4-6
舌打ち。完璧に捕らえたと思った攻撃は忌々しいことに――
「危ね」
「コーシ! さっさとその手をお放しなさい!」
「そうしたらお前らが落ちるぞ」
――眼鏡の少年、鋼志の右腕に抱えられたアスタロトによって躱された。
むろん、それを間に合わせたのは鋼志の真言だ。
アスタロトに注意を促したときと、城外へ跳び出た瞬間の二度、彼は叫び、それに真言を乗せたのだ。
動くな、と。
だから〈ハーネス〉は城の崩落に巻き込まれながらも動けずにいた――わけではない。
そのせいで攻撃を外したことは確かだが、完全に縛るほど強力ではない。そもそも、真言は使い続けるうちに効果が減少する。裏向きともなればなおさらだ。
彼がその場に残ったのは最後の仕込みを施すためだ。
なるほど鋼志は自分ほどではないにせよ強い。アスタロトと二人がかりで来られると少々面倒だと感じる程度には。
と、彼は考えた。だから二人で来られても対応できるように、彼も二人目を用意した。
口角を上げて笑うと、崩れ落ちた城から飛び出した。
「別れの挨拶は済んだかね?」
さすがに女二人を両手に抱えた隙だらけのままではなく、三人それぞれ独自の方法で宙に浮いていた。
アスタロトは重力制御――これは彼と同じ。
ちせりは巨大な紙飛行機――式に乗って。
そして鋼志は――跳躍。
「さすがにあの程度の真言じゃ無理か。まあ、叫んだだけだしね」
「そもそも調子に乗って何度も使い過ぎですわ。キャンセルされて当然でしょうに」
「まあいっか。どうせ真言で済ますつもりはないんだし」
「それはこちらもだ。五体満足で死ねると――」
「お前がな」
瞬動術!
「く……」
天駆で迫り、同時に崩拳を繰り出す!
だが――
「中空で跳躍していれば誰でも天駆くらいは使うとわかる!」
――両掌で防御する。
同時に光弾を放つ。この距離では自分も危ないが、関係ない。
「チ――」
背走。背中の女二人を庇い、先と同様に躱す事はしない。
虫酸が走る。その女たちは二人とも悪魔だと言うのに!
弱者が強者の前に立つときは涙を流し、命を乞うものだ。それが眼前の敵であろうと、背後の主であろうと、だ。
なのに、この男は――
「ところでアーシュ」
「なんだ」
「彼は少なくともあなたの感覚では本物なんですよね?」
「――ああ」
「じゃあ、やっぱり残り一パーセントの可能性に当たったわけだ」
――どうしてこうも不敵に笑う!?
〈弐銘節〉を! 魔王をも越える力を! この〈ハーネス〉を! 前にして!
「貴様、魔法使いだと言ったな」
「言ってねえよ! 超能力者だよ! 人のはな――」
「異能はなんだ? 岩動鋼志」
返答に割り込み、命令する。
「――いろいろだよ。少なくともぼくのサイコメトリーはあんたのヒュプノを上回ってる。まあ、感知と認識に干渉する程度じゃぼくに誤認させるのは難しいな。あんたが実際には〈肆銘節〉の上位ほどの魔力しか有していないことも、十三枚しか羽がないことも見えてる。ついでに――」
「黙れ!」
「断る。理解しろ。目の前の人間はお前より強い」
「黙れ黙れ黙れ黙れェ!!!!」
放つ光弾の数を増やし、さらに露骨に後ろの二人を狙う。だが、それでも黒い縁眼鏡の男は涼しげな顔で弾幕を払い続ける。
「念のために聞いておくけど、あの星に手下を置いていたのは侵略目的?」
「ハッ! それ以外に理由があるものか! まさかロッソの言い分を本気にしたか!」
「別に言葉にされたわけじゃないけどね。彼は少なくともきみを信じていた。アーシュもね。そもそもその異能を真っ当に使ったって〈弐銘節〉になれたろうに」
「は」
攻撃を止める。
「ハハハハハハハハハハハ!!!!!!」
無知。あまりに無邪気。なにより――
「真っ当――ね」
――愚か。
「アスタロトの通称を知っているかい?」
「いや?」
「だろうな。なにせ彼女には通称がない。アスタロトの姫と言えば彼女しかいない。そもそも――通称をつけられるような立場にない」
「――貴様」
アスタロトが割り込もうとするが、視線だけで抑えつける。
「ふむ。やはり、私の力は働いている。――ああ、失礼。彼女に通称がないのには理由があるんだよ」
顔に浮かぶのは嘲笑。
「きみも不審に思わなかったかい? 有翼種なのに、彼女には角も尾さえある。もちろん、下位の悪魔ならばそういうことはままあるが――彼女は〈弐銘節〉だ。つまり、次代の魔王として選ばれうる人材なのだよ?」
「さて。悪魔の習慣や風俗には疎くてね。なにがおかしいのか、さっぱりだ」
嘲笑をさらに深めて告げる。
「混血なのだよ、彼女は。いわゆる妾の子どもだ。本来ならば継承権などありはしない。だからこそ贄だったのさ」
「ああ――」
黒縁の眼鏡の向こうに冷笑が浮かぶ。
「――それに関してだけはお似合いのカップルだったってわけだ。なら、もっとちゃんと仲良くすれば良かったんじゃないの?」
一瞬でこちらの事情を察し皮肉を言う。そういえばこの男の異能は精神感応だったか。
「なるほど。本来ならきみも継承権はなかったわけだ。だから、真っ当な方法ではなく、常に虚像を映すことにした、と。だとしたらアーシュが〈弐銘節〉になった途端に婚姻を言い出したのは予定が狂ったからか。……きみの描いたシナリオはこうだ」
得意気に続ける。対照的に〈ハーネス〉は怒気を膨らませていく。
「その欺瞞の異能によって魔王さえ超えたように見せたきみは強引に継承権を得る。だがこの段階では『人間の真似事』なんて言って、魔王の座には気のないふりをしておく。本気で暗殺者なんかが来たときには対処できないからね。一方で婚約者としてアーシュを確保しておく。危急のときには彼女の力を奪えばいいし、自分と同様に混血だから継承権の問題も起きない。時が満ちて本当に〈弐銘節〉に足る力がついたとき、アーシュの力を奪い、魔王位の争奪戦に参加すれば良かった」
一つ呼吸を入れて、大げさに肩をすくめる。
「だが、三つ、問題が起きた」
指を三本立て、それから人差し指を立てる。
「一つはアーシュが継承権を得てしまったこと。彼女はきみと違い、本物の〈弐銘節〉としての力をつけ、きみを遥かに上回る力を持ってしまった。ただ幸いなことに、これまたきみと違って彼女は魔王位に本気で興味がなかった。それに、きみの異能は魔王さえ欺くほど強力で優秀だ。それに及ばない〈弐銘節〉など恐れる必要がない。――とはいえ、力の譲渡を約束してしまっていたから、これを翻すのに芝居が必要だった。当初の予定ではもっと時間をかけるはずだったんだろうけど」
中指を立てる。
「二つ目の問題が起きた。当代ベルゼハブ〈風王〉が病床に臥せってしまった。具体的な時期はわからないんだけど、求婚のタイミングから見て、アーシュが〈弐銘節〉になったのと同時期だろう? このせいで魔王位の争奪戦に未熟なままで参加せざるを得なくなった。だから緊急回避的に、アーシュの力が必要になってしまった。大した理由もないままに」
薬指を立てる。
「そして、とどめの三つ目はぼくと非限定の契約を結んでしまったこと。限定型の契約ならすぐに帰ってくる可能性はあったから静観するつもりだったんだろうけど、残念ながらそうではなかった。ただ、望外の早さで見つかった。だから、こんな強攻策を取ったんだ。将来のための布石まで使って」
この男の言う通り、ロッソは内から進軍するための重要な駒だった。だがそれも命あっての物種だ。
「どうせ脅迫するならぼくにちーちゃんを奪還するようアーシュに願わせるべきだったね。そうすれば限定契約に切り替わって万事解決だったろうに」
「私事に巻き込んだ結果の契約をその女が承けると思っているのか?」
「無理だろうね。ついでに言えば、限定制御されているのも都合が良かったんだろう? いざとなれば力づくでなんとかできるから」
そうだ。そしてそれは上手くいくはずだった。
この男がアスタロトの召喚者でさえなければ。
「さすがは召喚士、聡明だな」
「きみは魔法使いにあるまじき愚鈍さだな」
「ハッ! 口が立つのも結構だが、あまり調子に乗るなよ、人間。お前に効かずとも――」
「私の異能は後ろの二人には効く、か? だから愚鈍なんだよ」
「貴様ァ――!」
異能の対象を女――悪魔二人に完全に絞る。
悪魔は違うとわかっていても、己の恐怖心に打ち克つことができない。これは生体構造上、そうなっている。
魚が陸で呼吸できないのと同様、鳥が海を泳げないのと同様、人間が空へ飛び立てないのと同様、悪魔は己の恐怖を克服できない。
だから彼が最強を名乗ることはある意味で間違いではない。
〈ハーネス〉の異能はこの恐怖心を最大限に煽る。そしてそれに合わせるように対象の感覚器官に偽の情報を送り込む。
逆に言えば、恐怖心がなかったり薄かったりすると、この異能は上手く機能しない。
ゆえに彼の天敵は恐怖しない者、あるいは恐怖を克服できる者。
つまり、目の前の男のような者。
だが、幸運なことに、彼には悪魔の連れが二人もいる。ならば彼女らに人質になってもらうことにしよう――!
「思い知るがいい! 恐怖に憑かれた者の末路を――」
「動くな」
「――!?」
一瞬、その声を〈ハーネス〉は自分のものと勘違いした。
だが動けなくなったのは彼のほうだ。
「が……!」
これが、表向きとはいえ、これが人間の放つ真言なのか!?
鋼志が距離を取る。同時に〈ハーネス〉も動かない身体の解呪を始める。
「『臨』――」
豊かな声量の魔術師の声が響く。
同時に両手で独鈷印――『臨』の呪文に対応する手の形――を結び、それで横線を引く。
九字切り。結界術の中でもとりわけ簡素な技。通常、指二本で行うそれを、彼は自己流に編み直し、強力なものへと変えている。
「なにを――」
アスタロトがなぜか驚愕し、紡ごうとした言葉はしかし、巻き起こる突風に掻き消された。
鋼志から漏れ出した魔力が風となり、逆巻いているのだ。
「『兵』――」
大金剛輪印――これも『兵』に対応する手の形――で縦線を。
またしても突風が吹き荒れる。
『闘』――外獅子印、次いで『者』――内獅子印、と順に続く。その度に風が吹き荒れ、傍観する悪魔二人を揺さぶった。
「く……」
呻きは誰のものか。
〈ハーネス〉は知る由もないが、今朝、鋼志は同じ術の基本技を使おうとした。それは発動どころか結界としての体裁すら整わなかったが、しかし、今は極大の格子を描いて完成しようとしている。
「これが『過剰』と言っていた理由か……!」
アスタロトがつぶやく。
九字切りほど単純な結界術でも、これだけの魔力を込めれば相当な威力の術になる。
確かにあの魔力の薄い世界で放てば、街の一つや二つ、簡単に消し飛ぶだろう。
「『前』――」
最後の横線が引かれ、五行四列の格子が完成する。
そして右手の指二本で袈裟斬りにし、結界を締める。
〈ハーネス〉の解呪はぎりぎりで間に合わなかった。
「發ッ! 六方九刀格!」
発動の瞬間、その格子は〈ハーネス〉を取り囲むように六方向から同時に出現した。
「なに!?」
驚いたのは彼だけでなくアスタロトもだ。
結界は、特に九字切りは、線の外と内を区切る魔術だ。それゆえに、描いた線状あるいは線上にしか発動しない。
線で面を作り、それを前方へ飛ばす技は存在するが、描いた線――それも結界として成立したもの――を別のどこかに出現させることなど、まして、それを複数ヶ所同時に出現させるなど、悪魔でも可能な者が何人いるのか。
「グアアアアアアア!!!!!」
躱す暇もなく、六つの格子が噛み合い〈ハーネス〉を閉じ込める。それから同時に収縮し、捕らえた獲物を圧迫し始めた。
この技は結界術と召喚術の複合魔術だ。どちらも空間干渉の魔術なので相性自体は悪くないが、結界術はともかくとしても、召喚術は悪魔が人間にほとんど無償で手を貸すほどに難しい術なのだ。
それを組み合わせるという超高難度技法だ。限定制御を解いたアスタロト、あるいは当代ベルゼハブ〈風王〉ですら御せるかどうか。
「人間の魔法使いがここまで……!」
驚嘆。感嘆。感動。異常と言うべき事態に、己の婚約者は心動かされていた。
「……師は誰だ? コーシ」
収まった風の中で半ば確信しながらアスタロトが訊いていた。




