1‐3
鋼志の家から車で約十五分、歩けば優にニ時間はかかる山の上、鋼志の住む紫雀呂町を見渡す位置に、ちせりの実家である高白寺は存在する。
そう、高白寺。
ちせりの家は神社ではなく寺だ。ちせりの巫女装束は全くの趣味であり、仮装――コスプレだった。
そんな罰当たりな孫娘を迎えたのは、蝶ネクタイにサスペンダーの半ズボンをはいた、いかにも、という格好の子ども。ちせりと同じ金髪碧眼で、一見すれば年の離れた弟という風体であるが、
「ただいま戻りました、お祖父様」
実際の続柄は彼女の祖父だ。
「やあ、おかえり。コーシくんも。そしてそちらのお嬢さんが今回の騒動の発端かな」
「発端はむしろコーシだと思うがな」
「ははは。確かに」
鋼志の家と同じような客間に三人が並んですわる。いや、アーシュだけは浮いていた。
「わざわざ帰ってこなくても、電話でよかったのに。概要は式が伝えてくれたしね」
「彼女はこの状態ですら二級警戒レベルの悪魔でしてよ、お祖父様。顔見せは当然でしょう。そうでなくともコーシの契約悪魔なのですから、当地統括のウチへ来るのは義務ですわ。召喚士としても、許嫁としても」
許嫁、の部分を特に強調する。
「それに、この二人が本当に契約状態にあるのか確認もしていただきたかったですし」
「ま、そっちが本命だろうね。お疲れ様、二人とも。どうせ、走らされたんだろう?」
「ええ……まあ」
苦笑を浮かべて鋼志が答える。
歩けばニ時間。車でも十五分。その道程を三人は十分少々で走破した。異常な速度であるが、これでもゆっくりと動いたほうだ。
ちせりが最初に駆けつけたときは、下りとはいえ一分少々だった。十倍以上かけての移動なのだから大したことはない。
そもそもアーシュは飛んでいるし、鋼志だって召喚士であるなら、本来、転送くらいはできてしかるべきなのだ。
もっとも、男二人が苦笑を浮かべているのは走らせたこととは別の理由。
「チセリ一人、式に乗って悠々としているのは解せなかったが」
アーシュの言うように、自分の足で動かずにいたせいだろう。式――式神とも称される使い魔のようなものを使ったせいだ。いつものことなのだが、それが余計に二人の苦笑を深める原因になっていた。もちろん、ちせりはそんなことで遠慮などしない。
「使えるものを使うのは当然ですわ」
「コーシが良いのなら私に文句はないが」
「その言い方ですとコーシの不満を解消するつもりがあるかのように聞こえますわね」
「サービスだよ。この男は私を過小評価しているきらいがあるからな。考えを改めてもらうにはそれが手っ取り早い」
「これ以上ないというほどの的確な評価だと思いますわよ。少々義理立てがすぎるとは思いますけれど」
「くっくっく。モテモテだね、コーシくん」
「いや、笑い事じゃないですよ、シャルルさん」
言い合う二人に挟まれた鋼志が顔を青くして義理の祖父、シャルルに助けを求める。
「ま、わざわざこんな山の上まで走ってきて痴話喧嘩を披露されただけじゃ、コーシくんも報われない。というわけで――少しいいかな、お嬢さんがた」
「わたくしはいつでも」
アーシュはうなずきだけで答える。
「まずはようこそ、アスタロトの末裔よ。わたしはヴァンパイアが末子、シャルル。ゆえあってこの地の退魔師の頭領をしている。まあ、隠れ蓑だと理解してくれればいい」
「私はアスタロト。召喚の則に従い降臨した。しばし邪魔をするが……まあ、おそらく戦にはなるまいよ」
「ぜひそう願う。わたしごときであなたはどうこうできそうにない」
「謙遜を。どの血と混じったか知らんが第一世代の真血が真祖に匹敵しないわけがない」
シャルルは微笑を浮かべ、アーシュは無表情に言葉を交わす。
アーシュの言う真祖とは、一般的には魔王とほぼ同義の単語だ。ほとんどの悪魔は一族の長を魔王とし、魔王の名を種族名として継承、血統をつなぐ。
つまり、アーシュの『アスタロト』という名前は種族名――日本人における苗字――であり、彼女個人を指す名ではない。
一方で魔王の入れ替えが激しい種族も少数であるが存在する。その代表的な悪魔がヴァンパイアだ。魔王が交代する理由は様々だが、多くの場合、死亡による交代ではなく廃位によるものであるので、魔王と同等の実力者が複数存在することになる。
この廃位された魔王たちを真祖と言う。真祖の多くは名を変え、住処を変え、姿さえも変えて、新たな一族を率いる。
すなわち『ヴァンパイア』という単語だけではどの『ヴァンパイア』一族を指すのか曖昧なのだ。ちょうど日本において『鈴木』という苗字が多いことに似ている。ただ、一口に『ヴァンパイア』と言う場合、それは誰なのか特定できないが真祖を示す。
そしてこの真祖の直系の子孫を真血と言い、特に第一世代、つまり子どもに限れば、真祖に近い強さを持つのが通例だ。
要するに。
真祖の子と次代魔王であるシャルルとアーシュは危険極まりない二人なのだ。
この瞬間、この星が吹き飛んでもおかしくないほどに。
ちせりはこれからのことを思うと比喩ではなく頭が痛かった。他方、祖父がいることに安堵してもいた。
非常事態に対応できる者がいるのといないのとでは、心情的にも実務的にも違ってくるからだ。もっとも、だからこそ彼が頭領なのだが。
「さて。チセリが不安そうにしているから単刀直入に聞くけど、きみ、本当にコーシくんと契約しているの?」
「聞き返すようで申し訳ないが、君たち一族は〈契約縁〉が見えないのか?」
「見えるよ。見えるが、隠す者も増えてきていてね」
訊けるなら訊くようにしている、とシャルル。
「なら見たままだ。私とコーシは契約状態にある」
ちせりと同じ碧眼がアーシュをまじまじと見つめる。
契約状態にある悪魔と契約者にはある種の魔法陣が浮かぶ。通常それは不可視であるが、大抵の悪魔はそれを確認するための眼を持つ。その際、ひも状の魔法陣が互いを結んでいるように見えることから、そのひもを〈契約縁〉と言う。召喚契約の場合、それは緑色だ。
「そうだね。……うん、問題ないよ、チセリ。彼女はコーシくんと契約中だ」
「……そうですか」
不機嫌が声に出る。
その孫の様子に祖父はくすくす笑い、アーシュもまた無表情を崩して笑みを浮かべている。
それでまた不機嫌になる。
当たり前ではないか。自分以外の女の影が婚約者――いや、恋人にちらついて喜ぶ女などいるわけがない。
それに、召喚の成功を素直に喜べないのも悔しい。
誰より強く、あるいは鋼志本人よりもそれを願っていただけに、この結果は少しくすぶるものが残る。
ひょっとしたら、この召喚の失敗を望んでさえいるかもしれない。
そのくらいにアーシュは強大で、なにより美しい。
というか胸がデカイ。
ちせりのEカップが霞むくらいにデカイ。
露出度も背も高いので余計にそう見えるのかもしれないが、低めに見積もっても百センチは超えている。カップサイズでもHは超えているだろう。
「なんだ、人の胸を睨みつけて」
「なんでもありませんわ」
「あはは。大きいね。サイズいくつ?」
「ちょ! お祖父様!」
「さあ? 寸法など世界によってまちまちだしな」
「この世界……というか、日本だとこんな感じですね」
「コーシ!」
基準を伝えようとする鋼志の頭を握る。ちせりの脳天締めは的確に頭蓋の縫合線を刺激するので非常に痛い。
「いたい! ちょ! ちーちゃん、マジで痛い!」
「痛くしているのですわ!」
「なんだ。存外この外見は役立っているようだな」
「クリティカルじゃないかな。コーシくんはおっぱい星人だから」
「ふうん。まあ、表情を隠せて悪いことはないからな」
「ははは。普段はそれほどムッツリくんでもないけどね。やっぱり緊張しているんじゃないかな。初体験の相手だし」
「お祖父様! 紛らわしい言い方はよしてくださいな!」
「うちの孫娘の方ほうがよっぽどだからね」
「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!!!!」
「チセリ。そろそろ放してやれ。そんなことをしても同調は止められん」
「わかっていますわ!」
だからこそ、だ。
脳天締めから解放し、抱きしめる。ちょうど、鋼志の頭が自分の胸に来るように。
「負けませんわ」
「だから、取らんと言うのに」
「そういう態度が! 余計に殿方の心をくすぐることもあるのですわ!」
「そういう発言がむしろやぶ蛇だと思うけどね」
祖父の発言に柳眉を逆立てて睨みつける。
「というわけですのでお祖父様。しばらく岩動の家にお世話になります」
「好きにしたまえ。そのまま居ついても構わんよ。できれば曾孫の一人や二人こさえてきなさい」
「お祖父様!」
「そこで照れてるからアスタロトに遅れを感じるんだよ。というか、きみはもう少し自分の男を信用しなさい」
「わたくしに何人のお祖母様がいると思ってらっしゃるのかしら? 何人のお母様がいると思ってらっしゃるのかしら?」
「そこは相手方の家で考えるべきじゃないかなあ」
目を逸らして答える。自覚はあるようだ。
「ですから悪習を真似されないようにと気を張っているのですわ」
「杞憂だと思うけどね」
「そう願いますわ」
この手の予感をちせりは外したことがない。それは逆に言えば、こういう行動が無意味に終わることも示唆しているが、それは考えないでいた。これまでそうだったからといってこれからもそうだと思うのは愚の骨頂。鋼志が係わるのであればなおさらだ。
「で、他になにかあるかね? ないならさっきの話の続きがしたい」
「さっきの話?」
なんのことだと疑問に思い、すぐに思い出す。仕事の話の途中で、あわてて鋼志の家に向かったのだった。
「アーミィズに加勢せよというお話でしたわね」
「そう。そこまで言ってきみが飛び出していったんだよ。そこしか言ってないとも言うね」
「……緊急事態であったのは間違いありませんわ」
「咎めているつもりはないよ。もう少し落ち着いてほしいものだけどね」
苦笑を浮かべて言う様子は外見と似合わず大人びている。中身は歴とした老人なのだから当然なのだが。
「ま、きみが『コーシくんラブ』状態なのは今に始まったことではないし」
「でしたら良いではありませんか。それよりお話を」
早めに釘を刺しておかないとどんどんと話が脱線する。老人の話が長いのは古今東西、悪魔でも人間でも変わりない。茶飲み話ならばともかく仕事の話が簡潔でないのは困る。
彼にしてみれば、この星で起こる問題など些細なことなのだろうが、この星で生まれ住まう者としては道楽感覚で仕事をこなすのはやめてほしい。それがちせりや鋼志に対する信頼の裏返しであったとしても。
「まあ、そのまんま、今アーミィズが請けている仕事を手伝ってほしいだけなんだけど」
「……ちなみにそれは誰からの依頼ですの?」
「アーミィズの隊長」
返答にため息がこぼれる。
「期日は?」
「今日の午後」
さらに深く、こぼれるというよりも吐くというふうに。
「内容はどういったものですの? アーミィズの加勢なのですからわたくしたちの専門業務ではないのでしょうけれど」
「うん、どちらかというと通常業務に近いかな。護衛と犯人逮捕だよ」
なにを言うのだろう、このとっちゃん坊やは。
「……お祖父様は退魔師の頭領でいらっしゃいますわよね」
「まあ、そうだね」
「なにか、退魔とは縁遠い単語を聞いたような気がするのですが。しかもそれが通常業務に近い、と」
「魔術師相手から依頼主を護ることは退魔師の仕事としてそれほどマイノリティではないよ。もちろん、その魔術師を捕らえることもね」
「……知ってはいましたけれど、本当に節操なくなんでもしますのね。そんなもの、警察に頼れば良いじゃありませんの」
「物的証拠を残すような詐欺が相手ならそう言うし、そうでない者も大抵は警察程度の装備で対抗しうるけれど、確実に被害は出るしね。うちを頼ってくれるなら対処はするさ」
「つまり、警察では力不足、近隣チームで一番武闘派のアーミィズでもなお不足という強敵が今回の逮捕対象ですのね」
「ご名答。現役の暗殺者だよ」
深く、肺の奥から押し出すように深く、ため息を吐いた。
「それはまた、時代錯誤な方ですのね」
胸中に残ったのは粗末な皮肉だけだ。
「響きだけなら、ね。形は違えど、日本にも存在するさ。ま、彼はその時代錯誤的な専門職として活躍しているわけだけど」
言いながら退魔師の頭領は資料を広げる。
「ダニエル・クライトン。紛争地域では有名な暗殺者で、通称〈ニンジャ〉」
「頭の痛くなるようなあだ名ですわね……」
「とはいえ実力は折り紙つきでね。そのくせ報酬次第で誰にでもつくから重宝されているんだって。護衛だけじゃなくて犯人逮捕が依頼内容になっているのはそのせいだよ。然るべきところに売りたいんだってさ」
「ということは護衛対象と依頼人は別ですの?」
「さる貿易会社の社長が依頼人で、護衛対象はその幹部」
「それで紛争地域の方がわざわざこんな極東の地へお越しになりますのね」
大方、密輸で失敗したのだろう。
「たぶん、そうだろうね。詳しいことは訊いてないからわからないけど。この手の連中はあんまり深入りすると後々面倒だから」
「訊いたところで本当のことを言うはずがありませんし、わざわざそのために頭領が出向く必要もない、と」
「後ろに国や大手が控えているなら考えるけれどね。ダニエル・クライトンの依頼人も、うちの依頼人も、まだまだペーペーだから」
「うちはともかく、ダニエル・クライトンのほうも新興の会社についていますの? 報酬次第なのでしょう?」
「新興勢力に財力がないとは限らないと思うけどね。逆に、ダニエル・クライトンの側が『報酬』についてなにかあるのかもしれないし」
「相変わらずよくわからない業界ですわね」
「カネもコネも当然実力も必要だからね。それでいて生命の保証はないっていうのは表の稼業じゃありえないだろうなあ。ま、それはさておき」
「準備もろもろはアーミィズがなさっているのでしょう?」
「そうだね。形式上、きみたちがアーミィズの指揮下に入ることになる」
「それは構いませんが……どうせ遊軍扱いでしょう。それよりも気になるのはわたくしたちが駆り出される理由ですわ」
アーミィズは名前の通り、軍上がりの人間で大半が構成された退魔師チームで、この界隈では最強を誇る。第三世代の真血であるちせりですら、単身で相手取るのは苦労するチームだ。
その彼らが応援を呼ぶのだから、このダニエル・クライトンという暗殺者は只者ではないのだろう。
いや、そもそも。
「暗殺者とはどういうことですの? 魔術師なのでしょう?」
「いや? 〈ニンジャ〉なんて通称の魔術師はありえないだろう。彼、ダニエル・クライトンはごく普通の暗殺者だよ」
「暗殺者がすでに普通ではありませんわ」
「それを言えば魔術師だって普通じゃないよ。退魔師もね。端的に言って、彼は魔術も扱う。そのせいで通常兵器にしか対応できない、できても規模の小さい軍や警察には荷が重い相手になっているんだよ。逆に通常の退魔師では普通に殺されてしまう。彼が暗殺で使うのは拳銃だから。正直、アーミィズにほしいくらいなんだよ」
アーミィズも同様に通常兵器をメインとして扱うチームだ。ダニエル・クライトンと最大の違いは非殺傷に切り替えてあるかどうかだろう。
「殺人犯を迎えるのはあまり賛同できませんわね」
「実現するかどうかもわからないし、さほどそれは気にしなくていいよ。隊長も嫌がるだろうし。それよりもきみたちを応援に向かわせる理由はわかったろう?」
「コーシはともかく、わたくしは弾丸や爆弾程度では死にませんものね。コーシにしたってむしろそういう手合いのほうが得意ですし」
「だろう? それに、やはり現役と退役とじゃ地力に違いが出すぎる。無用な被害を出さないように、という判断もあるんだ」
「でも、でしたら初めからわたくしたちを指名すればよかったのでは?」
「実はこの人からこの依頼を受けるのは四度目なんだよ」
今度は頭領がため息をこぼした。
「なるほど。だいたいわかりましたわ。それまでは甘い連中でしたのね」
「そういうこと。簡単な呪詛が二度。三度目はマシだったけどそれはアーミィズが対処」
「四度目の正直ですのね。一体なにをなさったのかしら?」
「さて。まあいずれにせよ今回で決着だろうね。ダニエル・クライトン以上でフリーランスの手練はそうそういないらしいから。その彼もうちの依頼者に寝返るだろうし」
「成功を確信していてくださるのはありがたいのですけれど、そこまでの手練でしたら万一ということもありえますわ。その際の手配はよろしくお願い致します」
「承ろう。まあ、どんな契約をしたか知らないけれど、アスタロトもいるし、心配ないだろうけどね」
「話は終わったか?」
待ちかねたようにアーシュが声を上げた。
「なんです?」
当然、ちせりは不機嫌に答える。
「そろそろ放してやれ。死ぬぞ」
「はい? ……あ」
抱きしめられても抵抗しない婚約者は少しばかり幸せそうな顔で死にかけていた。