あぁ美しき娘の微笑み、です。
荷台に揺られる朝というのは何とも瞼が重くなる。それも極度の緊張感に負けて夜通し起きっぱなしだった朝なんかは特に眠くて仕方なくなるのが道理というものだ
何の緊張感か?それは昨日の夜、貸し与えられた教会の一室にて眠りにつこうと娘のマナと共にベッドに潜って暫く、部屋のドアが開いたかと思うと一つの影が音を立てずにヌルリと忍び込んできた。背丈がほぼ同じなので一瞬シスターのタマかと思ったが、すぐに思いなおした。ここに来る「女」の影で最も可能性が高いのは……それはきっとサシャだろう。
しかし問題はその後、彼女がアレフら同様のベッドに潜り込んできた事ではなく寧ろその後、まるで呑気な獲物を遠くから見捉える肉食の獣のような視線。その主は勿論サシャ、とても怖い
極めつけに、サシャはその視線をアレフに向けたまま一切の油断なく一夜を過ごしてしまった。つまりアレフは獣に一夜晩睨まれ続け、遂に眠りへつけず、おまけにサシャ自身も眠れずに夜を明かした。そんな彼女は今荷台の奥隅でマナの膝枕を借りてグッスリと寝ているのがこれまた恨めしい
確かに恨めしいが文句を言うつもりは毛頭無い。何せ彼女がそんな陰湿極まりない事をしてきたのは元を辿れば間違いなく自分のせいなので、文句なんて言えば寧ろ薮蛇。良い結果になんて終わるはずが無い
それがわかっているからアレフとしても黙って荷台の頭に腰掛けて手網を握ったふりをして静かに船を漕ぎ続けるのだ
さて、そんな彼らが次に目指すのはここ極東において「政」の中心でもあり、世界でも最高峰と謳われる美しい景色を持ち合わせた風情ある都市「キョウ」
アレフもマスターも今まで訪れた事が無く、景色が良いというのも流れに流れた根の無い噂話からの情報だ。もしかしたらそれらは大嘘で、いざキョウについてみたらそれはそれは小綺麗だと笑えるほどの荒野が一面に広がっているかもしれないし、はたまた近未来的な油臭い技術都市かもしれない
何にせよ、アレフはどんなでも良いとそう思っている。何故なら未開の地というのは無意味にその姿を創造するだけでも楽しく、そこに正しい答えなんてあるはずもない。とハナからそう思っているから
それは恐らく後ろのマナとサシャも同じはず。彼女らは自分以上にこの世を知らず、街を知らず、常識を知らない
きっと自分以上にこの世界は輝いて見えているのだろう……今だけはどうなのか分からないが
荷台の旅において大事な事は「如何に暇を潰すか」だと若かりし頃、年配の同行者に酒を交えながら教えて貰った事がある。その時は旅から旅への流れ者、ましてや家族を持って旅行がてらの旅なんてするとも思っていなかったから「歳を食うと時間が長く感じるのか?」なんて事を言ってソイツにゲンコツを貰ったのをよく覚えている。気が滅入る話だがその時よりずっと歳を重ねて分かったが、時の流れというのは歳を食えば食うほど空虚に、且つとんでもない速度で流れていく物らしく毎日に目を回さないよう必死になる日々だ。
もうとっくにこの世には居なくなっているであろうあの年寄りに今更ながら礼が言いたくなった。言う機会なんて来るかは分からないが……せめて、自分自身が死ぬ時に憶えていたら軽く言葉を添えてやるつもりだ。勿論マナに当てる言葉こそ最も割合が高くなるだろうが
文字通り暇を潰す為にそんな事を延々と頭の中に垂れ流していたアレフだったが、ふとした瞬間にとある疑問が浮かび上がった
(……というか、「死ぬ」その時まで自分はあの子の傍に居れるのか?)
それは元々素朴な疑問、しかし一度考えるとどんどんと黒く膨張し、あっという間に先程のつまらない過去の事なんて彼の頭からは消し飛ばされてしまった。きっとその年配への感謝は永遠に成されないのであろう
アレフはそんな無意味な心配、心細さに負けてチラリ。と後ろを振り返った
そこにはまるで自分より大きな娘を持ちながらもそれより大きな愛と優しさで包み込む、温かな聖母の微笑みがあった。訂正、マナが涎を垂らして眠るサシャの髪を撫でて笑っていた。危うく手と手を合わせて拝んでしまうところだった。彼女はこっちの心配なんて気付きもしないのか無邪気な微笑みのまま視線に気付き、小さく手を振ってる。声を出さないのは寝ているサシャへの気遣いだろう。実に優しい子だ
出来る事なら、ずっとこの子の傍に居てやりたい。成長を見守りたい……こんな事小っ恥ずかしくて口には消して出来ないけど、だけど今回の件で一つ分かった事がある
朝比奈水蓮、リリという異世界から偶然にも堕ちてきた少女はつい先日アレフらと決別した。あまりにも簡素な説明だがここに隠された様々な情景は深く、楽しく、そして物悲しさに満ち溢れていた。本当に全くの偶然とはいえ色々合ったのだ。しかしそんな出会いは気付けば一瞬の内に終焉を迎えてしまった
ならばマナはどうか。彼女もまた元を辿れば出会いは偶然、何せ空から卵が降ってきてその中から彼女が飛び出てきたのだから……そこに偶然自分が居合わせたというだけの話だ
もしかしたら、何時かはマナとも、更にはサシャとも別れ。何時しかこの旅は終わりを迎えるのだろう
そんなもの来なければいいのに……なんて、そんな事を口にするのが許される立場なら少しはこの気苦労が晴れるのだろうか、と正面を向き直し、一人黙考するアレフなのであった
続く




