凶王①
エルゲナー森林地帯…
長くローエンシア王国において王家直轄地として有されていた森林地帯である。その敷地は広く、小国程度であれば呑み込んであまりあるぐらいだ。
その広大な土地にはほとんど人の手が入っていない。理由はこの森林地帯は人間の世界ではないからだ。魔物、亜人種が跋扈しているという森林地帯だ。人間がこの森に入ればたちどころに魔物、亜人種に食い殺されてしまうだろう。このエルゲナー森林地帯に住む魔物にとって人間は単なる食料にすぎないのだ。
だが、このエルゲナー森林地帯は変革期を迎えていたのだ。その変革をもたらしたのはこのエルゲナー森林地帯の所有者が変わった事だった。
新しい所有者の名をアレンティス=アインベルク侯爵、魔将であるゴルヴェラ11体を葬り、ジルガルド地方失陥を防いだという功績の恩賞で与えられたのだ。
それからエルゲナー森林地帯にアインベルク侯の部下と名乗る者達が入植してきた。
森林地帯に住む魔物達にとってそのような人間の決め事などまったく意味が無い。だが、不思議な事に入植者に人間は一人もいない。ゴブリン、オーク、トロル、サイクロプス、デリング、エルギル等の亜人種ばかりだった。
新しい入植者達の数は多く、その森林地帯の勢力図は大きく書き換えられる事になるのだが、新しい入植者は森の中に必要以上に立ち入ることはせず森の入り口を切り開き小さな集落を作ったぐらいだった。
森林地帯に元から住んでいた魔物達は入植者達を弱者と見下し襲ったが、逆に返り討ちにあうばかりである。
新しい入植者達は襲えば苛烈な反撃を行うが自分達から侵攻する事はなかったのである。そのため新しい入植者達に元から住んでいる魔物達は接触しないようになっていったのである。
森林地帯の状況が変わり始めてしばらく経った頃、一人の男がエルゲナー森林地帯を歩いている。
男の年齢は20歳には届いていないように思われる。少年と呼んでも差し支えないような容姿だ。顔立ちは秀麗と称しても反論はまず出ない容貌だ。だがその黒い瞳に宿る苛烈な意思は見る者を震え上がらせるに十分だった。
男の側頭部には羊の角を思わせる突起が突き出ており、それが彼が人でない事を周囲に知らしめていた。
男の名はイリム=リオニクス、魔族の国であるベルゼイン帝国の騎子爵であり、魔剣士である。
イリムはきょろきょろと周囲を見渡しながら歩いて行く。
「この辺のはずなんだが…」
イリムの口から一言漏れる。舌打ちを堪えるような声は彼の心情が決して穏やかでない事を示していた。
ギチギチギチ…
ギチギチギチ…
イリムは周囲から何かをこすり合わせるような音が聞こえるのに気付く。同時に周囲から自分に向けて放たれる殺気にも気付く。それも一つや二つではない。数十の殺気がイリムに突き刺さってくる。
「はぁ…」
イリムは自分が捕食の対象として見られていることに気付く。
ヒュン!!
イリムの背後から一本の糸がまるで鞭のようにイリムに放たれる。イリムはそれを見ること無く最小の動きを持って躱す。イリムは上を見ると一匹の蜘蛛が足の一本に器用に糸を振り回している姿が目に入る。
普通の蜘蛛であればイリムは気にも留めないだろう。だが上にいる蜘蛛達の大きさはイリムの身長よりも大きい体長2メートルクラスの蜘蛛だ。
「やれやれ…面倒だな」
イリムは剣を抜き、蜘蛛達の襲撃に身構える。イリムはこの蜘蛛達の名前を知っている。暴食蜘蛛と呼ばれるこの蜘蛛はその名が示すとおり、肉食で食欲旺盛である。蜘蛛は害虫を食べる益虫である事は常識であるが、このエルゲナー森林地帯に生息する暴食蜘蛛も魔物達を捕食するために魔物があふれ出す事に一役買っている。その意味では暴食蜘蛛も益虫と言っても良いかもしれないがだからといって食われる側からすれば黙って食われてやるわけにはいかない。
イリムが剣を抜いてすぐに暴食蜘蛛達は糸を投じる。四方八方から投じられた糸をイリムはまたも最小の動きで躱すと左手に魔力でナイフを形成する。
「よっ…」
イリムの左手から投擲されたナイフが一体の暴食蜘蛛の体に突き刺さる。ナイフが突き刺さった暴食蜘蛛は力を失い地上に落下する。
ドスン!!
かなりの重量がある事が窺える音が響く。暴食蜘蛛のからだは柔らかいために簡単に刃が通る。イリムの投擲したナイフは暴食蜘蛛の体を突き抜け背後の木に突き刺さっていた。
またも投擲される暴食蜘蛛の糸をイリムは切断する。この暴食蜘蛛の投擲する糸の先端には粘着性がある。だが逆に言えばそれ以外には粘着性がないために簡単に切断することが可能だったのだ。
イリムは駆け出す。暴食蜘蛛は徘徊性の蜘蛛であるため追跡してくる可能性はあるが一匹の餌を置いてきたためそちらにいく可能性の方が高いと考えたのだ。
その餌とはもちろん先程イリムが殺した暴食蜘蛛のことである。多少でも追跡の手が緩めば儲けものという考えで一匹殺しておいたのだ。
少しの距離を走り後ろを振り向くとイリムが殺した暴食蜘蛛に群がって捕食している。どうやら上手くいったらしい。
イリムはそれを見届けるとそのまま走り去った。
(個体的には脅威を感じるほどの相手はいないが数がな…)
イリムは独りごちる。エルゲナー森林地帯は広大であり、それ以上に多種多様な魔物達の存在が足を鈍くしていた。何しろイリムがこの森に入ってから間断なく魔物達が襲ってくるのだ。
個体的にはまったくイリムの敵ではないのだが、襲ってくるたびに対処していてはそれだけ足が遅くなる。最初は襲ってくる魔物達を斬り捨てていたのだが先程の暴食蜘蛛の時になると面倒くさくなって駆け出したのだ。
その意味では先程の暴食蜘蛛達は運が良かったと言えるだろう。もしイリムが森に入ってすぐの場合は残らずイリムは斬り捨てていただろうからだ。
「あれか…?」
イリムの視線の先には一軒の家があった。
こんな魔物の巣窟に住み着く者が凡庸な実力のはずがない。イリムはニヤリと嗤うと強い殺気を家の主に向けて放つ。
ちょっとした挨拶代わりのつもりである。
しばらくするとドアが開き一人の男が姿を見せる。男の左目から頬にかけての刀痕が男の人生を象徴している。闘争の中に身を置いてきた男の風格だった。
残った右目の色は紅色…そして、イリムは男の持つ剣に目を移す。
男の持つ剣には鍔の所に髑髏の装飾が施してある禍々しいものだ。だがイリムはその剣を見てニヤリと嗤う。この男が目的の男である事が確認出来たからだ。
「フォルグ=メヴィールだな。いや、凶王と呼んだ方が良いか?」
イリムの問いかけに男はニヤリと嗤う。
「いかにも俺がフォルグ=メヴィールだ。貴様の名は?」
フォルグの声は威圧的である。気の弱い者ならば腰が砕けてしまうのではないかとイリムは思う。
「俺はイリム=リオニクス、凶王フォルグ=メヴィール…俺と立ち会え」
イリムの発した言葉に両者の間の空気の剣呑さが急激に上がる。
それはイリムの言葉をフォルグが了承した事を意味していた。




