恋人
どことなく寂れた場所の、小さなバーに僕はいた。
一緒に店に入った女の子は、今しがた僕の元から去り、僕はこの小さなバーでゆっくりとグレンモーレンジィを飲んでいた。大いなる静寂の峡谷という意味があるとマスターが教えてくれた。沈みかけていた気持ちも、深い峡谷に落ち、そのまま流してくれやしないかとグラスを何度もあけたが、なかなか気は晴れなかった。
「彼女は」
ふと言葉が漏れた。なぜかは分からない。マスターはこちらをちらりと見る。
「気まぐれな女の子でした」
マスターが完全にこちらを見る。僕の話を聞くという姿勢。ただ静かに、愛想笑いも相槌もない。それが僕の口をより軽くさせた。
「大学に通っていたころ、僕はよく本を読んでいました。英文学なんかにかぶれてね。彼女と出会ったのも、文学がきっかけでした」
大学の近くにある古書店。文学から入り、哲学や思想の本も買いあさるようになった僕はよくその店に通っていた。
ネットなどで探すよりも早く、掘り出し物を見つけることができる。
入ることがはばかれる店のたたずまいを気にせず、気難しく小言を客にぶつける店主が実はそんなに悪い人物ではないということを知れば、あれほどいい店もない。
「彼女は、よく立ち読みをしていました」
気難しい店主は立ち読みを嫌った。古書は一目惚れして買うものだというのが店主の意見らしく、立ち読みもそうだし、どんな本なのかというのを訊かれることすら許されなかった。だが、なぜか彼女は違った。
「僕はリチャードソンのパミラだとか、本読みに今更だとか言われながらディケンズなんかを読んでいたんです。でも彼女は違った。ありとあらゆる文学を読み、ありとあらゆる知を持っていた。これを知っている、あれを読んでいるだとかそういう事じゃなく、彼女は本を通して様々な世界を夢想し、その瑞々しい感性を研ぎ澄ませていた。彼女が語る言葉はそうした本当の知性にあふれていて、あの店主もその魅力に負けて彼女を例外としていたんです」
彼女と話す機会を得たのは、ある冬の事だった。僕は小物なんかを集めるのが好きで、よく通う店の中には人形を売っている店もあった。僕はそこで一目惚れした月に寄り添う乙女という陶器の人形を買い、本屋に向かうと、彼女に話しかけられた。
「その店、よく行くの?」
挨拶だとかそういうのはなく、突然話しかけられた。不思議なもので、こんにちはとか、ちょっといいですかと話しかけられるより緊張はなかった。いきなり踏み込まれた方が見知らぬ人と話すのは楽なのかもしれない。
「気になっていたんだけど、行ったことはなかったの。どんな人形を買ったの? よければ見せてくれる?」
彼女はそう言った。僕は店主の方をちらりと見る。嫌な顔をしていたが、何も言わなかった。
僕はその場で包みを開け、彼女に人形を見せた。
「素敵ね」
彼女は陶器の人形を優しく撫でながら言った。彼女の指は細く、白かった。その指も陶器の人形の一部のように感じられるほどだった。
「ありがとう。それじゃ」
そう言うと、彼女は本を手に店を出ていった。
グラスが空になった。話に熱をいれていたせいか、あまり飲んだという気はしなかった。
「カクテルでも作りましょう」
黙って話を聞いていたマスターが言う。注文をとらず、氷の入ったグラスにウイスキーを注ぎ、レモンジュースとジンジャーエールを入れ、軽くかき混ぜる。
「どうぞ。マミーテイラーです」
差し出された爽やかな色のカクテルを飲む。爽やかな味で、火照った身体を覚ましてくれた。
「その後はどうなったのですか?」
マスターが問う。グラスの氷がカランと音をたてた。
「その後彼女と本屋で会った時、付き合おうと言われたんです。そうして、僕らは恋人になった」
時々会い、酒を飲み、本の話をした。
キスをして、身体を重ね、また本の話をし、喫茶店でモーニングを食べ、またと別れる。
起伏がある関係ではなかった。イベントだとかそういうのとは無縁だったが、彼女の話を聞き、彼女と共に過ごす時間はかけがえのないものをたくさん僕にくれたのは間違いない。
「今日もそうです。彼女がいつものように会おうと言ってきて、軽く本屋をまわった後ここに来ました。そうして、別れようと言われた。付き合いも突然なら、別れも突然。彼女の気まぐれで僕らは付き合い、彼女の気まぐれで別れた。それだけです」
マミーテイラーを半分ほど飲む。
「つまらない話をしました」
マスターはいいえと首を振り、笑った。
「バーというのは、そういう場所でもありますから」
「そういう場所?」
「酒に嫌なことや忘れたいことを溶かして飲み下してしまったり、心に残しておきたい思い出をアルコールで血の中に記憶として注ぎ込んだり。アルコールは消えても思い出は焼き付く」
ゆったりとした時間が流れる。僕はマミーテイラーを飲み、時折マスターと話をした。
「どうでしょう、猫を飼ってみては?」
「猫?」
「ええ。気まぐれで魅力的なものに翻弄されたいのなら、猫が一番です」
「そうすれば、退屈を埋めることができると?」
「あなたが消えたきまぐれを求めるのなら、猫はそれに答えてくれると思います」
僕は残ったマミーテイラーを飲み干し、マスターに礼を言って店を出た。
夜風にあたりながら、家への道を行く。
身体が熱い。感情の熱なのか、アルコールの熱なのかは分からない。
分かることと言えば、明日猫を買いに行こうと考えている自分の単純さだけだった。
ペットショップで猫を買い、家へ連れ帰った。猫にはエイダという名前をつけた。
彼女が好きだと言っていたエリザベス・グージの羊飼いとその恋人という小説の登場人物から名をとった。
マスターの言った通り、エイダは大変にきまぐれだった。機嫌よくすり寄ってくることもあれば、近づくことすら拒絶することもある。最初のうちはその気まぐれな性格に慌てるばかりだった。彼女の静寂な気まぐれとは違う慌ただしい気まぐれ。忙しないが煩わしくはなかった。
それなりの時間を共に過ごし、僕らはお互いのことをそれなりに理解し、それなりに仲の良い関係を築いていた。
撫でてやるとニャーと喜び、いつもより安いキャットフードを与えるとナーと不満を漏らし、机に出しっぱなしだったシェイクスピアのリチャード三世を爪で引っかいていたので、お気に召さなかった? と訊くと、ニャーゴと退屈そうに鳴いたりした。
晴れた日には窓の近くで僕らは一緒に本を読んだ。エイダはすぐに眠ってしまうが、時々は活字をじっと見つめることもあった。
雨の日には映画を観た。
時には俺たちに明日はないや2001年宇宙の旅のような六〇年代の映画を観たり、最近の映画をレンタルしてきて観ることもあった。エイダは僕の隣でじっと映画を観ている。
晴れた日は読書、雨の日は映画。そんな毎日を僕らは過ごしていた。
エイダと暮らし始めてから何度目かの冬のことだ。
すっかり顔なじみになった人形店で、僕は猫の人形を買った。彼女との繋がりを生んだ月に寄り添う乙女を見つけた時と同じようなときめきを感じたからだ。
家に帰り、包みをあけ、人形をエイダに見せてみる。
「ほら、この人形お前に似てるだろ。きつそうな顔なんかそっくりだ」
エイダは興味ないという感じで、ニャーとだけ鳴いてどこかへ行ってしまった。
僕は窓際に置き続けている月に寄り添う乙女の横に、猫の人形を置いた。
エイダに似た人形にときめきを感じたように、おそらく僕は月に寄り添う乙女に彼女の面影を重ねていたのだと思う。
ぽつぽつと雨が降り出した。
「エイダ」
僕が呼ぶと、エイダはのろのろと僕の方へやってくる。
「今日はなんの映画を観る?」
静寂で起伏のない日々。でも、きらびやかでなくてもそこに退屈はない。愛おしくかけがえのない時間。
僕は相変わらず、恋人とそんな日々を生きている。




