4-8
「さて、悪魔諸君。刮目して見給え。いわゆる一つの愛の結晶ってやつを」
「誤解を生むような言い方はやめてくださいまし」
赤面しながら紙飛行機の式の上で魔法陣を展開する。五芒星を二重の円で囲んだそれはアスタロッテのものとよく似ている。魔力光は紅。
少し距離をおいた場所で鋼志も同じく魔法陣を開く。彼のそれは昨日見せた結界のように黒く沈んでいた。しかも形状がちせりやアスタロッテのものと全く違う。
正方形を二つ斜めに重ね合わせた変則八芒星、その中の八角形部分に内接するように円がある。しかもその円は濃淡の黒で表現された太極図――二つの勾玉を組み合わせて円にした形――だ。大陸系の技術を多く習得している鋼志らしい魔法陣。
だが、これは一般的な魔法陣が魔術式を代替するのと違い、術者本人の制御を補助する役目しか担っていない。
ちせりの魔法陣が高速演算器なら、鋼志のそれは算盤。
よほど制御に自信がないと扱えない代物だ。
視線を察したのか、アスタロッテへ不敵な笑みを向けると詠唱を始めた。
「――告ぐ。我が捧ぐは鉄の意志。黄金の拳」
朗々と鋼志の声が夜空に響く。
「――承く。我が笑みは永久に。我が涙は六徳に」
清かにちせりの声がそれに重なった。
「命に従い放つ」
「盟に倣い穿つ」
瞬間、二人の間に浮かび上がる赤い〈契約縁〉。
小指同士を結ぶそれは、異種族間の夫婦の証。婚姻契約の〈契約縁〉だ。
「我らが道を開け」
ちせりへと向く。
「我が行く手を拓け」
鋼志と向かい合う。
鋼志の右手とちせりの左手が、鋼志の左手とちせりの右手が、それぞれ組み合い、二人の両手を結ぶように白色光の線が――矢が生まれる。
見定めるは汚泥の怪物。
「砕け!」
「跪け!」
『凰玄麒芳裂苛崩天閃!!!!』
白の矢が放たれる。
それは老竜に足止めされた怪物の脳天に違わず刺さり――光をともなって炸裂した。
静かな、それでいて圧倒的な、耳をつんざくような白の奔流。二人の放った魔術が怪物の巨躯を飲み込んでゆく。
『ではな』
最後まで見届けることなく老竜が去る。
ほとんど同時に光が収まってゆく。
残されたのは――
「貴様ら――」
「らしい、と言えばらしいのか」
――元通り、ベルゼハブの姿を取り戻したロッソ。
衰弱しているので、放っておけば死ぬだろうが、ある種、自業自得だろう。
それは自分にも言えるかもしれない、と自嘲的にアスタロッテは思う。
「借りができたな」
「そう思ってもらえるなら助かりますが――画竜点睛、最後の締めをしないとね」
〈ハーネス〉へと向き直る。
「さて、ベルゼボア/ベルゼハブくん。我々の力、ご理解いただけたかな?」
戦慄。
〈ハーネス〉――いや、ベルゼボアは恐怖で。
アスタロッテは驚異あるいは脅威で。
「申しましたでしょう? なんの理由もなく名乗りを上げると思っているのか、と」
「引きつけるのはあくまで意識や認識ですから。こうして堂々と名乗ると案外皆さんも教えてくれるんですよね。心中で」
あの、あさってに向いた名乗りはベルゼボアに向けられていたのだ。
「ああ、もちろん、アーシュの真名は聞いてないですから――」
「――なにが望みだ?」
割り込み、問う。恐怖しているが、しかし、それは目の前の眼鏡の少年に対してではない。
アスタロッテに対してだ。
彼女が自分の真名を知ったことに恐怖している。アスタロッテであれば、真名を用いれば自分を殺しうる。いや、それ以上に、隷属することすら可能になる。それを恐れている。
逆に言えば、未だ鋼志をただの人間だと侮っているのだ。
「なにをくれるのさ?」
「どんなものでもくれてやるぞ! 力か? 永遠の命か? ああ、女か? お前ほどの人間ならばどんな女でも悦んで腰を振るだろうよ!」
「全部間に合ってる」
「永遠の命は持ってないでしょう!?」
ちせりがツッコんだ。
「ちーちゃんがばーちゃんになってから死ぬまで付き合うくらいの甲斐性はあるよ」
「……ばか」
「はい、他。もっと魅力的な提案はないの?」
「貴様……」
ぎり、と歯噛みする。
「人間を見下すのも結構だけど、それを相手に商売するのがきみらの契約なんだから、最低限の対処くらいは覚えておいたほうがいいよ? それともそれすらプライドが許さないかい?」
「当たり前だろう! 強者が弱者に使われるなど! お前もだアスタロト! なぜこんな連中に使われることを良しとできる!? 己の悪性を他者に押し付けねば、善性の信仰もできないような弱者と! ゴミと! ゴミの相手はゴミにさせれば良いのだ!」
「――だからか。だから強者と偽ったのか!?」
しゃらと尻尾が鳴る。その怒りを抑えることは、アスタロッテにはできそうにない。
誰より強いことに憧れた。そう、魔王ですら手緩いと感じるほどに。
魔王は確かに一族最強だ。だが、悪魔最強ではない。だから彼女は魔王になどなりたくはないのだ。彼女は誰より、魔王よりも強くなりたいのだ。
〈絶世〉のように。
「戦えば負ける相手を嘲ったのか!?」
きっと、他のどんな欺瞞も偽装も許せる。彼が真実ハーケンティであっても、あるいは〈ハーネス〉の偽物であっても、自らの不明を恥じこそすれ、憤ることはなかっただろう。
だが、己の強さを偽ったことだけ、それだけは許せそうにない。
しかし、むしろその思いを嘲笑って――
「そうだ。恐怖に付け込むのは悪魔の常道。当然取って然るべき方法のはずだが?」
――平然と、ベルゼボアは躊躇うこともなく言った。
「――――――」
「戦えば負ける? ハッ! 戦わない、戦わせないのが本来の戦闘だ。少なくとも我ら悪魔にとってはな」
「戦っても勝てる、というのが最善のはずだけどね」
ため息を一つ。
「ま、自ら謝罪ができる悪魔なんて聞いたことないしね。それをやった本人を前にして言うのも変だけどさ。ああ、いちおう、きみも形ばかりの謝罪はあったか」
驚いたのは、ちせり一人。ベルゼボアは、さもありなん、とういう顔をしている。
「それが望みか ハハハ! 残念だな。詫びる道理がない」
「そりゃそうだ。きみはきみの方法を取っただけだもの。それでも詫びてやるのが優しさってもんだと思うけど」
「ゴミにかけてやる慈悲などない」
「言うと思ったよ」
鋼志はただ穏やかに笑っている。
だから余計に悔しい。少なくとも鋼志はなにをやってもベルゼボアより秀でているというのに、それを理解していない。理解させようとしない。
それが歯痒い。
「やっぱり、こうなりましたわね……」
そんなアスタロッテを見て、ちせりがげんなりとつぶやく。
「コーシ。もういいですわ。さっさと帰りましょう」
「おや、とどめは刺さなくて良いのかい?」
嘲笑を浮かべ挑発する。
「まさか。ぼくはきちんと自分の力に従事するよ。きみと違ってね」
彼はまだ鋼志がただの人間だと――自分未満の魔法使いだと思っている。
だから――
「人間風情になにが――」
「『怯えろ、ベルゼボア/ベルゼハブ』」
――その魔術に容易く囚われた。
「『恐怖しろ。戦慄しろ。昼に夜に、絶えることなく、悔やめ。石動鋼志を敵に回したこと。高白ちせりをさらったこと。絶望し、涙を流し、言葉を紡ぐことも、思いを伝えることさえできずに、蝕まれ、苛まれろ。己の罪に。己の罰で。壊れることなく、滅ぶこともなく、久遠の果てでなお――怖れろ、俺を。岩動鋼志を』」
真名による命令に本来の真言を重ね、さらに精神共有を応用して暗示をかける。
量子制御は得意だと語った彼の言葉は伊達ではなく、思考や感情という電気信号、あるいは魂という量子体に永劫抜けないだろう楔を打ち込む。
呪い、呪詛という言葉が優しく聞こえるそれは、もはや一つの真理だ。少なくともベルゼボアにとっては。
「あ……? あ……あ……あ……」
それを受けて正気でいられるほど彼は強い悪魔ではなかった。
「すみません」
「謝るな。自業自得だ」
「いえ、これから面倒事を押し付ける形になりますから」
「……ああ。気にするな。全ては契約が優先される。ついでに言えばこいつは世界越えの犯罪者だ。どっちにしても極刑はまぬがれん」
「彼も?」
ロッソを指差す。
「ヤツはまだましだろうが。まあ、あまり弱者のことなど気にするな」
「そうですか」
気が抜けたように言うと、鋼志はちせりに正面から寄りかかった。
「……ごめん」
「構いませんわ」
「どうした?」
「副作用ですわ」
つまり、通常の召喚が使えない理由だ。
「コーシは魔力感知ができませんの。正確には自分の体内のものでしたら感じ取れるようですけれど、体外に出てしまえば感知できません。ですからあなたのような高位の悪魔と相対しても恐怖を感じることはありませんのよ」
日常的にシャルルと接することで格上と相対することに慣れているのは、むしろちせりのほうだったのだ。
「代わりに空間の歪みを感知できるのですわ。これはかなり強烈な感知で、地球では自転どころか公転、果ては太陽系自体の動きすら感知します。さらに厄介なのは一般相対性理論で言うところの『空間の曲がり』をも感知してしまうところですわ」
「おいおい……」
どんな質量体であっても空間を曲げはするが、太陽ほどの質量を持ってすら、空間は三六〇度のうち、百万分の一しか曲がらない。
魔力のような超軽量の存在が空間に及ぼす影響など、ほとんど無いに等しい。
それを敏感に、しかも地球のような大質量体の動きまで感知するとなれば、これは常人には耐えられないほどの苦痛だ。
いや、通常なら処理するだけの機能がない。だが、皮肉にも彼は魔法使いとしての異能がそれを果たしてしまっているのだ。
「ですから、常に鋼志は空間酔いに苛まれています。彼に名前による命令が効きづらいのは、この感覚を命令者が支配できないからなのですけれど――」
ベルゼボアの『動くな』という命令を破ったのはこの感覚のお陰というわけだ。
「――まあ、それはさておき。その空間酔いは平時の状態でしたら、耐えられます。あるいはあなたが降臨したように、ある程度自動的に起きるのであれば。一方で、自分で制御するには多大な負担がかかりますの。彼は魔力を感知できませんから、魔術の制御――魔力の制御は、その空間の歪みで把握しなくてはなりません。ただでさえ鋭い感覚をさらに鋭敏にして」
鋼志が大出力の魔術であればある程度制御できるのはそのせいか。さらに、結界や召喚などの空間作用の魔術を苦手とするのも空間酔いのせいで、体術に偏っているのもそのほうが空間に対する影響を抑えることができるからか。さらに大陸系の技法に偏っているのは、自分の感覚と連動させる技術が発達しているからだろう。
「そういう極端な感覚を持っているせいで、結界はともかく、召喚などの細かい魔術制御が彼にはできませんの」
そのくせ異能に頼れば、六方九刀格のような超高難度魔術も扱える。矛盾が多いわけだ。
「さっきの協力魔術も大半は異能でこなしていたしな。魔法陣があれなのもそのせいだろう」
「ええ。というか一般的な魔法陣はコーシには無意味ですから」
魔術式そのものを使えないなら代替品に意味などない。
「ついでに言っておくと、地球では魔力が薄すぎて、物理的な影響の大きい空間干渉の異能は誰かの補助なしに使えませんの。使えば星ごと消し飛んでしまいますから。あなたが降臨できたのはフリージアの術式のお陰でしょう」
「なるほど。その上、お前との契約もある」
人間が交わす、ただの婚約だけのわけがないと思っていたが、真名契約を結んでいたのはアスタロッテにとっても意外だった。
悪魔同士の婚姻契約は片方が片方に対し、一方的に力を与える契約だ。ここに真名は、実は必要ない。そもそも契約を結んでいないとはいえ、だから、ベルゼボアもアスタロッテも互いの真名を知らなかった。
一方で、異種族間の婚姻契約――正確には、異種族では悪魔同士のような婚姻契約を結ぶことができないので、力の譲渡契約――を行う場合、真名が必要となる。特に与える側は必ず受ける側に伝えなくてはならない。
他方、悪魔が真名を異種族――特に人間――に告げることは、どんな理由であっても、生涯に渡る絶対服従を意味する。
赤い〈契約縁〉はその証。
それをちせりが行なっていることに驚きを隠せない。
だが、鋼志の正体がわかった今なら納得できるものだ。アスタロッテですら惹かれるものがあるのだから。
もっとも、悪魔の婚姻契約の意味を知らなかったことを考えると、鋼志はいまいちこの契約の重さも実態もわかっていないようだ。
「今は私との契約も、か」
見えずとも〈契約縁〉はそこにある。ある以上、空間は歪む。
しかも、契約相手との同調は気安いものではない。心理的、精神的な負担もあるのだろう。
「ええ。まあ、そういうことですわ」
要するに――
「ぎぼぢわりゅい」
――また盛大に吐かねばならない、ということだ。
「洗濯はご自分でなさってくださいまし」
「あい……」
今度は完全に恋人にぶち撒けた。




