1‐1
一番古い記憶は恐怖。
空は血色、雲は蒼褪め、窓の外には苔色の髑髏が山をなしている。
そも、立っている建物自体が異様だった。
床も壁も天井ですらも一様に、血管のように脈打つ、しかし金属パイプのように硬くて黒い管で覆われている。
あるいはそれが緑色でもっと細く、そして柔らかければ、蔦で覆われた幻想的な建物と言えなくもなかったが、そこにあるのは化物の腹にでも放り込まれたかのような薄気味の悪い空間だった。
怖い。
三歳児であろうと、むしろ、その幼さゆえに、状況の異様さは理解できた。
ここは日本ではないどころか地球でさえないだろう。
ならばどこだ、と考える余裕などなかった。
ただ帰りたかった。両親のいるところへ。
その思いはあっさりと焦燥へと変わり、焦燥は恐怖へと変わり、そして恐怖は容易く涙と絶叫を喚んだ。
だからその号泣を止める抱擁もある意味必然だった。
背中をさする左手。頭を撫ぜる右手。
頬に当たる柔らかい感触。
それが一番強い記憶。
一番古い安らぎ。
言葉は通じなかったが、銀の髪が困ったように揺れたのを覚えている。
優しい微笑みが褐色だったのを覚えている。
母でもなく、姉でもない、見知らぬ人。それが少しだけ心細かったのも覚えている。
そのせいで泣き止むことは結局できなかったけれど。
彼女のことはきっと覚えていようと。
いつか必ずありがとうを伝えようと。
幼心に決めたのを覚えている。
だから、それは。
一番深く刻んだ、誓いの記憶。
*
「とりあえずここだと落ち着かないんで」
そう言って縁眼鏡の少年はアスタロッテを本宅へと招いた。
召喚された場所は離れの納屋であったらしい。
少年の頭の少し後ろを寝そべるような姿勢のまま、ふわふわと浮いてついて行く。
その位置、その姿勢は召喚された世界における彼女の基本状態だ。契約者に乞われない限りそれはずっと続くが、彼はいつまでこの重圧に耐えられるだろうか。
交渉はすでに始まっているのだ。これより先、契約の完全締結まで、あらゆる行動が、それこそ一挙手一投足は元より、視線一つ、呼吸一つに至るまで、それらは全て、交渉に有利に働くように考慮され、行われる。
この位置にこの姿勢でいることも当然、意図してのことだ。
だが、凡そ多くの契約者はその意図を察することができず、あるいは察してもどうすることもできず、契約締結後にようやく、――そして安心したように、その振る舞いを改めるように、あるいはもっと事細かに、指示してくる。それでは遅いのだということに気づくことなく。
心に浮かぶ嘲笑を殺して、しずしずとあとに続いた。
純和風の大きな屋敷。先ほどの納屋も、少し小さめの家ほどある。契約者との同調で得た知識を参照するに、平均より裕福な家庭であるようだ。
しかし庭に限れば、道路に面した壁伝いに常緑樹が植わっているのみで、かなり殺風景だった。その常緑樹も種類が揃えられずばらばらだ。
アスタロッテはそれらの意味を考え、なにより少年の意図を探る。
本宅は無人であるようだが、それでも離れの納屋というのは秘密の召喚には絶好、とまでは言えなくとも、都合の良い場所だ。そこで召喚しながら、わざわざ本宅へと移動しなおす意味。
そもそも移動すれば、時間も情報も相手に与えることになる。交渉の手管としては下策もいいところだ。
「あ」
縁側に上がってから少年は振り返った。初めて視線の高さが同じになる。
「ここから入ってもいいですよね? 玄関から回ります?」
「構わんよ、ここで」
「じゃ、どうぞ」
靴を脱いで入るのが常識のようだが気にしなかった。少年もまた気にした様子がない。
「そちらへどうぞ。お茶淹れてきますね」
入り口から離れた、床の間の前の席。つまり、上座。
「ふむ」
そこへ、しかし、アスタロッテはすわらなかった。ただ高度を下げるばかりで、寝そべるような姿勢は崩さない。はしたないことは承知で足と座卓を同じくらいの高さにした。
和風造りの外観は伊達ではないらしく、中も一面畳が広がっていた。洋風の建物に比べれば天井が低いのもアスタロッテには新鮮だった。空間的に圧迫されているからか、余分なものは一切置かず、簡素な印象を与えるが、庭のように殺風景ではない。手入れも充分に行き届いているし、清潔に掃除もされている。
多少、家の規模と釣り合っていない気もするが、一人で住んでいればこのくらいか。
当の家主を見やる。
台所でてきぱきと茶を淹れる少年がよく見える。ようするにここは居間だった。
解せない。
完全に普通の客扱いだ。
それが悪いわけでも、気に入らないわけでもないが――意図が読めない。
笑みが淡く浮きそうになる。おもしろい。やはり〈参銘節〉以上を喚び出すほどの手練ともなると一筋縄ではいかないようだ。
彼が召喚術をどのように修めたのかわからないが、少なくとも悪魔、あるいは召喚に対して信仰も蔑視もないらしい。
高位の召喚士にはよくあることだ。修め方によっては中位でもありえる。彼らにとって悪魔や召喚は、自分の手足や呼吸に等しいのだから。
が。
それほどの才能があればこそ、〈弐銘節〉の恐ろしさ、凄まじさは通常の召喚士以上に伝わるはずなのだ。
召喚契約を結んでいる以上、召喚者と悪魔は対等だ。だが平等ではない。
彼らでは成せないことを代価と引き換えに成すのが悪魔だ。人間と悪魔では向き不向きがあることを差し引いても、あらゆる要素で悪魔は召喚者よりも秀でる。
それはたとえば魔力の量としても表れる。限定制御下にあるとはいえ、アスタロッテの魔力量は少年の数百倍にもなる。それはそのまま、彼と同程度の召喚士数百人分の戦力に匹敵することを意味する。
その差を前にして平静でいられるほど人間は強くない。また、その差がわからない人間では喚び出せない――
「粗茶ですが」
ことりと湯呑みが置かれる。
――のであれば、彼のこの余裕はどこから来るものなのか。
正面に腰を下ろした少年は微笑を浮かべ、彼女と相対した。そこには交渉に対する意気込みはもちろん、高位の悪魔を前にした畏怖も見られない。
かと言って、驕っているわけでもない。初見では卑下していると思ったくらいなのだ。そんなわけはない。
そして卑下しているというのもやはり違う。
中庸。自然体。
そんな言葉が浮かんだ。
「いや、あはは。緊張しますね」
その絶好のタイミングで少年が切り出した。
アスタロッテとしては機先を制されたかたちだ。
いや、違う。交渉はすでに始まっているのだ。召喚者が悪魔を召喚し、悪魔が降臨したのなら、それが交渉開始の合図だ。
ならば最初に発言したアスタロッテこそが機先を制したと言える。
少年はそれを躱し、彼女をこの場へ連れてきた。そして改めて、こここそが交渉の場であるかのように見せたのだ。後の先を取ったと見るのが妥当だろう。
「そうか? ずいぶんと悠長に構えているように見えるが」
鷹揚に答えて、アスタロッテは少し気構えを変える。理由はわからないが、少年は彼女を恐れていない。これまでの契約交渉と同じつもりでいれば足元をすくわれる。場所変えに賛同したのは失敗だったかもしれない。
事実、文化的な側面が多分にあるとはいえ、彼は特に指示することもなく、アスタロッテを低空で浮遊させることに成功している。
交渉前の段階で天井よりも床のほうが近いなど、いつ以来か。これほど低い天井が、ここまで遠いことなど、初めてのことだ。
「いや、やっぱり美人な方を前にすると緊張しますよ」
「褒められて悪い気はしないが。私が誰で、どうしてここにいるのか、わかっているのだろうな」
憮然を装って話を前に進める。通常の交渉であればそろそろ終わっている頃合いだ。
「ええ。おそらく、あなたよりも」
意味深に微笑む。
どういう意味だ――という言葉は飲み込んだ。
やりにくい。同格の眷属と話しているような感覚に陥る。悪魔を恐れないのは同格あるいは格上の悪魔だけだ。そして会話らしい会話が成立するのは同格の者同士だけ。
つまり、それだけ悪魔は他者の恐怖に付け込んでいるということだ。
先天的に恐怖を感じられない人間がいるのは知っていたが、そんな人間が召喚士になれるとは思っていなかった。なれたところで大成するとは思えなかった。頭の片隅でその偏見を反省しながら、少年の意図を量る。
「では契約者よ。願いはなんだ? 相応の代価を以て叶えようではないか」
同時に本題に入る。
「ない――と、言いたいところなんですけどね」
「ま、私であれば受け流してやれるが、悪魔に無為の召喚を告白するのは自殺行為だな」
悪魔にとって契約は絶対だ。契約によって己の格付けがなされるからだ。その契約を蔑ろにすることは悪魔自身を蔑ろにするのも同じ。低位の悪魔であれば暴れているし、高位であっても性格によっては殺されているところだ。
それをわかっての発言であろうが、では、アスタロッテがその手の悪魔ではないということをどうやって測ったのか。それがわからない。あるいは、これで測ったのか。
だとすれば向こう見ずもいいところだ。
「そもそも、願いを持てないような無欲な人間にとって悪魔召喚は至難の業だろう。逆に悪魔を召喚したいだけの未熟な人間に私を召喚することはできない。願いがないなんてことはないだろうよ」
「まあ、確かに」
「で? 願いはなんだ? 三度目の正直といきたいところだな」
「あなたの願いを叶えることです」
「――――――」
上品に両手で持って茶を飲む少年を睨みつける。怒気に応えるように、小さな蝶の羽は一回り膨らみ、身体から漏れ出た魔力がちりちりと空気を焦がす。
弱い人間であればそれだけで死ぬものを、彼は柳に風とばかりに流した。
「それこそありえんな。お前、自分がなにを言っているのかわかっているのか?」
「悪魔に対して『願いを叶えさせろ』と」
「冗談ということにしてやるからさっさと――」
「それ以外の願いは自分で叶えます」
縁眼鏡の奥の黒い瞳が本気だと語っていた。
それを悟ったのなら、これ以上の問答はアスタロッテ自身の品位を下げることになる。受けるか、受けないか。二つに一つ。
「――――――。……わかった」
数秒の逡巡のあと、引き受けることにした。
相手の本気に引き下がることは誇りが許さなかった。迷ったのは実際に叶えたい願いがあったからだ。それを少年に本当に伝えるのか少しだけ悩んだ。
「ありがとうございます」
「ただし」
降臨して初めて心に浮かぶ嘲笑をそのまま顔に出す。
「お前がどの程度の器なのか計らせてもらう。私の願いに届かないと判断すれば代償としてその生命、もらいうける」
結論は保留。彼の才覚は認めるところだが、それとこれとは別だ。
元より、少年と同じく、自分の願いは自分で叶えるつもりだ。今はむしろ時間が欲しい。己と向き合う時間が。
「どうぞ。もともと、そのつもりですし」
「それからわかっていると思うが、私の現界魔力はお前がまかなうことになる。勝手に死ぬなよ」
並の召喚士であれば三日ほどで枯死する。アスタロッテを喚び出した歴代の召喚士たちも、それぞれが当代一の使い手だったがそれほど長くもたなかった。その中でも図抜けた才能を持っていた先代ですら一年ほどだった。もっとも、彼女の願いが一年で叶ったということもあるが。
いずれにせよ、見に時間はかけられない。かけるつもりもない。そもそも、時間稼ぎ以外のことを期待していない。
嘲笑を崩さずに湯呑みに手を伸ばした。
「ほう。なかなか旨い」
冷めてしまっているが、充分に香り高く、甘みのある味わい。
「玉露です。安物ですけど」
「似たようなものは飲んだことがあるが、あれはどちらかというと薬湯の類だったな」
「今でも薬湯として残っている地域はありますよ」
空になった湯呑みを引き寄せて少年が答える。
「それに比べればだいぶ苦くないですけど、それでもだめな方は多いですね。不慣れな方は特に」
話しながら手際よく淹れる。
優秀な召喚士には大別して二通りのタイプがある。普段から召喚術を使ってこまごまとしたことも任せる者と、有事でしか扱わない者。ただし、後者は無精者が多く、大半は召喚士というよりは研究者としての側面が強い。
「趣味か?」
「なにがです?」
「茶だよ。契約主が手ずから振る舞うことなど、そうでもなればありえんからな」
「まさか。好きですけど、習慣ですよ。幼いときから仕込まれていまして」
であれば彼はどちらにも属さないめずらしいタイプだ。彼か、あるいは師が、自らできることを誰かにさせることを良しとしないのだろう。
人間は大抵怠け者だ。それを司る悪魔が存在するくらいには。
それを克服、超克しようとする者が悪魔召喚士なのだから世の中わからない。
「どうぞ」
「ん」
落ち着く。和む。元からぬるい茶であるようで飲みやすい。彼女にとっては沸騰していたところで関係ないが。
「いや、待て」
「はい?」
「まだ契約は終わっていない」
「ん……? ああ、名前の交換ですね」
「そうだ」
悪魔との契約はあくまで対等。互いが互いを縛るために名乗り合うことで締結となる。むろん、それは偽名であったり、通称であったりする。魔術の達人に真名を明かすことは命を握られることに等しいからだ。
「先に私から明かそうか。私はアスタロト。怠惰を司ることがあるようだが、私自身は直接関知していない」
「これはご丁寧に。ちなみにご自身は魔王で?」
「それは自惚れか? 当代魔王とは直系だが私自身は眷属の一人にすぎんよ。まあ、そんな私を喚ぶほどの悪魔召喚ができるのだから多少の驕りは許すが」
「いえ、魔王だったら願いを叶えるなんて大見得切ったのはまずかったかなあと」
「次代の候補には入っているぞ。選定はかなり先だが」
「あー……そうですか……」
がくりとうな垂れる。自分がどれほどの悪魔を喚んだのかようやく理解したようだ。
ほんの少しの畏怖を少年から感じ取ってアスタロッテは少しだけ満足した。
同時に奇妙さも感じる。
アスタロッテを召喚できるほどの実力がありながら、彼は召喚する悪魔を特定していなかったことになる。それも『召喚した悪魔の願いを叶える』などという危険極まりない願いを叶えるために、だ。
繰り返すが悪魔にとって契約とは格付けに他ならない。契約者が提示する困難をいかに合理的に、そして不条理に叶えるのか。それが基準だ。
『悪魔自身の願いを叶える』という願いは面白いが、それゆえにその基準とは相容れない。困難を示すのはあくまでも契約者でなくてはいけないからだ。
これもやはり無為の召喚と同じく、悪魔を蔑ろにしていると言える。だから、アスタロッテが契約を締結したのはかなり異例な、いっそ異常と言って過言でない事態なのだ。
確かに高位であればあるだけ、どんな契約であっても締結する、という悪魔は多くなる。契約の否定は己の否定にもつながるからだ。一方で、それゆえに、契約内容を厳格に規定する悪魔も増える。つまり、気に入らない願いを口にした契約者を殺してしまう者だ。
しかし、そういった実力者を喚び出せるならば、低位の悪魔を圧倒しえるだけの力もまた持っているはずなのだ。であれば、そういう悪魔を召喚するほうが危険はずっと少ない。逆らったのであれば殺して済む話だ。
にも係わらず彼は二者択一の賭けに出た。
あまりに不合理。もっとも、そういった不合理さは優秀な悪魔召喚士には特によく見られる共通項だ。合理性を追求する悪魔には今一つ理解できない感覚だが。
「ま、いいか」
「いいのか」
「契約変更もそれはそれで危険ですしね」
これもつまり侮辱に当たる。上方修正になるのであればまだ良いが、そもそも変更それ自体歓迎されることではない。
「さて、それじゃ、ぼくの名前ですね。ぼくは――」
その機を見計らったように――
「チ――」
アスタロッテが舌打つ。
――部屋が濁流に飲み込まれた。