六話目 友人:たとえ火の中、水の中
「うっさいぞピヨ子!」
清の怒鳴り声に臆する事無く、鳴き喚く桃色のひよこ。鳴き声は大きくなり、清はとうとう耳を塞いだ。
「諮梛!何とかしろよ!お前のだろうがっ!」
「清とピヨ子が仲良くなれば良いだけの話でしょ?」
「それが出来ればやってるよ!頭撫でるどころか、俺からは餌も食わねぇんだぞ!?」
「仕方無いなー。ピヨ子、そろそろ静かにして」
諮梛が一言言っただけで、鳴き声はピタリと止んだ。自分との態度の違いに益々苛つく。本当に可愛くないひよこである。
そんな中だ。パサパサと紙が擦れる様な音がしたのは。
「は?えっ。何で勝手に家ん中に!?」
蝶の形をした紙切れが、家の中で自由気ままに飛んでいる。窓は開いていなければ、勿論戸だって開けていない。いったい何処からどうやって入って来たのやら。
「しかも蝶なだけに千代紙。全然洒落てないから」
この手の奇怪なものには馴れた。俺も諮梛も術の類いは遣えない。だが曖寿は遣える。事件解決の為には何度も遣ってきたし、近くで目にしてきた。今更驚きもしないし、ましてや感動何てものは皆無だ。
けれども俺は、未だに諮梛の行動には驚かされる。
「……お前って時々怖いよな」
「何が?何処が?」
それに溜め息を一つだけ返す。飛んでいた蝶を、両手で挟むようにして潰したのだ。もっと別の捕り方があったと思う。
蝶を拡げれば、力強い活字でびっしりと文字が刻まれていた。千代紙と蝶の可愛らしさとは、随分と欠け離れた字体である。
「清。これ送ってきたの美雪姐さんみたい」
「嘘!?俺全然洒落てないとか言っちまった!すいません。姐さん」
「僕に謝ってどうすんの」
「お前じゃなくて、美雪姐さんからの手紙に謝ってんの!」
まるで意味の無い行為に、諮梛が呆れて嘆息する。その横から、曖寿が諮梛の手元を覗き込んだ。
「えーっと。読みますね?『久し振りだな。早速で悪いが、頼み事を聞いてもらいたい。私に縁談の話があって、近々見合いをする事になってしまった。勿論私は婚約などしたくない。よって私はこの縁談を、何が何でも破談にしたいと思っている。そこでお前達に、何か良い案は無いか考えてほしいのだ。なるべく速くしてくれ。それから、千代紙の蝶とは、中々洒落ていただろう?』だ、そうです」
曖寿が読み上げ、清は絶句し諮梛は唖然としている。
「えええええ縁談!?あの美雪姐さんが!?何かの間違いじゃなくて?あり得ねぇ!相手は誰だよ!てか結婚すんの!?」
「落ち着きなよ。ちゃんと聞いてなかったでしょ」
前半部分だけで清には衝撃過ぎた様で、後半は全く聞いていなかった。検討外れな事ばかりを口走っている。それもすぐに、諮梛の拳によって止められた。
「何が何でも破談って、そんなに嫌なんですかね?」
「美雪姐さんだよ?結婚どころか、色恋にも興味無いよ」
ああ確かに。と一同揃って納得する。
華島美雪。彼女は鬼の一族。鬼達を統括するのは七家の名家で、華島家はその中の一つである。つまり生粋のお嬢様なのだ。庶民は兎も角、名家のお嬢様ともなれば縁談の一つや二つは、特段珍しいことでもない。寧ろ許嫁がいてもおかしくないくらいだ。
「良い案って何だよ」
「それを今から考えるんだけど」
諮梛が冷めた声で言った直後、清が机を思いっきり叩いた。
「水癖ぇよ、姐さん!案だけ出してそのままだなんて!姐さんが大変だってのに、そんな薄情な真似は出来ません!姐さんの為なら火の中でも水の中でも飛び込みます!」
「は?」
「……清さん。それはちょっと」
清がこれから発言するであろう台詞を思い浮かべて、二人は顔を蒼くさせた。
「見合いの場に乗り込んで、滅茶苦茶にしてやろうぜ!」
やっぱり、と顔を見合わせる。予想通りで案の定な展開に、諮梛は兎も角曖寿までもが、苦々しい顔をした。心の隅っこで、予想が外れる事を期待していた分、当たってしまった今落胆は大きい。
「具体的な方法は?」
まだ考えていないと決め付けて言う諮梛に、清は自信満々な顔でニッと笑った。
「よしっ!準備万端だな!」
意気揚々と言い放つ清に、諮梛は至極嫌そうな顔をした。
清曰く、縁談を断るに値する理由を作らなきゃいけない。それには、相当印象に残る出来事でなければならないだろう。そこで美雪姐さんには恥は掻かせられないので、相手の方に恥を掻かせようというもの。
無謀にも程がある。
「曖寿、頼むよ。僕等三人のこれからの未来が掛かってるんだから」
こんな馬鹿な事をやって、ただで済む筈が無い。『揉め事処理屋』が揉め事を起こすのだ。大問題である。訴えられても文句は言えない。
「分かってます。全身全霊でやって来ます!」
何をかって?勿論曖寿にしか出来ないものだ。
『揉め事処理屋』としての人脈と謂うコネを遣って、どうにかこうにか訴えられないように、根回しをするという重要な仕事である。
一方、残る二人はというと。
「やっぱ歩きずらいな」
「清。言葉使い」
上等な着物を身に纏っていた。大事なのはそれが、女物の着物であるということだ。
一人は金髪が美しい、華やかな人の目を良く惹き付ける美女に。つまり清である。
もう一人は清楚な印象で、黒髪の艶やかな妖艶な美女。こちらが諮梛。
「それにしても、本当に良く化けたものですね」
「だよな。女の化粧って詐欺ってのを、初めて知った」
曖寿がまじまじと、清と諮梛の二人を見ながら言う。清も姿見に写った自分を見て、半ば感心したように言った。
「何で僕まで」
「おいおい諮梛。僕じゃなくて、わ・た・し、だろ」
「…………。それより名前。変えないとバレるかもしれない」
ジトッとした目で睨み付け、疲れを滲ませ溜め息を吐いた。
『揉め事処理屋』の名は実は伊達じゃない。ただ、一般客があまりいないだけだ。では客として来るのはどんな奴か。役人や貴族。名家の金持ち達である。
詰まる所そこそこ厄介事に関わっていて、多少色んな所に顔が効いて、そんでもって少しだけ権力がある者達、ということだ。
この前の椿さんの事件だって、依頼人は役人と坊っちゃんだし、今回の―――依頼じゃなくて勝手にやってるだけだけど―――美雪姐さんだって名家のお嬢様だ。
それはさておき、問題は名前だ。せっかく女装までして、曖寿があれこれと手を回してくれるのに、『名前でバレちゃった』なんて口が裂けても言えない。
「じゃあ俺は……じゃなくて、わたしは清香で」
「解った。ワタシは諮梛埜。よろしく清香」
「おう!よろしくな諮梛埜!」
「その場合、ええ。よろしくね諮梛埜さん。じゃない?」
なんとも勇ましい返事の仕方に、諮梛埜となった諮梛が訂正を入れた。清香になりきれない清は、うっと言葉を詰まらせて反論はしない。反論出来ない。
最後にと、三人はお互いに手を叩きあって気合いを入れた。パンッという小気味良い音を合図に、よし!と言い合わせて覚悟を決める。
こうして、波乱万丈の成功率の極めて低い、無謀な作戦が始まった。
今日という日が嫌で仕方無い。憂鬱な気分とは反し、空は綺麗に晴れている。
午後に控えている見合いの事を思うと、刀を振るっていても集中できなかった。それが反って余計に自分を苛立たせて、悪い方へと物事を運んでいってしまう。
――――七日程前、唐突に見合いをしろと言い渡された。というのには語弊があるな。言い渡されたのではなく、命令された。勿論断り拒絶したが、それを受け入れてくれる程世の中甘くないし、主人も優しくない。
我等華島家が当主、華島和夜は均整のとれた美しい顔を微笑みに変えた。
「僕は頼み事をしてるんじゃなくて、命令してるんだけど。それが分からない、美雪じゃないよね?もしも頼み事だったとしても、当主に仕える身としては拒否なんて論外だから」
誰もが見惚れる華のような笑みで、毒を吐くあいつは悪魔に見えた。
だからと言って引き下がって、素直に言うことを聞くような、可愛気のある性分でないのは解っている筈だ。
「確かに私はお前に仕えているが、大前提に『守り目』だ。私には華島家だけでなく、鬼の一族全てを護る義務と責任がある。それを婚約などで破棄するなど、もっての他だろう!」
「そうだよ。君は『守り目』として、鬼全てを護らなきゃならない。その点において、今回この婚約は利に叶っている」
薄々その事は解っていたし、現実が見えなかった訳じゃなかった。それでも嫌なものは嫌だ。容認出来ないのだから、承服もいたしかねる。
そう。それが七日程前に、御当主様に突き付けられた現実だった。
「うわぁぁぁ!」
面倒極まりない思考に疲れて、奇怪な声を上げながら髪をグシャグシャと掻き乱す。あれこれと考えるのは好きじゃない。日常に持ち込む様なことはしない。
だが、今度ばかりは違う。先日三人の弟分達に送った文が、返ってこないのだ。なるべく速くとも書いた。第一あの子達は返事も返さないような、礼儀知らずでもない。寧ろ律儀な部類に入る。
「良い案も結局思い浮かばなかった。頼みの綱だったあいつらからの音沙汰も無い。どうしたもんかな」
腕組みをして独りでに呟く。よもや嫌われてしまったのだろうか。
不安は不安を呼び、固まった不安が疑心へと繋がっていく。繋がった疑心は、下らない虚妄を作り上げる。今正に、美雪はそれに片足を入れていた。
幾ら考えに浸っていても何も変わらないと悟り、頭をブンブンと勢い良く左右に振って、モヤモヤと霧の様な思考を散らす。それでも何だかスッキリせず、パンッと少し強めに両の頬を叩いた。
さてそろそろ時間だ。まだ見合いの時間には大分速いが、仕度にそれなりの時が掛かる。重たい脚を動かして、自分の室へ向かった。
部屋で待ち受けていた使用人の何人かに、遅いだの何処にいたのか等と凄い剣幕で尋ねられ、若干気圧されながら答えようとしたが、言葉を発する間もなく湯溶みをさせられる。
理不尽さを感じながら、言われた通りに髪を乾かし香の焚き染められた着物に袖を通した。
濃い色の紫に、袖から裾に掛けて鮮やかな花が咲き乱れている。所々に風車の模様があり、遊び心を思わせた。
「流石美雪様です。良くお似合いですよ」
という使用人の言葉は余り信用しない。何故なら、それを言うのが彼女等の仕事でもあるからだ。口先だけの礼を述べて、姿見に写った自分に眉を寄せた。こんな綺麗な着物よりも、普段着ている袴の方がしっくり来る。
高い位置で纏められた髪には、桃色の大きな花の簪が飾っていて、頭が些か重い。頭が重いのは簪のせいだけじゃないかもしれないが…………。
深呼吸をして、顔に笑みを貼り付けた。
さあ、戦場へと赴こうか。
美雪の見合いの相手は、関賀峰家の当主。鬼を束ねる七家の一つだ。
「……緊張してきた」
そんな大物を相手にする実感が湧いてきたのか、如何にも不安気な様子で呟く清を、諮梛がきつく睨み付けた。
「言い出した本人が今更何言ってんの。巻き込まれたこっちの身にもなって」
厳しい言葉遣いだが、至極もっともな意見に反論等出来る筈もない。
二人は給仕係りの者として潜入している。清が考えた作戦は二つだ。
まず策壱。関賀峰家の当主の愛人を、清と諮梛の両方が演じて二股を掛けたと騒ぐ。不倫という全くの冤罪を着せて、更に婚約なんてと言う。
次に策弐。今度は清だけが愛人を演じて、諮梛は清の友人に止まる。「あの時結婚しようって言ってくれたのは嘘だったの!?」とか何とか言って泣き出し、か弱い女を偽装して友人の立場である諮梛が慰める。
どちらにするかは決まっていないが、その場の様子を見て成り行きに従う事となった。どちらに転んでも、修羅場になるのは間違いない。
覚悟を決めて品の良い微笑みを浮かべて、指示された膳を持った。これが見合いの場となる、宴会の間に運ぶ料理だ。
お局様を先頭に、何人もが料理を運ぶ。一度膳を全て並べてしまう。主役は後から登場するものだ。
「和夜様、美雪様。こちらになります」
案内の声が聴こえて、いよいよだと思い至った。銚子、盃、土器の酒器を手に、清と諮梛は襖を開けた。
(流石姐さん!何を着ても似合ってる。かっこいいぜ!)なんて事を清は思い、(やっぱり完成度が僕等とは違うね)と諮梛は感心していた。
美雪と対面する形で座しているのが関賀峰家当主であり、美雪の見合い相手である。
勿忘草色と百群色の中間位の髪と、露草色の瞳が真っ先に目に入った。下の方に束ねた長い髪は、流水の如くサラサラとしている。甘く整った顔立ちは艶麗な雰囲気と相まっていた。
思わず美雪の方を振り返る清。これは流石に、見惚れる位するのでは。と思ったが、そんな懸念は無用だった様だ。普段と変わらず凛々しい顔付きのままだった。
「後ろなんか振り向いてどうした?」
そう声を掛けられて、咄嗟に誤魔化し笑いを浮かべる。関賀峰家の当主に対して背を向けるのは、相当無礼な行為だったと冷や汗を掻く。けれども、此れからしようとしていることに比べたら、可愛いものかもしれない。
頭を下げながら向き直る。顔を上げて酒を注ぐ振りをして、動きを急停止した。驚愕の表情でこの宴会の主役の麗人を見つめる。
「……どうして?…………わたしとの約束は……」
「え?」
「何であなた様が此処に。…………わたしとの愛を誓ってくれたのでは……無かったのですか?」
怒り半分といった様子で言おうとしたが、『可愛いらしい、おしとやかな女性』という設定にした。
(さぁ姐さん!怒って破談を要求してください!)
「うわー。相変わらず女にだらしないねー」
清の思惑とは違い、言葉を発したのは美雪ではなくその主人で、立会人の和夜だった。言葉は勿論、面白がるような口調と声だ。
「……二股掛けたことなど一度もない」
「ふーん。じゃあ別れる前に縁談の日になっちゃったって訳ね。美雪ー。どう思う?」
困惑した声に対して、華島和夜は何処までも楽しそうに話す。
「どうと言われても。側室にでも迎えれば良いんじゃないか?」
…………。
一同がシンと静まり返る。誰も予想しなかった発言に、黙って耳を疑った。
(ちょっ!!!美雪姐さん!!?何言ってんの!?自分で言ってること解ってる!?)
衝撃的な言葉に非難の声を上げそうになったが、此処でそんな事を言ってしまったら今さっきの恥が水の泡だ。
こんな展開は考えてなかった。よって対処のしょうもない。
助けを求めて諮梛を見る。目が合ったのに思いっきり逸らされた。絶対わざとだ。
(おい!どうすんだよ!?見捨てないで助けろよ!友達だろうが!無理だから!側室とか無理!第一俺男だし!)
爆弾を投下した本人を盗み見れば、酷く申し訳なさそうな顔をしていた。
これはもしや、気付いてないのか?
そんな絶望的な可能性に至り、顔から血の気が引いていく。
五里霧中。万事休す。四面楚歌。孤立無援。
こんな危機的状況に陥ったのは、生まれて初めてかもしれない。
最初こそ目を疑ったが、間違いではなかった。
給仕係りの者達の中に、見知った顔の美女二人を見て驚いた。―――いや、頼りにしている少年二人か。
便りが無事に届いていたのだと確信し、安堵したのも束の間の出来事だった。
清が突然意味の解らん事を言い出し、呆気にとられている間に和夜が話始めたのだ。
この可笑しな状況はどういうことなのかと、思考を慌てて巡らせた。
関賀峰家当主、関賀峰鴉緒威は女にモテると良く耳にする。子供の頃から馴染みのある自分は何とも思わないが、曰く紳士的で優しく、それなのに色香があるらしい。
だからもしかしたら、男の清もその色気にやられてしまったのかもしれない。
見合いの話を聞いて、怒って手紙の返事を送って来なかったと考えれば、ぴったり辻褄が合う。
衆道だったという事実が判明してしまったとしても、清が可愛い弟分なのは変わらない。だったら此処は『姐さん』と慕ってくれる清のためにも、一肌脱ごうじゃないか。
どう切り出そうかと思っていたら、都合良く和夜が話を振ってくれた。
「どうと言われても。側室にでも迎えれば良いんじゃないか?」
場が騒然となった。覚悟はしていたが、精神に来るものがある。
「…………ややこしくなってきたから、一回お開きにしようか」
混乱の中、鶴の一声でその場はなんとか納まった。
一度別の間へと移され、待機を命じられた。きっとこの状況の打開策をじじい達と話し合うのだろう。これは後で大目玉を食らうかもしれないな。
少しの達成感と、この先を思って重い溜め息が溢れた。
「お主、どうやって取り入ったのだ?」
肥満気味の清潔感に欠けるオヤジが、廊下で声を掛けてきた。
「どうやってとは?」
取り入るも何も恋人同士でもないが、此処はしらを切るしかない。困惑顔で尋ねれば、見ず知らずの男は口許に厭らしい笑みを浮かべた。
「あの方は大層女共に人気だからな。どうせお主も捨てられる運命よ。なんせ相手は名家だしなぁ。だからどうじゃ?儂に乗り換えんか?」
(こいつ。俺の事女だと思ってやがる)
気持ちの悪い笑い形に嫌悪感を覚えて、さっさと立ち去ろうとした。
「見れば中々の美女ではないか」
立ち去ろうとしたのだが、その前に尻を触ってきたのである。
(こんの糞オヤジ!どこ触ってんだ!)
驚きと怒りで、女だと偽っているのも忘れて拳を振り上げる。
「何しやが―――うぐっ!?」
後ろから伸びてきた手に、口を塞がれて腕を強く掴まれた。状況把握もそこそこに、足を思いっきり踏みつけられる。
余りの痛さにまたもや声を上げそうになったが、今度は口を押さえられている為声はでない。
「すみません。この子照れ屋さんなんです。許して下さい」
少々高いが、この声は間違いなく諮梛だ。咄嗟に止めに来てくれた様だが、やり方が些か乱暴だと思う。
「お主等名は何というのじゃ?」
「諮梛埜と申します。それで此方は清香といいます。ワタクシどもは仕事がありますゆえ、これにて失礼させて頂きます」
強引に話を終わらせ、二人して背を向けて立ち去った。
さっきの男からは見えない所まで来たのを確認し、盛大に悪態を付く。
「あのエロオヤジ。次会ったら、絶対ぶん殴ってやる!どこの誰だよ。あんな気持ちの悪いオヤジを、屋敷に入れる許可を出したのは!」
「清、言葉遣い。でも同感。最後まで目付きが厭らしかった」
諮梛も珍しく顔を歪ませる。不謹慎だが、何だかそれが少し嬉しかった。
「ありがとな諮梛。来てくれなきゃ、今頃大問題だったぜ」
あんな奴でも一応客だ。それでもし、給女が殴りでもしたら問題になるのは必然である。見合いをぶち壊すのは成功するが、同時に美雪姐さんの顔にも泥を塗ることになのだ。それでは達成どころか、本末転倒になってしまう。
諮梛が少し笑ってくれた。だからだ。あの騒動で助けてくれなかったのを忘れてしまったのは。
少し時がたった頃、身内だけで相談すると決まり、華島家からは美雪と和夜。関賀峰家は当主とその付き添い数名、そして当事者の清がその場に呼ばれた。
「さてと。そろそろネタばらしでもしようか」
重苦しい空気の中、場違いな態度で軽く切り出したのは和夜だった。
「鴉緒威。この女性に見覚えは無いよね?」
静かに頷き肯定する。和夜はそれに対してクスクスと笑い、如何にも楽しそうだ。
「聞いて驚きなよ?この子、実は女じゃなくて男なんだよね。まぁでも、お前の場合、男と恋仲だったとしても有り得そうで、あんまり驚かないけど」
スルスルとバラされていく嘘に、清は顔を真っ青にさせる。美雪が深く溜め息を付くものだから、清は一層縮こまった。
「和夜。こいつは何も悪くない。私の為を思ってやっていてくれたことなのだ」
「美雪姐さんのせいじゃ!」
「良いから」
言葉と共に手で制され、それ以上は何も言えなかった。
「此度の件に関しては、誠に申し訳ありませんでした。どのような処分でも甘んじて受けますが、どうか私だけにお願いします」
両手を付き、深々と頭を下げる美雪の隣で、清も一緒に頭を下げる。
美雪姐さんの顔に泥を塗って、その上頭を下げさせるなんて、最悪だ。自分への嫌悪感で胸がいっぱいになった。
「だが一つ。こちらからも言わせてもらい事がある」
凛とした声が隣から発せられ、反射的に顔を盗み見た。さっきまでの申し訳無い表情とは違い、怒っているのか厳しい顔付きだ。
「そちらの付き人が、私の大事な友人に手を出したらしくてな。華島家の使用人を口説いたのは大問題だ。私は彼に処分を与えるのを要求する」
美雪の目線は鴉緒威の右隣を見据えていて、その先には清の尻を触った男が鎮座していた。
「姐さん。何でその事……!?」
苦笑を返され、またもや黙りこくる。どの様な方法でその事を知ったのかは不明だが、こういうところを好ましく思う。
「その話、事実か?」
「勿論だ。そこで提案なのだが、お互い相子という事で水に流さないか?」
鴉緒威の厳しい声に動じず、話す美雪には貫禄があった。
「良いだろう。和夜は構わないかい?」
「僕は全然いいよ。好きにして」
家の問題とか何とかで、当然賛成されないと思っていたが、拍子抜ける程あっさりと承諾されて、少し脱力してしまった。
「じゃあ決まりだな。これで今回は丸く納めよう。本当にすまなかった」
向こうは謝りもしないのに、美雪は最後まで丁寧に頭を下げていた。それがどうしようもなく理不尽に思えて悔しかったが、そうさせてしまったのは、紛れもない自分自身で余計腹が立つ。
「ホントにありがとね。楽しい余興になったよ」
関賀峰家の者達が全員帰った後、語尾に音符でも付きそうな調子で和夜が言った。
「は?」
「は?」
二人分の声が重なる。一つは単純に驚きの声で、もう一つはドスの効いた声だ。前者が清で、後者が美雪である。
「……お前、最初っから解ってて黙ってたんだな?肩を震わせてたのは、笑い転げたいのを我慢してたってか?あん?」
諸柄の悪い口調で言う美雪は、良いとこのお嬢様には到底見えない。
「いやー。美雪のあれは傑作だったよ!あははははははははは!思い出しただけでも………ぶっ!ははははははははは!おもっ、面白いや」
「てめぇ。殴られてぇのか?」
キレた美雪が和夜の胸ぐらを掴む。中々の迫力に気圧されて、清は止めるどころか動くことさえ出来ない。
「これで借り一つだからね」
その一言で美雪の動きが完全停止し、掴んでいた胸ぐらを乱暴に放した。
「あああああ!クソっ!だから嫌なんだよお前は!」
「当主の僕に向かって、その口の利き方は無いでしょ」
和夜は終始、その整った美しい顔に可愛いらしい笑みを浮かべている。それが余計に美雪の神経を逆撫でているのは、本人も重々承知だ。その上でやっているのだから、性格が悪い。
「縁談がぶち壊れんの解ってて、面白がってたってか?華島家の名が落ちどうすんだよ!」
「ああそれなら大丈夫。もともとお前を嫁がせる気は無かったし」
「は?」
今までの努力は?堪え忍んだ恥は?全くの無駄だったって事?
清同様、美雪も同じ様な事を思ったらしく唖然とした顔をした。
「花嫁修行はしてたけど、それだってとうの昔の話だしね。それで嫁に出したら笑い者じゃない。それこそ恥だよ」
「……黙って聞いてれば…………!なんなんだよ!意味もないものに、真剣に悩んで馬鹿みたいじゃないか」
「意味はあったよ。表向きこれは宴会。華島家関賀峰家の結び付きが強くなったと、世間が思ってくれれば上々。例え思われなくても、両家の間で何かあったと思われれば良いわけだからね。上手くいったと思うよ?」
口許は笑ったままだが、目に鋭い光を宿した和夜は当主としての顔を見せた。
「……騙す必要は無かっただろ」
「それもそうなんだけど、こうでもしないとお前考えすらしないだろ?良い機会だとおもってさ」
優しさの入った言葉を受け取り、美雪は何度目かになる溜め息を付いた。それは自棄と疲れと諦めの三つが感じられる。怒った様な困った様な、それでいてどこか安心している様な、曖昧な表情で笑った。
「じゃ、今日の仕事は終わりね。明日は客が来る予定もないし、9時に来てくれれば良いから」
唐突にも話題変更した話を振られ、内容は耳に入らず右から左へと抜けていく。
「へ?あの……何の話を……」
「あれ?聞いてないの?明日から一月働いてもらうからよろしく。“清香”さん」
それはつまりこれから一月の間、女装して華島家の使用人として働けということ。
「眼鏡の子に持ち掛けたら、快く承諾したよ。まぁ安心しなって。“諮梛埜”さんも一緒だから」
「何でだよ!?せめて女装は無しに……」
つい口調が荒くなったが、此処は多目に見て欲しい。
「華島家の力で全部揉み消してあげるんだから、悪い話じゃないでしょ?うちが雇ったのは女二人で、男ではないわけだし女装は自業自得ってやつ」
そう言われてしまえば、大人しく従う以外に他は無い。それに良く良く考えれば、美雪とも会えるし、昼飯と晩飯が保証されているのだ。確かに悪い話ではない。というより、結構良い話ではないか。
「……解った。一月だけだけど、よろしくお願いします!」
挨拶は肝心である。しっかりと頭を下げた。
こうして騒動は収まった。
だが数日後。清も諮梛も曖寿も、三人揃って後悔することになる。美味しい話だと思って、あんなにあっさり働くなんて言うんじゃなかった!と。