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エリオットは、自分の唇を掠めた何かがなんなのか認識する前にそれどころではなくなった。
「おい!アルタ!どうした!!しっかりしろ!」
突然倒れるようにもたれかかってきたアルタの身体を急いでベンチに寝かせる。大きな声で声をかけながら呼吸の状態を確かめるとすぅーすぅーと規則正しく危なげのない呼吸音が聞こえた。
どうやら寝ているだけのようである。
急性アルコール中毒のような症状もなく、しいて言うなら少し顔が赤いぐらいか。
エリオットは安堵なのか呆れなのか身体の力が抜ける感覚に深く長い息を吐き出すとしゃがみこんだ状態でアルタの顔を覗き込む。いつもはバレないように盗み見るのとは違い、アルタに意識がない今は遠慮なく観察させてもらう。
何やら幸せそうにむにゅむにゃとこちらを向いたことにどきりとしながら、どうやら起きた訳ではないようだ。
いつもは前髪で見え隠れする整えているが少し太めの眉毛は丸いおでこと一緒に全開になっている。仕事中は邪魔だからと言う理由で適当に後ろで一つに結んでいる癖のある髪はベンチから流れ落ちて地面につきそうだ。起こさないようにそうっと髪をまとめるとその近さに先ほどまでのアルタを思い出して顔が熱くなるのを感じる。
あれは、おそらく酔っていたのだろう。
というよりここ数日まともに寝ていなかったのか今日1日気が立っていたように思う。もちろん怒らせたのは自分に原因があるが空腹時だとはいえ、いつもだと酔うような量ではないはずだ。
アルタの髪を触りながら自分の情けなさを反省した。
意を決してプロポーズしたというのにどうやら自分は頓珍漢なことを言ったらしい。
確かに数年を待ってもらうっていうのが非常識だったかもしれない。うん。俺はいいんだ。もう7年も、むしろそれ以上待ってるからな。数年伸びたってアルタが手に入るならばいくらだって待てる。あ、いや嘘をついたかもしれない。いくらでもはちょっと格好つけた。すぐに結婚出来るなら俺だってしたい。でもそんな俺に都合のいいことがあるのか?本当に?
風邪を引かないようにエリオットの上着をアルタにかけると顔色を青くしたり赤くしたりしながら買った串焼きを1人もぐもぐと食べる。アルタの顔を眺めながら。
というかさっきのはプロポーズはOKということだろうか。アルタも俺を好きだということか?え、それは幸せすぎるんじゃないか?大丈夫か?死亡フラグというやつとかじゃないよな。あの兄上が死にかける戦場だぞ。あの10人がかりで挑んでも傷ひとつつかない兄上が戦線を離脱する怪我を負うなんてよほど戦況はひどいに違いない。いくら戦場には行かないとはいえそんな危険な土地にアルタを連れていくなんて何があるかわからない。父上はアルタに会えて大喜びしそうだけど。
アルタの顔を観察しながら食べているといつのまにかものの数分で全て食べてしまっていたようで空になっていた。まったく起きる気配を見せないのでポットやコップを素早く片付けるとアルタを背中に背負った。
普段から鍛えているエリオットからしたらどうってことないがあまり長くここにいてはアルタも風邪をひいてしまう。買い込んだ食糧を消費したのであとはアルタを背負ってマーテス家の邸宅へ帰ることにした。さすがに1人暮らしのアルタの家に勝手に入る訳にはいかないだろう。
母がうるさそうだとため息をつきながら背中ですやすやと眠るアルタの存在に、屋敷についてもエリオットは緩む表情筋を引き締めることは出来なかった為、家族はおろか使用人たちにも生暖かい目で見られることとなった。
次の日にはアルタがマーテス家の屋敷で起きた頃にはエリオットはすでに屋敷を出ていた。
行きにはなんとか阻止したおんぶをされて帰宅したことなど知るよしもなく、なにやら前日の記憶は少し曖昧だったが久しぶりにぐっすりと寝た頭はここ最近で1番すっきりしている。
運んでくれたであろうエリオットから起こす時間を聞いていたのか顔見知りのメイドに声をかけられ、シャワーを借り、エリオットの母や弟夫婦から生暖かい目で見られながら朝食をとり、昼食を2人分待たされて屋敷を出た。
アルタは朧げだった記憶がはっきりした輪郭を表した頃には恥ずかしさで身を悶えさせていた。
なんであんな大胆なことを…!
時折来るむず痒い羞恥心に耐えながら仕事をしてると気づけば昼食の時間を過ぎようとしている。
慌てて席を立ち、待たされた2人分の昼食を手に部屋を出たところでこちらに向かってくるエリオットと鉢合わせた。
「…おはようアルタ。昼食か?」
「うん…料理長からエリーの分も預かったわ」
「そうか。じゃあ中庭にいくか」
ぎこちない空気の中アルタが持っていた2人分の昼食を奪うとエリオットは先に歩いていく。大人しくその背中に付いていきながらまじまじとその背中を眺めた。
大きな背中だ。美しい顔の造形に惑わされやすいがエリオットの身体は日々鍛錬で鍛え上げられた騎士の身体だった。
今まであまり意識したことがなかったが昨日、自分の手に重ねられた大きな手のひらを思い出すとなんだか落ち着かない気持ちにさせられた。
中庭まで来たものの今日は少し風が冷たいからかいつもよりも人がいない。いつものようにベンチに並んで座るとエリオットは昼食をあけるより先に手に持っていたマフラーをぐるぐるとアルタの首に巻いた。
「むぅ…!なに…」
「今日は風が冷たい。風邪を引いたらどうする。巻いておけ」
わざわざアルタの為に持ってきたのか膝掛けまで持参している。
「二日酔いにはなっていないか?」
「うん。むしろぐっすり寝て頭がすっきりしているぐらい」
「そうか。昨日のことはどこまで覚えているだろうか」
せっせとアルタの世話をしながらなんてことないように言われた話題に思わず固まってしまう。
「俺のプロポーズは覚えているか?その後おまえがエールをガブ飲みして俺に怒っていたのは記憶にあるか?待つのは嫌だと言っていたのは?あれは、その…」
テキパキと2人分バケットサンドを分け、スープの準備をしながらこちらを見ずに矢継ぎ早に問いかけていた言葉が一瞬戸惑ったように止まると、ひたりとアルタの目を見た。
「すぐになら俺と結婚してくれるということだろうか?」
普段の凛々しい顔が少し情けなく見えるのは不安げに瞳が揺れているからか。
その顔を見ながらアルタも意を決して口を開く。
「あのね、エリー。私今までエリーのことを異性として好きかというとあまり自信がなかったの。もちろんエリーのことは好きだし尊敬しているけど、かっこ悪いところも知っているしめんどくさいなと思うこともある」
マフラーに顔を半分埋め、ついそらしてしまった視線をちらりとエリオットに戻すとものすごくショックを受けていた。この世の終わりのような顔をしている。
「俺は…めんどくさいと思われていたのか…」
「うん。たまにね。だって小姑みたいに口うるさいんだもの」
嘘だ。結構頻繁に、なんなら毎日思っている。
「でも昨日、エリーに結婚しようって言われた時に思ったのよ。
私、この先自分が誰かと一緒にいるのなら当たり前のようにエリーとだと思ってたみたい」
だから結婚しようと言われたこと自体には驚かなかった。アルタが怒ったのは一方的に自分を守る存在だと言われている気がしたからだ。
「私、思ってたよりエリーのこと好きみたいなの」
エリオットの目を真っ直ぐ見ながらそう言うと、固まったまま口をぽかんと開け、信じられないようなものを見かのように目を見開いている。
「…ちょっと、人が告白してんだから何か言いなさいよ」
「こ、」
「こ?」
「こんな日が来るなんて…!俺は夢を見てるんだろうか」
「大袈裟ね。え、ちょっと泣いてるの?」
エリオットはうるうると今にも溢れ落ちそうな涙を目にため、両手で口を覆った。完全に乙女である。
「何年も何年もアピールしてもまったく相手にされず、会う為に毎日仕事を無理矢理抜け出してもすぐに居なくなり、やはり意中の相手は胃袋を掴むいいと雑誌に書いあったから料理まで習得したのに褒めるのは料理長の料理ばかりで…!」
「わ、悪かったわよ!…それにしても前から思ってたんだけどあんたちょっとストーカー気質すぎない?その顔じゃなければ通報されてるわよ」
「この顔でよかった!」
わっと顔を覆うエリオットに人が少ないながらも、なんだなんだと周囲がざわつき始めている。
そしておそらくその雑誌は年頃の女性向けの雑誌じゃないだろうかと思ったがそれを掘り下げている余裕はない。
「ちょっあんたただでさえ目立つんだから泣き止みなさいよ!私が泣かしたみたいじゃないの…!」
「おまえが泣かしたんだ!」
なんてことを言うのだ。1人あわあわと慌てながらハンカチを取り出しエリオットの顔を拭く。グズグスと鼻を啜りながら大人しく拭かれているこの男は本当に25歳なのだろうか。せっかくの美丈夫も台無しである。
「まぁ、現実問題エリーが出発するまでのあと2週間で結婚っていうのは無理があるわよね」
「なんだ!さっそく言ったことをひるがえすのか!」
「ちょっと、至近距離で大声出さないでよ。違うわよ。結婚しないって言ってるんじゃないの。
一年、いや半年待ってちょうだい」
そう言ったアルタにきょとんとした顔でエリオットが見返してた。
「一年?半年?なんだその中途半端な期間は。討伐隊が入れ替わる時期のことをいってるのか?俺は指揮官だからおそらく帰ってこれないぞ」
「ちがうわよ。昨日も言ったけど私が今、研究してる魔道具があるでしょう。魔物の凶暴化に関係しているみたいなの。その分析が終わってうまくいけば元の状態に戻る、かはわからないけど討伐隊をあんなに多く派遣する必要がなくなるかもしれない」
「それは、すごいな…」
「まぁまだ現地の魔力の状態と照らし合わせる必要があるから厳密にはっきりとは言えないけど、おそらくこの仮説は合ってると思うわ」
感心したようにうなづくエリオットを尻目にどうやら涙が止まったようなので準備してくれた昼食へと取り掛かる。今日はベーコンと卵のサンドウィッチだ。昨日とは少し違うタルタルソースが塗ってあるのか今日のもとても美味しい。
「そこまで研究が進んでいたのか。あ、ちなみにそのタルタルは俺が朝作っていったものだ!」
「え、そうなの?凄く美味しいわ。料理長のと同じぐらい美味しい」
「ぐっ、料理長め…手強いな」
アルタに習い、エリオットもサンドウィッチを開けて食べ始める。顔を拭いてもらっていたアルタのハンカチはアルタに気づかれないようさりげなく自分のポケットにしまった。代わりに後日新品のものを贈るつもりだから許してほしい、と心の中で言い訳をしながら。
「それでね、現地を詳しく調査する為に急遽うちの部署から人を派遣することになったのよ」
「…ほう」
「だから私もエリー達に同行することになったから、よろしくね」
ぼとっとエリオットが持つサンドウィッチからレタスが膝に落ちたがそれを気にする余裕はなかった。
「は、はぁぁぁあ?!」
ただでさえ注目を浴び、きき耳をたてられていた2人は、この中庭にある全ての視線を浴びることとなった。