、落ち着け)
「おちつ……け?」
あれ、そういえばあいつ……さっきなんて言った?確か「元気でな」とか……
そこまで頭が巡った男は、急いでドアの鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込んで、回す
「おい!」
……密室、出入口は唯一このドアだけ
なのに、何故、何故だ
「何で居なくなってんだよ……」
もぬけの殻、残されていたのは両手両足に付けられていたはずの錠、そして重しのみ
(一体どこに行ったというんだ)靴屋の倅、仮にシューズと呼ぶことにしよう
シューズは部屋の中を彷徨いた。この中に居たはずなのだ……この部屋から出ようと思ったらあのドアを……
「しまった!」
バッ、とシューズは後ろ、開け放したままのドアへ振り向く……と、予想通り、それも悪い方が見事当たった
「靴屋の。君には悪いが急ぎの用事があるのでね……種明かしはまた今度」
そう言うだけ、言い残してアレフはバタン、ととドアを閉めた
返事は聞かない、というかシューズの顔も見れない。何せドアを閉めたはずなのにその隙間から怨念、負のオーラが漏れ出ている。余程嫌われているのだろう
「さて……ここは、何処だ」
それは通路の一角、何個か同じようなドアが並んでいる。そして窓も幾つか確認できた
周囲に気を配りながら、アレフは再び手に持った大きな「布」を被る
(さて、久々にやるか……盗人)
ターゲットは愛娘と馬
失敗は許されない。何だか燃えてきた
アレフは内心荒れ狂うワクワクをなんとか沈めながら、牢屋を内蔵した建物を探索していく。全てはいつも通りを取り戻すために―――




