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4-7

「ダクト。――ダクト・サイファ」

「……そうか」


 それは悪魔史上、最も有名な人間の名。

 史上最強の魔王にして最も偉大な魔法使い、在位時は『魔神』とさえ謳われ、アスタロッテが唯一、無関係の他種族ながら尊敬する悪魔――〈絶世〉。

 彼女を娶った男の名だ。


 なるほど、真祖が身内をさらわれても動かないわけだ。彼女が動くとは、つまり世界が動くということだ。ならば理由が必要だ。それこそ、世界を揺るがすような。

 そして。


「お前は〈絶世〉様の曾孫だったのだな」


 道理で話が弾むはずだ。


「ま、あなたがわたくしを慕う理由はそれだけではありませんけれど」


 心を読んだように、そして意味深にちせりは答えた。


「遠慮はなさらなくて結構よ。わたくしはただの人間ですから」

「わかっているさ」


 遠慮などするつもりもない。たとえ〈絶世〉本人が相手であっても、だ。


「ぜ……〈絶世〉だと! どうしてそんな化物の関係者が人間に、あの世界の人間に存在しているのだ!?」


 苦悶に呻きながら疑問を叫ぶ。そこにいるのは六対と一枚の羽を焦がし、苦痛に慄く〈肆銘節〉ほどの力しかない悪魔。

 それは――それが魔法の解けた婚約者の姿だった。


「別にあそこに目をつけたのはきみが最初というわけじゃない。もっと前から師母が研究対象として確保していた、というだけで。そもそも、きみの手下は気づかなかったようだけど、あそこの星の退魔師の頭領は師母の末子だよ」


 その事実に〈ハーネス〉は憮然とし、ついには痛みを忘れ、怒りを露にする。


「クソッ! クソッ! クソが! どうしてどいつもこいつも俺の邪魔ばかりしやがるんだ!

どうして俺の力を理解しようとしない! この魔王をも越える力を!」

「理解してるよ」


 冷然と。絶対零度の声音で。


「きみは強い。その偽りを司る力はなににも勝る力に違いないよ」

「そうとも! だから俺が! この俺が最強の座に着くのは当然だろう!」

「ああ。着けばいい。誰も文句は言うまい」

「言うさ! そこの女も! 〈風王〉のクソジジイもな! 俺が混血だと! ハーケンティとの混血だというだけでな!」


 いきなり俎上に載せられる。


「待て! 私は――」

「ならばなぜ躊躇った!? 力を渡すことに! 本気で俺がお前に力をくれてやるとでも思っていたのか!? 本気で俺が魔王に興味がないとでも!? 人間を好いていたとでも!? 愚か! 愚かよな、アスタロト! 悪魔の欲望が本当に契約だけだと思っているのか! 力を手に入れるためには欺瞞も偽証も全て許される! 手に入れた力が全てだ! 誇りだの! 契約だの! 力の前では無味なんだよ!」

「まさにその通り」


 答えたのは鋼志だった。


「それらは全て力に従事すべきだ。だからだよ。だから、きみはぼくに負けるんだ」


 大笑。


「この程度の結界に閉じ込めたくらいで勝ったつもりでいるのか! 見た目と技法が派手なだけの見掛け倒しの結界など――」

「ああ、その気になればきみでも破れる強度しかない。天駆を使わなくていいなら縛妖陣で封殺できたんだけど、城は壊されてしまったしね。まあ、でも、当たり前だろう。ただの人間に〈弐銘節〉が敗れることを許す阿呆は悪魔にはあんまりいないんだ。たとえ、その人間が魔法使いでもね。特に師父が魔王を娶ったお陰で、ヴァンパイアはともかく、他の種族はそのへんうるさくて敵わない」


 不満を隠すことなく鋼志は続ける。


「弱者は強者に従っていればいいんだ。たとえ強者が弱者より弱いんだとしてもね。そうやって回る世界もある。――まあ、いいや、きみに愚痴ってもしょうがない。ともかく、だ。ぼくはきみを圧倒できても、ベルゼハブ全てを敵に回せるだけの力はないんだよ。実力に見合わなくともきみは〈弐銘節〉だ。不用意に殺して良い相手じゃない。アーシュがやるなら別だけどさ。だから、まあ、交渉できないかと思ってね」


 不承不承という態度。昨日見せた交渉の場における高潔さが嘘のように。

 その言葉に〈ハーネス〉は哄笑を上げて――


「笑わせる。弱者が強者に持ちかけるのは常に命乞いだ。――岩動鋼志を殺せ、高白ちせり」


 ――最悪の呪文を唱えた。


「お断りいたしますわ」


 はっきりと答える。


「かかったふりくらいしてあげないとかわいそうじゃない? 実際、さっきの命令は効いてたんだし」

「それからどれだけ経っていると思っていますの? 呪文破も、対抗もできない間抜けだと思われるのは心外ですわ。ま、彼はあまり対抗が得意ではなかったようですけれど」


 何度も鋼志の真言にかかった〈ハーネス〉に皮肉を言う。

 が、対抗はともかく、呪文を破ったのは鋼志なのだ。それほど辛辣に言う理由はない気がしたが、彼女にしてみれば、鋼志がちせりに対してなんの防護も施していないと考えられることさえ、屈辱なのかもしれない。


「そもそも、なんの理由もなく名乗りを上げたと思っているのが腹立たしいですのに」

「いや、ちーちゃんに限ればここへ来る前からわかってたと思うけど。だから嫌がる起き抜けのチュウまでして破ったんだけど」


 その言葉に照れたのか赤くなって、鋼志の胸を叩いた。


「べ、別にキスでなくても良かったのではなくて!?」

「えー、でも据え膳は腹壊してでも頂いとけって師父が」

「大お祖父様の言う事を真に受けないでくださいまし!」

「――――黙れ」


 今までの哄然とした口調から一転して静かな、それ。


『やれ、ロッソ』


 悪魔の言語でつぶやかれたそれはただの曖昧な命令――


「いかん! 下がれ二人とも!」


 ――のわけがない。


「コーシ! 限定制御を解け!」


 疑問の表情でアスタロッテの焦燥を理解しない二人。それがいっそう焦りを呼ぶ。


「だから、無理ですって」

「なら、ここからすぐに離れるぞ!」

「もう遅そうですわよ」


 ようやく気づいたらしいちせりが諦めるように言う。

 崩壊した城をさらに崩すように現れたのは、ロッソ――と呼ばれた悪魔の成れの果て。

 鋼志の家ほどの大きさに肥大した巨体はぶよぶよと醜く、蒼黒かった肌は灰がかり、だからその異形は汚泥をかき集めたように不気味で気持ちが悪い。

 辛うじて確認できる瞳に正気はなく、ダニエル・クライトン以上の狂気をはらんでいる。

 そこにあるのは破壊衝動だけだ。あるいは今の彼のような存在をかつて人は悪魔と呼んだのかもしれない。


「手下を自分より強くしてどうすんだろ」

「ただの研究結果でしょう。偽りを真とするための犠牲、といったところかしら」

「さすがに〈絶世〉の縁者だけあるな。その通りだよ。あれはただの失敗作だ。だが、お前たちを殺すのには充分そうだ」


 〈ハーネス〉の言葉が終わると同時に、ロッソ――であったものが雄叫びを上げる。

 ただそれだけで、大地が崩れ、暴風が巻き起こる。

 地球と似た環境の土地とはいえ、ここは魔界だ。その大地を気当たりだけで崩すということは少なく見積もっても〈参銘節〉と同等、出力だけに限れば〈弐銘節〉に匹敵するだろう。


「チ――」


 舌打ちし、三人を庇う結界を張る。だが、それが手一杯だ。力が限定されたこの状態では。

 焦るなど一体どれくらいぶりだろうか。いや、召喚契約を結んだ状態で焦るのは初めてのことだろう。

 それほどまでにロッソだったものは強烈で凶悪だ。


 そもそも〈肆銘節〉の悪魔と〈参銘節〉以上の悪魔の間にある違いは、なにも責任の重さだけではない。強さ自体が別次元と言えるほどに異なるのだ。

 具体的に言えば〈参銘節〉は惑星を、〈弐銘節〉に至っては恒星や一つの星系さえ破壊することができる。

 〈伍銘節〉だったロッソとは出力が違いすぎるので、まだそこまで極端な破壊行動は起こせないだろうが、それも時間の問題だ。いや、こうして暴走しているだけでアスタロッテたちには致命傷たりえる。


 鋼志がアスタロッテの限定制御を解けない以上、できることは限られる。

 その最たるは――婚姻契約。すなわち、力の譲渡だ。

 今のロッソの状態であれば、アスタロッテの力の半分でも倒すことができる。問題は鋼志がそれだけ大きな力を御せるかどうか。

 いや――


「は……」


 ――渡すのか。


 本当にここで。

 ここまで来るのに果てしない時間がかかったのだ。星が一つ生まれて消えるほどに。

 多大な犠牲も出したのだ。世界を敵に回した先代契約者のフリージアとさえ比べものにならないほどに。

 そして、婚約者からの申し出を悩むほどに。

 それを。

 ここで。


 ――


「はは」


 ――渡す。


 自然と決意できた。

 確かに魔王さえ越える存在を、高みを目指してきた。だがそれは契約を――〈契約縁〉で結ばれた契約を蔑ろにしてまで果たしたいことではない!


「ははは」


 迷いの原因はそれだったのだ。

 〈ハーネス〉と契約していればきっと迷わなかった。彼との〈契約縁〉があれば。

 だが、彼は――おそらくは異能が露見することを恐れて――契約を結ばなかった。

 それが彼の犯した唯一の失敗。だからこうなった。

 しゃらりと尻尾が鳴る。

 鋼志は人間だから、婚姻契約を結ぶには真名を告げねばならないがやむを得ない。

 契約者を不慮に死なせるなど悪魔に――アスタロトに許されることではない!


「コーシ。婚――」

「悲壮そうに決意を固めたところ、申し訳ないのですけれど」


 アスタロッテの決意を察したちせりが割り込んだ。


「鋼志は大お祖母様にも認められた、わたくしの婚約者であることを忘れてもらっては困りますわ。〈絶世〉の名は伊達ではなくてよ」

「とはいえ、さすがにあれを一人で倒すのはしんどそうだなあ」

「場所が悪いですわね」

「状況もね。だからってちーちゃんたち無視するわけにもいかないし、あれをよそへ連れてく余裕もなさそうだし。しょうがないなあ……ちーちゃん、手、貸してくれる?」

「全く! わたくしをさらった落とし前をつけに来たのではなくて?」

「ありがとう、ちーちゃん。愛してる」

「ふぐっ!?」


 確かに〈参銘節〉を前にしてなお、この二人は全く余裕を崩していない。


「お前らな……」


 もはや自分一人だけ焦っているのが馬鹿らしくなる。


「さてと。じゃあ、ちょっと助っ人を喚びますか」


 言うや、目の前の空間の景色が歪む。現れたのは。


「ショットガンドラゴン、しかもエルダー種……! いや、空間接続の異能だと!?」


 ただ一つの行動にいくつもの瞠目すべき現象。上位のショットガンドラゴンとは契約しているだろうと予想していたが、まさかエルダー種とは。

 さらに、前言通り、精神感応とは全く系統の違う異能。それもかなり強い。竜を喚び出せるほどに。

 だが、先の複合魔術には納得がいく。いや、アスタロッテを喚び出した召喚にも、だ。

 鋼志は魔力を使わず、直接的に空間に干渉していたのだ。


『また貴様か。毎度毎度、面倒事ばかりではないか』


 開口一番で悪態をついた老竜は、昨日ダニエル・クライトンが召喚した個体の数倍は大きい上に、比較にならないほどの魔力を秘めている。今のロッソと比べても遜色ない力だ。

 当然、今のアスタロッテよりも数段強い。


『いや、足止めを頼みたいだけなんだけど』


 流暢な竜言語で応対する。


精神感応サイコメトリー空間接続テレポート、あの調子だと精神共有テレパシーも使えるな?」

「ええ」


 なるほど。こんな異能があれば通常の召喚術は扱えない。いや、むしろ面倒この上ない。

 難関とされる同調も、術式の組み上がっている召喚も、全て異能で済ませられる。


「通常の召喚は使えない、と言うより、使う必要がない、と言うところか」

「いいえ。使えませんわ。理由はこの場が収まればわかります」


 怪訝な顔を隠さずにちせりを見る。


『じゃあ、リンゴふた山で』

『うむ』


 あちらでも交渉が終わり、早速、老竜はロッソへと攻撃を開始した。

 放たれた一撃は昨日の人工島を沈めるに足る威力。だが、異形と化したロッソには足止め程度の効果しかない。

 だが、二人にはそれで充分のようだった。


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